第51話 檻の外
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 本小説の主人公
オスカー・ウォーカー エマの弟
ローワン・ウォーカー エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった
マルタ・リード 治療師 エマの治療の先生
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
ロイたちに傷つけられたあと、オスカーは家へ戻る道を知っていながら、どうしても足を向けることができなかった。エマが自分を探していると知りながらも、心配され、守られ、また何もできない自分に戻されることが苦しく、古い倉庫通りへ迷い込む。
そこで待っていたのは、以前にもオスカーの前に現れた男、サイモンだった。サイモンは、深いダンジョンに「治せないものに触れた記録」があると告げる。足が治れば、同じ顔で姉の前に立たずに済むかもしれない――その言葉に揺れたオスカーは、潰れた香草の入った袋を握ったまま、家へ戻る道ではない方へ歩き出した。
石の床は、夜も昼も同じ冷たさをしていた。
ローワン・ウォーカーは、壁にもたれて座っていた。
手首には縄の跡が残っている。古い傷の上に新しい傷が重なり、皮膚は乾いて割れていた。足首も重い。立てないわけではない。けれど、立てば膝が笑い、息が喉の奥で引っかかる。
檻の中には窓がなかった。
朝が来たのか、夜が来たのかも分からない。天井の隅に置かれた小さな灯りだけが、石の壁に薄い影を作っている。
ローワンは、その灯りから目をそらしていた。見つめていると時間を数えてしまい、どれだけ数えても、檻の中で変わるものは何ひとつなかった。
やがて、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
一人ではない。
革靴の硬い音が先に来て、その後ろに、床を擦るような軽い音が続いた。見張りの足音ではない。見張りはもっと乱暴に歩く。鍵を鳴らし、わざと檻の中の者に聞かせるように息を吐く。
今、近づいてくる足音には、それがなかった。
扉の外で、灯りが増えた。
檻の格子に、細長い影が落ちる。
「ローワン・ウォーカー」
声がした。
穏やかな声だった。
怒ってもいない。急いでもいない。疲れてもいない。机の上に置いた道具の状態を確かめるような声だった。
ローワンは答えなかった。
喉が乾いていた。けれど、声を出さない理由はそれだけではなかった。
格子の前に立った男は、顔を半分ほど影に沈めていた。衣服は汚れていない。ここへ来るまでに、泥道も裏路地も通っていないように見えた。
男の後ろに、もう一人いた。
顔は見えない。ただ、女だと分かった。
灯りを持つ手が細く、外套の袖口から覗く指に、薄い革の手袋がはまっていた。何も言わずに立っているのに、その沈黙だけで、檻の中の空気が少し冷えた。
男は、格子越しにローワンを見下ろした。
「ずいぶん持った」
ローワンは、膝の上で指を握った。
指先がうまく曲がらない。
「だが、こちらも待ち続けるつもりはない」
男はそこで、わずかに間を置いた。
ローワンは顔を上げなかった。
「白骸晶を渡せ」
その名が落ちた瞬間、石の床の冷たさが、胸の内側まで入ってきた。
ローワンは、ようやく口を開いた。
「……あれは、持ち出すものじゃない」
声はかすれていた。
自分の声ではないようだった。
男は少しだけ首を傾けた。
「持ち出すものではない。使うものでもない。触れるべきでもない。あなたは、いつもそう言う」
ローワンは格子を見た。
「分かっているなら、なぜ聞く」
「決めるのは、あなたではない。どうやら、まだ状況を理解していないようですね」
男の声は変わらなかった。
