第59話 追わない灯り
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 本小説の主人公
オスカー・ウォーカー エマの弟
ローワン・ウォーカー エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
ガイ・ラザフォード 白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者
ミレイ・アスター 白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ
サイモン・レック ダンジョンでエマ達を襲撃した謎の男
イレーネ・ヴォス 白鹿のギルドを襲撃した謎の女
ガロン・レイス ダンジョンでエマ達を襲撃した一人
ラウル・ゼイン 東水門で襲撃してきた一人
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
エマは傷ついたオスカーを抱え、必死に血を止めようとした。
オスカーはローワンを「父さん」と呼べたことをエマに伝え、最後に、エマも帰ってほしいと願う。エマは帰ると約束するが、その言葉を聞いたあと、オスカーの息は途絶えた。
サイモンは、オスカーに希望を見せたのは自分だと告げ、ガロンもまた、オスカーを役目を果たした道具のように見下ろす。そこへノルたち白鹿の仲間が追いつき、ガイ、ミレイ、ニナも敵の前に立つ。だがサイモンは天井を崩して道を塞ぎ、ガロンたちは逃走した。ノルは追撃を止め、エマとオスカーの搬送を優先する。ローワンが落ちた穴も確認しなければならない。エマは返事をしない弟を抱えたまま、ただ一つだけを言う。オスカーを、連れて帰る、と。
ガロンが息を吐いた。
飽きたような、もう用は済んだと言うような息だった。
その音が白い石の床に落ちた時、通路の奥で弦が鳴った。
矢が一本、サイモンの足元に刺さった。
白い粉が小さく跳ねる。
サイモンは足を引かなかった。床に立った矢を見下ろし、それから通路の奥へ目を向ける。
灯りが増えた。
ひとつではない。
低い位置で揺れる灯り。肩の高さで保たれる灯り。後ろから来る者たちの影が、狭い通路の壁に長く伸びていく。
最初に出てきたのはノルだった。
外套の裾に白い石粉をつけ、剣を抜いている。呼吸は乱れていたが、足は止まらない。ニナがその後ろに続いた。左腕を少しかばう癖は残っている。それでも、短剣はもう手の中にあった。
ガイは搬送役の前へ出て、奥を一目見ただけで口を閉じた。
ミレイは弓を引いたまま、次の矢をつがえている。矢じりはサイモンではなく、ガロンの喉の少し下を見ていた。
誰も、すぐには声を出さなかった。
床に血が広がっている。
エマが膝をついている。
その腕の中で、オスカーは動かない。
ノルの目が、敵ではなく、まずそこへ向かった。
一瞬だけだった。
けれど、その一瞬で、彼の顔から何かが消えた。
怒りではない。
怒る前に必要なものを、全部削られたような顔だった。
「……エマ」
ニナの声が落ちた。
エマは顔を上げなかった。
布を押さえたまま、オスカーの服を握っている。もう血を止めるためではない。手を離したら、腕の中の重さまで床に奪われるとでも思っているようだった。
ニナが一歩出ようとした。
ノルが左手を横へ出して止めた。
「前に出るな」
「でも」
「今は、出るな」
ニナは唇を噛んだ。
ノルの声は低かった。強くはない。けれど、そこで誰かが崩れたら全員が崩れると分かっている声だった。
ガイが、ようやく口を開いた。
「……何をした」
いつもの軽さはなかった。
ガロンはガイを見た。
大柄な体には、白い石粉と魔物の血がついている。傷もある。けれど、姿勢は崩れていなかった。深い場所を抜けてきた疲労より、目的を終えた者の冷えた落ち着きの方が先に見えた。
「必要なことをした」
ガイの足が、半歩動いた。
「それを、人に向かって言えるんだな」
「言える」
ガロンは短く答えた。
「必要だった」
ガイの剣が抜けた。
その音より早く、ノルがサイモンへ向いた。
「サイモン・レック」
名前を呼ばれて、サイモンはほんの少しだけ目を細めた。
「覚えていただけていたとは」
「忘れる顔じゃない」
ノルは剣を下げたまま歩いた。
