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ダンジョンサポーター  作者: Aramaki_mai
第三章 白い封筒
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49/80

第47話 すれ違う

ダンジョンに潜る人たちの話です。

ライト文芸寄りのダークファンタジーです。


▼登場人物

エマ・ウォーカー     主人公です。

オスカー・ウォーカー   エマの弟

オルブライト・ケイン   白鹿のギルド長

ノル・ハーヴェイ     白鹿の探索隊長の一人

ニナ・クラーク      白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間

リディア・グレイス    神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者

ガイ・ラザフォード    白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者

ミレイ・アスター     白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ 


▼主人公について

白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。

元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。

挿絵(By みてみん)

扉が開いた音で、エマは玄関を見た。


火は落としたつもりだった。けれど、鍋の下にはまだ小さな赤が残っていて、台所の壁に淡い揺れを作っていた。


二つある椅子の片方にエマは座り、もう片方はオスカーが出ていった時のままだった。


戻ってきた。


そう思った瞬間、喉の奥に詰まっていたものがほどけた。けれど、立ち上がろうとした足はすぐには動かなかった。体が重い。毒の残りか、傷の痛みか、それとも別のものか、もう分からなかった。


玄関の方で、杖の先が床を叩いた。


一度。


間を置いて、もう一度。


いつもの家の音だった。けれど、今日は遠かった。


台所の入口に立ったオスカーは、上着の襟を片方だけ乱し、靴に乾ききらない泥をつけていた。冷えて白くなった顔の中で、目だけが妙に硬かった。


「……帰ったよ」


それだけ言った。


エマは息を吸った。


言うべきことは決めていたはずだった。


ごめん。さっきは違う。家にいろと言いたかったんじゃない。何もできないなんて思っていない。あなたまで失いたくなかっただけ。


どの言葉も、口に出す前に形を失った。


「うん」


出てきたのは、それだけだった。


オスカーは眉を動かした。怒ったのか、あきれたのか、それとも待っていた言葉が来なかったのか、エマには分からなかった。


「鍋、火が残ってる」


「……消す」


エマは椅子に手をかけた。その音に、オスカーの視線が動く。


「座ってて」


反射のような声だった。


エマの足が止まる。


いつもなら、そこで言い返していた。手伝う。これくらいできる。あんたこそ座ってて。そんなやり取りになったかもしれない。


けれど今は、何を言っても、違う場所へ刺さりそうだった。


オスカーは台所へ入り、鍋の火を消した。動きは慣れている。けれど、杖を置く位置がいつもと違った。右手を伸ばしやすい場所ではなく、体のすぐ横に寄せている。


離したくないのだと思った。


そう思ってから、エマは体の奥が冷えるのを感じた。


「オスカー」


呼ぶと、オスカーの肩がわずかに揺れた。


「何」


「さっきのこと、話したい」


オスカーは鍋の蓋を置いた。金属が木の台に触れて、乾いた音がした。


「今日は無理」


「でも」


「今日は無理」


二度目は、低かった。


エマは唇を結んだ。


謝るだけなら、今できる。けれど、謝れば許してもらえると思っているみたいになる。謝って、また自分だけ楽になろうとしているみたいに見える。


そう考えると、言葉が喉の奥で止まった。


オスカーは水差しを手に取り、自分の杯に水を注いだ。手首が震えている。寒さのせいだけではない気がした。


「肘、痛いの?」


オスカーの手が止まった。


「別に」


「でも、さっきから」


「ぶつけただけ」


「見せて」


言った瞬間、オスカーの顔が変わった。


怒りではなかった。もっと先にある、固く閉じるような顔だった。


「見せたら、どうするの」


「どうって」


「手当てして、誰にやられたのか聞いて、危ないから外に出るなって言う?」


エマは息を止めた。


「そんなこと」


「言わない?」


オスカーはエマを見た。


「本当に?」


返せなかった。


言わない、と言いたかった。けれど、もし誰かに傷つけられたのなら、黙っていられるはずがない。相手のところへ行く。白鹿にも言う。もう外に出る時は気をつけろと言う。一人で行くなと言う。


