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ダンジョンサポーター  作者: Aramaki_mai
第四章 家へ戻る道
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53/78

第52話 許してない

ダンジョンに潜る人たちの話です。

ライト文芸寄りのダークファンタジーです。


▼登場人物

エマ・ウォーカー     本小説の主人公

オスカー・ウォーカー   エマの弟

ローワン・ウォーカー   エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった


▼主人公について

白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。

元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。


あらすじ

長く囚われていたローワン・ウォーカーの前に、名を明かさない男と女が現れる。彼らは白骸晶を求め、協力を拒むローワンに、オスカーが深い場所へ向かっていることを告げた。

ローワンは檻の外へ出されるが、それは解放ではなかった。目隠しをされ、荷馬車で町外れへ運ばれ、荷物のように捨てられる。傷と衰弱でまともに歩けない体のまま、それでもローワンは、オスカーの危険を知らせるため、エマとオスカーの家へ向かおうとする。

しかし市場裏で倒れたローワンは、通りがかった人々にマルタの治療所へ運び込まれる。そこで彼は、オスカーが危ないこと、自分がローワン・ウォーカーであることを告げる。事情の全ては分からないまま、危険だけを察したマルタは、白鹿へ知らせるために走り出した。

家の中には、煮込みの匂いがしなかった。

鍋は火にかけられていない。水に浸した豆の器だけが、台所の端に置かれていた。表面に小さな泡が浮き、窓から入る夕方の光を鈍く返している。

東通りの店先から古い倉庫通りまで探し回って戻った時、エマの手の中に残っていたのは、切れた袋の紐と、杖から剥がれた細い革片だけだった。

エマは、戸口でしばらく立っていた。


「オスカー」


声は、家の中で小さく沈んだ。

返事はなかった。


椅子は二つある。片方は、いつもオスカーが座る椅子だった。背もたれの横に杖を立てかけやすいよう、少しだけ壁から離してある。今も、そこだけ空いていた。

けれど、杖はない。


机の上には、紙片が置かれていた。

買い物に行ってきます。


短い字だった。いつもの字だ。真面目に、少し小さく、端を揃えるように書かれている。急いで出た字ではない。ちゃんと書いて、ちゃんと置いて、出ていった。

それが、余計に苦しかった。


エマは紙片を手に取らなかった。もう何度も読んだ。文字の形を覚えるくらい読んだ。それでも、そこに書かれていないことは分からない。


どこへ行くのか。

誰に会うのか。

何を考えているのか。


エマは台所へ向かった。切りかけの根菜はない。香草もない。いつもなら、オスカーは買ってきたものをまず台の上へ並べる。泥がついたものは布の上へ置き、濡れたものは別にする。豆は器へ。香草は乾いた皿へ。根菜は傷んだところを先に切る。

そういう手順を、エマよりずっと丁寧にやる。


今日は、そのどれもなかった。

エマは腰袋から、拾ってきた紐を出した。

買い物袋の紐だった。途中で千切れている。擦れて、強く引かれた跡があった。その横に、細い革片を置く。杖の柄に巻くための革。端は新しく、まだ手の油も馴染みきっていない。


少し前に、見た。

オスカーが握っていた。いつもより少し太くなった杖の柄を、気にするように指で触っていた。

見ていたのに、聞かなかった。

そのことが、今さら喉の奥を塞いだ。

エマは革片を握った。


「……何やってるの、私は」


誰に向けた言葉でもなかった。

怒るなら、自分だった。ロイたちを探して殴れば済む話ではない。白鹿へ走ればすぐ答えが出る話でもない。オスカーは傷つけられた。けれど、傷ついた弟を見落としていたのは、自分だ。

家にいると思っていた。帰ってくると思っていた。

いつもみたいに、遠回りしても、遅くなっても、最後にはここへ戻ると思っていた。

オスカーには、帰る場所がここしかないと、どこかで思っていた。

その考えが、いちばん嫌だった。


外で足音がした。

エマは顔を上げた。

足音は一人分だった。重い。まっすぐ歩けていない。戸口の前で止まり、扉に手が触れる音がした。

オスカーではない。

オスカーの杖の音ではない。

エマは短剣に手をかけたまま、扉へ向かった。


「誰」


返事はすぐに来なかった。

扉の向こうで、息をする音がした。浅く、乱れている。怪我人の息だった。


「……エマ」


その声を聞いた瞬間、エマの指が止まった。

知らない声ではなかった。

けれど、知っていると言えるほど近くもなかった。古い記憶の底で、埃をかぶった箱が勝手に開いたような感覚だった。

エマは扉を開けた。


男が立っていた。

立っている、というより、戸枠に倒れ込むのをどうにかこらえていた。髪は伸び、頬は痩せ、目の下に深い影が落ちている。手首には縄の跡があり、服は町の埃と古い血で汚れていた。息をするたび、肩が小さく震える。

