第3話 第五階層へ
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
カイル 今回の探索隊の前衛の一人
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
隊長は全員の返事を聞き終えると、しばらく黙って地図を見下ろしていた。
松明の火が、石壁に落ちた影を揺らしている。
その沈黙だけで、次に口にする言葉が軽いものではないと分かった。
「方針を変える」
隊長は短く言った。
「このまま四階層で粘っても、予定していた収穫には届かない。物資の残量を考えても、だらだら続ける余裕はない」
副隊長がかすかに眉を寄せる。
「下に降りる気ですか?」
「そうだ」
隊長は地図の一点を指で押さえた。
「五階層へ行く」
その一言に、何人かが息を呑んだ。
五階層。
たった一階層下がるだけで、帰り道の重さが変わる。
隊長は全員を見回した。
「長くはやらない。今日中に成果を補って、引き返す」
誰もすぐには口を開かなかった。
「戦い方は変えない。俺が誘う。狭い通路まで魔物を引き込む。副隊長は前衛をまとめて、左右から挟め」
副隊長はすぐに頷いた。
「了解。前衛は二手に分ける。合図までは絶対に飛び出すな。焦って出れば、隊長ごと巻き込む」
「分かってる」
「矢の残数は?」
弓兵の一人が答える。
「まだ戦えます。ただ、長引くと厳しいです」
それを聞いて、エマは矢束を確かめ、ポーションと解毒剤の瓶を数えた。薬草も回復スクロールも包帯も残ってはいるが、どれも好きに使える数ではない。
一つ使えば、帰り道の余裕が一つ減る。エマは革袋の口を閉じ、背中に残る重さを確かめた。
「エマ」
隊長がこちらを見る。
「支援を頼む。前衛への補給、負傷者の回収、物資の判断。補給と救護は、いつも通りだ」
「了解」
エマは短く答えた。
いつも通りとは、便利な言葉だと思った。誰かが遅れれば背中を押し、倒れればどうにかする役は、変わらず自分に回ってくる。
エマは荷物を背負い直した。
――今日いっぱい。
安全に見て、物資が持つのはそこまでだ。全員で帰れる道は、もう細い。
それでもエマは、五階層へ続く階段を見下ろした。重い闇が、底からこちらを覗いているようだった。
――嫌な感じ。
そう思ったが、口には出さなかった。
言葉にすれば、不安は形を持つ。形を持てば、誰かに伝染する。
サポーターがそれをしてはいけない。
エマは口元だけ笑ってみせた。
「じゃ、行きますか。今日中に稼いで帰るんですよね」
ニナが肩をすくめる。
「軽いですねえ」
「重く言ったら荷物まで重くなるでしょ」
「それはもう重いのでは?」
「それを言ったら負け」
そのやり取りに、数人が小さく笑った。笑えるうちは、まだ大丈夫だ。
一行が五階層へ降りると、四階層よりも冷たい空気が肌に触れた。狭い通路は壁の凹凸も多く、視界は悪いが、待ち伏せには向いていた。
「この先の広間に魔物がいる。俺が引く。前衛は左右の陰に入れ」
副隊長が即座に指示を飛ばす。
「右に二人、左に二人。弓は右後列。飛び出すのは俺の合図の後だ。エマ、補給は左後列で」
「了解」
エマは通路の隅に荷物を置き、すぐ取り出せるように中身を整えた。
矢束は手の届く位置へ。ポーションは蓋を緩め、スクロールは種類ごとに分ける。薬草は布に包み直し、必要な時に片手で取れるように置いた。
準備が整う頃、隊長が一人で前へ出た。
誘い役。
作戦の中で、もっとも危険な役割だ。
魔物に気づかれなければ始まらない。近づきすぎれば、その場で噛みつかれる。離れすぎれば、追ってこない。
