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ダンジョンサポーター  作者: Aramaki_mai
第三章 白い封筒
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第40話 餌にかかる手

ダンジョンに潜る人たちの話です。

ライト文芸寄りのダークファンタジーです。


▼登場人物

エマ・ウォーカー     主人公です。

オルブライト・ケイン   白鹿のギルド長

ノル・ハーヴェイ     白鹿の探索隊長の一人

ニナ・クラーク      白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間

ノア・ベル        神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者

ガイ・ラザフォード    白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者

ミレイ・アスター     白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ 


▼主人公について

白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。

元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。


あらすじ

白鹿の館で内通者を探す罠が動き始める一方、エマの知らない場所で、オスカーはロイたちに絡まれていた。買い物帰りの包みは落ち、豆は散り、杖は水路へ投げ込まれる。怒り、屈辱、痛みを飲み込みながらも、オスカーは自分の手で杖を取り戻そうとする。そこへ現れた男サイモンは、乱暴に助けるのではなく、石の浮きや荷紐を示し、オスカー自身に杖を取らせる。サイモンの言葉は優しさに見えたが、オスカーの傷に深く触れるものだった。姉には言えない傷と、エマが気づけない孤独を抱えたまま、オスカーは濡れた杖を握って家へ帰ろうとする。その頃、白鹿の館では、別の誰かが落とされた餌へ手を伸ばそうとしていた。

午後になると、白鹿の館は朝の騒がしさを少しだけ手放した。


門の前で荷車を囲んでいた探索隊は、もうダンジョンへ向かっている。戻ってきた隊も、素材の仕分けと怪我人の記録を終え、治療室や食堂、契約係の机へ散っていた。午前中に三十人近い人間が入れ替わっていた記録室も、今はようやく机の木目が見える。


それでも、静かではない。

紙をめくる音があり、棚を開ける音があり、誰かが廊下で荷札を探している声がある。白鹿の館は、声を落としただけで、眠ったわけではなかった。

ノルは東側書庫の前で、古い報告書を開いていた。


読むためではない。

読んでいるように見せるためだった。


六階層で負った傷は、もうほとんど塞がっている。肋骨の奥に残っていた鈍い痛みも、深く息を吸った時に少し引っかかる程度になっていた。治癒スクロールとリディアの白魔法、それにマルタの処置が効いている。


完治したわけではない。

だが、今のノルは怪我人ではなく、白鹿の隊長としてそこに立つ必要があった。


棚の間を、記録係が行き来している。紐でまとめられた紙束が台の上に置かれ、その横には、五階層調査の写しが積まれていた。崩落地点の記録、持ち帰った石片の覚え、現場で回収した物の控え。


