第49話 ガイ過去編 届かない
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
ガイ・ラザフォード 白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
グレン・ヘイル 四年前当時、白鹿のギルド所属 隊長の一人 ダンジョンで消息を絶つ
リース・ヘイル グレンの一人娘 白鹿のギルドへ恨みを抱く
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
オスカーの姿が消え、エマは町を探し回る。市場の裏手で、彼がロイたちに絡まれていたことを知り、細道には潰れた豆、切れた袋の紐、杖に巻かれていた革片が落ちていた。エマはそこで初めて、昨夜のオスカーの袖口の汚れや、肘をかばう仕草、少ない買い物袋を思い出す。すぐそばにいたのに、自分は何も見ていなかった。家へ戻ってもオスカーはおらず、残っていたのは二人分の椅子と、届かなかった謝罪だけだった。
四年前、ガイ・ラザフォードは深層にいた。
ダンジョンを、ただの穴だと思ったことは一度もない。
穴なら、奥へ進めば深くなり、戻れば浅くなる。壁は壁で、道は道だ。人が迷うのは、暗いからで、似た通路が多いからで、地図の書き方が甘いからだ。
だが、ここはそういう場所ではなかった。
昨日までなかった扉が、今日は石壁に口を開けている。水路だと思って渡った場所が、帰りには礼拝堂の床になっている。誰が建てたのかも分からない柱が並び、古い館の廊下のような道が、崩れた橋の先へ続く。
人が置いてきたものを、ダンジョンは拾う。
欲、恐れ、祈り、後悔。
そういうものを吸い、石にし、水にし、骨の音に変える。形に意味があるのか、意味があるように見せているだけなのかは分からない。けれど、分からないからといって立ち止まる者から消える。
深層では特にそうだった。
ガイは濡れた石段を上がりながら、肩越しに後ろを見た。薄い水の膜が床を覆い、灯りの端で黒く揺れている。さっきまで通ってきたはずの水路は、もうまっすぐではない。奥の暗がりに、細い窓のような穴が三つ並んでいた。
行きには、あんなものはなかった。
「歓迎の仕方が荒いな」
ガイは小さく言った。
返事はない。
当たり前だ。
返事があったら、それはそれで困る。
腰の灯りを少し上げる。火は小さい。大きくすれば遠くから見られる。小さすぎれば足元を見落とす。深層で灯りを持つというのは、暗がりと交渉するようなものだった。
右の壁には、爪痕があった。
新しい。
裂牙犬ほど浅くない。黒鉄トカゲほど幅がない。何かが、硬い爪で石を引っかいた跡だ。削られた石粉がまだ湿っている。
ガイは触れなかった。
触らなくても分かることに手を使うな。
若い頃に何度も言われた言葉だった。言った男は、もう白鹿にはいない。死んだのか、移ったのか、ただ嫌になったのか。そういう人間を、ガイはいちいち数えなくなっていた。
遠くで、何かが鳴った。
石が落ちる音だった。
一度、大きく。
それから、遅れて細かな音が続く。
ガイは足を止めた。
崩落か。
深層では珍しくない。道は勝手に痩せる。支えのない天井は落ちる。何も触っていなくても、通っただけで機嫌を損ねたように石が割れることもある。
それでも、その音には少しだけ違う響きが混じっていた。
人の声のようなもの。
そう聞こえた気がしただけかもしれない。
ガイは灯りを下げ、耳を澄ませた。
水の音。
石の奥を何かが擦る音。
遠くで骨が崩れるような乾いた響き。
もう一度、声は来なかった。
ガイは奥の暗がりを見た。
行くか。
そう考えた時、左手の柱の陰から別の音がした。
低く、喉に引っかかったような呻き声だった。
今度は、聞き間違いではない。
ガイの足は、遠くの崩落音とは違う方へ向いた。
柱の向こうは、古い回廊になっていた。天井は低く、半分崩れている。床には割れた石板が重なり、ところどころに水が溜まっている。誰かが作った廊下なのか、ダンジョンが人の記憶の形だけ借りたのかは分からない。
