第44話 保管庫前
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
オルブライト・ケイン 白鹿のギルド長
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
ガイ・ラザフォード 白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者
ミレイ・アスター 白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ
リディア・グレイス 神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者
ノア・ベル 神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者
サイモン・レック ダンジョンでエマ達を襲撃した謎の男
イレーネ・ヴォス 白鹿のギルドを襲撃した謎の女
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
東水門でリースを巡る騒動が起きていた頃、白鹿の館にも侵入者たちが現れていた。狙いは、白骸晶や五階層調査、ローワンに関わる物証へつながる保管物。ケイン、ノル、リディアは主廊下で見慣れない男と女を迎え撃ち、ノアとミレイは保管庫側で三人の獣人を相手にした。煙、油、鉤糸、そして遅れて響く見えない衝撃に館内は乱され、ノルはリディアを庇って吹き飛ばされる。保管庫側でも、ミレイが肩に傷を負いながら獣人たちを食い止めた。侵入者たちは退いた。だが、白鹿の館には壊れた棚、汚れた記録、負傷者たち、そして守り抜いたものの重さが残された。
白鹿の館は、まだ夜を終わらせていなかった。
保管庫前の廊下には、煙と油の匂いが残っている。倒れた棚は壁際へ寄せられ、割れた瓶の破片には砂が撒かれていた。濡れた紙片と黒く汚れた札が、石床の端に残っている。
保管庫の扉は閉じていた。
ノアはその前から離れず、鍵束を握っている。額には汗が滲み、指の関節は白くなっていた。ミレイは壁際に座らされ、肩に当てた布を片手で押さえている。痛みを隠しているのは明らかなのに、目だけはまだ負けていなかった。
リディアはミレイの肩を見ながら、時折ノルへ視線を向けていた。
ノルは壁に手をついたまま、息を整えている。六階層で負った傷はほとんど塞がっていたはずだ。だが、今夜の衝撃で中が軋んだのだろう。深く息を吸うたび、口元がわずかに硬くなる。
白鹿の者たちは、短い指示で動いていた。火を消す者、負傷者を運ぶ者、散った紙を拾う者、保管庫前に残る者。混乱はあった。だが、散り散りにはなっていない。
傷を負いながらも、館はまだ立っていた。
その廊下の向こうから、足音が戻ってきた。
一人ではない。
急ぐ足音。濡れた靴底が石床を擦る音。誰かを支えているのか、途中で重さが沈む音が混じる。
ケインが顔を上げた。
先に姿を見せたのは、ニナだった。
左腕をかばっている。六階層で受けた毒の痺れに加え、東水門でまた無理をしたのだろう。指先がときどき小さく強張っていた。それでも、彼女の目は落ちていない。
次に、リースが入ってきた。
両側を白鹿の者に押さえられている。歩いているというより、歩かされていた。髪は乱れ、服には水門の泥が残っている。顔色は悪く、唇は乾いていた。
その後ろに、ガイが続いた。
いつもの軽い笑みはない。外套には刃をかすめた跡があり、袖口に川水が染みている。
ガイが濡れた外套の裾を払うだけで、東水門の下の敵が逃げたのだと分かった。
だが、足取りは崩れていなかった。
最後に、エマが入ってきた。
胸元の布が裂けている。深い傷ではない。だが、その位置が何を意味するかは、見れば分かった。リースの短剣が走った場所だった。
白い封筒は、エマが抱えていた。
指に力が入りすぎて、紙の角が少し潰れている。それでも離していなかった。東水門の下で、リースに刃を向けられても、敵に狙われても、彼女はそれを持って戻ってきた。
ケインは短槍を下ろさないまま言った。
「戻ったか」