どれも、本物ではない。

少なくとも、奪われて困るものではない。

けれど、そう見えないようには作ってある。紙の端には、領主側へ提出するための印が押されていた。中身を知らない者が見れば、証拠一式に見えるだろう。


ノルは報告書の一行を目で追うふりをしながら、棚の向こうを見ていた。

人は、見られていると思えば動きを隠す。だが、見られていないと思った時ほど、足が本心に向く。


「ノルさん」


若い記録係が、紙束を抱えて近づいてきた。

レナという名の係だった。記録室に入ってまだ二年ほどだが、筆が早く、帳面の戻し場所もよく覚えている。午前中の混雑の中でも、彼女は何度も机と棚を往復していた。


「前回の五階層の報告、ここまでで合っていますか」


ノルは紙へ目を落とした。


「確認する」


レナは紙束を台の上へ置いた。指先に少し墨がついている。朝から書き続けているのだろう。疲れは見えるが、動きに不自然さはない。

ノルは一枚目をめくった。


「古い報告書は、どこまで出した」


「東側書庫にある分は、ほとんどです。あとは、地下の古い保管分と照らし合わせるそうです」


「誰が見る」


「夜番のベックさんが鍵を出して、ケインギルド長が確認すると聞きました」


「そうか」


レナはそこで、少し声を落とした。


「領主側へ出すなら、実務官の名も入れますか」


ノルは紙から目を上げなかった。


「誰の名を聞いている」


「グレアム・ヴェイル様です。前に、監視所提出の件で見たことがあったので」


答えは早かった。

早すぎるわけではない。記録係なら、その名を知っていてもおかしくない。領主側へ出す書類に慣れている者ほど、宛先や実務官を気にする。

それでもノルは、その名を胸の内に置いた。


「今は入れない。こちらで確認してからだ」


「分かりました」


レナは素直に頷き、紙束を抱え直した。


「では、東側書庫の分はこのまままとめます」


「頼む」


レナは書庫の奥へ戻っていった。

足音は急いでいない。振り返りもしない。怪しいと言えば怪しいが、怪しくないと言えば、どこまでもただの仕事だった。

ノルは報告書を閉じなかった。閉じれば、反応になる。

廊下の向こうで、鍵束の音が鳴った。地下へ向かう階段の方だった。

ノルが目だけを動かすと、古参の夜番が通り過ぎるところだった。白髪混じりの髪を後ろへ撫でつけ、腰に鍵を下げている。ベックだ。

ベックは、地下保管棚の鍵を長く扱っている男だった。白鹿に入ったばかりの若い探索者より、古い棚の癖をよく知っている。


「地下を開けます」


ベックはノルに気づくと、短く言った。


「聞いている」


「古い地図を戻すとか」


「ああ」


「奥棚でよろしいんですか」


ノルは、ほんの少しだけ視線を上げた。


「なぜ聞く」


ベックは鍵束を片手で押さえた。


「奥棚は湿気が少ない。ただ、出し入れの記録が面倒です。今夜だけなら、手前の棚でも足ります」


筋は通っている。

地下の棚を知っている者なら、そう言うだろう。

ノルは一呼吸置いた。


「ケインギルド長の指示通りでいい」


「承知しました」


ベックはそれ以上聞かなかった。

階段を下りていく足音が、石壁に沿って沈んでいく。音が遠くなるまで聞いていれば、そこに意味があると見せることになる。

ノルはまた報告書へ目を戻した。


東側書庫。地下保管棚。

どちらにも、人の目が向いた。

けれど、それだけで名を出すことはできない。


問いただすな。紙を見ろ。人を見ろ。形になるまで待て。

待つというのは、簡単なようでいて、傷口を押さえ続けるのに似ていた。力を抜けば漏れる。強く押しすぎれば、相手が気づく。


一方、物資記録室では、棚の中身が少しずつ動かされていた。

普段は素材記録、消耗品、スクロールの使用控え、補充札で埋まっている部屋だ。奥の棚は古く、扉を開けると木と紙と薬草の匂いが混じって出てくる。

今日の物資記録室には、ノアがいた。


神殿へ提出する名目のものを扱うなら、ノアが立ち会っても不自然ではない。むしろ、ノアがいない方が不自然だった。

机の上には、封のついた小箱が置かれている。

本物ではない。だが、それらしく見せるため、封の結び目も札の向きも整えられていた。五階層調査で回収した特殊スクロールの残滓と、調査記録の控えをまとめたもの。そう見えるようにしてある。


奥棚には、今夜だけ神殿提出用の証拠物を置くことになっていた。

それは、物資記録室に関わる者なら聞かされていてもおかしくない話だった。

ただし、何をどう呼ばせるかは別だった。


最初に来たのは、支援係のユードだった。

肩幅のある男で、普段は物資の搬入と棚卸しを担当している。空箱を二つ抱えて入り、机の前で足を止めた。


「棚、空ける分を確認に来ました」


「お願いします」


ノアは机の上の帳面を開き、奥棚の番号を示した。


「ユードさんは、神殿提出用のスクロール保管箱の数を控えてください。箱は動かして構いませんが、中身には触れないでください」


「神殿提出用ですね」


「はい。今夜だけ物資記録室の奥棚に置きます。置き場所を変える時は、私が確認します」


ユードは頷き、棚番号の札を受け取った。


「分かりました。スクロール保管箱の数だけですね」


「ええ」


ユードは作業に入った。

箱を動かす音が、部屋の中に低く響く。彼は棚の位置を確かめ、空いた場所に印をつけ、帳面へ数字を写した。ノアはその間、小箱の封には触らせなかった。

作業が終わると、ユードは空箱を抱え直した。


「これで足りますか」


「足ります。助かりました」


「では、準備部屋に戻ります」


ユードはそれ以上聞かず、部屋を出ていった。

廊下では、ミレイ・アスターが予備矢の控え札を片手に歩いていた。

物資記録室へ張りついている顔はしない。準備部屋と廊下を行き来し、時々、札の束をめくっては違う棚へ戻す。今日は館内の手が足りない。探索者が荷札の確認を手伝っていても、目立つほどではなかった。

