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ダンジョンサポーター  作者: Aramaki_mai
第四章 家へ戻る道
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第54話 遅れて追う灯り

ダンジョンに潜る人たちの話です。

ライト文芸寄りのダークファンタジーです。


▼登場人物

エマ・ウォーカー     本小説の主人公

オスカー・ウォーカー   エマの弟

ローワン・ウォーカー   エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった

マルタ・リード      治療師 エマに救護についてを教えた人

オルブライト・ケイン   白鹿のギルド長

ノル・ハーヴェイ     白鹿の探索隊長の一人


▼主人公について

白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。

元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。


あらすじ

オスカーはサイモンに連れられ、神殿関係の搬送補助として監視所を通過し、ダンジョンへ入った。探索者ではない自分の名が帳面に記され、引き返すなら今だと分かっていながら、足は動かなかった。奥で合流した者たちは、オスカーを人としてではなく「必要な場所まで届けばいい」存在として扱う。道中、負傷した男を置いて進む冷たさを見せられ、オスカーの中でサイモンの言葉への違和感が膨らんでいく。やがて白い石の気配が近づき、胸元の祈り紐が熱く、重く反応し始めた。

白鹿へ向かう道を、エマは途中で折れた。

待てない、と分かったからだ。

マルタは白鹿へ走った。知らせは届く。ケインも、ノルも、誰かを動かすだろう。けれど、隊を組むには時間がいる。説明を聞き、判断し、装備を整え、監視所の記録を通す。その間にも、オスカーは奥へ進んでいるかもしれない。

そう考えた瞬間、エマの足は白鹿の館ではなく、監視所へ向いていた。


監視所の灯りが見えた頃、ローワンの足が一度止まった。

エマは振り返らなかった。

振り返れば、顔を見てしまう。顔を見れば、怪我人として状態を見てしまう。呼吸、顔色、足の運び、胸の押さえ方。どれも悪い。分かっている。分かっていて、ここまで連れてきた。


置いていけば早い。

そう考えなかったわけではない。

けれど、エマの手は、さっきから何度も荷紐に触れていた。布の束はずれていない。酒精の瓶は割れていない。包帯、針と糸、革袋の底に入れたスクロールとポーション。油袋と水袋も、歩く邪魔にならない位置にある。

