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ダンジョンサポーター  作者: Aramaki_mai
第四章 家へ戻る道
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第56話 追いつかない灯り

ダンジョンに潜る人たちの話です。

ライト文芸寄りのダークファンタジーです。


▼登場人物

エマ・ウォーカー     本小説の主人公

オスカー・ウォーカー   エマの弟

ローワン・ウォーカー   エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった

サイモン・レック     ダンジョンでエマ達を襲撃した謎の男

ガロン・レイス      以前、ダンジョンでエマ達をサイモンに襲わせた男

ラウル・ゼイン      東水門で襲撃してきた一人


▼主人公について

白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。

元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。


あらすじ

エマとローワンは、オスカーの杖跡を追って白い石の通路を進む。途中、二人は足を石に挟まれ、置き去りにされた男を見つけた。男は、オスカーが一度戻ろうとしたこと、サイモンに止められたことを告げる。エマは男を助けるための処置と目印を残し、後続に託して、さらに奥へ進んだ。乱れた杖跡の先で、道は祈りの間に近づいていく。

監視所の灯りは、まだ落とされていなかった。


夜番の机には帳面が開かれ、乾きかけた墨の匂いが残っている。ダンは机の前に立ち、ダンジョンへ下りる石段の奥を見ていた。さっき、エマが入っていった。ローワン・ウォーカーと名乗った男を連れて。


止める言葉はいくつもあった。

待て。白鹿を待て。二人で入る場所じゃない。負傷者を連れて深い方へ向かうな。

どれも言った。言ったが、止まらなかった。


エマは、戻るために記録するのだと言った。名前だけ残すためじゃない、と。

その言葉が、まだ耳の奥に残っていた。


外で足音が重なった。


最初に入ってきたのはノルだった。外套の前を開け、肩に縄をかけている。急ぎで整えた装備だったが、乱れてはいない。何を持つべきか分かっている者の荷だった。

後ろにはニナがいた。左腕をかばう癖はまだ残っている。それでも腰の短剣はいつもの位置にあり、目は落ちていなかった。ガイが続き、ミレイが弓を背に回して入ってくる。搬送役たちは、担架、固定板、布、水袋、予備の油、替えの火口を抱えていた。


ノルは、机の前で止まった。


「エマは」


「入った」


ダンは帳面を押さえた。


「ローワンも一緒だ」


ニナの肩が、わずかに動いた。


「ローワンさんも?」


「止められる状態には見えなかった。けど、止まる気もなかった」


ガイが石段の口を見る。


「まあ、娘も同じ顔だったんだろ」


「笑えないぞ」


ダンが低く言うと、ガイは肩をすくめた。


「笑ってない」


ノルは帳面へ目を落とした。


「オスカーの記録は」


ダンは指で一行を示した。


「ここだ。神殿関係の搬送補助。サイモン・レックと同行。ほかに二名。神殿印の書類あり。通行札も出てる」


ニナが帳面を覗き込んだ。


「搬送補助……」


声に苦いものが混じった。


「オスカーさんを、そういう扱いで通したんですね」


「通したのは俺じゃない」


ダンは言った。


「でも、監視所の帳面に残ってる。そこは俺たちの責任だ」


ノルはしばらく文字を見ていた。


オスカー・ウォーカー。

黒い線になって残された名前。


それは、追うための手がかりでもあり、止められなかった証でもあった。


「入る」


ノルは短く言った。

ダンが顔を上げる。


「エマたちは古い回廊の方へ向かった。ローワンが、正面道を素直に進んでいるとは限らないと言っていた」


「分かった」


「使いは白鹿へ追加で出した。後続も来る」


「助かる」


ダンは帳面の端を強く押さえた。


「名前だけ残して終わらせるなよ」


ノルはダンを見た。


「終わらせない」


それ以上の約束はしなかった。

約束で戻れる場所ではないからだ。

石段を下りると、空気の重さが変わった。古い石と、乾いた布と、油の匂いが混じっている。壁には粉が薄くつき、足を置くたびに細かな音がした。


ミレイが手元の灯りを低くした。


「足跡があります。二人分。こっちがエマさん。こっちは……引きずってますね」


「ローワンだな」


ガイが言った。


「歩けるって言った顔が見えるわ」


ニナは返さなかった。床の跡を見ている。エマの足取りは迷っていない。けれど、何度か止まっている。ローワンの歩幅に合わせたのか、何かを見たのか。

しばらく進むと、石の通路に出た。


壁は自然な岩ではなかった。古い礼拝堂の裏側を歩いているように、白っぽい石が積まれ、ところどころに細い筋が走っている。灯りを近づけると、その筋は短く光り、すぐに沈んだ。