ミレイは、ユードが空箱を抱えて出ていくのを見た。


何も言わない。

ただ、札をめくる指先だけが、ほんの少し遅れた。


しばらくして、セラが来た。

薬草や布の仕分けをよく手伝う支援係の女で、今日は布袋を一つ抱えていた。部屋に入る前、廊下でミレイとすれ違う。


「忙しいわね」


ミレイが軽く言うと、セラは少しだけ笑った。


「朝からずっとです。どこへ行っても箱と札ばかり」


「白鹿の一日は紙でできてるのよ」


「本当に」


セラはそう返して、物資記録室へ入った。

その時、部屋にいたのはノアだけだった。

ノアは別の札を取り、セラに渡す。


「セラさんは、神殿提出用の残滓袋の数を写してください。袋の口は開けないでください」


「残滓袋ですね」


「はい。五階層調査分としてまとめます。数と札だけで結構です」


セラの顔に、少し緊張が走った。

スクロール残滓という言葉には、白魔導士や神殿が絡む重さがある。中身を知らなくても、普段の薬草袋とは違うことくらいは分かる。


「分かりました。触るのは札だけにします」


「お願いします」


セラの作業は早かった。

袋の数を写し、札の紐を揃え、確認を受けるとすぐに部屋を出た。廊下へ出た時、ミレイは準備部屋の戸口で矢束の控え札を確認していた。


「終わった?」


「終わりました。緊張しました」


「ノア相手だと、ただの布袋も神殿の秘宝に見えるものね」


「聞こえます」


物資記録室の中からノアの声がした。

ミレイは肩をすくめた。


「耳まで硬い」


セラは小さく笑い、布袋を抱えて廊下の向こうへ戻っていった。

そのあと、少し間が空いた。

物資記録室の前を、何人かの支援係が通り過ぎる。誰かが水袋の数を聞き、別の誰かが矢筒の修理札を探していた。

白鹿の館では、誰かがどこかへ向かうこと自体は珍しくない。

だからこそ、足が止まる場所を見る必要がある。

ミレイは札の束を持ったまま、準備部屋と物資記録室の間を何度か往復した。見張っているようには見えない。ただ、仕事の途中で近くにいるだけだった。

それから、リースが来た。

手には、書き写し用の札束を持っている。


「記録札の整理、人手が足りないと聞きました」


ノアは顔を上げた。


「リースさん」


「邪魔なら戻ります」


「いえ。お願いします」


その時、物資記録室にいたのはノアとリースだけだった。

廊下の向こうには人の声がある。だが、机の前で交わされる低い会話までは届かない。

ノアは薄い紙束をリースへ渡した。


「リースさんは、神殿提出用の白い封筒に付ける控え札をお願いします。封筒そのものは私が扱います」


「白い封筒ですね」


リースはいつも通りに頷いた。


「分かりました」


白い封筒は、机の上には出ていない。

出ているのは、封のついた小箱と、書き写し用の紙束だけだった。

リースは筆を取り、控え札を書き始めた。手は落ち着いている。問いかけにも、いつも通りに答える。


「日付は今日でいいですか」


「はい。時刻は入れなくて結構です」


「提出先の名は」


「神殿、とだけ。細かい宛名はこちらで入れます」


「分かりました」


リースの声は静かだった。

筆の先が紙を滑る音だけが、部屋に残る。

ノアは横で別の札を確認していたが、視線の端ではリースの手元を見ていた。疑う顔はしない。疑っていると悟らせるほど、ノアは粗くなかった。

リースは作業を終えると、札をそろえて差し出した。


「これで全部です」


「ありがとうございます。助かりました」


「ほかにありますか」


「今は大丈夫です」


リースは小さく頷き、筆を戻した。

その時、机の端に置かれた封の小箱へ、一度だけ視線を落とした。

一度だけだった。

神殿提出用のものを扱っていると聞いていれば、目が行ってもおかしくない。だからノアは何も言わなかった。

リースは礼をして、物資記録室を出た。