たぶん、言う。


それが顔に出たのだろう。オスカーは小さく息を吐いた。


「ほら」


「オスカー」


「痛くない。大丈夫。寝る」


「待って」


「明日も買い物があるから」


「私が行く」


「姉さんは白鹿でしょ」


その言葉に、エマは何も言えなくなった。


オスカーは杖を取り、台所を出ていった。寝室へ向かう足音が、家の中をゆっくり進む。途中で一度止まり、また動く。


扉が閉まる音はしなかった。


閉める力まで使いたくないような、半端な沈黙だけが残った。


エマは椅子に座ったまま、冷めかけた鍋を見ていた。


謝れなかった。


たったそれだけのことが、ダンジョンの崩れた床よりも遠く感じた。


翌朝、家の中は静かだった。


いつもなら、オスカーが先に起きている。火を入れ、昨日の残りに水を足し、パンを焼き直す。杖の音が台所を行き来し、皿が二つ並ぶ。時々、塩の位置を変える音がする。エマが寝ぼけたまま濃い味にしようとするのを見越して、オスカーが先に遠ざけておくのだ。


その音が、今日は少なかった。


エマが台所へ出ると、皿は二つ置かれていた。パンもある。昨夜の鍋も温め直されている。ただ、オスカーは椅子に座っていなかった。


台の端に、小さな紙が置かれていた。


買い物に行ってきます。


それだけだった。


行き先も、戻る時刻もない。いつもなら、豆屋、油、糸、薪の欠片、と細かく書く。エマが忘れないようにではなく、オスカー自身が忘れないように。家のものを切らさないために。


今日は、ただ買い物とだけあった。


エマは紙を手に取った。字は乱れていない。けれど、最後の跳ねが強い。怒っている時の字だと、エマは思った。


そういうことは分かる。


分かるのに、昨夜は何も言えなかった。


帰ってきたら話そう。


そう思って、エマは紙を台に戻した。


謝る。昨日の言葉を取り消す。家にいろと言いたかったんじゃないと伝える。何もできないなんて思っていないと、ちゃんと言う。聞いてもらえなくても、途中で遮られても、今日は逃げない。


椅子に座り直そうとした時、戸を叩く音がした。


オスカーにしては早すぎる。


エマは戸口へ向かった。開けると、白鹿の若い使いが立っていた。息を切らしている。昨夜も走ったのだろう。目の下に疲れが残っていた。


「エマさん。ケインギルド長が、館まで来られるかと」


エマの腹の底が沈んだ。


「今?」


「はい。昨日の続きです。できるだけ早く、とのことです」


できるだけ早く。


白鹿では、そう言われる話ほど後に回せない。


エマは家の奥を振り返った。


椅子は二つある。皿も二つある。オスカーはいない。


買い物に出ただけだ。戻る前に帰ればいい。


そう思おうとした。


「……分かった。すぐ行く」


返事をした瞬間、自分がまた家を後にすることになるのだと気づいた。


エマは卓の上の紙を一度だけ見た。


買い物に行ってきます。


そこに「待ってて」とは書いていない。


それでも、勝手にそう読んだ。



白鹿の館は、まだ傷の匂いがした。


血の匂いは薄い。けれど、酒精と濡れた紙と焦げた油の匂いが、廊下の奥に残っている。保管庫前の床には、昨夜撒かれた砂がまだ掃ききれていなかった。壁の爪痕には布が掛けられ、割れた窓枠は応急の板で塞がれている。