奥に、人が倒れていた。
男だった。
三十を少し過ぎたくらいか。白鹿ではない。肩章の形が違う。革鎧の胸元は裂け、右足が不自然な向きに曲がっている。左手はまだ短剣を握っていたが、刃先は床を向いていた。
生きている。
ガイは近づきすぎない距離で膝をついた。
「白鹿のガイ・ラザフォードだ。聞こえるか」
男のまぶたが動いた。
声は出ない。
「返事はいらない。瞬きだけでいい。聞こえてるなら一回」
男は、一度だけ目を閉じた。
「よし」
ガイは周囲を見た。
血の匂いがある。
足元には引きずった跡。男が自分でここまで這ったのか、何かに運ばれかけて落とされたのか。水溜まりの縁に赤が薄く広がっている。量は少なくない。
それ以上にまずいのは、静けさだった。
血があるのに、まだ何も来ていない。
来ていないのではない。
見ている。
ガイは腰の小袋から布を出した。男の足に触れる前に、顔を見る。
「痛むぞ」
男の口元がかすかに動いた。笑ったのか、歯を食いしばったのかは分からない。
骨は折れていた。足首ではない。膝の下、脛のあたり。曲がるはずのない場所が曲がっている。出血はあるが、噴いてはいない。問題は、折れた骨と、腹の下に広がる赤だった。
ガイは男の手を短剣から外そうとして、やめた。
握らせておく。
今、奪えば、男の目から最後の支えが消える。
男は声を出そうとした。喉が鳴るだけだった。
「喋るな。あとで聞く」
ガイは布を傷に当て、圧をかけた。男の体が大きく跳ねる。
「悪いな。優しく押さえると死ぬ」
言いながら、ガイは耳を澄ませていた。
水の奥で、かり、と音がした。
石を噛む音。
石喰い虫か。
一匹なら面倒。群れなら悪い冗談だ。
火には弱い。けれど、ここで大きく火を使えば、別のものも寄る。深層は、こちらが嫌がる選択肢ばかりを丁寧に並べてくる。
ガイは男の腹に布を重ね、体を起こした。男が呻く。
「ここで寝てると、もっと嫌な奴に起こされる」
男の目が細くなった。痛みで焦点が合っていない。それでも、聞こえてはいる。
ガイは足を固定した。
きれいな処置ではない。長く歩かせるための処置でもない。担いで戻るまで、折れた場所が余計に壊れないようにするだけだ。
遠くで、また石が鳴った。
さっきの崩落とは違う方角だった。
短く、二度。
合図のようにも聞こえた。
ガイは顔を上げた。
暗がりの奥、崩れた礼拝堂の方へ続く道がある。行きには通らなかった道だ。天井の隙間から白い光のようなものが薄く漏れている。月明かりではない。ダンジョンの中に、そんなものはない。
人か。
魔物か。
それとも、ダンジョンがそう見せているだけか。
肩の下で、男の呼吸が浅くなった。
ガイは視線を戻した。
男の手が、床の石を掴もうとして滑っている。血で濡れた指先が、何も掴めずに震えていた。
ガイは男の短剣を握っている手に、自分の指を一瞬だけ添えた。
それから、男を担ぎ上げた。
重い。
意識のある人間は、意識のない人間より運びにくい。痛みで体がこわばる。逃げようとする力と、しがみつこうとする力が、どちらも邪魔になる。
男の喉から、ひゅっと空気が漏れた。
ガイは来た道へ戻らなかった。
来た道は、もう来た時の道ではない。水路の向こうに見えていた三つの細い窓は消え、代わりに壁一面へ古い棚の跡が浮かび上がっている。書庫か、倉庫か。棚には何もない。何もないのに、紙が腐ったような匂いだけがする。
背後で、かり、かり、と音が増えた。
石喰い虫が動き出した。血に寄ったのではない。ガイの足音で崩れた石の粉に寄っている。どちらにせよ、歓迎はされていない。
ガイは腰から小さな油袋を一つ外した。
まだ使わない。
石喰い虫は火に弱いが、火だけを見せれば散る。油を撒いて燃やせば効く。だが、燃えるものが多すぎる場所でやれば、こちらの退路も焼く。
ガイは男を担いだまま、半分崩れたアーチの下を抜けた。
右の水路から、骨兵が一体出てきた。