足りないものは多い。


それでも、今の自分が持てるだけのものは持った。

ローワンを置いていくための荷ではない。

オスカーを連れて帰るための荷だった。


「歩ける?」


エマは前を向いたまま聞いた。

背後で、ローワンが息を整える音がした。


「……今は歩く。止まれない。止まったら、たぶん、そのまま動けなくなる」


その声は細かった。

嘘ではない。けれど、全部でもない。

エマは少しだけ歩幅を落とした。


「次に足が止まりそうになったら、先に言って。こっちが気づいてからじゃ遅いから」


返事はなかった。

その沈黙が、妙に父親らしくて、腹が立った。弱っているくせに、弱っていると言わない。傷を隠す。必要なことを後回しにする。それで誰かを守っているつもりになる。

エマは服の上から胸元に触れた。

家を出る前から、祈り紐はかすかに熱を持っていた。

台所の端には、水に浸したままの豆が残っていた。机には、オスカーの短い紙片が置かれていた。

買い物に行ってきます。

その字は、いつも通り丁寧だった。


急いで出た字ではない。乱れた字でもない。ちゃんと書いて、ちゃんと置いて、出ていった字だった。

だから余計に苦しかった。

オスカーは、帰るつもりだったのか。

帰らないことを隠すために、いつも通りにしたのか。

分からない。


服の下で、細い紐が重さを増した。

小さな石を、胸元に縫いつけられたようだった。


エマは思わず、胸元を押さえた。


「どうした」


ローワンが低く聞いた。


「……紐が重い。家を出る前から、急に熱くなった。今は、もっと重い」


ローワンの足が、そこで止まりかけた。

顔色が悪いのは、傷のせいだけではなかった。


「それは、もしかして……祈り紐なのか」


エマは振り返った。


「知ってるの?」


「ミラが作った」


エマの手が、胸元で止まった。


「母さんが?」


「ああ。白い石に近づけば、持つ者に知らせる。そういうものだと聞いている」


ローワンは息を整えた。

監視所の灯りは、もう遠くない。


「ミラは、その反応が起きる場所に、俺がいる可能性が高いと思ったんだろう。だから、お前たちに持たせた」


「お前たち?」


ローワンはエマを見た。


「オスカーも、持っているだろう」


「……持ってる。同じ紐を」


ローワンの顔が強張った。


「なら、急に強まった理由はそれかもしれない」


「何が」


「オスカーの紐だ。向こうでも反応しているなら、二本が引き合っている」


エマは胸元を握った。

服の下で、細い結び目が熱を持っている。


「オスカーが、白い石の近くにいるってこと?」


「その可能性が高い」


ローワンは短く答えた。


「少なくとも、遠くはない」


それだけで、足を止める理由はなくなった。

エマは前を向いた。


「歩いて。止まらないで」


ローワンは短く頷いた。

夜道の向こうで、監視所の灯りが揺れている。そこまで行けば、記録が残る。白鹿にもいずれ伝わる。誰かが追ってくる。

それでも、今ここにいるのは二人だけだった。

エマは歩き出した。


監視所の前には、夜番が立っていた。

夜番が替わったのか、あるいは別の仕事で戻されていたのか。

そこにいたのは、ダンだった。

いつもより灯りが少ない。夜番の時間だからか、机の上の帳面だけが明るく、その周りは影に沈んでいる。壁にかけられた鍵束が、小さく揺れていた。

ダンはエマを見るなり、顔をしかめた。


「エマ。こんな時間に、そんな顔で来るなよ。ろくな用じゃないだろ」


視線がローワンへ移る。

痩せた男。古い外套。血の匂いを隠しきれない体。手首に巻いた布。

ダンの表情が変わった。


「……そっちの人は。白鹿の者じゃないな」


「ローワン・ウォーカー」


エマは言った。

声にしてから、胸の中でその名が嫌な重さを持った。

父の名だった。

けれど、まだ父とは呼べなかった。


「ウォーカーって……」


「私の父。今は、それ以上聞かないで」


ダンは一瞬黙った。

その沈黙が長くなる前に、エマは帳面へ手を伸ばした。


「中に入る。記録して」


「待て、順番を飛ばすな」


ダンが帳面を引いた。


「白鹿からは何も聞いていない。何があった。こんな夜に、あんたがその人を連れて入るなんて普通じゃないだろ」


「マルタさんが白鹿へ走った。知らせは届く。でも、隊を待ってたら遅れる」


「何を待てない」


「オスカーが先に入ってる」


ダンの顔が硬くなった。


「……確かなのか。見た者はいるのか。待て、記録を調べる」


「見た人はいない。でも、確かめずに待つ方が無理」