廊下で札をめくっていたミレイは、顔を上げなかった。ただ、リースが通り過ぎたあと、準備部屋へ向かうふりをしながら、物資記録室の扉の方へ目を向けた。

中では、ノアがリースの書いた控え札を机の端に置いていた。

午後の光が、廊下の床を少しずつ長くしていく。


三つの餌は、それぞれの場所で揺れていた。

東側書庫では、レナが領主側の実務官の名を気にした。

地下保管棚では、ベックが奥棚の位置を確かめた。

物資記録室では、ユードがスクロール保管箱を、セラが残滓袋を、リースが白い封筒を、それぞれ別の時間に聞いた。

どれも、言い訳が立つ。


だから、まだ誰の名も出せなかった。

夕方近くになって、ガイが戻った。

白鹿の館に入る時も、彼は急がなかった。外套に町の埃を少しつけ、片手には紙包みを持っている。どこかの屋台で買った焼き菓子だった。

門番に軽く手を上げ、廊下を歩き、記録室の前を通る。

ノルは東側書庫から出てきたところだった。

二人は、すれ違う形で足を止めた。


「外は」


ノルが低く聞く。


ガイは紙包みを軽く持ち上げた。


「焼き菓子は甘い」


「聞いていない」


「外は普通だ。普通すぎて面倒だった」


ノルはガイの顔を見た。

ガイの口元にはいつもの軽さがある。だが、目は笑っていなかった。


「何かあったな」


「東水門へ抜ける通りで、使い走りの子どもがひとり、妙な待ち方をしていた」


「待ち方?」


「腹を空かせた子どもは、屋台を見る。仕事で待ってる子どもは、相手の来る方を見る」


ガイは紙包みを開け、焼き菓子をひとつ口に放り込んだ。


「その子は、どっちも見なかった。足元ばかり見ていた」


「誰かに渡したか」


「渡しかけた。だが、相手は受け取らなかった」


ノルの眉がわずかに動いた。


「どういうことだ」


「受け取る前に、俺が近くに立った」


ガイは何でもないことのように言った。


「子どもは俺を見て逃げた。相手の方は、逃げなかった。逃げる必要がない顔をしていた。通りすがりの商人みたいな顔だ」


「追ったのか」


「追っていない。子どもが落としたものだけ拾った」


ノルは一度だけ、廊下の奥へ目を向けた。


「相手を逃がしたのか」


「今捕まえても、ただの通りすがりで押し切られる。子どもも、たぶん中身を知らない」


ガイは紙包みの底から、小さく折られた紙片を取り出した。


「こっちの方が、まだ喋る」


ノルは受け取らなかった。

廊下で受け取れば、誰かの目に残る。


「場所を変える」


「同感だ」


二人は何事もない顔で別れた。

ノルは記録室へ戻り、ガイはそのまま階段へ向かった。少し遅れて、ノルも別の用事を装ってギルド長室へ向かう。

ギルド長室には、ケインがいた。

机の上には、三枚の木札が伏せて置かれている。

物資記録室。東側書庫。地下保管棚。

表は見えない。


だが、ノルにはどれがどれか分かった。

ガイが扉を閉めると、部屋の中の音が一段落ちた。

ケインはすぐには聞かなかった。

ガイが紙片を机に置く。


紙は安いものだった。町の店で包み紙にも使われる程度の、薄い紙。折り目には、湿った指の跡が残っている。

ケインが開いた。

中の文字は短かった。


白い封筒。

東水門の下。

鐘二つ後。


それだけだった。

ノルはしばらく黙っていた。

短い言葉なのに、部屋の空気は重くなった。

物資記録室の話が、外へ出ている。

そして、その紙に書かれた呼び名は、白い封筒だった。

ケインは紙片を見下ろしたまま言った。


「外へ出たな」


ガイは椅子に座らず、壁際に立っている。


「相手は受け取れなかった。だが、場所と時刻はもう決まっている。話は流れていると見ていい」


ノルは机の上の木札を見た。


「物資記録室の奥棚に、神殿提出用のものが置かれることは複数に伝わっています」


「そうだ」


ケインは言った。


「それだけなら、まだ誰とは言えない」


ノルは紙片を見る。


「白い封筒」


「ああ」