斬り込むための歩幅ではない。距離を測る歩き方だった。床の割れ、壁の筋、穴の位置、エマの膝、オスカーの体。全部を視界に入れながら、サイモンとの間合いを詰める。
「何をした」
サイモンは穏やかに答えた。
「間に合わなかった。それだけです」
ニナの肩が揺れた。
「それだけ?」
声が震えていた。
「それだけって、言ったんですか」
サイモンはニナを見た。
「あなたも、よく生き残りますね」
ニナの顔から血の気が引いた。
六階層の暗がり。救助を装った灯り。針。崩れる天井。
それらを、たった一言で掘り返された顔だった。
ミレイの矢が、わずかに深く引かれる。
「ニナ」
ノルが呼んだ。
ニナは返事をしなかった。けれど、前には出なかった。
イレーネが、小さく笑った。
「白鹿って、思ったより人数が来るのね」
ミレイの矢先が、ほんの少しだけイレーネへ流れた。
「動いたら射る」
「怖い」
イレーネは言葉だけでそう言った。顔は少しも怖がっていない。
彼女の手には、銀の線が浮かぶ薄い布が握られていた。端に白い粉がついている。床の筋を写したのか、何かを包んだのか、そこまでは分からない。
ノルはそれを見た。
見たが、今は取れない。
今、取りに動けば、エマとオスカーの前が空く。
ラウルが一歩、横へ動いた。
音がほとんどない。
ガイがそれに合わせて足をずらした。
「そっちは駄目だ」
ラウルはガイを見ない。
「お前に決める権利はない」
「あるさ」
ガイの声は低かった。
「今、俺はかなり機嫌が悪い」
「知らん」
ラウルの刃が、灯りを細く返した。
次の瞬間、ガイが前に出た。
刃と刃が当たる音は、一度だけだった。
短く、乾いた音。その一度で、搬送役たちが息を呑んだ。ガイの剣はラウルの刃を弾くだけでなく、足の置き場まで潰していた。ラウルは半歩引く。引いた先に、ミレイの矢が向けられている。
ガロンが動いた。
大きな体が一歩前へ出るだけで、白い床の粉が波のようにずれた。ガイがそちらを見るより早く、ノルが横から入る。
剣は当たらなかった。
ガロンの剣が振られる前に、ノルが間合いを消した。斬るためではない。ガロンの踏み込みを殺すためだった。
「退け」
ガロンが言った。
「それは、こっちの台詞だ」
ガロンの目が、ノルの後ろへ動いた。
エマはまだ動かない。オスカーも動かない。
ガロンは短く言った。
「救助を優先しろ」
ノルの目が、わずかに細くなる。
「お前が言うな」
「事実だ」
ガロンは剣を構え直した。
「俺たちを追えば、その子を置くことになる」
その場の空気が、鈍く重くなった。
敵の言葉だった。
だが、間違ってはいなかった。
それが、ひどかった。
ノルは答えなかった。
答える代わりに、床を見た。穴の縁。崩れた石。ローワンの袖らしき裂け布。エマの膝。オスカーの杖。搬送役が抱えている担架。狭い通路。今にも閉じそうな白い壁。
判断しなければならないものが、多すぎた。
その一瞬を、サイモンは待っていた。
サイモンの右手が、外套の陰で小さく動いた。
ノルが気づく。
「ミレイ!」
矢が飛んだ。
サイモンの手首を狙った矢は、外套の布を裂いた。だが、指先はもう壁の白い筋へ向いていた。
音は遅れて来た。
石の奥で、乾いた骨が割れるような音がした。
白い筋が壁の中で細く光る。
次の瞬間、天井の一部が沈んだ。
「下がれ!」
ノルが叫ぶ。
石粉が一気に落ちた。大きな石はまだ落ちていない。けれど、天井の白い筋が蜘蛛の巣のように割れ、通路の奥へ向かって走っていく。
サイモンたちの背後に、細い道が見えた。
開いたのではない。
崩れかけた壁の隙間を、逃げ道に変えたのだ。
ラウルが先に動いた。イレーネが銀線の布を懐へ滑り込ませ、低い姿勢で隙間へ入る。ガロンは最後まで残った。
ガイが踏み込もうとする。
「ガイ!」
ノルの声が飛んだ。
ガイの足が止まる。
その目はガロンから離れていなかった。
「行けるぞ」
「行くな」
「今なら届く」
「行くな」
二度目の声は、命令ではなかった。
それでも、ガイは歯を食いしばって止まった。
天井から白い粉が降る。搬送役の一人が咳き込む。ニナがエマの方へ振り返った。石片が、エマの近くへ落ちる。
エマは動かない。
オスカーを抱えたまま、肩に石粉を受けている。
ニナが駆け寄った。
「エマさん、少しだけこっちへ」
返事はない。
「エマさん」
ニナは手を伸ばしかけて、止めた。
触れたら壊してしまいそうだった。