ローワンは笑えなかった。その一言で、十分だった。
この男にとって、あれは禁忌でも祈りでもない。秤に乗せるものだ。足りなければ、別の命を乗せる。その程度の重さでしかない。
「人の命を、道具にするな。誰かの願いを秤に乗せて、足りない分を別の命で埋めようとするな」
ローワンの声は低かった。
男は何も答えなかった。
代わりに、格子の前へ一歩近づく。
「あなたが協力しないので、別の道を使うことにした」
ローワンの指が止まった。
男は、そこで初めて少しだけ声を柔らかくした。
「オスカー君は、よく歩こうとしているそうだ」
ローワンの顔が上がった。
その動きで、首の奥に痛みが走る。
「……何を」
「姉を困らせたくない。守られているだけではいられない。そういう子は、選択を与えられると手を伸ばす」
ローワンは格子に手をかけた。
立とうとして、膝が崩れた。肩が格子にぶつかり、鈍い音がした。
後ろに立つ女の目が、少しだけ動いた気がした。
男は動かなかった。
「やめろ」
ローワンは言った。
「オスカーに触るな」
「触れてはいない。今のところは」
「今のところ、だと」
「深い場所へ向かうには、案内が要る。願いも要る。あの子には、どちらもある」
ローワンは格子を握った。
古い鉄の冷たさが、手のひらに食い込む。
「何も知らない子だ」
「だから使える」
その言葉に、ローワンの息が止まった。
怒りより先に、体の奥が冷えた。
目の前の男は、隠そうともしなかった。
オスカーを人として見ていない。
願いを持った子どもではなく、深い場所へ届く手段として見ている。
「白骸晶は、願いを叶える石じゃない」
ローワンの声は震えていた。
男は、わずかに目を細めた。
「では、何だ」
ローワンは答えなかった。
答えれば、その言葉を使われる。
沈黙も、すでに使われてきた。けれど、これ以上、渡すわけにはいかなかった。
男は、つまらなそうに息を吐いた。
失望ではない。
手順が少し長くなったことへの、小さな息だった。
「あなたが今から動けば、まだ間に合うかもしれない」
ローワンは男を見た。
「どこへ行かせた」
「あなたなら分かる」
「答えろ」
「分かるはずだ」
男の声は変わらなかった。
「足を治したい子どもが、白骸晶の話を聞かされて、どこへ向かうか。あなたなら分かる」
ローワンの口の中に、血の味が広がった。
いつ噛んだのか分からない。
白骸晶。
その名は、檻の中の冷えた空気よりも深く、体の奥へ沈んだ。
「……何を聞かせた」
「希望ですよ」
男は静かに言った。
「歩けるかもしれない。姉に守られるだけではなくなるかもしれない。そう聞かされた子どもが、引き返せると思いますか」
ローワンは格子を握った。
白骸晶は、願いを叶える石ではない。だが、知らない者にはそう見える。
暗い場所で差し出された光は、いつだって救いの顔をしている。
「何も知らない子に、願いだけを見せたのか」
声はかすれていた。
男は答えなかった。答えないことで、十分だった。
ローワンは膝に力を入れた。立てる体ではなかった。足首は重く、手首の傷は格子に擦れて痛んだ。それでも、体を起こそうとした。
「オスカーを、道具にするな」
男は静かに見下ろしていた。
「なら、オスカー君を助けなさい」
檻の鍵が鳴った。
見張りが近づいてくる。男が軽く手を動かしただけで、格子の扉が開けられた。
ローワンは、すぐには動けなかった。
檻は開いた。
けれど、それは自由ではなかった。
開いた先にも、人の手があり、灯りがあり、命令があった。
男は横へ退いた。
「行き先は、あなたの方が知っている」
ローワンは格子を握ったまま、立ち上がろうとした。
膝が震える。
見張りの一人が腕を掴んだ。支えるためではない。引きずるためだった。
ローワンはその手を振り払おうとしたが、力が入らなかった。
女が、初めて口を開いた。
