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ダンジョンサポーター  作者: Aramaki_mai
第三章 白い封筒
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第43話 白鹿館防衛戦

ダンジョンに潜る人たちの話です。

ライト文芸寄りのダークファンタジーです。


▼登場人物

エマ・ウォーカー     主人公です。

オルブライト・ケイン   白鹿のギルド長

ノル・ハーヴェイ     白鹿の探索隊長の一人

ニナ・クラーク      白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間

リディア・グレイス    神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者

ノア・ベル        神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者

ガイ・ラザフォード    白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者

ミレイ・アスター     白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ 


▼主人公について

白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。

元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。


あらすじ

白い封筒を持ち出したリースは、東水門の下で受け取り役と接触しようとする。だが、そこには封筒を奪い、リースの口を封じようとする敵も待っていた。ガイとニナは敵を押さえ、エマはリースを助けようと手を伸ばす。しかしリースは、父グレンを失った恨みをエマにぶつける。白鹿で働きながら抱えてきた痛み、エマを許せなかった理由。その言葉にエマは動けなくなるが、ニナに叱咤され、リースの胸元から白い封筒を抜き取る。リースに拒まれても、エマはその腕を離さなかった。だがその時、白鹿の館の方角で合図笛が鳴る。東水門だけではなく、館でも何かが起きていた。


白鹿の館へ向かう道の先で、合図の灯りが上がった。


東水門の下からでも、その光は見えた。夜空を焦がすような炎ではない。ただ、決められた場所に、決められた高さで上がった小さな明かりだった。けれど、白鹿の者なら意味を間違えない。


館内に侵入者がいる。

火事ではない。外から暴徒が押し寄せたわけでもない。狙われているのは、白鹿の館の内側だった。


その灯りが上がる少し前、白鹿の館はいつもの夜と同じ顔をしていた。


食堂の火は落とされ、探索から戻った者たちの声も奥の部屋へ沈んでいる。廊下には間を空けて燭台が残され、石床には細長い影が伸びていた。記録室の扉は閉まり、物資記録室の鍵も夜番の手元に戻っている。表から見れば、白鹿の一日がようやく終わろうとしているだけに見えただろう。


けれど、館は眠っていなかった。

階段の曲がり角、中庭へ出る扉の陰、保管庫へ続く廊下の奥。いつもの夜番に見える者たちは、いつもの場所に立っているようで、ほんの少しだけ立ち位置が違っていた。誰も大声を出さない。剣も抜かない。それでも館の中には、罠の中へ獲物が入るのを待つような、静かな張り詰め方があった。


その張り詰めた静けさを、中庭側の大窓が砕ける音が破った。


分厚いガラスが、外から叩き込まれた衝撃で内側へ弾けた。破片は石床を跳ね、燭火を拾って白く光りながら廊下の奥まで散っていく。近くにいた夜番が腕で顔をかばった時には、もう黒い影が窓枠を越えていた。


最初の影は、床へ手をつくほど低く走った。着地の音は軽い。追おうとした夜番の横をすり抜け、影は保管庫へ続く廊下の角へ吸い込まれるように消える。


次に入ってきた影は、窓枠を避けなかった。肩から木枠へぶつかり、残っていた桟ごと押し広げる。重い足音が石床を鳴らし、近くの棚に置かれていた空箱が跳ねた。割れたガラスを踏んでも、足は止まらない。


三人目だけは、すぐには走らなかった。床へ落ちた紙片、壁際の布袋、扉の隙間へ鼻先を向け、匂いを拾うように短く息を吸う。暴れに来たのではない。探しに来たのだと、その動きだけで分かった。


「侵入者!」


夜番の声がようやく廊下を走った。別の夜番が合図灯へ向かって駆け出す。その足音にかぶさるように、館の奥で木が裂ける音がした。鍵を開ける音ではない。扉を壊した音でもない。壁の内側で支えだけが外されたような、嫌な軽さのある音だった。