古い盾を持っている。盾と言っても、真ん中に穴が空き、縁は欠けている。剣は錆びていた。それでも、狭い道で前に立たれると邪魔だった。
ガイは男を下ろさなかった。
足を止めず、腰の短剣を抜く。
骨兵が剣を振り上げる。動きは遅い。だが、担いだ男の重さがガイの肩を下へ引く。普通に避ければ、男の足が壁に当たる。
ガイは半歩だけ踏み込み、骨兵の盾を蹴った。
盾がずれた。
剣が落ちてくる前に、短剣の柄で肘の関節を打つ。骨が外れ、錆びた剣が石床に落ちた。次の動きで膝を蹴り抜く。骨兵は崩れた。
倒したとは言えない。
散らしただけだ。それで十分だった。
骨が床に散らばる音に、背後のかりかりという音が近づく。
ガイは油袋を床へ落とし、踵で踏み潰した。油が石の隙間へ広がる。腰の灯りから火を落とす。
小さな火が、油を舐めた。
一気に燃え上がるほどではない。だが、石喰い虫が嫌うには十分だった。壁の奥で、細い脚が一斉に逃げる音がした。
男が肩の上で呻いた。
煙が低く流れる。ガイは身を沈め、火の縁を抜けた。担いだ男の体がずれ、腹に当てた布が濡れた感触を増す。
遠くで、また音がした。今度は、はっきり聞こえた。
誰かが叫んだような声。言葉にはならない。
だが、人の声だった。
ガイは足を止めた。
火の向こう、崩れた回廊の先に、別の道が開いている。薄い灯りが揺れ、そこから風が来た。冷たい風だった。血と、湿った土と、何か焦げたような匂いを含んでいる。
行けるか。男を担いだまま。
行けば、戻れるか。
ガイは肩の上の男を支え直した。男の呼吸は、さっきより浅い。腹に当てた布は温かく、湿っていた。足を固定した紐も、少し緩みかけている。
もう一人いるかもしれない。
だが、ここにいる一人は確実に死にかけている。
ガイは、奥の暗がりを見た。
長くは見なかった。
長く見れば、足がそちらへ向く。
男の体がずり落ちた。ガイは膝を曲げ、担ぎ直す。血が肩に染みた。男の指が、ガイの背中の革紐を掴む。
細い力だった。
けれど、まだ生きている力だった。
ガイは遠い声に背を向けた。
そこから先は、道ではなかった。
半分水に沈んだ廊下を渡り、崩れた階段を膝で押し上げるように上がった。途中で、月角兎の角だけが落ちている場所を見た。胴はない。何かが食ったのだろう。素材として持ち帰れば金になる。
ガイは、その価値を知っていた。
角ひとつで、一週間の食費がつながる。宿代を払える。次の潜りに残れる者もいる。
それでも、今日は拾わない。
拾えば、肩の男が死ぬ。
水路の端で、裂牙犬が一匹、こちらを見ていた。鼻先が濡れ、裂けた牙の間から息が漏れている。群れの斥候だ。吠えられれば、奥から何匹か来る。
ガイは男を下ろさず、腰の鞘を鳴らした。
ちり、と乾いた音。
裂牙犬の耳が動く。
もう一度、わざと鞘を鳴らす。小鬼の真似る合図より低く、金具が擦れるだけの音だ。裂牙犬は音ではなく、動きに反応する。
ガイは左手で小石を拾い、右の暗がりへ投げた。
石が水を叩く。裂牙犬の視線が一瞬そちらへ流れた。
その間に、ガイは前へ出た。
走らない。走れば追う。
歩く。目を逸らさない。
裂牙犬は低く唸った。ガイは短剣を抜かず、ただ間合いだけを詰めた。相手が飛べば届く距離。こちらも届く距離。
先に動いたのは裂牙犬だった。
だが、飛びかかってはこなかった。横へ跳ね、暗がりへ消える。
仲間を呼びに行く。
ガイは歩幅を少しだけ広げた。
監視所へ続く上層の縁は、まだ遠い。
それでも、空気が変わり始めていた。深層の底にある、肺の奥へ沈むような冷たさが少し薄れる。代わりに、鉄と煙と、人の出入りした道の匂いが混じる。
人の匂いだ。
良い匂いではない。
だが、帰り道の匂いだった。
男が肩の上で小さく動いた。
「起きてるか」
瞬きはない。
「寝るなら地上で寝ろ」
男の指が、ほんのわずかに動いた。
ガイは息を吐いた。
最後の階段は、石ではなかった。
木の階段だった。
あるはずのない木の階段。湿った地下に置かれているのに腐っていない。手すりには古い布が結ばれている。誰かが道しるべにしたのか、ダンジョンがそう見せているのかは分からない。