ニナが息を潜めた。


「嫌な場所ですね」


「同感だ」


ガイが低く返した。


「でも、ここを通った」


ミレイが床を指した。


「杖跡もあります。古いのと新しいのが混じってる。先にオスカーさんたち。その後にエマさんたち」


ノルは頷いた。


「急ぐ。ただし踏み荒らすな」


その先で、小さな灯りが見えた。

奥へ向いたものではなかった。

後ろから来る者に見えるよう、低い位置に置かれている。灯りは小さい。けれど消えないように、石片で風を避けてあった。近くの壁には、布が結ばれている。粉の中でも見落としにくい位置だった。


ニナが先に膝をついた。


「人がいます」


男は壁際に倒れていた。片足が崩れた石の下に挟まれている。顔は白く、唇は乾いていた。手元には水袋が置かれ、胸元には小さな木札がある。男の指は、その角にかろうじて触れていた。

膝の下には、破れた荷袋が丸めて入れられている。傷の周りには布が当てられ、動かせば出血が増える場所だけが押さえられていた。


エマの処置だった。

ニナは水を含ませた布を男の口元へ寄せた。


「聞こえますか。白鹿です。少しだけ、水を含ませます」


男のまぶたが震えた。

ノルは足元を見た。石は動かされていない。

動かせなかったのではない。動かさなかったのだ。今、石が傷を押さえている。無理に上げれば、血が出る。エマはそれを見て、ここに残す形を作った。


ガイが低く言った。


「置いてったわけじゃないな」


ノルは布印、水袋、木札、灯りの向きを順に見た。

後から来る者に向けて置かれている。

男を助けるために。

そして、自分たちが進むために。


「残したんだ」


ノルは言った。

ニナが顔を上げる。


ノルは続けた。


「帰すために」


男の指が、少しだけ動いた。木札の角を握ろうとしている。力はない。けれど、離してはいなかった。

搬送役が近づいた。


「石を上げますか」


「まだだ」


ノルは即答した。


「エマが動かしていない。理由がある。固定を増やす。血が出た時に押さえる準備をしてからだ」


搬送役は頷き、板と布を広げた。

ニナは男の顔を覗き込んだ。


「オスカーさんを見たんですね」


男の目が、かすかに動いた。

声は出なかった。


それでも、ニナはそれ以上聞かなかった。聞けば答えようとする。答えようとすれば、余計に力を使う。

ミレイが奥の床を見ていた。


「杖跡、続いてます。ただ、途中から薄いです」


ガイが残骸の向こうへ灯りを向ける。


「後ろ向きに置かれた灯りは、こっちへ届いた。前はまだ暗いな」


ノルは判断した。


「搬送役は二人ここに残れ。石を上げる準備をする。残りは監視所へ戻って追加の人手を呼べ。灯りは消すな。ただし大きくしすぎるな」


「了解」


「ニナ、進めるか」


「進めます」


「無理はするな」


ニナは男の胸元の木札を一度見てから、立ち上がった。


「無理をする場所は、今じゃないです」


ガイが少しだけ目を細めた。


「いい返事だな」


「茶化さないでください」


「茶化してない。半分くらい」


「残り半分が余計です」


ほんの少しだけ、空気が戻った。

だが、それも灯りの届く範囲だけだった。

ノルは奥へ進む前に、もう一度男を見た。エマが残した布は、きつすぎず、緩すぎない。水袋の口も閉じてある。油もまだ残っている。


怒りながらでも、焦りながらでも、彼女は見落とさなかった。


「追うぞ」


ノルが言うと、白鹿の足音はさらに奥へ進んだ。

残された灯りは、後ろへ届いた。

だが、前を追う灯りは、まだ遠かった。





通路は、途中から斜めに沈んでいた。


エマは、走ってはいけないと自分の足に言い聞かせていた。

壁の左右には細い溝が何本も刻まれ、灯りを近づけるたび、その縁だけが鈍く浮いた。水路ではない。雨水を逃がす溝でもない。何かを集め、どこかへ流すための線に見えた。


床の粉の上に、足を引きずった跡が続いている。

杖の丸い跡は、もうほとんど残っていなかった。途中で途切れ、代わりに浅い擦れが長く伸びている。オスカーが杖をつけなくなったのか。誰かに支えられたのか。引かれたのか。