保管庫へ続く主廊下に、ケインは立っていた。

手には短槍。腰には短剣。重い鎧は着ていない。館の中で鎧を鳴らせば、こちらの位置を先に教えることになる。扉の幅も、階段の折れも、柱の位置も、味方との距離も、重さひとつで使いにくくなる。


ノルは柱の影にいた。

六階層で負った傷は、ほとんど塞がっている。だが、完全に治ったわけではない。深く息を吸うと、肋骨の奥に鈍い痛みが残る。それでも剣は抜ける。足も動く。通路を塞ぎ、味方の前に立つことはできる。


リディアは、二人の後ろにいた。

白魔導士の衣は、夜の廊下では目立ちすぎるほど白い。隠れるには向いていない。だが、リディアは隠れようとしていなかった。彼女がそこにいることそのものが、白鹿側の支えになる。そして、敵にとっては最初に崩したい要になる。


ノルはそこを警戒していた。

六階層で救助を装ったあの男なら、まずリディアを狙う。


その直後、廊下の灯りが一つ消えた。吹き消されたのではない。燭台ごと壁から弾かれ、油皿が石床に落ちた。火が床を舐めるより早く、待機していた白鹿の者が布をかぶせて押さえ込む。


火は広がらなかった。その代わり、暗がりが一つ増えた。

そこから、男が歩いてきた。


六階層で、救助を装ってノルたちの前に現れた男だった。


外套の裾に埃がついている。息は乱れていない。急いできた様子もない。まるで最初からこの廊下を通る予定だったように、静かな足取りでこちらへ来る。

その後ろから、女の声がした。


「思ったより明かりが少ないのね。白鹿って、夜は節約家なの?」


見慣れない女が姿を見せた。

細い体に、動きやすい外套。腰には刃物があり、手元には小さな袋と細い瓶がいくつか括られている。煙玉か、油瓶か、それとも紙を駄目にする薬か。近づかなければ分からない。そして、近づかせるつもりはなかった。


ノルは目だけで二人を確認した。

六階層の男と、見慣れない女。


正面に出てきたのは、その二人だけだった。

それが、かえって嫌だった。物証を狙う相手が、保管庫前の廊下に二人だけで来るはずがない。

ケインも同じものを読んだのだろう。短槍を少しだけ持ち直し、低く言った。


「奥も動いているな」


「でしょうね」


ノルが返すと、女が小さく笑った。


「あら、分かっているなら追わないの?」


ケインは動かなかった。


「追う必要はない」


「ずいぶん自信があるのね。まさか本物を別の場所に逃がした、なんて顔でもないし」


女の視線が、保管庫へ続く奥の廊下へ向く。

ケインは、その目を遮るように一歩だけ位置を変えた。


「本物もある」


ノルの目がわずかに動いた。だが、口は挟まなかった。

女の笑みが止まる。


「言っていいの?」


「場所を知られたら負けではない。奪われたら負けだ」


ケインの短槍の穂先が、廊下の中央へ向けられた。


「だから、ここで叩き潰す」


その言葉に、女は一瞬だけ黙った。

次に笑った時、さっきまでの軽さは少しだけ薄れていた。


「嫌いじゃないわ。そういう年寄り」


「好かれるために立っているわけではない」


ケインが答えた直後、男が一歩前に出た。

その足が床に触れた瞬間、リディアの横の壁が鳴った。誰かが拳で内側から叩いたような音がして、壁に掛けられていた小さな額が揺れる。

リディアの肩が反応するより早く、ノルは動いていた。


「リディア!」


ノルが彼女の前へ入る。次の衝撃は床から来た。

石張りの床が足元で鳴り、ノルの体がわずかに浮いた。避けるには近すぎた。受け流すには低すぎた。ノルは剣先を床へ落とし、柄を握ったまま体を支える。傷の奥が軋んだが、膝はつかなかった。