「歩ける程度には残してある」
温度のない声だった。誰に言ったのか分からない。
男か、見張りか、それともローワンにか。
ローワンはその声の方を見た。女の顔は、灯りの後ろで見えなかった。
「目は」
見張りが聞いた。
女は短く答えた。
「塞いで」
その言葉の直後、布がローワンの目に巻かれた。
灯りが消えた。
いや、見えなくなっただけだ。
ローワンは腕を押さえられ、檻の外へ出された。何年ぶりかの外だった。
それなのに、最初に感じたのは、風でも空でもなかった。
石の廊下を引きずられる音。自分の足が、床を擦る音。
その音だけだった。
馬車の中は、木と油の匂いがした。
荷台に投げ込まれた時、ローワンは肩を打った。息が詰まり、胸の奥で咳が絡む。手首は前で縛られている。目隠しの布はきつく、こめかみが痛んだ。誰かが扉を閉めた。
外から、低い声がした。
「このままか」
「このまま」
女の声だった。
「話されたら困るんじゃないのか」
別の男が聞いた。
「話せる相手を選べるほど、残っていない」
女はそう言った。
「それに、急がせた方がいい。父親なら動く」
馬車が動き出した。
車輪が石を踏む。ごとり、と体が跳ねる。ローワンは荷台の床に肩を押しつけ、手首を胸へ寄せた。
オスカー。
最後に見た時、まだ小さかった。
泣くのをこらえる時、唇をぎゅっと噛む癖があった。ミラがそれを見つけると、叱らずに水を持ってきた。エマはその横で、何があったのか聞き出そうとして、余計にオスカーを黙らせていた。
あの家の小さな台所。椅子の脚に当たる杖の音。ミラが結んでいた紐。
ローワンは目隠しの下で目を閉じた。
閉じても、暗さは変わらない。
馬車は何度か止まり、また動いた。
町へ入ったのか、遠くで人の声が増えた。荷車のきしみ。店じまいの声。犬の吠える声。鍋の蓋を置く音。どれも、長く聞いていなかった音だった。
普通の町の音だった。
その普通さが、ローワンには苦しかった。
外は続いていた。
自分が檻の中にいた間も、朝は来て、店は開き、子どもは道を走り、誰かがパンを焼いていた。
エマとオスカーも、その中で生きていた。
自分なしで。
馬車が急に止まった。扉が開く。
外の空気が入ってきた。
乾いた土と、古い木箱と、鉄錆の匂いがした。荷下ろし場だろうか。人通りの多い場所ではない。声は遠い。
腕を掴まれ、ローワンは荷台の端まで引かれた。
「降りろ」
返事をする前に、体が押された。地面が近づく感覚だけがあった。
肩から落ちた。土と小石が頬に当たる。痛みが遅れて来る。息が抜け、しばらく音が遠のいた。
誰かが近づき、手首の縄だけを切った。
刃が肌をかすめた。
目隠しは外されない。
ローワンは土の上で、手を動かした。指が震えて、布の結び目に届かない。
馬車の脇で、女の声がした。
「行き先は分かっているな」
ローワンは顔を上げた。
目隠しの布越しに、光が少しだけ白く滲んでいる。
「オスカーは」
声になったのか、自分でも分からなかった。
返事はなかった。
代わりに、馬車の扉が閉まる音がした。
車輪が動き出す。
「待て」
ローワンは地面に手をつき、立とうとした。
膝が崩れた。
馬車の音は遠ざかっていく。
「待て……!」
声は届かなかった。
残ったのは、土に落ちた自分の息と、手首に残る縄の痛みだけだった。
ローワンは、震える指で目隠しを外した。
夕方の光が、目を刺した。眩しすぎて、最初は何も見えなかった。
何度か瞬きをする。涙が出た。悲しいからではない。光に目が慣れていないだけだった。
荷下ろし場の端に、古い木箱が積まれている。破れた麻袋。錆びた鎖。荷札の切れ端。少し離れたところに、町へ続く道があった。
檻の外だった。
けれど、自由ではなかった。ローワンは、壁に手をついて立ち上がった。
足が、自分のものではないようだった。一歩進むたびに、足裏から骨へ痛みが上がる。息を吸うと胸の奥が鳴った。