分からない。

分からないまま、足だけが前へ出そうになる。


エマは膝を落とし、灯りを床へ近づけた。白い粉が、息をするだけで少し動く。踏み荒らせば、次の手がかりが消える。


「エマ」


背後で、ローワンが呼んだ。

声は細い。けれど、さっきよりも急いでいた。


「奥で、石が動いた」


「聞こえた」


エマは床を見たまま答えた。


「でも、走らない。走ったら見落とす」


言葉にしておかないと、自分が先に壊れそうだった。

ローワンは壁に片手をつき、息を整えている。外套の裾には粉がつき、巻き直した足首の布にも、薄く赤が滲み始めていた。見たくなかった。けれど、見ないわけにはいかなかった。


「足」


「歩ける」


「それは聞いてない」


ローワンは一度だけ口を閉じた。


「痛む。だが、今は止まるほどじゃない」


少しだけ正確な答えだった。

エマは頷き、斜めの通路の奥へ灯りを向けた。


「なら進む。止まりそうなら言って」


「分かった」


信じきれる返事ではなかった。

でも、聞いた。


途中で、床の溝が一箇所だけ深くなっていた。そこに、擦れた布の切れ端が引っかかっている。粗い麻布ではない。服の裾か、荷の内布か。エマは布越しに摘まみ、灯りへ寄せた。


粉がついている。

それだけだった。


オスカーのものかどうかも分からない。分からないものばかりが増えていく。分からないから捨てる、という判断はできなかった。


エマは小さく折り、腰袋の端へ入れた。


「持っていくのか」


ローワンが聞いた。


「今ここで分からないものは、あとで分かるかもしれない」


「そうだな」


返事が静かだったので、エマは少しだけ顔を上げた。


「昔のあなたなら、拾ってた?」


ローワンはすぐには答えなかった。


「拾っていた。たぶん、意味を知るために」


「今は」


「今は、オスカーを帰すために拾う」


エマは返事をしなかった。

その言葉を許したわけではない。けれど、否定する時間も惜しかった。


奥で、また音がした。

低く、重い音だった。石が擦れる音ではない。石の向こうで空気が動き、道そのものが形を変えるような音。


エマの足が止まった。

ローワンも、壁から手を離せなかった。


「近いの」


「近い」


今度の答えは、少し早かった。


「ただ、向こうが同じ道にいるとは限らない」


「それは、もう聞いた」


「すまない」


謝罪は軽くなかった。

けれど、今のエマには置き場所がなかった。


「謝るなら、戻ってからにして」


エマは灯りを上げた。


「今は、道を見て」


ローワンは頷いた。

二人はまた歩き出した。


通路は曲がっていた。角を越えると、空気が変わった。冷たいのではない。音が薄い。足音も、呼吸も、灯りの火が揺れる小さな音さえ、壁に吸われていく。

その中で、かつ、とひとつだけ音が鳴った。


エマの全身が固まった。

杖の音だった。


遠い。壁の向こうで拾ったように、薄く、歪んでいる。それでも、エマはその音を知っている。家の床で、酒場からの帰り道で、夜中に水を飲みに起きた台所で、何度も聞いた音だった。


「オスカー!」


声が走った。

返事はない。


代わりに、自分の声だけが何度も割れて戻ってきた。呼び名だけが壁の奥へ散り、どれが本物の方向なのか分からなくなる。

エマは走り出しかけた。

その瞬間、足元の溝が、ちり、と鳴った。

細い音だった。


けれど、その一音で、体が止まった。

ローワンが、背後で小さく息を呑んだ。


「動かないで」


エマは低く言った。


「床が鳴った」


「分かっている」


「違う。あなたも動かないで」


ローワンは壁に手をついたまま止まった。

エマは灯りを低くし、足元を見た。溝の奥に、粉ではないものが溜まっている。細い砂のようで、光を当てると一瞬だけ鈍く光る。足を置いた場所のすぐ脇で、線がわずかにずれていた。


