第48話 見えていなかったもの
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
オスカー・ウォーカー エマの弟 生まれつき足がわるい。
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
サイモンと言葉を交わしたあと、オスカーは遠回りをして家へ戻った。待っていたエマは、謝ろうとするものの、言うべき言葉をうまく形にできない。オスカーもまた、怒りや寂しさ、自分が重荷だという思いを抱えたまま、素直に話せなかった。二人は同じ家に戻ったのに、互いの傷へ届く言葉を持てないまま、夜を越える。翌日、エマは白鹿の館へ向かい、ケインから父ローワンと白骸晶に関わる話を聞く。ミラの死の日に消えた地図、ローワンが触れていた深層の記録、白い晶石の気配。さらに祈り紐の違和感も重なり、エマの周りで、家族と白骸晶をめぐる影が濃くなっていく。白魔導士の離れでは、リディア、ニナ、ミレイがエマを迎えるが、少し緩んだ空気の奥にも、すれ違ったままのオスカーのことが残っていた。
オスカーは東通りの端を歩いていた。
買い物袋の中で、豆が小さく鳴った。乾いた香草は、袋の口から少しだけ先を出している。根菜は安く分けてもらった端ばかりだったが、煮込めば十分使える。
昨日よりも、杖を持つ手が離せなかった。
握ると、巻き直した革の端が指に触れる。少し厚い。元の巻き方より不格好だ。けれど、自分で直した。
自分のもの。
その言葉が、まだ胸の中に残っていた。
考えないようにしても、勝手に戻ってくる。
オスカーは買い物袋を持ち直した。袋は重くない。けれど、今日はやけに腕にくる。昨日打った肘がまだ熱い。エマに見せろと言われた時の顔を思い出して、胸の奥がざらついた。
見せたら、どうなっただろう。
エマはきっと怒る。
自分にではない。ロイたちに。白鹿に。町に。何もできなかった大人たちに。
それを見たい気持ちが、ないわけではなかった。
でも、それより怖かった。
エマがまた自分のために走ることが。自分のために怒り、自分のために傷つき、自分のために何かを背負うことが。
細い路地へ入る前に、オスカーは足を止めた。
店の軒先に置かれた空箱の横で、ロイが壁にもたれていた。こちらを待っていたのか、たまたまそこにいたのか、顔だけでは分からない。
分からないふりをしている顔だった。
オスカーは買い物袋を持ち直した。袋の中で、豆が小さく鳴る。
ロイの視線がそこへ落ちた。
「今日は少ないな」
オスカーは答えなかった。
横を抜けようとすると、ロイが半歩だけ動いた。通れないほどではない。けれど、杖をつく足には、その半歩が邪魔だった。
「通る」
「通ればいいだろ」
ロイは肩をすくめた。
「俺、止めてないし」
後ろで誰かが笑った。声は小さい。だが、人数がいることだけは分かった。
オスカーはそちらを見なかった。見れば、足が止まる。数えれば、戻れなくなる。
「どいて」
言ってから、失敗したと思った。
ロイの口元が少し上がる。
「さっき、通るって言ったよな」
オスカーは黙った。
「通ればいいじゃん」
ロイは空箱の角に靴をかけたまま、道をほんの少しだけ空けた。
普通の人間なら通れる幅だった。
杖をつく人間には、足りない幅だった。
オスカーは袋を胸に寄せた。
「……急いでる」
「姉ちゃんの飯?」
ロイが聞いた。
「今日も作って待ってるのか。偉いな」
その言い方が嫌だった。
褒めているようで、少しも褒めていない。家で待つことも、買い物をすることも、料理をすることも、全部低い場所へ置かれている気がした。
オスカーは杖を握り直した。
「関係ない」
「あるだろ」
ロイは袋を指で軽く突いた。
「それ、姉ちゃんの分なんだから」
オスカーは反射的に袋を引いた。