ガイはその布を見た。
赤くない。血ではない。ただの古い布だ。
それでも、なぜか胸の奥に引っかかった。
遠くの声が、また聞こえた気がした。
今度は、もうずっと遠かった。
ガイは足を止めなかった。
地上に出た時、空は夕方に傾いていた。
監視所の前には、いつもより多くの人間がいた。戻ってきた隊、これから入ろうとして止められている隊、帳面を抱えた監視役、白鹿の腕章をつけた探索者。誰かが怒鳴っている。誰かが走っている。
ガイが男を担いだまま石段を上がると、監視所の男が顔色を変えた。
「負傷者だ!」
「寝かせる場所を空けろ」
「所属は」
「後だ」
ガイは短く言った。
「腹と足。まだ息はある」
担いでいた男を板の上へ下ろす。下ろした瞬間、肩が軽くなった。軽くなったのに、背中に重さだけが残った。
治療師が布を切る。別の探索者が水を持ってくる。監視役が帳面を開いたまま、書く手を止めていた。
「ガイ」
白鹿の男が近づいてきた。
若い。顔に汗が浮いている。ガイの知っている顔だった。名前はすぐに出てこない。深層帰りの頭は、必要なもの以外を後回しにする。
「何だ」
「グレン隊が戻っていない」
その名を聞いて、ガイは少しだけ眉を動かした。
「どのグレンだ」
「グレン・ヘイル。白鹿の隊長だ。救援が出る」
ガイは監視所の奥を見た。
何人かが装備を整えている。縄、担架、灯り、予備の水。顔つきは悪い。急いでいるが、無茶に走る顔ではない。走れば死ぬ場所へ向かう人間の顔だった。
「場所は」
「道が変わったらしい。戻ってきた若い前衛が、負傷者を担いで知らせた。だが、途中で倒れた。今、聞き取りも途切れている」
ガイは黙った。
遠くの声。崩落音。薄い白い灯りの道。
肩に残る、さっきの男の重さ。
白鹿の男は続けた。
「お前、まだ動けるか」
ガイは自分の手を見た。
血がついている。自分の血ではない。
肩は重い。足は動く。息もある。だが、深層から一人を担いで戻った後の体は、見た目ほど使い物にならない。
今戻れば、迷う。それが分かった。
体力の話だけではない。
道がもう違う。
深層は、ガイが背を向けた場所を、そのまま残して待っているような優しい場所ではない。
「道案内にはならない」
ガイは言った。
若い男の顔が歪んだ。
責めているのではない。それでも、責められた方がましな顔だった。
ガイは監視所の外へ目を向けた。救援隊が出る。灯りが一つ、また一つと上がる。誰かがグレンの名を呼んだ。別の誰かが、戻ってきた前衛の様子を聞いている。
その前衛の名は、ガイの耳には届かなかった。
板の上の男が、かすかに呻いた。
治療師が声をかける。
「戻ってきたよ。もう少しだ。目を閉じるな」
ガイはそちらを見た。
自分が連れて帰った男は、まだ生きていた。
それだけだった。それだけしか、今のガイには残せなかった。
白鹿の救援隊が、夕方の光の中へ走っていく。
ガイはその背中を見送った。笑いも、軽口も出なかった。
ただ、肩に染みた血が冷えていくのを感じていた。
四年後。
白鹿の館の廊下に、夜の匂いが残っていた。
保管庫前の破損は片づけられた。油の染みも、割れた瓶の破片も、血の跡も、見えるところからは消えている。だが、壁の爪痕だけはまだ残っていた。深く削れた石は、布で拭いて消えるものではない。
ガイはその爪痕の前で足を止めた。
廊下の向こうでは、誰かが低い声で話している。
リースの処分。
グレン・ヘイルの名。
エマの母のこと。
断片だけが、閉じた扉の隙間から漏れてくる。
ガイは聞くつもりで立っていたわけではない。だが、耳に入ったものを、聞かなかったことにはできなかった。
グレン・ヘイル。
四年前、監視所で聞いた名だった。
あの日、自分は一人を連れて帰った。
知らない男だった。白鹿でもなかった。酒場で名乗れと言ったのに、その後、本当に名乗りに来たかどうかも覚えていない。生きたのか、長く歩けるようになったのか、別のギルドへ戻ったのか。