踏めば、何かが閉じる。

そう言い切れる根拠はなかった。

けれど、ダンジョンで生き残る時、根拠より先に体が知ることがある。


「右へ半歩。壁には触らないで」


エマは言った。

ローワンは黙って従った。

その沈黙が、少しだけ救いだった。

奥から、もう一度音がした。今度は杖ではない。何か大きな石が、押し開かれるような音だった。


エマは奥を睨んだ。


「待ってて」


誰に向けたのか、自分でも分からなかった。


オスカーにか。残してきた男にか。白鹿にか。

それとも、今にも倒れそうな父にか。

答えは出ないまま、灯りだけが前へ伸びた。





オスカーは、胸元を押さえていた。

祈り紐は熱かった。


火に触れたわけではない。服の下にある細い紐が、肌に貼りつき、そこだけ重さを持っている。痛みとは違う。けれど、無視できない。胸の前に小さな石を押し込まれたようだった。


サイモンが横を見る。


「痛みますか」


オスカーは少し遅れて首を振った。


「……痛いわけじゃありません」


「では、苦しい」


その言い方が、誰かに似ていた。

怪我を隠した時に、顔色を見てくる姉の声。何でもないと言っても、手元を見ている人の声。


オスカーは唇を結んだ。


「そうやって決めつけないでください」


サイモンは一拍置いた。


「失礼しました」


声は穏やかだった。

けれど、その穏やかさが、どこまで本物なのか分からなくなっていた。


前を歩くガロンが足を止めた。


「まだか」


サイモンの顔から、オスカーへ向けていた柔らかさが消えた。


「近いはずです」


「はず、では足りない」


ラウルが懐から薄く丸めた紙を出した。紙というより、乾いた皮膜に近い。黒い線がいくつも描かれ、中心に濁った白い染みがある。

ラウルがそれを灯りにかざすと、線が一瞬だけ浮かび上がった。


すぐに消えた。

端が焦げたように黒く縮む。

ラウルは眉ひとつ動かさなかった。


「反応が割れている」


ガロンが舌打ちした。


「使えんな」


「近いほど乱れます」


サイモンが言った。


「便利な言い訳だ」


サイモンは答えなかった。

その代わり、オスカーの胸元へ視線を落とした。


ほんの一瞬だった。

けれど、オスカーは気づいた。


「何ですか」


声が硬くなった。

サイモンは目を戻す。


「顔色が悪い」


「今、紐を見ました」


「熱を持っているように見えました」


オスカーは胸元を押さえた。


「知ってるんですか」


「何をです」


「これが、何なのか」


サイモンはすぐには答えなかった。

その沈黙の間に、ガロンもラウルもこちらを見た。荷を背負った男だけが、視線を床へ落としている。関わらないと決めている顔だった。


「あなたが持ってきたものです」


サイモンは言った。


「意味を決めるのも、あなたでしょう」


前なら、その言葉に救われたかもしれない。

今は、怖かった。


意味を決めるのもあなた。

選ぶのもあなた。

あなたの選択です。


その言葉は、いつも扉のように開いて見えた。けれど、開いた先に何があるかを隠しておいて、扉だけを選ばせることもできるのだと、オスカーはようやく気づき始めていた。


倒れていた男の顔が浮かんだ。

石に挟まれた足。木札に触れようとしていた指。手元に置かれた水袋。

灯りはなかった。


「あの人は」


オスカーは言った。

サイモンがこちらを見る。


「助かりますか」


ガロンが少しだけ顔をしかめた。


「今それを聞くのか」


オスカーの肩が震えた。

それでも、下を向かなかった。

サイモンは静かに答えた。


「分かりません」


「分からない?」