守った。


ケインはそう言ったらしい。実際、核心は奪われなかった。だが、守った場所には傷が残っていた。人にも、壁にも、紙にも。


ギルド長室の前で、エマは一度だけ息を整えた。


中から声がした。


「入れ」


扉を開けると、ケインが机の向こうに立っていた。机の上には畳まれた地図と、封をされた紙束がある。昨夜より片づいているはずなのに、部屋全体が疲れて見えた。


脇腹に新しい布を巻いたノルも、椅子に座っていた。顔色は悪くないが疲労は隠せておらず、立ち上がろうとしたところでエマが先に言った。


「そのままで」


ノルは一瞬だけ動きを止め、浅く頷いた。


ケインはエマを見た。


「来させてすまない」


「いえ」


声は自分でも硬かった。


ケインはすぐには話し始めなかった。机の端に置いていた古い地図へ指を触れ、それから離した。


「これから話すのは、お前の父と母に関わることだ」


その言い方だけで、部屋の空気が重くなった。


エマは小さく頷いた。


「はい」


ケインは続けようとして、そこで一度言葉を切った。


ノルが静かに口を開いた。


「エマ」


エマはノルを見た。


ノルは椅子に座ったまま、背を預けてはいなかった。


「よければ、俺も同席していいか」


エマはすぐには答えなかった。


ノルは言葉を急がなかった。


「これからの警戒に関わる話なら、聞いておいた方がいい。だが、お前の家族の話でもある。嫌なら外れる」


ケインは口を挟まなかった。


ここで拒めば、ノルは本当に部屋を出るつもりなのだろう。


エマは胸元に触れた。服の内側に、祈り紐がある。


「……いてください」


ノルの目が動いた。


「いいのか」


「はい」


エマは息を吸った。


「一人で聞く方が、今はきついです」


ノルは短く頷いた。


「分かった」


ケインはそれを見届けてから、机の上の地図を広げた。


端が焼け、薄い染みの残る古い紙には、ダンジョンの深い層へ続く道の断片が描かれていた。広い範囲を記した地図ではなく、ところどころに読めない印が打たれている。


「昨日、お前には話し切れなかった」


ケインは言った。


「ミラの死についてだ」


母の名前が出た瞬間、エマの指が膝の上で止まった。


「事故じゃないかもしれない、という話ですよね」


「ああ」


ケインは否定しなかった。


「ただの魔物の檻の事故ではなかった可能性が高い」


ただの。


その言葉が喉に引っかかった。


エマにとって、あの日はただの事故でも、ただの事件でもない。母が死んだ日だった。


ケインは続けた。


「檻が開いた。魔物が出た。白鹿の中が混乱した。その混乱の中で、消えたものがある」


「昨日、言っていた地図……」


「ああ」


エマは地図を見た。


「ダンジョンの?」


「ローワンに関わる地図だ」


父の名前が出た。


エマは一瞬、呼吸の仕方を忘れた。


ローワン・ウォーカー。


失踪した父。


戻ってこなかった人。母を置いて消えた人。


その名前が、白鹿のギルド長室で、母の死と同じ机の上に置かれている。


「父さんが……何に関わっていたんですか」


ケインはすぐには答えなかった。


その沈黙が嫌だった。


エマは言った。


「知らない方がいい、はやめてください」


ケインの目がわずかに伏せられた。


「言う」


短い返事だった。


「ローワンは、ただの探索者でも、ただ失踪した男でもない。深層の記録や、白い晶石に関わる断片に触れていた」


白い晶石。


エマの腹の奥が冷えた。


白骸晶。


まだ遠い言葉のはずだった。おとぎ話や、神殿の古い記録の中にあるものだと思っていたものが、自分の家の近くまで来ている。


「父さんは、それを探していたんですか」


「断言はできない」


ケインは言った。


「探していたのか、調べさせられていたのか、近づきすぎたのか。俺にも分からない。ただ、ローワンはその手の記録に触れていた。そして、ミラの事件の日、俺が持っていたローワン関連の地図が消えた」


