第60話 帰り道の重さ
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 本小説の主人公
オスカー・ウォーカー エマの弟
ローワン・ウォーカー エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
ガイ・ラザフォード 白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者
ミレイ・アスター 白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
白鹿の救援が追いつき、ノルたちはサイモンたちと対峙する。しかし、オスカーを抱えて動けないエマと、穴の下に落ちたローワンを前に、敵を追うことはできなかった。サイモンたちは崩れかけた壁を利用して逃走し、ノルは後続にローワンの捜索を託して撤退を決める。エマはオスカーを離さず、白鹿は追うための灯りを背に置き、彼を地上へ運び出す。
白鹿の灯りは、ひとつずつ場所を決められていった。
崩れた通路の手前にひとつ。穴の縁から少し離れた場所にひとつ。エマとオスカーのそばには、強すぎない灯りが置かれた。
明るくしすぎれば、見なくていいものまで見えてしまう。けれど、暗ければ手元を誤る。ノルはその境目を選ぶように、短く指を動かした。
「ミレイ、崩れた方を見る。動きがあれば言え」
「分かってます」
ミレイは弓を下ろさなかった。矢はつがえていない。ただ、指が動けばすぐ放てる位置にある。崩れた通路の向こうでは、まだ細かな石が落ちていた。敵の足音はもう聞こえない。それでも、聞こえないことが安全を意味しない場所だった。
「ガイ」
「追わねえよ」
ガイは剣を握ったまま、敵が消えた方へ背を向けた。
それが、どれだけ腹立たしいことなのか、顔を見なくても分かった。肩に力が入りすぎている。踏み出せる足を、無理に床へ縫いつけている。
ノルは責めなかった。
「床を見てろ。割れが広がるなら、お前が一番早い」
「使い方が荒いな」
声はいつもの形をしていた。けれど、軽さはどこにも残っていなかった。
ニナは、オスカーの杖を抱えたまま立っていた。
柄に巻かれた革は、半分ほどめくれている。新しい革だった。まだ手の形に馴染みきっていない。端の縫い目は細かく、丁寧で、少しだけ曲がっていた。
オスカーが自分で直したものだと、エマにはすぐに分かった。
分かったのに、何も言えなかった。
エマは、オスカーの傷を押さえたままだった。
布はもう濡れきっている。押さえても、押さえなくても、同じだと手は知っていた。血を止めるための圧ではなく、手を離さないための力になっている。
それでも、離せなかった。
ノルが近くに膝をついた。
「エマ」
声は低い。
命令ではなかった。慰めでもなかった。
エマは顔を上げなかった。オスカーの髪に、白い石粉がついている。頬にも、まつ毛にも、服の襟にも。家に帰ったら払う。濡らした布で拭く。髪の間に残った粉は、指で梳く。そう思った。
思った瞬間、手がまた動いた。
腰袋へ伸びる。清潔な布。まだ一枚ある。酒精もある。ポーションも、残っている。使えるものはある。全部出せば、何かが変わるかもしれない。
布を取ろうとした手を、ノルが止めた。
強く掴んだわけではない。指先を、ほんの少し押さえただけだった。
エマはその手を見た。
「まだ、布がある」
「あるな」
「替えないと」
ノルは答えず、エマの手元だけを見た。
それで、エマは顔を上げた。
怒りが出るはずだった。叫べるはずだった。どいて、と言えばいい。手を払えばいい。今まで何度も、怪我人の横で邪魔な手をどかしてきた。
けれど、ノルの顔を見た瞬間、言葉が止まった。
ノルは、オスカーを見ていなかった。
エマを見ていた。
それが嫌だった。
オスカーを見てほしかった。まだ、見てほしかった。見るべき場所は自分ではない。傷だ。呼吸だ。体温だ。脈だ。手順だ。何か、まだできることだ。
「見て」
エマは言った。
声がかすれた。
「ちゃんと見て。血はまだ」
「見た」
ノルの声は変わらなかった。
「じゃあ、手を離して」
「離したら、お前はまだ続ける」
「続けるよ」
「そうだろうな」
その言い方に、怒ればよかった。
けれど、ノルの指は震えていなかった。震えていない手で、エマの手を止めている。そのことが、エマには余計に苦しかった。