「助ける者が来れば、助かるかもしれない。来なければ、難しいでしょう」


「そんな言い方」


「嘘の方がよかったですか」


オスカーは言葉を失った。

サイモンは続けた。


「あなたが背負うには、重すぎた。それだけです」


責めてはいない声だった。

けれど、その言葉はオスカーの中へまっすぐ沈んだ。


重すぎた。


自分には持てなかった。

それは慰めに似ていた。同時に、何もできなかった事実を、きれいな布で包んで差し出されたようでもあった。


「でも、置いたのは」


「ガロンです」


サイモンは迷わず言った。

ガロンが目だけを動かす。

サイモンは表情を変えなかった。


「決めたのは彼です。あなたではありません」


オスカーはガロンを見た。

ガロンは悪びれなかった。


「必要なら、また同じ判断をする」


短い声だった。


怒りもない。正しさを主張する熱もない。ただ、進むために邪魔なものを切る人間の声だった。


「嫌なら戻れ」


ガロンは言った。


「ただし、戻る道をお前一人で歩けるならだ」


オスカーの指が杖に食い込んだ。

戻れるわけがない。


ここまで来る時でさえ、サイモンが段差を告げ、欠けた床を避けるよう言い、前を歩く者たちに遅れないよう距離を測っていた。自分ひとりで戻れると思うほど、オスカーは幼くなかった。

サイモンが、静かに間へ入った。


「戻る必要はありません」


優しい声だった。

けれど、さっきより硬かった。


「ここまで来たんです。もう少しで、あなたが望んだものに届く」


望んだもの。治る足。

杖を置いて歩く自分。エマの前に立つ自分。


姉さんが、もう自分のために危ない場所へ潜らなくていい日。

その絵だけは、まだ消えなかった。

消せなかった。


だから余計に苦しかった。

祈り紐が、また熱を増した。

オスカーは胸元を押さえたまま、通路の先を見た。

扉のようなものがあった。


扉なのか、壁なのか分からない。大きな石の面に、細い溝がいくつも集まり、中央で輪のような形を作っている。輪の内側には、うすく濁った色が滲んでいた。光ではない。そこだけ石の中に、別のものが沈んでいるように見えた。


ラウルが扉の前へ進み、床を見た。


「足跡が消える」


「開く場所だからだ」


ガロンが言った。


「開ける」


荷の男が前に出た。背負っていた包みを下ろし、中から金具のついた短い棒を取り出す。ラウルも膝を落とし、扉の下の溝を見た。

サイモンは一歩下がり、オスカーの横に立った。


「動かないでください」


オスカーは、扉の前にいるラウルと荷の男を見た。金具が溝へ差し込まれ、石の面が低く鳴っている。ガロンは腕を組んだまま、こちらを見もしなかった。

自分は、邪魔にならない場所へ置かれている。

そう思った瞬間、胸元の紐とは別のところが重くなった。


「……手伝わなくていいんですか」


サイモンは、少しだけこちらを見た。


「今は結構です」


今は

その言葉が、耳に残った。


オスカーはサイモンを見た。


「あとでは、僕が必要なんですね」


サイモンの目が、ほんの少しだけ細くなった。


「あなたが来なければ、ここまで確かめられなかった」


「僕が来て、便利だったんですね」


サイモンは少し間を置いた。


「助かっています」


「助かってるのは、あなたたちの方ですよね」


サイモンは答えなかった。

答えられないのではない。答えを選んでいる顔だった。

その時、壁の奥で低い音が鳴った。


石が内側から息を吸うように震える。床の溝に沿って細い光が走り、中央の輪へ集まった。荷の男が金具を差し込み、ラウルが別の溝を押さえる。ガロンは動かない。腕を組んで、開くまでの時間を測っているようだった。