相手を怒らせ、背中に牙が届く寸前の距離を保ったまま、狭い通路まで引き込む。
隊長は、それを自分で引き受けている。
そこだけは、エマも認めていた。
――責任は、ちゃんと背負う人なんだよな。
だから厄介なのだ。
嫌いになりきれない。
やがて、奥から低い唸り声が聞こえた。
次の瞬間、隊長が通路の向こうから駆け戻ってくる。その背後に、獣型の魔物が二体。
「来るぞ!」
副隊長の声が飛ぶ。
隊長が狭い通路へ魔物を引き込む。
一体目が牙を剥き、飛びかかった。
「今だ!」
左右の影から前衛が出た。
剣が走り、槍が突き込まれる。弓兵が後方から矢を放つ。
エマはすぐに動いた。
「矢、次!」
後列の弓兵に矢束を投げる。
「助かる!」
別の場所で、前衛の一人が腕を切られた。
エマは身を低くして走り寄り、ポーションを投げ渡す。
「飲むな、傷にかけて! まだ動ける!」
「了解!」
浅い傷なら、ポーションをかけて動ける状態を保てばいい。足や腕に支障が出るなら、薬草を当てて固定する。血が止まらないなら、スクロールを切るしかない。
そして命に届く傷なら、数を惜しむ理由はない。
エマはそう決めていた。
戦闘は順調だった。
隊長が誘い、副隊長が挟撃を制御する。前衛も、さっきよりは動きが合っている。
四階層より魔物は強い。
だが、素材の質もいい。
一体倒すたび、エマはすぐに屈み込んだ。倒した魔物の口元を開き、牙の欠けを確かめる。爪は泥を落として根元を見る。皮は傷が深すぎれば価値が落ちるため、刃を入れる場所を選ばなければならない。
戦闘が終わった瞬間から、素材は報酬になるか、ただの重荷になるかに分かれる。
「牙は使えます。皮は半分。爪も取れます」
「素材回収、今やるのかよ!」
前衛のカイルが、息を切らしながら言った。
「今やらないと傷みます!」
「ほんと忙しいな!」
「サポーターですので!」
エマはそう返しながら、すぐ次の補給へ走った。
何度か危ない瞬間はあったものの、隊は崩れず、収穫もそこそこ順調に増えていた。このままなら予定を取り戻せるかもしれないと思いかけた時、地面が低く震えた。
岩が擦れるような重い音が遠くで鳴り、続いて壁の奥から振動が響く。エマは手を止めた。
「……待って」
誰もすぐには反応しなかった。
次の瞬間、通路の奥の壁が砕けた。
轟音とともに、巨大な腕が突き出される。
石を寄せ集めたような巨体。目に当たる部分には、鈍い魔力の光が灯っていた。
ゴーレム。
「散れ!」
隊長が叫んだ。
だが、遅い。
ゴーレムの腕が横薙ぎに振るわれた。
カイルが避けようとした。剣の腹と腕当てで受け流そうとしたのだろう。
けれど、受け流せる重さではなかった。
鈍い音。
体が宙に浮いた。
「っ――!」
カイルの体が、通路脇の崩れた足場を越え、岩棚の上に叩きつけられた。
さらにそこから落ちる。
下は硬い石床。
頭からではない。
それでも、この高さからまともに落ちれば、ただでは済まない。
一瞬、全員の視線がそちらへ向いた。
エマの体は、考えるより先に動いていた。
――間に合わない。
足では間に合わない。
だったら。
エマは背嚢を肩から引き剥がした。スクロールも薬草も、予備の布や食料も詰まった重い荷を両腕で掴み、落下地点へ向けて全力で投げた。
「届けっ!」
背嚢が石床を滑る。
同時に、エマは手元の布束を引き抜き、広げるように投げた。
布と紙束が地面に散る。
直後、カイルの体がそこへ落ちた。
背嚢が潰れ、布と紙束が衝撃を殺す。
それでも、受け止めきれない。
肋骨のあたりを強く打ったのか、カイルは声にならない音を漏らした。口の端から血がこぼれる。
まずい。
呼吸が浅い。
エマの背筋が冷えた。