「それは確かって言わない。分かってるだろ、エマ。今調べる」


「待てない」


ダンの手が、帳面の上で止まった。


「待てないからって、入っていい場所じゃない」


「なら止める?」


エマが聞くと、ダンは口を閉じた。

その沈黙に、言えない苦さが滲んだ。

ダンはローワンを見た。


「何があった」


ダンの声が少し荒くなった。


「そんな状態で潜ったら、帰り道で倒れるぞ。帳面には、戻らなかった名がいくつも残ってる。名前だけ残して終わるなよ」


エマは帳面の端を掴んだ。


「戻るために記録するんでしょ。名前だけ残すためじゃない」


ダンはエマを見た。

その目には、怒りというより、嫌なものを見る苦さがあった。


「名前と持ち込みを言え。……知らないからな」


「エマ・ウォーカー。ローワン・ウォーカー。目的は捜索。持ち込みは支援荷、治療道具、スクロール、短剣、油袋、水袋」


「同行者二名」


ダンが書いた。

筆先が紙を擦る音がする。


「白鹿が来たら伝えて。私たちは先に入った。古い回廊の方へ向かう」


「なぜ古い回廊だ」


ローワンが、監視所の奥にある地図へ目を向けた。


「正面道を素直に進んでいるとは限らない。深い場所へ向かう時、道の方が外れることがある」


「誰から聞いた。白鹿でも、そんな言い方はしない」


ローワンは答えなかった。

エマは代わりに言った。


「今は、それで通して。理由は、戻ってから聞いて」


ダンはしばらく二人を見ていた。

やがて、机の下から小さな灯りを二つ出した。


「持っていけ」


「返す」


エマが受け取ると、ダンは短く息を吐いた。


「灯りだけ返されても困る。弟を連れて帰ってこい。俺に帳面を見返させるなよ」


その言葉が、胸に刺さった。

エマは灯りを握り直した。


「連れて帰る」


ダンはローワンへ目を戻した。


「分かった。通す。でも、無茶はするな」


ローワンは小さく頷いた。

入口の石段は、夜でも口を開けていた。

ダンジョンの中から、冷えた空気が上がってくる。外の夜とは違う冷たさだった。人の暮らしから離れた場所の匂い。古い石、乾いた砂、消えた灯りの跡。

エマは階段の前で一度だけ止まった。

いつもなら、ここで人数を数える。


先頭、後衛、荷の位置、灯りの数、帰り道。水を飲んでいない者がいないか、歩幅の落ちた者がいないか、痛みを隠している者がいないかを見る。

今日は、二人しかいない。

それなのに、何も足りていなかった。

ローワンが、石段の下を見たまま言った。


「追いついたら、俺が話す」


エマは灯りの柄を握り直した。


「交渉するってこと」


「ああ」


ローワンの声はかすれていた。けれど、言葉の芯は揺れていなかった。


「オスカーを返させる。俺が協力すると言えば、相手は聞く」


「白い石のことで?」


ローワンは頷いた。


「向こうが欲しいのは、俺の協力だ。オスカーじゃない。あの子は、俺を動かすために使われた」


エマの指に力が入った。

分かっていた。

けれど、ローワンの口から聞くと、怒りの形が変わった。オスカーを探している焦りだけではなく、誰かが弟を秤に乗せたのだという冷たさが、胸の奥へ沈んだ。


「なら、あなたが協力する代わりに、オスカーを返してもらう」


「そうだ」


「それで、あなたも戻る」


ローワンはすぐには答えなかった。

短い沈黙だった。

けれど、その沈黙だけで、エマには嫌なものが伝わった。


「ローワン」


「まず、オスカーを外へ出す」


「まず、じゃない」


エマの声は低くなった。


「オスカーを返してもらう。あなたも戻る。そのために話す。そうでしょ」


ローワンは、監視所の灯りから目をそらした。


「相手が、その条件で済ませるとは限らない」


「済ませるように話すために行くんでしょ」


「ああ」


「だったら、最初から自分を置いていく話にしないで」


ローワンの指が、灯りの柄にかすかに食い込んだ。


「俺は、あの子の父親だ」


その声は弱かった。

けれど、頼りない声ではなかった。


「俺を従わせるために、オスカーが使われた。なら、俺が前に出る。お前に任せる話じゃない」


エマの喉が詰まった。

今さら父親の顔をされることが腹立たしかった。

それなのに、その言葉を少しだけ信じたくなる自分もいた。


「任せる話じゃないなら、隠す話でもない」


ローワンは答えなかった。

エマは一歩近づいた。


「あなたが残れば、オスカーが助かる。そう考えてる?」


ローワンの目が、ほんのわずかに動いた。

答えなかった。