ガイが軽く息を吐いた。
「戻った。封筒も、人もな」
その声には、いつもの調子がほんの少しだけ残っていた。だが、誰も笑わなかった。
ケインの視線が封筒へ落ちる。
「開けたか」
「向こうは開ける前に刺しにきた。中身を見てから殺すほど、親切じゃなかったらしい」
「そうか」
ケインはエマに近づき、封筒を受け取った。エマの指がすぐには離れなかった。少し遅れて、自分がまだ握っていることに気づいたように、ゆっくり力を抜く。
白い封筒は、ケインの手へ移った。
リースの目がそれを追った。
失敗したのだと、そこでようやく体が理解したのかもしれない。彼女の肩から力が抜けた。だが、楽になったようには見えなかった。
ケインは白鹿の者に封筒を預ける。
「保管庫へ戻せ。開けるな。ノア、控えを取れ」
「はい」
ノアが封筒を受け取り、扉の前へ戻る。鍵束が小さく鳴った。
リースは掠れた声で言った。
「……本物じゃ、ないんでしょう」
誰もすぐには答えなかった。
ガイが壁にもたれ、少しだけ肩をすくめる。
「それを確かめる前に刺されかけたんだ。順番が悪かったな」
リースは笑わなかった。
ニナが一歩前に出た。だが、左腕の痛みで足が止まる。エマは何も言わず、リースを見ていた。
怒りも、哀れみも、形になっていない。
目の前の相手は、自分を刺そうとした。けれど、東水門の下では殺されかけてもいた。助けた相手で、裏切った相手で、同じ白鹿の中にいた相手だった。
そのどれを先に見ればいいのか、エマにはもう分からなかった。
「取り調べをする」
ケインが言った。
「今夜、話せるだけ話せ」
リースは顔を上げる。
「話せば、何か変わるんですか」
「処分は変わらん」
ケインの声は淡々としていた。
「だが、誰へ渡そうとしたか。どこまで流したか。それは聞く」
リースは目を伏せた。
そのまま、白鹿の者に連れていかれる。
エマはその背を見送った。扉の向こうへ消えるまで、目を逸らせなかった。
取り調べは、ギルド長室ではなく、保管庫に近い小部屋で行われた。
窓のない部屋だった。普段は古い鍵や壊れた金具を置いておくための部屋で、壁際の棚には使われなくなった錠前や、折れた札掛けが並んでいる。机がひとつ運び込まれ、燭台が置かれていた。
明るすぎない灯りの下で、リースは椅子に座らされた。
ケインは立っていた。ノルも同席した。リディアは止めたが、ノルは「聞く必要がある」とだけ言った。ニナは部屋の端にいる。腕の痛みで長く立つのはつらいはずなのに、壁にもたれたまま目を逸らさなかった。
エマは扉に近い椅子に座った。
立っていられなかったからだ。
リースは机の木目を見ている。水は出されていたが、手をつけていない。濡れた外套の裾から、床へ一滴落ちた。
ケインが聞いた。
「白い封筒のことを外へ知らせたのは、お前か」
リースは答えない。
「物資記録室。神殿提出用。白い封筒。その言葉を聞いた者は限られている。外で拾われたメモには、白い封筒とあった」
リースの指が、机の端に触れた。
「東水門の下。鐘二つ後。そこへお前は封筒を持って行った」
沈黙が落ちた。
リースは唇を噛んだ。
「……そうです」
ニナの指が壁を掴んだ。怒りで動いたのか、痛みに耐えたのかは分からない。
ケインは続ける。
「相手は誰だ」
「知らない」
「名前もか」
「知らない。何度か紙を渡しただけです。直接会ったのは、今夜が初めてでした」
ケインはその顔を見た。ノルも見ていた。リースの目は逃げている。けれど、知らないという言葉そのものは、作ったものには見えなかった。
「なぜ、やった」
その問いにだけ、リースはすぐ答えなかった。
部屋の外では、負傷者を運ぶ足音が何度か通った。遠くでミレイが何か言い、すぐにリディアの声に押さえられて消える。
リースは机の木目を見たまま、ぽつりと言った。
「父さんは、戻りませんでした」
エマの手が、膝の上で止まった。
「白鹿の隊は戻った。怪我人も戻った。エマさんも戻った。父さんだけが戻らなかった」
東水門で吐き出した言葉と、同じ根がそこにあった。
けれど今は、水門の下ではない。刃も、川音も、敵の足音もない。だから余計に、その声は逃げ場なく部屋に残った。