その間に、サイモンが隙間の前で振り返った。
白い粉の向こうで、彼の顔は半分だけ見えた。
「追わないのですか」
ノルは剣を構えたまま、動かなかった。
サイモンは静かに続ける。
「あなた方は、いつも遅い」
ミレイの指が弦を引く。
ノルが手を上げて制した。
サイモンの目が、エマの腕の中へ落ちた。
一度だけだった。
言葉はなかった。
その沈黙の方が、さっきまでの声よりもずっと冷たかった。
ガロンが低く言う。
「行くぞ」
サイモンは目を戻し、崩れる白い粉の向こうへ下がった。
ノルが床の石片を蹴った。
石片は矢より遅く、だが重く飛んだ。サイモンの肩に当たり、外套が揺れる。
サイモンは少しだけ体勢を崩した。
けれど、倒れなかった。
隙間の向こうへ消える。
ガロンも、最後に白鹿側を見渡してから退いた。
壁の白い筋が一気に濁る。
割れ目が落ちた。
石が崩れ、逃げ道と追う道の間に白い瓦礫が積もっていく。音は長く続かなかった。深い場所の石は、崩れる時まで妙に静かだった。
粉が落ちきったあと、そこにはもう道がなかった。
ミレイが低く舌打ちした。
「……逃がした」
ガイは剣を下ろさなかった。
「逃がしたんじゃない」
声は掠れていた。
「選ばされたんだよ」
ノルは返事をしなかった。
剣を納めることもせず、まずエマの方へ向かった。
「搬送準備」
その声で、周りが動き出した。
「ミレイ、後方を見る。ガイ、崩れた道から目を離すな。ニナ、エマの横。搬送役、担架を出せ。ただし、すぐには触るな」
ニナが頷いた。
「はい」
声は小さかったが、足は動いた。
エマのそばに膝をつく。
「エマさん」
エマはオスカーの服を握ったままだった。
近くで見て、ニナはようやく分かった。
エマの手は震えていない。
震えるところまで、まだ行けていないのだ。
「エマさん、戻ります」
返事はない。
「ここを出ます」
エマの唇が、少しだけ動いた。
声は出なかった。
ニナは布を出した。血に濡れた布を見て、指が止まりそうになる。けれど、止めなかった。新しい布を広げ、オスカーの肩の下へそっと添える。
「触ります」
言ってから、ニナは自分の声が震えていることに気づいた。
「ごめんなさい。触ります」
エマの手が、布の上で強くなる。
「取らないで」
ようやく出た声だった。
低く、乾いていた。
ニナは首を振った。
「取りません」
「離さない」
「はい」
ニナは唇を噛んだ。
「離さなくていいです」
ノルが横に来た。
エマは顔を上げなかった。
ノルはオスカーを見た。
ほんの短い時間だけだった。それでも、彼は見た。
白鹿の帳面に残った名前。監視所を通った記録。エマが追ってきた弟。ニナが心配していた少年。家で皿を二つ並べていたはずの誰か。
その全部が、今はエマの腕の中に収まっていた。
ノルは膝をついた。
「エマ」
「……私が持つ」
「分かった」
ノルはすぐに答えた。
搬送役が顔を上げる。
ノルは続けた。
「エマが抱える。俺たちは支える。足元と背を固める。揺らすな」
搬送役は一瞬迷い、それから頷いた。
「了解」
エマの指が、わずかに動いた。
その返事に驚いたようでもあった。
ノルはエマを見た。
「お前から奪わない」
エマの目が、ようやくノルへ向いた。
焦点が合うまで、少しかかった。
「でも、このままじゃ出られない。支えさせろ」
エマは何も言わなかった。
拒まなかった。
それを返事として、ノルは動いた。
ニナが布を重ねる。搬送役が担架の板を横へ置く。オスカーを担架へ乗せるのではなく、エマが抱えたまま腰と背を支えられるように布を回す。腕に負担がかかりすぎないよう、肩から固定布を通す。
布は肩と背に回された。
胸元だけは、エマの腕に隠れたままだった。
エマはされるままになっていた。
ただ、オスカーの頭を抱える手だけは離さなかった。
ガイは崩れた壁の前に立ったまま、敵が消えた方を見ていた。
「ガイ」
ノルが呼ぶ。
「穴を見る」
ガイは振り返った。
表情が変わる。
ローワンが落ちた穴。
そこへ近づく時だけ、ガイの足音が少し鈍くなった。いつものように軽く動けないのではない。動くたびに、自分が何を見に行くのか分かってしまう足だった。
穴の縁には、裂けた布が残っていた。
石粉をかぶり、血が乾きかけている。
ガイはしゃがんだ。
「ローワンさん」
声を落とす。返事はない。