布の端が、指から滑った。
ニナが一歩近づいた。何かを言おうとして、口を閉じる。腕の中の杖を抱え直し、唇を噛んだ。
「……私」
ニナの声は小さかった。
「それ、持ってます。置いていくの、嫌なので」
エマは杖を見た。
オスカーの手が、最後に探していたもの。帰ってから直すはずだったもの。家の椅子の横に、いつも立てかけてあったもの。
「うん」
それだけ言えた。
ありがとうとは言えなかった。
言えば、もうオスカーが自分で持てないと認めることになる。
ノルはエマの手から濡れた布を外そうとはしなかった。ただ、別の布を取って、オスカーの体の横へ置いた。傷に当てるためではない。包むためだった。
エマはそれを見た。
包む。運ぶ。帰す。
処置ではない。
その順番に変わったのだと、頭のどこかで分かった。分かった途端、体の内側から音が消えた。
「担架」
ノルが言った。
搬送役が動いた。固定板を開き、布を広げる。白い床に木の軋む音がした。誰かが石粉を払う。誰かが灯りを寄せる。手順は静かだった。静かすぎた。
エマはオスカーを抱えたまま、動かない。
搬送役のひとりが近づきかけ、足を止めた。ノルが手で制する。
「急がせるな」
「床が保ちません」
「分かっている。だから、急がせるな」
搬送役は口を閉じた。
ノルは穴の方へ目を向けた。
ローワンが落ちた場所は、暗かった。
穴の縁には、裂けた袖の端が残っている。石粉にまみれ、灯りを受けても色が分からない。さっきまでそこにいた人間の痕跡が、布の切れ端だけになっていた。
エマの視線が、そこへ行った。
「ローワンは」
ノルはすぐに答えなかった。
すぐ答えられることではなかった。
だから、エマは余計に腹が立った。
「探すって言った」
「探す」
「今」
「今すぐ全員では降りない」
「下にいる」
「いるかもしれない」
「いる」
エマの声が強くなった。
その声で、ニナの肩が少し跳ねた。ガイも振り返りかけたが、ミレイに視線だけで止められた。
ノルは、エマの怒りを受けたまま膝をついていた。
「降りるなら、縄と支えがいる。下の床も見えない。敵が戻る道も残っている。お前はオスカーを抱えている」
「だから?」
「今、全部はできない」
エマは唇を開いた。
何かを言おうとした。
言えなかった。
全部できない。
その言葉は、あまりにも正しかった。正しいから、ひどかった。
ノルは立ち上がり、穴の縁へ向かった。床の割れを踏まないように、足先で石粉を払う。腰の布を一本外し、穴から少し離れた柱跡へ結んだ。
「灯りをひとつ」
ミレイが小さな灯りを渡す。ノルはそれを石片で囲い、穴の縁から落ちない位置に置いた。さらに、地図板の端に短く印を書き込む。
「ここへ戻る」
誰に向けた言葉でもなかった。
それでも、エマは聞いた。
ノルは穴の下を覗いた。灯りは奥まで届かない。白い石粉が、縁から少しずつこぼれていく。下から音はない。
「ローワン・ウォーカー!」
ノルの声が落ちた。
反響が返る。
それだけだった。
もう一度呼ぶかと思ったが、ノルは呼ばなかった。無駄に音を増やせば、別のものを寄せる。そう判断したのだろう。
ガイが低く言った。
「俺が降りる」
「今は駄目だ」
「縄を持てば」
「お前が降りたあと、上が崩れたら終わりだ」
「下で生きてたらどうする」
ノルの顔が動いた。
その一瞬だけ、隊長の顔ではなくなった。
けれど、すぐ戻った。
「生きているなら、戻ってくるための目印を残す」
ガイは笑わなかった。
「それ、本人に聞かせてやれよ」
「聞かせる」
短い答えだった。
ガイはそれ以上言わなかった。代わりに、柱跡に結ばれた布を引いて強さを確かめた。乱暴ではなかった。きつく、確かに、結び目を締める。
「ほどけたら、あとで文句言われる」
誰に、とは言わなかった。
ニナはオスカーの杖を抱えたまま、穴のそばへ近づいた。両手がふさがって、布印を結ぼうとしても上手くいかない。杖を床へ置けば済む。けれど、置かなかった。
ガイが無言で布を受け取り、代わりに結んだ。
ニナは小さく息を吐いた。
「すみません」
「謝るとこじゃない」
ガイは結び目から手を離した。
「持っとけ」
ニナは頷いた。杖を胸元へ抱え直す。革の剥がれた柄が、彼女の腕に当たった。
エマはそれを見ていた。
オスカーの体。
オスカーの杖。
ローワンの袖。
敵が残した石粉と足跡。
ひとつずつ目に入るのに、手は増えなかった。
「エマ」
ノルが戻ってきた。
「動かす」