覚えていない。
覚えていないことが、少しだけ胸に刺さった。
その時、背後から足音がした。
ノルだった。
「ここにいたのか」
「壁の傷を見ていた」
ガイは爪痕を顎で示した。
「なかなか派手だ。修繕費を請求するなら、相手の住所を聞いておくべきだったな」
ノルは笑わなかった。
「今、その冗談は重い」
「なら、少し軽くしておいてくれ。俺一人じゃ持ち上がらない」
「どうした」
ノルの声が変わった。
ガイは壁の爪痕から目を離した。
「四年前のグレン隊の日だ」
ノルの表情が変わった。
「何か知っているのか」
「知らない」
ガイはすぐに答えた。
「知っていたら、もっと前に言っている」
ノルは黙った。
ガイは廊下の奥を見た。灯りの届かない場所に、昔の深層の水音が重なる。白い光の道。遠くの声。肩に担いだ男の重さ。
「同じ日に、俺も深層にいた。別の端だ。別の負傷者を拾って帰った」
「グレン隊と会ったのか」
「会っていない」
ガイは首を振った。
「エマとも、グレンとも会っていない。何が起きていたのかも知らなかった。戻ってから、名前だけ聞いた」
ノルは何も言わなかった。
責める言葉を探しているのではない。受け取る場所を探しているような沈黙だった。
ガイは短く息を吐いた。
「遠くで、声を聞いた気がした」
ノルの目がわずかに動く。
「気がした、だけだ。深層ではよくある。風が泣く。水が喋る。骨が人の声に聞こえる。だから、本当に人だったかは分からない」
「それで」
「別の呻き声が聞こえた。近くにいた。生きていた。そいつを担いで戻った」
ノルは静かに聞いていた。
ガイは、壁に背を預けなかった。預けたら、体があの日の疲れを思い出しそうだった。
「それだけだ」
廊下の奥で、扉が閉まる音がした。
誰かが低く、エマの名を呼んだ。
ガイはそちらを見た。
監視所で聞き流した名前が、いまになって形を持って戻ってくる。
グレン・ヘイル。
白鹿に戻ってきた若い前衛。
父を待っていた子ども。
それぞれ別々に聞いたはずのものが、同じ日の底でつながっていた。
ガイは目を伏せなかった。
伏せたところで、あの日の暗がりが消えるわけではない。
「俺は一人を連れて帰った」
ガイは言った。
「それは間違いじゃない。今でも、あの場に戻ったら同じことをする」
ノルは低く答えた。
「ああ」
「だが、別の場所へは届かなかった」
ノルは何も言わなかった。
慰めなかった。それでよかった。
ガイは壁の爪痕をもう一度見た。新しい傷だった。四年前のものではない。それでも、白鹿の館に残った傷は、昔のダンジョンの暗がりとどこか似ていた。
消したつもりでも、石の奥に残る。
「エマには言うな」
ガイは言った。
ノルは少しだけ眉を寄せる。
「なぜ」
「今のあいつに、余計な暗がりを渡すな」
ガイは廊下の奥を見た。
「そのうち、必要なら俺が話す。今は違う」
ノルはしばらく黙っていた。
それから、短く頷いた。
「分かった」
「素直だな。熱でもあるか」
「言わせるな」
ようやく、少しだけいつもの形に戻った。
ガイは片手を上げ、廊下を歩き出した。背中にノルの視線を感じる。呼び止められるかと思ったが、声は来なかった。
白鹿の館は、夜の中で静かに息をしている。
誰かが荷を運び、誰かが帳面を閉じ、誰かが傷の手当てを受けている。明日になれば、また探索隊が門を出る。ダンジョンへ向かう者のために、道具が整えられ、食料が詰められ、記録が書かれる。
誰かが帰らなくても、朝は来る。
それを憎む者がいる。抱え込む者がいる。知らないまま通り過ぎた者もいる。
廊下の角を曲がる前に、ガイは一度だけ足を止めた。
あの日、深層の別の端で背を向けた暗がりが、いま白鹿の館まで戻ってきている。
そんな気がした。
今度は、どこへも届かなかったでは済まない。
ガイは何も言わず、灯りの少ない廊下を進んだ。
前書きの設定情報を修正しました。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