それでも、歩いた。行き先は分かっている。
家。
エマとオスカーの家。
本当にそこへ向かっていいのか、考える余裕はなかった。
会えば、エマは自分を見るだろう。
何年も帰らなかった父。
弟を守ることもできず、今さら傷だらけで現れた男。
許されるはずがない。
許してもらうために行くのではない。
オスカーが危ない。その一つだけで、ローワンは足を前に出した。
市場裏へ出る頃には、空はさらに暗くなっていた。
店じまいの声が遠くで交じる。魚を洗った水の匂い。焦げた油の匂い。干した草束の匂い。人の暮らしの匂いが、胸の奥に刺さる。
ローワンは壁沿いに歩いた。
誰かに見られている気がした。
実際、見られていただろう。
痩せた男が、傷だらけで、片手を壁につきながら歩いている。普通ではない。けれど、町の人間は、普通でないものを見ても、すぐには踏み込まない。
一度目は見る。二度目は目を逸らす。三度目で、ようやく誰かが声をかける。
ローワンは、三度目までもたなかった。
市場裏の角を曲がったところで、足が止まった。
目の前の道が、揺れた。
石畳が浮いたように見え、壁が遠ざかる。手を伸ばしたが、届かなかった。
膝が落ちる。次に頬が石に当たった。
冷たい。
檻の床とは違う冷たさだった。
「おい」
誰かの声がした。
「大丈夫か」
ローワンは答えようとした。
オスカー、と言いたかった。エマ、とも。
口が動いただけだった。
足音が近づいてくる。
「ひどいな。喧嘩じゃないぞ、これは」
「マルタのところへ運べ。近い」
「誰だ、この人」
「知らん。でも息はある」
腕を持ち上げられた。痛みで意識が浮いた。
行かなければならない。
家へ。
オスカーのところへ。
けれど、体はもう言うことを聞かなかった。
誰かが肩を貸し、誰かが足元を支えた。
町の音が遠くなった。薬草の匂いがした。酒精の匂いも。
扉が開く音がして、女の声が飛んだ。
「寝台を空けな。そこじゃない、奥だよ。血が落ちる前に布を敷きな!」
マルタ・リードの声だった。
ローワンは、半分だけ目を開けた。
白い天井ではない。木の梁。棚。瓶。布。現場の匂い。
「誰だい、これは」
マルタの声が近づく。
誰かが答えた。
「市場裏で倒れてた。名前は分からない」
「名前より息だ。そこを押さえな。あんたは水。あんたは表へ出て、余計な人間を入れるんじゃないよ」
手が、首筋に触れた。脈を見ている。
次に、まぶたを開かれた。
「聞こえるかい」
ローワンは、マルタを見た。
顔はぼやけていた。けれど、その目は見えた。
人を物として見ない目だった。
「……オスカー」
声がこぼれた。
マルタの手が止まった。
「何だって」
ローワンは息を吸おうとした。胸が軋む。
「オスカー……ウォーカー……」
マルタの顔が変わった。
ほんの一瞬だった。
すぐに治療師の顔へ戻る。だが、その一瞬を、ローワンは見た。
「エマは」
ローワンは手を伸ばした。
マルタの袖を掴んだつもりだった。実際には、指先が布に触れただけだった。
「エマは、どこに……」
「……あんた」
マルタの声が低くなった。
「ウォーカーの家の人間かい」
ローワンは答えようとした。
父だ、と。
そう言っていいのか分からなかった。
父なら、なぜいなかった。
父なら、なぜ守らなかった。
父なら、なぜ今なのか。
その問いが、声になる前に喉を塞いだ。
「オスカーが」
ローワンは、それだけ言った。
「深い場所へ……」
マルタの目が鋭くなった。
「誰に聞いた」
ローワンは首を振った。
違う。
説明している時間がない。
「行かせたら、だめだ」
マルタはローワンの肩を押さえた。
「動くんじゃない。傷が開く」
「行かないと」
「その足でどこへ行く気だい」
「家へ」
ローワンはマルタを見た。
「エマに……知らせないと」
マルタは黙った。