オスカーは、一歩下がろうとした。

杖の先が床を叩く。


かつ。


その音が、通路に吸われた。

遅れて、どこか遠くで同じ音が返ってきた。


かつ。


オスカーは顔を上げた。


違う。


今のは、自分の音ではない。

もっと遠く。

もっと必死に。


誰かが、こちらへ向かっている。


「オスカー!」


声がした。


薄く、歪んで、壁の向こうから届いた声だった。

それでも、聞き間違えるはずがなかった。


姉の声だった。


オスカーの指から、力が抜けかけた。


「姉さん……」


待てば、会える。そう思った。

ここで待てば、エマは来る。きっと怒る。泣くかもしれない。腕を掴んで、帰ると言うかもしれない。


会いたかった。

その顔を見たかった。


けれど、今会えば、また何も持たないまま連れ戻される。自分で来たはずの道も、自分で選んだはずのことも、危ないからという一言で終わってしまう気がした。

サイモンが、静かに言った。


「今、お姉さんに会えば、止められるかもしれません」


オスカーは顔を上げた。


「もう、目の前です」


サイモンは壁の奥を見た。


「ここまで来たものを、確かめずに戻りますか」


「……でも」


「会うのは、その後でも遅くありません」


その言葉は、甘かった。

姉に守られて戻るのではなく、自分の足で戻る。

その絵が、胸の奥に残ってしまった。

オスカーは、その絵が都合よく作られたものだと、どこかで分かっていた。けれど、分かっていても、捨てられなかった。


ガロンの表情が動いた。

ラウルは扉から目を離さないまま言った。


「来た」


「間に合うか」


ガロンが聞く。

サイモンは壁を見た。


「こちらが先です」


その声には、もうオスカーへ向ける柔らかさはなかった。

壁の中央が沈む。


扉が開くというより、道が奥へめくれていくようだった。石の面が割れたわけではない。溝が呼吸するように沈み、そこに人が通れるだけの暗がりが現れる。

中から、冷たい風は来なかった。

代わりに、何もない空気が流れた。


音も匂いも削がれた、空白のような空気だった。

ガロンが短く言った。


「入る」


ラウルが先に滑り込む。荷の男が包みを拾い、続いた。

サイモンがオスカーを見る。


「行きましょう」


オスカーは動かなかった。

奥から、また声がした。


「オスカー!」


今度は少し近い。

けれど、まだ届かない。


オスカーは胸元を掴んだ。祈り紐が熱い。重い。けれど、その熱がどちらへ行けと言っているのか、もう分からなかった。


戻りたい。 進みたい。 治りたい。 帰りたい。


全部が同時に胸の中で絡まり、息がうまく入らなかった。

サイモンが声を落とした。


「ここで止まれば、何も変わりません」


ひどい言葉だった。

でも、オスカーの弱いところに、正確に触れていた。


何も変わらない。 椅子に座る自分。 鍋を見る自分。 姉を待つ自分。


痛くないふりをして、痛いところばかり増やしていく日々。

オスカーは杖をついた。

一歩。


溝が、足の下で細く鳴った。

サイモンは手を出さなかった。


支えない。

ただ、逃がさない距離にいる。


オスカーはもう一歩進んだ。

暗がりの中へ入る直前、後ろを振り返った。

通路の向こうに、エマの姿はまだ見えなかった。


声だけが追ってきた。


「オスカー!」


届いている。

届いているのに、追いつかない。

オスカーは唇を噛んだ。


「ごめん」


誰に聞こえる声でもなかった。

道が、背後で低く鳴った。

エマは斜路の途中で足を止めていた。


奥で音がした。

重い石が動く音。


近い。


近いはずなのに、まだ届かない。


「オスカー!」


もう一度呼んだ。

返事はなかった。


ローワンが後ろで壁に手をついた。息が乱れている。だが、今度は倒れなかった。

エマは前へ進もうとした。

その時、背後の遠い方から、別の灯りが揺れた。


一つではない。

白鹿の灯りだ。

振り返る暇はなかった。


それでも、背中の方で道が少しだけつながった気がした。

残してきた男の場所にも、届いているはずだった。

そう思わなければ、前へ足を出せなかった。


エマは奥を見た。

まだ、自分の灯りはオスカーへ届いていない。


斜路の先で、石が鳴った。

扉の音ではなかった。

もっと深いところで、道そのものが形を閉じる音だった。

エマは灯りを握り直した。胸元の布を掴みそうになった手を、無理に下ろす。


今は、紐を見るな。

床を見ろ。

道を見ろ。

オスカーが残した跡を見ろ。


斜路の奥に、壁が現れていた。

さっきまで暗がりが続いていたはずの場所に、何もなかったような顔をして立っている。細い溝がいくつも走り、中央で輪のように絡み合っていた。

向こうで、道が閉じた。


エマは息を吸った。

声にすると、何かが折れそうだった。

それでも、名前は出た。


「オスカー」


声は壁に当たり、すぐに落ちた。

返事はなかった。


背後から、白鹿の足音が少しずつ近づいてくる。

残された灯りは、届いたはずだった。

けれど、追いかけていた灯りは、まだ向こう側にあった。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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