答えないことが、答えだった。


「それを、オスカーが知らずに済むと思ってるの」


ローワンの息が止まった。

エマは灯りを持ち直した。


「あなたを置いて、オスカーだけ連れて帰ったら、あの子は一生それを背負う。私も背負う。そんな交渉はしない」


「エマ」


「するなら、三人で地上へ戻るための交渉にして」


ローワンは目を伏せた。


「……そのつもりで話す」


「それじゃ足りない」


「今言えるのは、それだけだ」


エマは唇を噛んだ。

ローワンはもう、別の答えを胸の奥に隠している。

それが分かっても、ここで引きずり出す時間はなかった。

問い詰めれば、足が止まる。

足が止まれば、オスカーから離れる。


「約束して」


エマは言った。

ローワンがこちらを見る。


「痛む時は言う。立ち止まる時も言う。私が止まれと言ったら止まる。父親の顔をして我慢されると、こっちが判断を間違える」


「ああ。……分かった」


「その返事、軽い」


「軽くしたつもりはない」


「なら、嘘もつかないで」


ローワンの顔が、灯りの中で少しだけ影になった。


「全部話せとは言ってない。でも、今ここで嘘はつかないで」


短い沈黙があった。


「分かった」


エマはその返事を信じたわけではない。

ただ、聞いた。

それで足を踏み出した。

一階層の通路は見慣れていた。


壁には何度も通った探索者の傷が残り、床の欠けた場所には古い砂がたまっている。浅い階層だからといって安全ではない。だが、ここはまだ人の手が届く場所だった。目印も多い。戻る道も読める。

ローワンの息が、背後で浅く聞こえた。

エマは歩幅を落とした。


「今、俺に合わせたな」


ローワンが言った。


「合わせた。合わせないと、あなたは黙って遅れる」


「気を遣わなくていい」


「気じゃなくて、計算。途中で倒れられる方が遅いし、私が腹を立てる」


ローワンは黙った。

その沈黙は、父娘のものではなかった。

隊の中で、負傷者に言うことを聞かせた時の沈黙に似ていた。

エマは地図板を握り直した。

いくつかの分岐を越え、見慣れた浅層の目印が途切れ始めた頃、胸元の紐がまた主張した。

今度は体の向きを少し変えなければ、奥に小さな棘を残されるような感覚がある。引っ張られるというほど強くない。けれど、無視すると気持ちが悪い。

エマは正面の道ではなく、左の古い通路へ灯りを向けた。

そこは地図上では行き止まりになっている。

前に来た時は、半分崩れた壁しかなかったはずだった。


今は違った。

石の継ぎ目の奥に、細い隙間が開いている。人ひとりが横になれば通れる程度の幅。壁は自然な岩ではなく、古い礼拝堂の裏のように白っぽい石が積まれていた。

エマは足元に灯りを下ろした。


「ここ、前はなかった。少なくとも、私が通った時は壁だった」


ローワンが壁を見た。

手を伸ばしかけて、途中で止める。

エマが見たからだ。


「触らないで。知らないものに、そうやって指を出さない」


「……昔からの癖だ」


「悪い癖。今は研究じゃない」


ローワンは手を下ろした。


「そうだな」


エマは地図板の端に印を入れた。

新しい通路。


ただし、帰りに残っているとは限らない。

その事実が、炭筆の線を少しだけ重くした。

通路へ入る前に、床を見た。

砂が薄く積もっている。そこに、細い擦れ跡があった。


杖の先の跡だった。

エマの息が止まった。

等間隔ではない。途中で一度、強く滑った跡がある。立て直すために杖をつき直したような小さな傷も見えた。

オスカーの歩き方を、エマは知っている。

家の床で聞いていた。酒場から帰る道で聞いていた。機嫌が悪い時は、少し音が強くなる。疲れている時は、悪い方の足を引く間が長くなる。

知っていたはずだった。


なのに、いつからその音に苦しさが混じっていたのか、気づかなかった。

エマは指先で床の傷に触れた。

石粉がついた。


「ここを通ってる。……あの子の杖の跡だと思う」


ローワンが膝をつこうとして、できずに壁へ手をついた。

エマはすぐに立ち上がった。


「見たいなら、私が見る。あなたはそこで倒れないで」


言ってから、声が少し柔らかくなったことに気づいた。

すぐに付け足した。


「倒れられると困るから」


ローワンは何も返さなかった。

その方がよかった。

通路は狭かった。

ローワンの肩が何度か壁に擦れる。白い粉が外套についた。エマは前を歩き、灯りを低くして足場を見た。床の石は新しいようで古い。踏むとわずかに沈む箇所がある。壁には、何かを削ったような跡があった。文字にも見える。爪痕にも見える。