その一瞬だけ、音が消えた。
昔の戦場が、目の奥をかすめる。
血の匂い。間に合わなかった手。冷たくなっていく指先。
誰かが言った。
仕方なかった、と。
違う。
仕方なくなんかない。
間に合わなかっただけだ。
自分が、間に合わせられなかっただけだ。
「エマ!」
誰かが叫んだ。
エマは我に返り、駆け出していた。
ゴーレムの足元を縫うように走る。砕けた石が飛び、頬をかすめた。
それでも止まらない。
「どいて!」
カイルのそばへ滑り込むと、血の匂いが鼻を突いた。
呼吸が浅い。内側をやっている。
考えるな。
まず息を確かめる。血を押さえる。胴を動かしすぎず、ここから引きずり出す。
順番を間違えれば、助けるはずの手で殺す。
エマは散らばったスクロールを掴み、カイルの肋骨の上に押し当てた。
一枚では足りない。
もう一枚。
さらに、もう一枚。
「ここで惜しむな」
自分に言い聞かせる。
スクロールが淡く光り、傷を塞ごうと魔力が走る。
カイルが苦しそうに身をよじった。
「動かないで!」
エマは声を荒げた。
「息だけして! 今はそれだけでいい!」
普段の軽さはなかった。
その声に、カイルの体がびくりと止まる。
エマはすぐに肩口を掴み、体を引きずった。
「副隊長! 右、空けて!」
副隊長が即座に反応する。
「前衛、右を空けろ! 隊長、十秒稼げ!」
隊長がゴーレムの前へ踏み込む。
「任せろ!」
ゴーレムの拳が振り下ろされる。
隊長は紙一重で避け、壁際へ誘導した。
副隊長が槍を構え、ニナが短剣を手に低く走る。弓兵は魔力光の走る胴へ矢を放った。
エマはカイルを引きずる。鎧と装備の重さに呼吸が乱れ、血で手が滑っても、掴んだ肩口は離さなかった。
――死なせない。
私がいる現場で、それはない。
絶対に。
「こっち!」
エマはカイルの体を引きずりながら叫んだ。
「布! 固定具! 残ってるスクロールもこっちに投げて!」
ニナが弾かれたように荷物へ走った。
何を取ればいいのか、一瞬迷う顔をする。それでもエマの声に従い、指定された袋を掴んで放る。
エマは片手で袋を受け取り、カイルのそばへ膝をついた。
カイルは肋骨のあたりを押さえ、声にならない声を漏らしていた。唇の端から、赤い血が滲んでいる。
「吐血あり。呼吸が浅い。飲ませたら詰まる」
迷っている暇はない。
エマはスクロールをもう一枚、カイルの肋骨の上に押し当てた。
淡い光が傷を包む。
足りない。
もう一枚。
「効いて。お願いだから効いて」
スクロールを重ねるたびに光が強くなる。
カイルは背を大きく跳ねさせ、苦しげに息を吐いた。
「動かないで」
エマは布を引き裂き、胴を固定した。呼吸を妨げるほど締めてはいけないが、緩ければ折れた骨が動いてしまう。指先の震えをこらえ、巻く力を加減した。
血が止まっているか。息が続いているか。折れた骨が余計に動いていないか。スクロールの光が、必要な場所へ届いているか。
そして、声は届くか。
何度も見て、何度も判断を間違えかけて、それでも救護の現場で覚えてきたことだった。
背後では、まだゴーレムの重い足音が響いている。
隊長が囮になり、副隊長が前衛を立て直そうとしている声が聞こえた。
「エマ! こっちは長く持たない!」
副隊長の声に、エマは返事をしなかった。今、目を離せばカイルが落ちる。苦しげに浅く上下する肩を見つめる。
まだ、生きている。
エマは血のついた手で、カイルの頬を軽く叩いた。
「聞こえる? 死なないで」
カイルの目がかすかに動く。
「帰るよ。全員で。だから、ここで落ちないで」
もう一枚、スクロールを使う。
光が包帯の下に染み込んでいく。呼吸が、かすかに深くなった。