男は、大きく手を振ったわけではない。

ただ、こちらを見ている。それが余計に薄気味悪かった。


リディアの祈りが低く落ちる。白い光がノルの背に触れ、乱れかけた呼吸を支える。傷を消すための光ではない。足を残すための光だった。

その隙を見て、女が横へ抜けようとした。

ケインの短槍が、彼女の進路を塞いだ。

穂先は喉を狙っていない。肩の前、踏み込もうとした足の先を切るように動いた。殺すためではなく、通さないための槍だった。


女は半歩引く。


「通してくれないの?」


「通す理由がない」


「資料を見たいだけよ」


「盗人は、いつもそう言う」


女の指先が、腰の小袋へ触れた。


ノルが声を飛ばす。


「煙玉!」


ケインは迷わず、短槍の柄で女の手首を打った。だが、落ちた黒い玉は床に当たっただけで割れた。灰色の煙が、床を這うように広がっていく。

リディアがすぐに袖を振った。

風を起こしたのではない。白い光が床の上を薄く滑り、煙の広がりを押し止める。完全には消えないが、視界を奪われるほどにはならなかった。

女が少しだけ口元を歪める。


「白魔導士って、本当に邪魔ね」


言い終えるより早く女はもう片方の手で細い瓶を抜いていた。

油瓶だった。

ケインが踏み込む。

女はケインへ投げなかった。ノルへでも、リディアへでもない。彼女が狙ったのは、廊下脇の控え棚だった。保管庫から運び出す時に一時置きに使う棚で、今は白鹿側が用意した偽装の紙束や札が積まれている。


瓶が床に当たり、割れた。

粘りのある油が石床に広がり、棚の足元へ流れていく。火はまだついていない。だが、近くには落ちた燭台の火が残っている。布で押さえてはいるが、完全には消えきっていない。

女が笑った。


「火を消す? 私を止める? それとも、そこの白魔導士を守る?」


リディアの手が一瞬止まった。

煙を押さえ続けなければ、ノルとケインの視界が乱れる。火を消さなければ、棚の紙束が燃える。ノルを支えなければ、男の衝撃を受けた足が崩れる。

守るものが、同時に増えた。

ケインが低く言った。


「リディア、煙を抑えろ。火はこっちで消す」


「ですが」


「迷うな」


その声は怒鳴りではなかった。だが、迷いを許さない重さがあった。

リディアは煙へ意識を戻す。

その瞬間、煙の底で、何かがかすかに光った。

ノルは一瞬、それを油の反射だと思った。


違う。


細い糸だった。

女の指から伸びた鉤糸が、煙の中を這うようにリディアの袖口へ届いていた。糸の先についた小さな鉤が布を噛み、女の指がわずかに曲がる。

リディアの体が半歩、横へ引かれた。


「リディア!」


ノルが叫ぶ。その半歩で、彼女の位置が変わった。

男の視線が、壁の燭台へ向く。


「下がれ!」


ノルがリディアの肩を押した。

一拍遅れて、燭台が壁から弾けた。火ではなく、金具そのものが横殴りに飛ぶ。ノルは籠手で受けた。金属がぶつかる音が耳元で鳴り、腕に痺れが走る。

それで止めた。


そう思った瞬間、柱が鳴った。

今度は、ノルの背中側だった。

最初に飛んだ燭台とは別の場所から、遅れて衝撃が来る。見えない槌で横から殴られたように、ノルの体が吹き飛んだ。剣を手放さなかったのは、意地というより、離せば終わると体が知っていたからだった。