説明できないものが増えていく。

ダンジョンは、昨日と同じ顔で待ってはくれない。

その言葉を、何度も自分に言ってきた。

それでも今夜の通路は、ただ形を変えたというより、こちらの焦りを知っていて狭くなったように見えた。

背後で、ローワンの呼吸が乱れた。

エマは立ち止まった。


「足を見せて。さっきから右を少し逃がしてる」


「まだ歩ける」


「歩けるのは分かった。見せるかどうかを聞いてる」


ローワンは少しだけ目を伏せ、外套の裾を上げた。

足首の布に、赤い点が滲んでいた。縄で擦れた傷が歩くたびに開いている。

エマは荷を下ろした。


「ここで巻き直す。座って」


「時間が惜しい」


「その時間を後で何倍も失う方が惜しい」


ローワンは壁にもたれて腰を下ろした。

エマは布をほどき、傷を見た。深くはない。だが、このまま歩けば悪くなる。悪くなれば、いずれ足を止める。

足を止めれば、オスカーから離れる。

エマは酒精を少しだけ布に含ませた。

ローワンの指が、石床を掴む。


「痛むなら、痛む顔をして。無表情で耐えられる方がやりにくい」


「痛い」


「それでいい」


エマは短く答えた。


「でも、ここでちゃんと巻かないと、もっと痛む」


言いながら、ふと胸が詰まった。

オスカーにも、同じように言ったことがある。

杖の柄を握りすぎて手のひらが擦れた時。足首が腫れた時。痛くないと嘘をついた時。

エマは唇を噛み、布を巻き直した。

ローワンの視線が、エマの手元に落ちている。

何かを言いかけたのが分かった。たぶん、ミラの名前だ。

エマは顔を上げた。


「今、母さんの話をしたら置いていく」


ローワンは口を閉じた。

それでよかった。

今、母に似ていると言われたら、たぶん、前に進めなくなる。

処置を終えると、エマはすぐ荷を背負った。


「立てそう?」


ローワンは壁を使って立ち上がった。


「さっきよりは、足が床に乗る」


今度の声は、少しだけ正確だった。

二人はさらに奥へ進んだ。

通路の先で、かつん、と音がした。

エマの足が止まる。杖の音に似ていた。

間を置いて、もう一度、かつん、と鳴る。

ローワンが息を止めた。

エマは灯りを下げた。


音は続かない。

代わりに、床を引きずるような乾いた音がした。骨が石に当たる音。通路の曲がり角から、古びた兜が見えた。

骨兵だった。


片手に折れた剣を持ち、胸の骨の隙間に黒い砂を溜めている。こちらに気づいたのか、兜の奥の暗がりがわずかに傾いた。

倒す必要はない。

エマはそう判断した。


通路は狭い。ローワンを背にして戦えば、身動きが取れない。火を使えば煙が回る。スクロールは使いたくない。音を立てれば、もっと厄介なものが寄る。

エマは荷から小さな布包みを取り出した。

塩と、乾かした薬草を砕いたもの。

骨兵が一歩踏み出した瞬間、エマはそれを足元へ投げた。白い粒が石に散る。骨の足が踏み、わずかに滑った。


「今なら抜けられる。足元だけ見て、私の肩じゃなく灯りを追って」


エマはローワンの腕を掴んだ。

骨兵の横を抜ける。

折れた剣が遅れて振られ、壁に当たった。石が欠ける音がした。エマは振り返らず、ローワンを先へ押した。背後で、骨兵が体勢を戻す乾いた音が続く。

小さな横穴へ入る。


エマは崩れた石を押し、入口を狭めた。完全には塞げない。だが、骨兵が剣を振るには足りない幅になった。

かた、かた、と外で骨が鳴った。

追っては来るだろうが、すぐには来られない。それでいいと判断して、エマは息を整えた。

ローワンは壁に肩を預けていた。顔色はさらに悪い。


「外套、どけて」


ローワンは首を横に振りかけて、途中でやめた。