「白鹿は次の日も動いていました。探索隊は出て、記録は書かれて、荷は運ばれて。父さんの名前は、報告書になって、棚にしまわれた」
リースはそこで初めて、エマを見た。
「その中に、あなたがいた」
エマは何も言えなかった。
「あなたを見るたびに思いました。どうしてここで働いていられるんだろうって。父さんを置いて戻ってきた人が、どうして誰かを連れて帰る顔をしていられるんだろうって」
違う。
そう言えばよかったのかもしれない。
グレンを置いて逃げたわけではない。命じられて、負傷者を連れて戻った。助けを呼ぼうとした。戻るつもりだった。
けれど、言葉は出なかった。
戻れなかった。
その事実だけは、リースの言葉の中にも、エマの胸の中にも残っていた。
ノルが口を開いた。
「父親を失ったことを、軽いとは言わない」
リースの目がノルへ向く。
ノルは壁際に立っていた。痛む脇腹をかばう仕草はない。ただ、声だけが低かった。
「白鹿を恨んだことまで、俺は否定しない。あの日からお前が何を抱えてきたのかも、簡単に分かるとは言わない」
リースの唇が震えた。
「だったら」
「だが」
ノルの声が、そこで少しだけ冷えた。
「お前の痛みと、エマがしたことを同じ場所に置くな」
リースは黙った。
「グレン・ヘイルは、負傷者を逃がすために残った。エマは逃げたんじゃない。命じられて、負傷者を連れて戻った。助けを呼ぶために戻った」
「でも、父さんは戻らなかった」
「そうだ」
ノルはすぐに認めた。
「戻らなかった。その痛みが残るのは当然だ。だが、お前はそれを、エマが見殺しにした話に変えた」
リースの指が机の端を掴む。
「その恨みで、白鹿の情報を外へ流した。今夜、館には侵入者が入った。保管庫前で負傷者が出た。お前自身も、使い捨てにされて殺されかけた」
リースの顔が歪んだ。
ノルは続けた。
「父親を失ったことは、お前の傷だ。だが、その傷で他人を危険に晒したことまで、父親の死で隠すな」
部屋が静まり返った。
その静けさを破ったのは、ニナだった。
「エマは、あなたを助けたんですよ」
声は震えていた。怒鳴ってはいない。だから余計に、鋭かった。
「東水門で、あなたは殺されるところだった。エマはそれでも手を伸ばした。あなたに短剣を向けられても、離さなかった」
リースは顔を上げなかった。
ニナは一歩だけ前へ出た。左腕が痛んだのか、口元が少し歪む。それでも止まらない。
「父親を亡くしたことを、軽いなんて言いません。でも、あなたは自分の痛みだけを見てる。自分が誰を売ったか、誰を傷つけたか、そこを見ようとしてない」
リースの肩が震えた。
ニナの目には涙はなかった。怒りの方が先に立って、涙になる場所まで届いていないようだった。
「エマを責めるなら、せめてエマが何をしたかを見てからにしてください」
リースは何も返せなかった。
エマも、まだ何も言えなかった。
ケインが口を開く。
「リース・ヘイル」
リースの肩が小さく跳ねた。
「お前は白鹿の情報を外へ流し、偽の証拠物を持ち出し、敵へ渡そうとした。取り調べは続ける。だが、処分は決まる」
リースは顔を上げる。
ケインは目を逸らさなかった。
「お前を白鹿に残すことはできない」
言葉が、部屋の床へ落ちた。
リースは覚悟していたのかもしれない。それでも、実際に聞かされると、体のどこかが耐えきれなかったのだろう。顔から色が抜けていく。
「……追放、ですか」
「後日、正式に告げる」
ケインは淡々と言った。
「俺の一存で行う。これ以上、白鹿の中にお前の居場所はない」
リースは笑おうとした。
形にはならなかった。
「……自分で、戻る場所を捨てたんですね」
ケインは答えなかった。
その沈黙が答えだった。
敵からは使い捨てられ、白鹿からは裏切者になった。
リースはそれを理解した顔をしていた。
白鹿の隊員がリースを立たせる。椅子の脚が床を擦った。扉が開き、リースは連れていかれた。
扉が閉まっても、しばらく誰も動かなかった。
リースが座っていた椅子だけが、部屋の中に残っている。そこにはまだ、濡れた外套の匂いがあった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