肩から床に落ち、息が詰まる。

肋骨の奥に熱が走り、視界が白く滲んだ。


「ノル!」


リディアが駆け寄ろうとする。

ノルは、痛みを噛み殺して声を出した。


「動くな。そこにいろ」


掠れた声だった。だが、届いた。

リディアは足を止める。彼女が動けば、白鹿側の支えが崩れる。ノル自身も、それを分かっていた。

女が、鉤糸を指先で巻き取りながら笑った。


「本物を守るためなら、仲間が床に転がっても動かないのね。白鹿って、ずいぶん立派な正義を持っているのね」


リディアの顔が強張る。

ケインは表情を変えなかった。


「人も物証も守る。どちらかしか選ばせないのが、お前の仕事だろう」


「ええ。よく分かってるじゃない」


「だから乗らん」


ケインは短槍を低く構えたまま、足元の布を蹴った。火を押さえていた厚布が油の手前に滑り込み、じゅっと嫌な音を立てる。完全には止まらない。だが、紙束へ届くまでの時間は稼げた。

その一呼吸の間に、女の指がまた動いた。

廊下脇の控え札の束が、棚から滑り出す。紙が一枚、二枚と床に落ち、煙の中で白くひらめいた。

ノルは起き上がろうとしたが、体がすぐにはついてこなかった。


ケインの槍が動く。

穂先ではなく、柄の先で床を払った。煙の中で細い音が鳴り、鉤糸が切れる。控え札の束は途中で止まり、油の手前で散った。


「手癖が悪いな」


「仕事熱心と言ってほしいわ」


「盗人は、いつもそう言う」


女の笑みが少しだけ深くなった。


「さっきも聞いたわ」


「何度でも言う」


ケインが前に出る。

短槍の間合いが、男と女の間を割った。男が一歩下がり、女はその背後を抜けるように扉へ手を伸ばす。

ケインの短剣が飛んだ。

刃は女の手ではなく、扉の金具に刺さる。開きかけた扉が、きしんで止まった。


「館の扉は、勝手に開けるものではない」


「本当に管理が細かいのね」


「白鹿だからな」


ケインは答えながら踏み込んだ。

短槍を大きく振り回すことはしない。廊下の幅に合わせ、突き、払い、柄で押す。男を壁際へ寄せ、女の進路を狭める。一見すれば攻めているようだが、その実、保管庫へ続く線を一本ずつ消していた。

男の視線が床へ落ちる。

ケインはそれより先に、石突きで床を叩いた。


合図だった。


廊下の奥で白鹿の隊員が鎖を引く。天井の溝から、火除けの鉄戸が重く落ちてきた。完全には閉じない。味方の退路を残し、敵の抜け道だけを狭める高さだった。

女の顔が変わる。


「最初から、ここで止めるつもりだったのね」


ケインは答えなかった。答えなくても、十分だった。

同じ頃、保管庫側の廊下では、三つの影が動いていた。

ノアは保管庫の扉の前に立っていた。手にはスクロール。腰には鍵束。額には汗が滲んでいるが、顔色は崩していない。白魔導士としての落ち着きは保っている。ただ、自分が守っているものがただの紙束ではないことも、十分に理解していた。