灯りを下へ向ける。深い。途中で白い粉が舞っていて、底までは見えなかった。石片がまだ時々落ちている。下から風は上がってこない。
ミレイが後ろから覗く。
「降りますか」
ガイは答えなかった。
ノルが来た。
穴を見て、すぐに顔を上げる。
「今は降りない」
ニナが振り返った。
「でも」
「今降りれば、上に戻す手が足りなくなる」
「ローワンさんが」
「分かってる」
ノルの声が硬くなった。
自分に向けた硬さでもあった。
「印を残す。後続を呼ぶ。縄と固定具を増やしてから降りる。今この人数で下へ入れば、ここにいる者まで失う」
ニナは何か言いかけた。
言えなかった。
オスカーを抱えたエマが、ほんの少しだけ穴の方を見たからだ。
その目には、何も浮かんでいなかった。
悲しみも、怒りも、迷いも。
ただ、遠くを見るような空白だけがあった。
ローワンを見捨てる目ではない。
見に行く力が、もう残っていない目だった。
ノルは自分の短い布をほどき、穴の近くの柱跡へ結んだ。ミレイが白い粉の上に矢で印を刻む。ガイは裂けた布を拾おうとして、手を止めた。
「置いておく」
ノルが言った。
「後続が場所を見失わない」
ガイは小さく頷いた。
「……了解」
その声には、いつもの調子が戻らなかった。
搬送準備が整った。
エマは立ち上がろうとして、一度失敗した。
膝が床に落ちる。
ニナが支えた。
「ゆっくりでいいです」
エマは首を横に振った。
「早く」
「早く出るために、崩れないように立ちます」
ニナは言った。
自分でも驚くほど、マルタに似た言い方だった。
エマの目が、わずかに動く。
ニナは泣きそうになった。
でも、ここで泣いたら、手が使えなくなる。
だから、布を握った。
「立ちます。私が左を持ちます。ノルさんが右。エマさんは、オスカーさんを抱いてください」
エマは頷かなかった。
けれど、動いた。
ノルが右側につき、エマの背を支える。ニナが左に入り、布の位置を確かめる。搬送役が後ろから担架板を添え、腕と肩の重みを受ける。
オスカーの杖が、床に落ちていた。
ミレイが拾った。
柄の革は擦れ、白い粉がついている。握り込まれた跡が残っていた。
ミレイはその杖を見て、少しだけ唇を結んだ。
「持っていきます」
誰に向けた言葉か分からなかった。
エマは何も言わなかった。
でも、ミレイは杖を布で拭かず、そのまま自分の腕に抱えた。
汚れを落とすのが、今は違う気がした。
「出るぞ」
ノルが言った。
誰も異を唱えなかった。
敵が逃げた道には、まだ粉が舞っている。
追えば、追えたかもしれない。
崩れた石を越え、狭い隙間をこじ開け、血の跡を追えば、どこかで背中を掴めたかもしれない。
だが、そのためには、ここに残すものが多すぎた。
エマ。オスカー。穴の下のローワン。
白い床に残った血。拾えなかった言葉。
ノルは灯りの向きを変えた。
敵の消えた方ではなく、来た道へ。
その小さな動きで、ミレイも灯りを戻した。搬送役が続く。ガイは最後尾につき、崩れた壁に背を向けるまで少し時間がかかった。
ニナはエマの隣で歩いた。
エマはオスカーを抱えている。
重いはずだった。
もう、弟が自分の足で歩く重さではない。
けれど、エマは腕を緩めなかった。
白い通路に、いくつもの足音が重なる。
その中に、杖の音はなかった。
ミレイの腕の中で、オスカーの杖だけが、歩くたびに小さく揺れた。
こつ、とも鳴らない。
ただ、柄に巻かれた革の擦れる音が、布の中でかすかにした。
ニナはその音を聞きながら、前を見た。
言いたいことはいくつもあった。
ごめんなさい。
遅くなりました。
見つけたのに。
守れなくて。
でも、どれも今のエマには渡せなかった。
渡せば、エマがそれを抱えてしまう。
もう、これ以上抱えさせてはいけない。
だからニナは、代わりに灯りを少し高くした。
足元を照らす。
白い粉の中に、戻るための跡が浮かんだ。
エマが来た時につけた足跡。ローワンが引きずった跡。白鹿が追ってきた跡。その全部を踏み消さないように、ノルは道を選んだ。
後続は来る。ローワンを探す者も、崩れた道を見る者も、必ずここへ届く。だから今は、腕の中の重さを地上へ運ぶしかなかった。
追うための灯りは、背中へ置いた。
白鹿の灯りは、エマの腕の中を照らしながら、地上へ向かった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