エマは唇を開いたが、声が出なかった。


ケインは言葉を選ぶように続けた。


「あの日、魔物の檻が開いたのは、ミラを殺すためだけではなかった可能性がある。混乱を作り、その地図を盗むための陽動だったかもしれない」


「母さんは」


声が震えた。


「母さんは、そのせいで死んだんですか」


ケインは答えなかった。


答えられないのだと分かった。


けれど、分かったからといって楽になるわけではない。


エマの指が膝の布を掴んだ。


「白鹿は、知ってたんですか」


ノルが目を伏せた。ケインは逃げなかった。


「全部ではない」


「それは、知らなかったって意味ですか」


「違う」


ケインは低く言った。


「疑っていた。だが、証拠が足りなかった」


エマは笑えなかった。


「証拠が足りない間に、母さんは死んで、父さんは消えて、私は白鹿で働いていたんですね」


部屋の空気が止まった。言いすぎたと思った。


けれど、引っ込められなかった。


生活のためだった。オスカーを支えるためだった。母が死んだ後も、白鹿は仕事場で、収入で、逃げられない場所だった。


恨みたいわけではない。


でも、今だけは、どう思えばいいのか分からなかった。


ケインは目を逸らさなかった。


「すまなかった」


「ギルド長として必要だと判断したことはある。伏せたこともある。だが、お前個人を傷つけたことまで、判断の一言で片づけるつもりはない」


エマは答えられなかった。


怒りたい。


でも、ケインが頭を下げるのを見たいわけではない。


謝られても、母は戻らない。


ノルはケインの言葉を補おうとせず、黙ってそばにいた。その沈黙が、今は助かった。


エマは胸元に触れた。服の内側にある祈り紐は、母が残したものだった。


「……これ」


自分でも、なぜ今言ったのか分からなかった。


ケインとノルの視線が動いた。


エマは襟元から古びた紐を引き出した。母が編んだ、祈り紐。


「母さんの形見です。前から持ってました。でも、最近……変なんです」


ノルが表情を変えずに聞いた。


「変、というのは」


「重くなる時があります。引かれるみたいな時もある。ダンジョンで、白い粉みたいなものを見た時も……」


そこまで言って、エマは言葉を止めた。


言い切ってしまえば、何かが決まってしまう気がした。


「すみません。うまく言えないです」


「構わん」


ケインの声は低かった。


「続けろ」


「母さんの事件と、父さんの地図と、関係があるかは分かりません。でも、無関係だと思えなくなってきたんです」


ケインもノルも祈り紐を見ているだけで、触れようとはしなかった。


ケインはゆっくり言った。


「今の時点で、それが何かは断定しない」


「はい」


「だが、軽く扱うものではない」


エマは祈り紐を襟元へ戻した。ノルが短く言った。


「外すな」


命令に近い声だった。エマはノルを見る。


ノルは続けた。


「理由は、まだ言えない。俺にも分からない。だが、外さない方がいい」


分からない、と言った。


それが逆に信用できた。


エマは頷いた。


「外しません」


ケインは地図を畳んだ。


紙の擦れる音が、部屋の中に小さく残った。


エマはまだ何かを聞こうとしていた。ローワンのことも、母のことも、地図の先に何があるのかも。


けれど、言葉にする前に、指先が震えた。


自分で気づくより早く、ノルがそれを見ていた。


「エマ」


低い声だった。


「一度、リディアに見てもらえ」


「でも」


「その顔で続きを聞いても、残らない」


エマは言い返そうとした。


言い返せるはずだった。


けれど、喉の奥が詰まって、声にならなかった。


ケインは畳んだ地図に手を置いたまま言った。


「急がなくていい話ではない。だが、倒れて聞く話でもない」


エマは唇を結んだ。


ノルが声を柔らげる。


「休め。落ち着いてから、必要なことはまた聞けばいい」


落ち着いてから。


その言葉で、エマはオスカーの紙を思い出した。


買い物に行ってきます。


「……分かりました」


エマは立ち上がった。体が揺れた。


ノルが立とうとしたが、脇腹を押さえて止まる。代わりにケインが、廊下の者を呼んだ。


「離れまで送れ」


「一人で行けます」


「送らせる」


エマは反論しなかった。



白魔導士たちの離れは、館の騒がしさから切り離された場所にある。中庭を抜けると、雨になりそうな湿った空気が肌に触れた。


扉を叩く前に、中から声がした。


「開いています」


リディアだった。


扉を開けると、薬草と清めた布の匂いがした。部屋の中には、リディアとニナ、それからミレイがいた。


ニナは椅子に座っている。左腕は布で吊られていた。顔色は戻っているが、指先は時々小さく強張る。エマを見ると、すぐ立ち上がろうとした。


「エマ」


「立たないで」


エマが言うと、ニナは途中で止まった。


「それ、私が言うことじゃないですか」


「じゃあ、お互い座ってよう」


ニナは笑った。笑ったが、目は心配を隠せていなかった。


奥の椅子に、ミレイが座っていた。肩に厚く布を当てられ、片腕を動かさないよう固定されている。いつものように足を組もうとして、リディアに視線で止められたらしく、不満そうな顔をしていた。