その前に、ミレイ・アスターが立っていた。

弓はすでに引かれている。


「ノア、鍵は持ってる?」


「持っています」


「じゃあ落とさないで。拾ってあげる暇はないから」


「落としません」


「その返事、堅すぎて逆に不安なんだけど」


返事を待たず、最初の影が走った。速い獣人だった。

床を蹴り、壁に手をつき、棚の縁へ足をかける。人が通る道を使わず、廊下の上半分を滑るように距離を詰めてくる。ミレイの矢がその外套を窓枠へ縫いつける。

だが、止めたのは一人だけだった。

重い獣人が正面から来る。肩が広く、首が太い。矢を受けても止まらない。床板が鳴り、棚の瓶が震えた。その奥では、嗅覚の鋭い獣人が棚を見ていた。


ノアが半歩動いた。

それだけで、獣人の鼻がそちらを向く。


「ノア、動かない」


ミレイの声が鋭くなった。


「あなたが守ろうとした場所がばれる」


ノアは止まった。

そこへ、主廊下で割れた煙玉の煙が流れ込んできた。油と煙と焦げかけた布の臭いが、古い紙と薬草の匂いに重なる。

嗅覚の獣人が、低く喉を鳴らした。

煙を嫌がったのではなかった。

余計な匂いの奥から、ひとつだけ違うものを拾った顔だった。

ノアの顔色が変わる。

ミレイも気づいた。


「最悪」


短く吐き捨て、矢をつがえる。

嗅覚の獣人が、保管庫の横棚へ走った。そこにあるのは本物ではない。だが、保管庫の奥へつながる管理札だった。奪われれば、中身ではなく、守り方を知られる。

ミレイの矢が飛ぶ。

床を走った風が、埃と煙を巻き上げた。獣人の鼻先が逸れ、探り当てかけていた匂いが一瞬だけ乱れる。

だが、その爪は控え札の端をかすめていた。

札が一枚、床へ落ちる。角が裂け、油混じりの煙に汚れた。文字は読める。だが、無傷ではない。

ミレイはそれを見た。

見てしまった。

その一瞬で、速い獣人が窓枠から外套を裂いて抜け出す。


「こっちを軽く見たわね」


ミレイは三本目の矢をつがえた。

速い獣人は保管庫の扉ではなく、横の小窓へ向かっていた。中に入るためではない。中を見るためだ。見えれば、次に狙える。

矢が放たれる。

速い獣人は読んでいた。体を沈める。矢は頭上を抜けるはずだった。

だが、抜けなかった。

廊下の空気がねじれ、矢の尾がわずかに沈む。矢は獣人の袖と肩紐をまとめて射抜き、また窓枠へ縫いつけた。

ミレイが息を吐いた瞬間、重い獣人が前に出た。

狙いはミレイではない。

ノアだった。

ミレイは、一歩遅れた。

三人同時に、別の目的で動かれている。速い獣人を止め、嗅覚の獣人の鼻を逸らし、控え札の汚れまで見てしまった。それが隙になった。守るものが二つにも三つにも増えた瞬間、体の向きが遅れた。