「裂けただけだ。血は増えていない」


エマは外套の端を見た。布が裂れているだけで、血は増えていなかった。


「次から、杖の音に似てても走らない」


ローワンが言った。

エマは少しだけ目を細めた。


「……走ってない」


「走りかけた」


本当は、走りかけた。

あの音を聞いた瞬間、胸が勝手に前へ出た。

オスカーかもしれない。

そう思うだけで、足が動いた。

ローワンはそれを見ていたのだろう。

エマは視線を外した。


「分かってる。だから止まった」


横穴の奥は、地図にない小部屋へつながっていた。

壁の一部が崩れ、床には白い石の破片が散っている。普通の石ではなかった。灯りを近づけると、いくつかの破片に細い白い筋が走っている。骨の内側のような色だった。

エマは素手で触れようとして、止めた。

ローワンの顔が変わっていた。


「触るなら布越しにしてくれ。素手で確かめるものじゃない」


「そういうことは、先に言えるんだ」


エマは汚れてもいい布を一枚出し、破片のひとつを包んだ。


「これは何」


ローワンは破片を見た。


「番兵に似せた石像魔物の欠片だと思う。白い筋がある。白い石に近い場所で、こういうものが出ることがある」


固有名は出なかった。それで十分だった。

エマは布包みを握った。

オスカーを連れて入った者たちが、ここを通った。

オスカーを連れて。


この破片が残っているということは、戦ったのかもしれない。倒したのかもしれない。壊して、進んだのかもしれない。

オスカーは、それを見たのか。

あの危険な場所で、杖を握って立っていたのか。

エマは胸元を押さえたまま、すぐには手を離せなかった。

奥へ駆け込みたかった。

けれど、走れば見落とす。


床の沈み。壁の傷。敵の残したもの。オスカーの杖跡。

全部、連れて帰るための手がかりだった。


「進む。けど、走らない」


エマは言った。

ローワンがこちらを見た。

エマはその顔を見ないまま続けた。


「走ったら、あの子の跡を見落とす。今それをやったら、私はたぶん自分を許せない」


ローワンは小さく頷いた。

二人は小部屋を抜けた。

その先は、さらに狭い通路だった。

壁の白い石が、灯りを吸うように鈍く光っている。奥へ進むほど、外の音が消えていく。骨兵の音も、監視所の気配も、町の夜も、全部遠ざかる。

代わりに、別の音が聞こえた。

石が動く音。


遠くで、大きな扉が閉じるような低い響きだった。

エマは足を止めた。

通路の奥から、かすかに風が押し返してきた。灯りの火が細く倒れる。

エマは布を握ったまま、奥を見た。


「近いの。……そう思っていいの」


エマは聞いた。

ローワンは奥を見たまま、すぐには答えなかった。


「近づいている。だが、同じ道を進めているとは限らない」


その言い方が、ひどく頼りなかった。

エマは笑わなかった。怒ることもできなかった。

今は、その程度の答えにすがるしかない。

マルタは白鹿へ走った。

白鹿の灯りも、いずれ来る。

ケインも、ノルも、誰かを連れて追ってくるだろう。


けれど、今この通路にある灯りは二つだけだった。

ひとつはエマの手の中。

もうひとつは、ローワンの震える手の中。

どちらも小さい。


遅れている。

それでも、消えてはいなかった。

エマは胸元の布を握った。

その先に、オスカーがいる。

そう思わなければ、次の一歩を出せなかった。

エマは灯りを上げた。奥の闇は、まだ何も返さなかった。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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