その沈黙の中で、薬瓶の小さな音だけがした。
ローワンの息が荒くなる。
「オスカーが、ダンジョンへ行く。白い……」
言葉が途切れた。
ここで言っていいのか分からなかった。
治療所の扉の外に、人の気配がある。運んできた者たちが残っているのかもしれない。通りがかりが覗いているのかもしれない。
マルタは、それを察したのかもしれなかった。
「全員、外へ」
鋭い声だった。
「聞き物じゃないよ。運んでくれた礼はあとで言う。今は出な」
戸口にいた人影が動いた。
扉が閉まる。
マルタはローワンの上に清潔な布をかけ、低い声で言った。
「名前」
ローワンは目を閉じた。
逃げられない。
ここで名乗らなければ、エマに届かない。
「ローワン」
マルタの呼吸が、ほんの少し止まった。
「ローワン・ウォーカー」
部屋の空気が重くなった。
マルタは、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに言った。
「……生きてたのかい」
その声には、責めも、安堵も、驚きもあった。
どれか一つではなかった。
ローワンは答えなかった。
生きていた。
ただ、それだけだった。
マルタはすぐに立ち上がった。
「傷は塞ぐ。だが、ここで全部は聞かない」
棚から布を取り、酒精を開ける。手は速い。迷いがない。
「オスカーが危ないんだね」
ローワンは頷いた。
「エマは知ってるのかい」
ローワンは首を振った。
「たぶん……まだ」
マルタは短く舌打ちした。
「最悪だね」
その言い方は荒かった。
けれど、ローワンには少しだけ救いだった。
この人は、分かっていなくても、危険だと分かる。
分からないことを、分かったふりで流さない。
「白鹿へ行く」
マルタは言った。
ローワンは起き上がろうとした。
「私も」
「寝てな」
「行かないと」
「その体で走ったら、白鹿に着く前に死ぬよ」
「死んでも」
「死ぬなら、知らせてから死にな」
マルタはローワンの胸を押さえた。
強い手だった。
「ここで倒れられたら、エマに何も届かない。分かるね」
ローワンは歯を食いしばった。
分かる。分かってしまう。だから、苦しかった。
マルタは戸口へ向かいかけ、途中で振り返った。
「動くんじゃないよ」
ローワンは答えなかった。
マルタは目を細めた。
「ローワン・ウォーカー」
名前を呼ばれ、ローワンは顔を上げた。
「今さら父親面をするな、とは言わない。そんなことはエマが言う」
ローワンの胸が、鈍く痛んだ。
マルタは続けた。
「でも、今ここで倒れて終わるのは許さない。あの子に怒られるところまで、生きて行きな」
それだけ言うと、マルタは扉を開けた。
外の冷たい空気が入ってくる。
「フィンの店が近い。走れる者を捕まえて、白鹿に先触れを出す。私は直接行く」
独り言のように言い、マルタは外へ出た。
扉が閉まる。
治療所に、ローワンだけが残された。
棚の向こうで小さな火が揺れている。薬草の匂いがある。布がある。水がある。
檻ではない。
けれど、体は動かない。
ローワンは寝台の上で、天井を見た。
ミラ。
声には出さなかった。
出してしまえば、また何かが壊れる気がした。
オスカー。
今度は、唇だけが動いた。
マルタの足音は、もう遠い。
白鹿へ向かっている。
間に合うかどうかは分からない。
その言葉に耐えられず、ローワンは寝台の端を握った。
指に力が入らない。それでも、握った。
遠くで、マルタの怒鳴る声が聞こえた気がした。
誰かを呼んでいる。白鹿へ走れ、と。
その声は町の音に混じり、夕方の道へ消えていった。
ローワンは、寝台の上で、動かない足を見下ろした。
檻の外に出された。
けれど、まだどこへも届いていなかった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