ノアがスクロールを開こうとする。


「開かないで!」


ミレイが叫んだ。

白い光は目立つ。敵に狙いを教える。ノアは歯を食いしばり、スクロールを閉じたまま後退した。

重い獣人の腕が振り下ろされる。

ミレイは弓で受けた。受けるべきではなかった。

鈍い音がして、弓が軋む。衝撃が肩へ抜け、ミレイの足が床を滑った。背中が棚に当たり、瓶が何本も落ちる。割れた薬瓶の匂いが広がった。

ノアが名前を呼びかける。


「ミレイ――」


「呼ばなくていい、分かってる!」


ミレイは棚に背を打ったまま、短剣を抜いた。

重い獣人がもう一歩来る。

ミレイは、落ちた矢筒を足で蹴った。矢が床に散る。重い獣人は構わず踏み込む。その瞬間、ミレイの指が床を撫でるように動いた。

散った矢が、風に押されて向きを変える。

一本が足首の革紐へ絡み、もう一本が膝裏の布を縫った。完全には止まらない。だが、踏み込みは乱れる。


そこへ、ミレイの短剣が入った。

深くはない。だが、腿の内側を裂いた。

重い獣人が初めて呻く。

ミレイは笑わなかった。調子に乗る余裕などなかった。


「ノア、扉から離れて。右の棚、倒す」


「右は記録の控えが――」


「控えと首、どっちが大事?」


ノアは答えずに動いた。

ミレイは痛む肩をかばいながら、棚の脚へ矢を撃ち込んだ。古い木が割れ、棚が斜めに傾く。紙束と空箱が廊下へ崩れ、重い獣人との間に壁のような山ができた。

嗅覚の獣人が顔をしかめる。

割れた瓶、古い紙、埃、木屑。主廊下から流れてきた煙と油の臭いも混ざり、さっきまで拾えた匂いは、もう追えない。

ミレイは肩で息をした。


「ほら、探してみなさいよ。鼻がいいなら、むせずにね」


速い獣人が袖を裂いて壁から抜けた。嗅覚の獣人も後ろへ跳ぶ。

重い獣人は膝をついた。

まだ倒れてはいない。だが、踏み込めない。血が床に落ちている。


ミレイは弓を拾い直した。


「次に来たら、膝じゃ済ませない」


重い獣人が歯を剥き、床の木片を掴んで投げた。ミレイは肩を引いて避ける。その一瞬で、速い獣人が重い獣人の腕を引き、嗅覚の獣人が煙の奥へ道を作った。


追えば、保管庫が空く。

ミレイは追わなかった。ノアも動かなかった。


三つの影は廊下の暗がりへ消えた。重い獣人の足取りだけが遅く、血の跡が床に残る。

二人の間には、荒い息と、割れた瓶の匂いと、散らばった紙の擦れる音だけが残った。


床には、裂けた控え札が一枚落ちていた。

ミレイはそれを見て、舌打ちした。


「……腹立つ」


ノアは膝をつき、札を拾い上げた。


「読めます。ですが、提出用には使えません」


「本物は?」


「無事です」


「なら守ったの」


ノアは、少しだけ間を置いて頷いた。


「守りました」

主廊下では、ノルが片膝をついた状態から、ようやく立ち上がっていた。

肋骨の奥が痛む。息を吸うと、熱い針を飲み込んだような痛みが走る。それでも剣は握れている。

リディアの白い光が背に触れた。


「無理はしないでください」


「無理をしない位置にいません」


「それは、そうですね」


リディアの声は静かだったが、顔色は悪い。男が自分を狙っていることを、彼女も分かっている。だからこそ、怯えを表に出さない。出したところから崩される。

男の指が、壁へ向いた。

ケインが短槍を滑らせる。男の腕そのものではなく、腕が向く先を潰すように、壁際の飾り棚を突き倒した。置かれていた金具が床へ散る。

衝撃が走り、飾り棚が砕けた。

だが、ケインはもうそこにいなかった。踏み込みをずらし、槍の柄で床を払う。男は下がる。

女が、その背後を抜けようとした。


ノルが前に入る。

剣を振るうのではなく、通路に置くように構えた。切っ先は女の胸元ではなく、足の進む場所を塞いでいる。

女は立ち止まった。


「あら、飛ばされたばかりなのに」


「通すほどではない」


「痛そうよ」


「痛い」


ノルは短く認めた。


「だから、早く終わらせる」


女が笑う。


「白鹿の男って、揃って面白くないのね」


ノルは答えなかった。

その沈黙の横で、リディアが小さく息を吸った。男の視線がまた彼女へ向いたからだ。

今度は天井だった。

ノルは動こうとした。だが、体が遅れる。

ケインが先に動いた。

短槍を上へ突き出す。頭上の梁が鈍く鳴り、漆喰の欠片と古い木片が落ちてきた。ケインは大きい破片だけを弾き、リディアは目を閉じずに両手を前へ出した。

白い光が薄く広がり、細かな破片の勢いを殺した。

その瞬間、男が横へ踏み込む。