エマは、しばらく何も言えなかった。

男も、何も言わなかった。

ただ、その目だけがエマを見ていた。


昔、母の横にいた人の目だった。

エマは短剣から手を離さなかった。


「……今さら?」


声は、思ったより低く出た。

男の喉が動いた。


「エマ」


「その名前を呼ばないで」


言った直後、自分の胸が痛んだ。

でも、取り消さなかった。

ローワン・ウォーカーは、戸口に立ったまま目を伏せた。謝るようにも、耐えるようにも見えた。エマはその顔を見て、腹の奥が熱くなるのを感じた。


父だ。


そう思った。

思ったのに、何も戻ってこなかった。


うれしさではなかった。安心でもなかった。やっと帰ってきた、という言葉も出てこない。

出てきたのは、ずっと空いていた椅子の重さだった。


「どこにいたの」


ローワンは答えなかった。


「母さんが死んだ日も、オスカーが杖を使い始めた日も、あの椅子はずっと空いてた」


エマは、机の方を見なかった。

見たら、声が崩れそうだった。


「皿を二枚だけ出すのに慣れていく間も、あなたはいなかった」


ローワンは、戸枠を掴んだ。

指に力が入っていない。

それでも、倒れなかった。


「すまない」


その一言で、エマの中の何かがさらに冷えた。


「それで終わると思ってるの」


「思っていない」


「じゃあ、何しに来たの」


ローワンは顔を上げた。


「オスカーが危ない」


エマの息が止まった。

怒りが消えたわけではない。

ただ、別のものが胸の前に割り込んできた。


「何を知ってるの」


「深い場所へ向かわされている」


ローワンの声はかすれていた。


「白い石に近い場所だ。行かせてはいけない」


エマはローワンの襟元を掴んだ。

考えるより早かった。

ローワンの体が揺れた。軽かった。あまりにも軽かった。掴んだ布の下に、骨の感触があった。


「誰が」


「分からない。名前は……聞けなかった」


「分からない?」


「顔は見た。声も聞いた。だが、名前は出さなかった」


「それで、今さら家に来たの」


ローワンは答えようとして、咳き込んだ。

咳の音が、胸の奥で引っかかった。エマは反射的に手を緩めた。ローワンの膝が崩れかける。

エマは舌打ちしそうになって、飲み込んだ。


「入って」


「時間がない」


「倒れたら、もっと時間がなくなる」


エマはローワンの腕を掴み、家の中へ引き入れた。乱暴にはできなかった。できなかったことが、また腹立たしかった。

椅子へ座らせる。オスカーの椅子ではない。


エマは自分の椅子を引いた。ローワンをそこに座らせ、台所から水を取る。手が動く。体が勝手に怪我人を見る。顔色、呼吸、傷、手首の跡。マルタに叩き込まれた順番で、見てしまう。