その動きが、相手には面白かったらしい。後ろでまた笑いが漏れた。
ロイは笑わなかった。
ただ、袋を見ていた。
「そんなに大事かよ」
「僕が買った」
「金は?」
オスカーの喉が詰まった。
ロイはそこを見逃さなかった。
「姉ちゃんの金だろ」
オスカーは袋の紐を握った。
「僕が選んだ。僕が持って帰る。僕が作る」
声が震えた。
震えたことが、悔しかった。
「だから、僕のだ」
ロイの顔から、少しだけ笑みが消えた。
その瞬間、横から手が伸びた。
袋の紐を掴まれる。オスカーは引き戻そうとした。肘に痛みが走り、力が抜けかける。それでも離さなかった。
豆が袋の口からこぼれた。
石畳に散る。
乾いた音が、足元で跳ねた。
「返せ」
オスカーは低く言った。
「まだ取ってないだろ」
「離せ」
「そんなに大事なら、しっかり持ってろよ」
ロイも手を伸ばした。
袋が引かれる。オスカーは杖をついて踏ん張った。悪い足に力が入らない。けれど、手だけは離さなかった。
「しつこいな」
ロイの声が低くなった。
腕を振られた。
袋の紐が切れ、オスカーの体が傾く。杖で支えようとしたが、先が濡れた石を滑った。肘から壁にぶつかり、息が詰まる。
倒れはしなかった。倒れなかっただけだった。
痛みで視界が白くなる。
その間に、誰かの靴が杖の柄を踏んだ。
巻き直したばかりの革が、ぐっとずれた。
「やめろ」
オスカーの声が低くなった。
靴はどいた。けれど、どける時に、革の端が石に引っかかった。
小さく裂ける音がした。
ほんの少しの音だった。
それでも、オスカーにははっきり聞こえた。
自分で巻いたものが、剥がれる音だった。
「何だよ」
ロイが言った。
「そんな顔するほどのことかよ」
オスカーは杖を掴んだ。裂けた革の端が指に触れる。巻き直せばいい。そう思えばいいだけなのに、喉の奥が焼けるように熱かった。
「……そんなに、面白いのかよ」
ロイが眉を寄せた。
「何が」
オスカーは杖を握った。
「僕が、こうやって立ってるのが」
後ろの笑いが止まった。
声は大きくなかった。
だから、逃げ場がなかった。
ロイは一瞬黙った。それから、顔を歪めた。
「そうやって、すぐ被害者みたいな顔をする」
「してない」
「してるだろ。みんな気を遣ってくれるもんな。足が悪いから。エマの弟だから。白鹿の関係者だから」
ロイは、地面に落ちた豆を靴先で転がした。
「俺たちが少し何か言っただけで、こっちが悪者だ」
オスカーは返せなかった。
通りの方から、誰かの視線を感じたのか、後ろの一人が小さく言った。
「もう行こうぜ」
ロイは舌打ちした。
「……もういい。さっさと帰れよ」
袋を投げるように返した。
袋はオスカーの足元に落ちた。中身は半分も残っていない。濡れた香草が石畳に貼りつき、根菜には泥がついていた。
足音が遠ざかる。
最後に残ったロイが、振り返らずに言った。
「姉ちゃんに言えばいいだろ。直してもらえばいい。お前はそれでいいんだから」
オスカーは動けなかった。
杖の柄に巻いた革が、半分剥がれている。昨日、震える手で巻き直した場所だった。自分でやったから不格好だった。けれど、握りやすかった。
自分のものだった。
オスカーは袋を拾おうとした。肘が痛んで、うまく曲がらない。地面に落ちた豆を一粒ずつ拾う気力もなかった。
通りの向こうで、誰かがこちらを見ていた。
見ているだけだった。
オスカーは泥のついた根菜を袋へ押し込み、濡れた香草を拾った。
豆は諦めた。
拾えば拾うほど、背中が丸くなっていく気がした。
杖をつく。
一度。
足を運ぶ。
もう一度。
家へ戻る道は分かっていた。けれど、足はそちらへ向かなかった。
エマは紙の前で、しばらく待った。
買い物に行ってきます。その短い字を何度も読んだ。
少し遅いだけ。店を回っているのかもしれない。昨日のことで顔を合わせにくくて、遠回りしているのかもしれない。