ケインは、机の上に置いた別の小さな控えへ指を伸ばした。

そこには、今日、物資記録室で誰に何を聞かせたかが短く記されていた。


ユード――神殿提出用のスクロール保管箱。

セラ――神殿提出用の残滓袋。

リース――神殿提出用の白い封筒。


ノルは順に目で追った。

三人とも、物資記録室の奥棚に神殿提出用の証拠物が置かれることは知っていた。だが、外で拾われた紙片に書かれていた呼び名は、白い封筒だった。

その言葉を聞いた時、部屋にいたのはリースだけだった。

ノルの喉の奥が詰まった。


リース・ヘイル。


その名は、紙の上ではただの文字だった。

だが、部屋の中に落ちた瞬間、急に重さを持った。

ガイの口元から軽さが消え、ケインは表情を崩さないまま紙片を見下ろしている。

ノルは、その名がただの文字ではなくなっていくのを見ていた。


「……確定ですか」


「まだだ」


ケインの返事は早かった。


「この紙だけでは、本人が渡したとは言えん。誰かが聞きかじった可能性もある。だが、外へ出た言葉は、リースへ渡した言葉と重なった」


「なら、次は」


「泳がせる」


ケインは言った。


「白い封筒が物資記録室の奥棚にあると思っているなら、取りに来る。来なければ、それまでだ。だが、手を伸ばしたなら、その先を見る」


ガイが紙片へ視線を落とした。


「盗ませるのか」


「本物は置かん。持ち出されても痛まないものだけを置く」


ケインは伏せていた木札の一枚を表に返した。


物資記録室。


その文字が、机の上に現れる。


「白い封筒に見えるものを置く。中身は、重要スクロールに見えるダミーだ。外へ持ち出されたところで、こちらの傷にはならん」


ノルは机の上の木札を見た。


「本命は動かさないんですね」


「保管庫の中身を動かせば、内にいる誰かに気づかれる」


ケインは短く答えた。


「気づかれれば、相手は動きを変える」


ノルは黙った。本命を動かさない。

危うい判断にも見える。だが、今は内通者を見ている。こちらが守るものを動かせば、それだけで相手に知らせることになる。


ケインは、それを嫌ったのだろう。


「その場では止めないんですね」


ノルが言った。


「止めるのは、行き先が見えてからだ」


ケインの声は低かった。


「手を伸ばしただけでは足りん。盗んだ物をどこへ運ぶか、誰へ渡すつもりか。そこまで見なければ、糸は切れる」


ガイが腕を組んだ。


「東水門の下」


「ああ」


「外は俺が見る」


ノルも言った。


「中は俺が見ます」


ケインは二人を見た。


「誰も死なせるな。これは捕まえるための餌だ。殺すための餌ではない」


その言葉に、ノルは小さく息を吸った。

六階層の浅い水の冷たさが、足元に戻った気がした。

救助を名乗った男の声、壁に弾かれた毒針の音、崩れた天井の下でエマとニナが息を詰めた一瞬。

あれは、ただの襲撃ではなかった。

白鹿の内側から漏れた言葉が、あの暗い水場まで届いていたのかもしれない。

ノルは机の上の木札へ視線を落とした。


物資記録室。


まだ誰かが封筒を掴んだわけではない。だが、そこへ向かって伸びようとする手の輪郭だけは、もう見え始めていた。

その手が封筒を取り、どこへ運ぶのか。

今度は見落とさない。

ケインは紙片を折り直し、灯りのそばへ置いた。燃やすことも、捨てることもしない。まだ証拠とは呼べないが、ただの紙切れとして扱うには、そこに書かれた言葉は重すぎた。

窓の外では、白鹿の館が夕方の影に沈み始めていた。

廊下では誰かが笑い、遠くの準備部屋では荷箱を閉じる音がした。

何事もない顔の下で、罠は形を変えた。

餌はもう、ただ落ちているだけではない。

誰かが、それを拾いに来る。



本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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