狙いはリディアではなかった。ケインの足元だ。


床が鳴った。ケインの体がわずかに沈む。

女が笑う。


「足元がお留守よ」


ノルが動いた。

痛みで息が詰まる。それでも、剣は間に合った。女の刃を受け、横へ流す。受け止めれば腕が死ぬ。だから、止めずに逃がす。

リディアの光がケインの足元へ落ちる。

ケインは体勢を戻し、短槍を突き出した。

穂先が男の外套を裂く。


浅い。

血もほとんど出ない。

だが、初めて男の足が止まった。

その奥で、保管庫側から笛が鳴った。


二度。


守った、という合図だった。

ケインの目が一瞬だけそちらへ動く。

女も聞いた。

彼女の顔から、薄い笑みが消える。


「……へえ」


その一言には、さっきまでの挑発とは違う色があった。焦りではない。苛立ちだ。

男は何も言わない。だが、退く位置へ足を置いた。

ケインはそれを見逃さなかった。


「逃げるのか」


女が鼻で笑った。


「年寄りは言葉が雑ね。引き際を選ぶと言って」


「奪えなかったのなら同じだ」


その時、廊下の奥で二つ目の煙玉が割れた。

灰色の煙が広がり、視界を薄く潰す。男が床を見た瞬間、ノルはリディアの前へ入った。

衝撃が来る。


今度は床ではなかった。

半分落ちていた火除けの鉄戸が、内側から叩かれたように跳ね、金具が悲鳴を上げる。遅れて風圧がノルの体にぶつかった。踏ん張った足が石床を削る。

完全には飛ばされなかった。

ケインが槍の柄をノルの背に当て、支えたからだった。


「立て」


「立ってます」


「なら、倒れるな」


「無茶を言いますね」


「今さらだ」


その短いやり取りの間に、男と女は煙の向こうへ引いた。

追えば、リディアを置くことになる。

保管庫側も荒れている。ケインは追わなかった。

代わりに、低く命じた。


「追うな。保管庫を確認しろ。負傷者を出せ。火を消せ」


白鹿の隊員たちが動き出した。誰が扉を押さえるか、誰が薬箱を持つか、誰が外へ回るか。短い指示が重なり、煙の残る廊下に足音が戻る。


ノルは壁に手をつき、床に残った割れ目を見た。

まだ息は浅い。肋骨の奥も熱い。それでも、見えたものだけは言わなければならなかった。


「一度じゃなかった」


ケインが目だけを向ける。


「最初の衝撃は受けました。ですが、遅れてもう一つ来た。床か、柱か……別の場所からです」


ケインの目が細くなる。


「遅れて響く衝撃か」


ノルは頷いた。

それ以上は言わなかった。仕組みを語れるほど見えたわけではない。今分かっているのは、男の魔法が一つの点だけで終わらないということ。

それだけだった。


館の外、裏路地へ抜けた暗がりで、イレーネは壁に手をついた。

外套には埃がつき、袖の一部が裂けている。大きな傷はない。だが、顔には苛立ちがあった。

速い獣人と嗅覚の獣人が、少し遅れて戻ってくる。

その後ろで、重い獣人が壁に肩をぶつけるようにして現れた。足を引きずっている。床に落ちた血の跡が、暗がりへ細く続いた。


イレーネはその傷を見て、舌打ちした。


「ずいぶん派手にやられたわね」


速い獣人は答えない。嗅覚の獣人が低く唸った。

イレーネは、暗がりの向こうにある館を睨む。


「白鹿のやつら、読んでやがった。白い封筒は、やはり餌ね」


サイモンは壁際に立っていた。

外套の裂けた部分を、指で軽く払う。血は滲んでいない。表情も変わらない。

イレーネが睨む。


「保管庫も空じゃなかった。本物を置いて待っていた。ふざけた度胸だわ」


サイモンは館の方角を見た。まだ合図の灯りが揺れている。


「見えたものだけで決めるなら、そうでしょう」


イレーネの眉が動いた。


「何が言いたいの」


サイモンはすぐには答えなかった。

少し間を置いて、低く言う。


「失敗かどうかは、もう少し後で決めればいい」


それは、誰かに向けた言葉のようでもあった。

イレーネはしばらくサイモンを見ていたが、やがて息を吐いた。


「気に入らない言い方」


「そうですか」


「ええ。ものすごく」


それでも、彼女はそれ以上言わなかった。

白い封筒は餌だった。保管庫は守られていた。実働役の一人に深手を負わされ、物証は奪えなかった。

それは、認めるしかない。


サイモンは、もう館を見ていなかった。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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