エマはオスカーの体を抱き直した。
「私が」
「一緒にだ」
「私が運ぶ」
「担架で運ぶ。お前は横につけ」
「私が」
三度目は、最後まで出なかった。
ノルは声を荒げなかった。
「落とさない。ここにいる者は、これ以上」
言葉はそこで途切れた。
言い切らなかったことの方が、重かった。
エマは長く動かなかった。
それから、少しだけ腕の力を緩めた。
搬送役が近づく。ひとりは肩の下へ、ひとりは腰の下へ手を入れる。エマも手を添えた。手順は分かる。首を揺らさない。体を折らない。傷に布が引っかからないようにする。服を大きく開かない。冷えないように包む。
その全部が、まだ生きている人へする動きに似ていた。
似ているだけだった。
オスカーの体が担架へ移った。
軽くはなかった。
けれど、朝、家を出た弟の重さではなかった。台所で鍋を見て、椅子から立ち上がり、杖をついてこちらを睨む時の重さではなかった。
エマは布を整えた。襟元に白い粉がついている。払おうとして、手を止めた。胸元の布までは触らなかった。ただ、外側から包む布を重ねる。
ノルはその動きを見ていたが、何も言わなかった。
ただ、エマの手が襟元で止まったことだけを見て、次の指示を飲み込んだ。
「固定は緩く」
エマが言った。
声は、自分でも驚くほど静かだった。
搬送役が手を止める。
「肩は締めすぎないで。揺れた時に布がずれる」
「分かった」
「足元の板、もう少し右。杖を使う人の体は、こっちに重さが残るから」
言ってから、エマは息を止めた。
杖を使う人。
オスカーは、もう使わない。
それでも、体は覚えている。片方の足をかばう時の重さ。腰の傾き。膝の向き。疲れた時に肩が少し落ちる癖。
搬送役は何も言わず、板の位置を直した。
ニナが杖を抱きしめる手に、少し力を入れた。
ミレイが低く言った。
「後ろ、今は動きなし。でも長くいる場所じゃありません」
ノルは頷いた。
「出る」
白鹿の者たちが隊列を組んだ。
先頭にミレイ。弓を持ち、崩れた道と床の変化を見る。その後ろに搬送役。担架の左右へ二人ずつ。エマは担架の横についた。手を伸ばせば、布に触れられる位置。ニナは少し後ろで杖を持つ。ガイは最後尾に近い場所で、敵が消えた方へ目を残したまま歩く。
ノルは穴の印をもう一度確認し、最後に灯りの向きを直した。
穴の下からは、何も聞こえなかった。
エマは一度だけ、そこを見た。
「戻る」
誰かが言ったのかと思った。
違った。自分の声だった。
穴へ向けたのか。ローワンへ向けたのか。自分へ向けたのか。分からない。
ノルは聞こえていたはずだが、返事はしなかった。ただ、地図板を閉じ、隊列へ戻った。
担架が持ち上がる。
布に包まれたオスカーの体が、灯りの中でわずかに揺れた。
エマの足が、一歩出た。
その時だった。
胸元で、細いものがほどけた。
痛みはなかった。
熱も、一瞬で引いた。
あれほど重かったものが、急に消えた。体の内側に押しつけられていた石が、糸を切られて落ちたようだった。
エマは足を止めた。
白い石粉の上に、細い紐が落ちていた。
祈り紐だった。
切れた端が、床の粉に埋もれかけている。小さな結び目が、灯りを受けて影を作っていた。母が結び、ローワンが意味を知り、オスカーへ続くはずだったもの。
拾わなければ。
エマの手が動いた。
その前で、担架が進んだ。
「足元、そこ割れてます」
ミレイの声が前から飛ぶ。
搬送役が半歩ずれる。布に包まれたオスカーの体が、小さく傾いた。
エマの手は、胸元と担架の間で止まった。
横を離れれば、オスカーの体が揺れる。誰かが支えている。分かっている。落とさないと言った。分かっている。
それでも、足が動かなかった。
ニナが気づいたのか、一歩前へ出かけた。けれど、腕の中にはオスカーの杖があった。屈めば、杖の先が床に当たる。手を伸ばせば、抱えているものがずれる。
ガイも振り返った。ノルも見た。
誰も、すぐには拾わなかった。
担架が進む。
エマは、オスカーの横へ戻った。
白い石粉の上に、切れた紐が残る。灯りの輪が少しずつ遠ざかっていき、紐は明るさの端に置かれたままだった。
拾える場所にあった。
けれど、担架はもう先へ進んでいて、エマは戻れなかった。
置いていけないものばかりだった。
それでも、今の両手では、ひとつしか選べなかった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