見たくないのに、見てしまう。


ローワンは水を受け取ろうとしたが、指が震えてこぼした。

エマは杯を支えた。


「飲んで」


「エマ」


「飲んでから喋って」


ローワンは少しだけ水を飲んだ。喉が動く。飲み込むだけで痛そうだった。

エマは清潔な布を出し、手首の傷を見た。

縄が擦れて、皮膚が裂けている。古い傷と新しい傷が混じっていた。血は止まっているが、熱を持っている。足首も同じだろう。胸も痛めているかもしれない。


「マルタさんのところから来たの」


ローワンの目が動いた。


「….あの人は、白鹿へ」


「知らせに行った?」


ローワンは頷いた。


「動くなと言われただろうね」


「言われた」


「でしょうね」


エマは布を水で湿らせ、手首の汚れを拭った。ローワンが痛みに息を詰める。


「息して」


言ってから、唇を噛んだ。

いつもの言葉だった。怪我人に言う言葉。

父に言う言葉ではない。


父。


その言葉が、胸の中でひどく遠かった。


「白い石って、白骸晶のこと?」


ローワンの肩がわずかに固まった。

それだけで十分だった。

エマは布を置いた。


「答えて」


「……近づいてはいけない」


「答えになってない」


「使うものじゃない」


ローワンはエマを見た。


「どこまで知っている」


「危ないものだってことくらい」


「なら、近づくな」


「オスカーがそこへ向かわされてるんでしょう」


ローワンは言葉を失った。

エマは立ち上がった。


「なら、近づくなは無理」


「エマ」


「今度は止めるの」


ローワンの顔が歪んだ。


「違う」


「何が違うの」


「エマを危ない場所へ行かせたいわけじゃない」


「そんなこと、誰も聞いてない」


エマの声が少し大きくなった。

机の上の紙片が、わずかに揺れた。

買い物に行ってきます。

その字が見えた瞬間、エマは声を落とした。


「オスカーは、買い物に行っただけだった」


ローワンは紙片を見た。


「豆と香草を買いに行っただけ。私が帰った時に、煮込みを出そうとしてた。たぶん、そういうことだった」


エマは机の端を握った。


「それなのに、帰ってこなかった」


ローワンは何も言わなかった。


「探した。東通りの店先も、市場裏も、古い倉庫通りも。袋の紐も、杖の革も拾った。見てたのに、気づかなかったものばかり落ちてた」


声が震えそうになった。

エマは歯を食いしばった。


「あなたも同じ」


ローワンの目が上がる。


「ずっと、いなかったのに。今になって現れて、危ない、行くな、近づくなって言う」


「……すまない」


「謝られると、私が許さなきゃいけないみたいになる」


ローワンは口を閉じた。

外で、誰かが通り過ぎる足音がした。町はまだ動いている。店じまいの声も、荷車の音も、遠くで続いていた。

家の中だけが、ひどく静かだった。

ローワンが、低く言った。


「許してほしくて来たんじゃない」


エマは笑わなかった。


「じゃあ、何」


「オスカーを止めに来た」


「止められるの」


「分からない」


その答えに、エマは一瞬だけ目を細めた。

ローワンは続けた。


「だが、何に向かわされているかは分かる。深い場所へ入るなら、道が要る。白骸晶へ近づくなら、反応を見るものが要る。あの子が持っているものが、使われるかもしれない」


「祈り紐?」


ローワンの顔色が変わった。

エマはその反応を見逃さなかった。


「やっぱり」


「誰から聞いた」


「今、それを話してる時間ある?」


ローワンは唇を噛んだ。

エマは腰袋を取った。机の端に置いていた革片を拾い、紙片と一緒に小さく畳む。オスカーの字と、オスカーの杖から剥がれた革。どちらも置いていけなかった。

台所の棚から清潔な布を数枚取る。

奥の箱から、残っているスクロールの革筒を出す。

水袋に水を入れる。


動きながら、エマは息を整えた。怒りはある。

あるまま、手を動かす。

それは、ダンジョンの中で何度もやってきたことだった。怖くても、腹が立っても、泣きそうでも、手を止めれば誰かが死ぬ。


今は、オスカーだ。

ローワンが椅子から立とうとした。

足元が揺れる。


エマは振り返った。


「立たないで」


「行く」


「その足で?」


「行く」


「途中で倒れたら担ぐ余裕はない」


「置いていけ」


エマの動きが止まった。

ローワンは椅子の背を掴んでいた。顔は青白い。けれど、目だけは逸らさなかった。


「俺が倒れたら、置いていけ。白鹿に知らせが届いているなら、途中で誰かと合う。君は――」


「勝手に決めないで」


エマの声は静かだった。


「置いていくかどうかは、私が決める」


ローワンは黙った。


「あなたの言う通りにはしない。今までも、これからも」


エマは革筒を腰へつけた。


「でも、道を知っているなら歩いて」


ローワンの手が、椅子の背を強く掴んだ。


「エマ」


「父親の顔をしないで」


ローワンの呼吸が止まった。

エマは戸口へ向かった。そこで一度だけ足を止めた。


「許してない」


言葉は、家の中にまっすぐ落ちた。

ローワンは返事をしなかった。

エマは振り返らずに続けた。


「母さんが死んだ時にいなかったことも、オスカーの杖の音が家の中で当たり前になっていったことも、私たちだけで皿を二枚にしたことも、今さら帰ってきたことも、許してない」


ローワンの息が、かすかに震えた。


「でも、オスカーを助ける」


エマは扉に手をかけた。


「そのために必要なら、あなたの話も聞く。肩も貸す。傷も見る」


少しだけ間を置いた。


「それだけ」


ローワンは、ゆっくり立ち上がった。

立つだけで、ひどく時間がかかった。足が震え、椅子が床をこすった。エマは手を出しかけて、すぐには出さなかった。

ローワンは一歩進んだ。崩れかけた。


エマは舌打ちの代わりに息を吐き、腕を取った。


「言ったでしょう。倒れたら面倒」


「……すまない」


「今は、それはいらない」


「分かった」


「分かってない」


「……分かっていないな」


エマは顔をしかめた。

その返し方が、ほんの少しだけオスカーに似ていた。

似ていると思った自分に、腹が立った。

扉を開けると、夕方の冷たい空気が入ってきた。町の音が一気に近くなる。遠くの方で、誰かが白鹿へ走っているのか、慌ただしい足音が混じっていた。


マルタの知らせが届く頃には、白鹿も動く。

でも、待てなかった。

エマは戸口で一度だけ振り返った。

机の上には、豆の器が残っている。紙片はない。革片もない。

けれど、オスカーの椅子だけは、少し壁から離れたままだった。そこに杖を立てかける場所を空けているように。


エマはその椅子を直さなかった。

戻ってきた時、オスカーがそのまま座れるように。

そう思った瞬間、胸の奥が痛んだ。

エマは扉を閉めた。


ローワンの腕は軽かった。軽すぎた。

それでも、確かに重かった。

エマはその重さを抱えたまま、白鹿へ続く道へ足を向けた。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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