そう思おうとした。けれど、胸の奥で別のものが鳴った。
エマはすぐに外へ出た。
まず豆屋へ行った。
「オスカー?」
店の女は豆を量る手を止めた。
「来たよ。昼前に。少しだけ買っていった」
「そのあと、どっちへ」
「東通りの方じゃないかね」
次に香草を売る店へ行った。
「来ました。乾いたのを少し。いつもより少なかったです」
「少ない?」
「ええ。いつもなら、値段を見ながらでも、最後は必要な分をきちんと選ぶんです。でも今日は、袋に入れたあとも迷っていて……買うものより、別のことを考えているようでした」
エマは礼を言った。
店を離れてから、胸の奥が重くなった。
何を買うか迷っていたのではないのかもしれない。
家へ戻るかどうか。自分に会うかどうか。
昨日の続きを、聞くかどうか。
オスカーは香草の束を前にして、そんなものまで一緒に量っていたのかもしれなかった。
エマは東通りへ向かった。
魚屋の前で、足が止まった。石畳の隙間に、豆が落ちていた。
乾いた豆が踏まれて割れている。濡れた香草が壁際に貼りつき、泥のついた根菜の皮が水路の近くに残っていた。
エマはしゃがんだ。指で豆に触れる。
硬いはずの豆は、半分潰れていた。
「エマさん」
魚屋の男が声をかけた。
エマは顔を上げた。
「オスカー、ここにいましたか」
男はすぐには答えなかった。
その沈黙で、答えの半分は分かった。
「見たんですね」
「……少しな」
「誰が」
男は木箱の縁を掴んだ。
「ロイ・パーカーと、いつもの連中だ。揉めてた。袋を……」
そこまで言って、言葉を濁した。
エマは立ち上がった。
「止めなかったんですか」
男は目を逸らした。
怒鳴りたかった。どうして見ていただけなのか。どうして昨日も、今日も、誰も止めなかったのか。
でも、その言葉は自分にも返ってきた。
昨夜のオスカーの姿が、遅れて胸に戻ってきた。
鍋へ向かう時の袖口。水差しを持つ手。体のすぐ横に置かれた杖。
あれは何だったのか。
そこまで思い至って、エマは声を失った。
けれど、まだ形にはならなかった。
ただ、胸の奥に冷たいものが落ちた。
「いつからですか」
男は答えにくそうに口を開いた。
「俺が見たのは、最近だけだ。前からあったかは知らん」
知らない。
その言葉が、胸の中に鈍く沈んだ。
誰も、ちゃんとは知らない。
エマも、知らなかった。
「さっき、どっちへ行きましたか」
「水路の方へ歩いていったように見えた。だが、はっきりとは」
エマは水路へ向かった。
昼の光の中で見る水路は、夜より浅く見える。けれど、石の縁には泥が残り、ところどころ擦れた跡があった。
小さな豆がひと粒、水に沈みきらず、石の隙間で揺れていた。
こんなものまで残っているのに。
オスカーだけがいない。
市場の裏手では、片づけを終えた店の戸が閉まりかけていた。声をかけても、返ってくるのは曖昧な首振りばかりだった。
古い倉庫通りに入る頃には、息が胸の奥で熱くなっていた。積まれた荷箱の隙間を覗き、扉の陰に目を走らせる。杖の音がした気がして振り返るたび、そこにあるのは風で揺れた縄や、軋む戸板だけだった。
オスカーはいなかった。
途中で、小さな男の子が声をかけてきた。
手には欠けた木の輪を持っている。遊んでいたのだろう。けれど、顔は笑っていなかった。
「オスカー兄ちゃん、袋取られてた」
エマは膝を折るようにして、目線を合わせた。
「どこで」
男の子は細い道を指した。
「そっち。ロイたちがいた。オスカー兄ちゃん、怒ってた」
「そのあと、どこへ行ったか見た?」
男の子は首を横に振った。
「分からない。でも、家の方じゃなかった」
家の方じゃなかった。
エマは礼を言い、指された細道へ入った。
石畳には、潰れた豆が落ちていた。根菜の皮が泥に貼りつき、小さな香草の束が水で黒ずんでいる。
買い物袋の紐が、壁際に引っかかっていた。