「あなたまでひどい顔ね」


ミレイが言った。


エマは自分の顔に触れた。


「そんなに?」


「そんなに。白鹿の廊下より暗い」


「そこまで?」


「昨日の廊下、煙でひどかったから。かなりよ」


ニナが小さく息を漏らした。


リディアは机の上に布を置いた。


「座ってください。確認します」


「本当に短く」


「短く済むかどうかは、見てからです」


リディアの声は柔らかいが、逃がす気はなかった。


エマは椅子に座った。


リディアは肩の布と毒針の跡を確認した。手つきは静かで、無駄がない。傷に触れられるたび、体の奥に残っていた疲労が遅れて顔を出す。


「熱は高くありません。痺れは?」


「まだ残ってます。でも動きます」


「動くことと、無理をしていいことは違います」


ミレイが横から言った。


「白魔導士って、みんなそういう言い方するの?」


リディアは振り返らずに答えた。


「怪我人がみんな同じことを言うからです」


「私は違うわよ」


「あなたは、あとでいい、と言いました」


「それは戦闘後の礼儀みたいなものよ」


「違います」


ニナが口元を押さえた。笑いかけて、左腕の痛みで顔をしかめる。


エマはその様子を見て、肩の力を抜いた。


重い話の後で、部屋の空気が緩む。


けれど、楽にはならなかった。


ただ、息をする場所ができただけだった。


ニナがそっと聞いた。


「ケインギルド長と、話したんですか」


エマは頷いた。


「うん」


「……大丈夫、ではなさそうですね」


「大丈夫って言ったら、怒る?」


「今日は怒りません。でも、信用もしません」


エマは笑った。


「なら、言わない」


ニナはエマの胸元を見た。祈り紐が襟元から覗いている。


その視線はすぐに外れた。


ミレイは椅子の背に寄りかかり、痛む肩をかばいながら言った。


「帰るなら、早く帰りなさい。顔がずっと家の方を向いてる」


エマははっとした。


「そんなに分かる?」


「分かるわよ。扉を見る回数が多いもの」


「見てたの?」


「暇なの。肩を動かすなって言われてるから」


リディアが布を結び直した。


「今日は無理に動かさないでください。戻ったら休むこと。食事も取ること」


「はい」


「返事だけは良いですね」


ミレイが笑った。


「リディア、それ全員に言ってる」


「全員が同じことをするからです」


ニナがエマを見た。


「戻るなら、一緒に行こうか」


「いい。ニナは休んで」


「でも」


「オスカーと話したいから」


その言葉を口にした瞬間、喉が詰まった。


話したい。


今度こそ。


ニナはそれ以上、引き止めなかった。


「……分かりました」


小さく言って、目を伏せる。


「ちゃんと、話せるといいですね」


エマは頷いた。


「うん」


その言葉に、今度は願いが混じった。


エマは白魔導士の離れを出た。


雨の匂いを含む中庭の空気は湿っていたが、まだ降ってはいなかった。降り出す前に帰れると思って、エマは足を速めた。



家の戸を開けた時、台所は朝のままだった。


皿の上のパンは冷え、鍋の火も落ちたままだった。オスカーが戻っていれば、まず火を入れるはずだった。鍋の蓋をずらし、パンを温め直し、何もなかったような顔で椅子に座っているはずだった。


けれど、椅子は空いたままだった。


台の端に置いた紙も、朝と同じ場所にある。


買い物に行ってきます。


短い字だけが、誰かの帰りを待つみたいに残っていた。


エマは紙の前で、しばらく動けなかった。


話すつもりだった言葉だけが、体の中に残っていた。




本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

挿絵(By みてみん)

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