エマは拾い上げた。
紐は途中で切れていた。刃物ではない。強く引かれて、擦れて、千切れた跡だった。
その近くに、細い革片が落ちていた。
杖の柄に巻くような、手になじませるための革。
端は新しい。
昨日、見た気がした。
オスカーが杖を握る手元。いつもと違う厚み。いつもより強く握った指。
エマはそこまで見ていた。
見ていたのに、何も言わなかった。
革片には、土がついていた。
エマはそれを握った。
「オスカー」
呼んだ。
返事はなかった。
細道の奥は、三つに分かれていた。
水路へ下りる道。市場の裏手へ抜ける道。古い倉庫へ続く細い石畳。
エマは立ち止まった。
どれも、オスカーが選びそうに見えた。水路は昨日も今日も彼の足跡に近い。市場なら、人に紛れられる。倉庫通りなら、誰にも呼び止められずに歩ける。
迷っている時間はない。
エマは水路へ下りた。泥のついた石段を覗き込み、手すりの影まで見た。流れの音だけが返ってきた。
すぐに引き返す。市場の裏手では、片づけを終えた店の戸が閉まりかけていた。声をかけても、返ってくるのは曖昧な首振りばかりだった。
古い倉庫通りに入る頃には、息が胸の奥で熱くなっていた。積まれた荷箱の隙間を覗き、扉の陰に目を走らせる。杖の音がした気がして振り返るたび、そこにあるのは風で揺れた縄や、軋む戸板だけだった。
オスカーはいなかった。
日が傾き、石畳の影が長く伸び始めても、見つからなかった。
エマは家へ戻った。戻るしかなかった。
もしかしたら、先に帰っているかもしれない。怒っていても、家には戻るかもしれない。昨日だって、帰ってきた。
そう思う以外に、足を動かす理由がなかった。
そう思って扉を開けた。
家の中には、朝の匂いだけが残っていた。
焼き直されないまま固くなったパンと、冷えた鍋。二つ並んだ皿の片方には、誰も手をつけていない。
エマは台所の入口で足を止めた。
オスカーが戻っていれば、まず火を入れるはずだった。鍋の蓋を少しずらし、パンを温め直し、何もなかったような顔で椅子に座っているはずだった。
けれど、椅子は空いたままだった。
台の端に置いた紙も、朝と同じ場所にある。
買い物に行ってきます。
短い字だけが、誰かの帰りを待つみたいに残っていた。
「オスカー」
呼んだ。
返事はない。
エマは台所へ入り、オスカーの椅子に手を置いた。
背もたれに、昨日かけてあった布がそのまま残っている。彼がいつも座る時、杖を立てかける床の傷もある。
そこに、杖はなかった。
エマは握っていた革片を、台の上に置いた。
小さなものだった。杖の柄に巻かれていた、ただの革。けれど、それがここではない場所に落ちていた理由を考えた瞬間、昨夜のオスカーの姿がひとつにつながった。
鍋の火を消しに立った時、袖口に乾いた泥がついていた。水差しを持つ手は、肘を曲げるたびにほんの少し遅れた。買い物の話をした時も、彼は目を逸らした。杖は、いつもの場所ではなく、体のすぐ横に置いていた。
あれは、機嫌が悪かったからではない。
隠していたのだ。
見せれば、また何かを奪われると思っていたのだ。
エマは革片から手を離せなかった。
昨日の自分は、同じ家にいた。鍋の火を消す背中も、水差しを持つ手も、すぐそばにあった。
それなのに、オスカーが何を守ろうとしていたのかだけを見なかった。
「……ごめん」
ようやく出た言葉は、誰にも届かなかった。
外で、杖の音がした気がした。
エマは顔を上げた。
一度。
それきりだった。
急いで扉を開ける。通りには、夕方の薄い風が流れている。荷車の音が遠くで鳴り、誰かが戸を閉める音がした。
杖の音は、もうしなかった。
エマは戸口に立ったまま、暮れていく道を見た。
家の中には、二人分の椅子だけが残っていた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