エマはそこでようやく、肩の力を抜いた。
まだ油断はできない。
でも、今すぐ死ぬ状態ではない。
なら、次だ。
エマが前を見ると、咆哮するゴーレムに前衛が押され、陣形が崩れかけていた。このままでは、もう一人やられる。
エマは落ちていた剣を拾い上げた。
「エマさん!?」
ニナが叫ぶ。
「使うのは私じゃない」
柄の鍔へ、荷を固定する短い革紐を回す。
ゴーレムの胴には亀裂があった。壁際へ誘導された時、自分で石壁へぶつけた跡だ。奥で鈍い光が揺れている。
核。
刃で斬るには狭い。
だが、楔なら入る。
「副隊長! 左腕を止めて! 胴の亀裂を開きます!」
副隊長は一度だけ亀裂を見た。
「左腕を潰せ! ニナ、剣を受け取れ!」
エマは剣を床へ滑らせた。
ニナが低く走り、柄を拾う。斬りかからない。隊長が正面から注意を引き、副隊長の槍が左の関節へ入った瞬間、亀裂へ刃を横向きに打ち込んだ。
剣が石に噛む。
革紐の端は、エマの手に残っていた。
「そのまま!」
エマは近くの柱跡へ紐を回した。腕だけで引かない。柱を支点にし、背と脚で荷重をかける。
軋む革紐をエマが引き、ニナが柄を押し下げると、亀裂が指一本ぶん開いた。
「核が見えた!」
弓兵の矢が入った。
一射目は石に弾かれる。
隊長が剣の腹で楔を叩く。亀裂がもう一段広がった。
二射目が、奥の光を射抜いた。
ゴーレムの体内で光が弾ける。
石の巨体が震え、暴れた腕が壁を砕いた。ニナは剣を捨てて退き、エマも紐を離してカイルの上へ身を伏せる。
直後、魔力の光が消え、巨体が膝から崩れ落ちた。
石片が床に散らばる。
しばらく、誰も声を出せなかった。
荒い息だけが、通路に響いている。
エマは床に片膝をついたまま、肩で息をしていた。
手が震えていた。
怒っているのか、怖かったのか、助かったと思っているのか、自分でも区別がつかなかった。
ただ、体の奥だけが熱い。
「エマさん!」
ニナが駆け寄ろうとする。
エマは、それを手で制した。
「負傷者を先に見て」
短く言う。
「カイルを運べる状態にする」
ニナは一瞬言葉を失い、それから頷いた。
エマは立ち上がり、ふらつきながらカイルの脇へ回った。
カイルの呼吸はまだ浅かったが、先ほどよりは安定していた。
エマは膝をつき、血で濡れた口元を拭う。
「吐血は……止まってる」
スクロールの光は、まだ薄く残っていた。
応急処置は効いている。
だが、安心できる状態ではない。
エマはカイルの肋骨の上にそっと手を当て、呼吸の浅さと骨の違和感を確かめた。
「肋骨は、たぶん折れてる。肺は……ぎりぎり」
エマは残りのスクロールへ手を伸ばした。
一枚、追加する。
一瞬、指が止まった。
残りは少ない。
ここで使えば、帰路の余裕はさらに削れる。
けれど、惜しんで死なせたら何のための物資だ。
「使う」
エマの声は強かった。
スクロールをカイルの包帯へ重ねる。
淡い光が、再び傷を包み込んだ。
カイルの表情が、ほんの少し緩んだ。エマはそこで初めて、床に座り込みそうになるのをこらえた。
隊長が近づいてきた。その顔には、さっきまでとは違う緊張が残っている。
「……助かった」
エマは返事をしなかった。
隊長は続ける。
「今の判断がなければ、死んでいた」
「そうですね」
エマの声は、冷たかった。
自分でも驚くほど。
隊長が言葉を詰まらせる。
エマはカイルの呼吸を見たまま、低く言った。
「物資は減りました」
「……ああ」
「でも、使わなかったら死んでました」
「分かっている」
「本当に?」
エマは隊長を見た。
その目に、抑えきれない感情が滲んでいた。
「本当に、分かってますか?」
周囲の空気が固まる。
エマは自分でも、言い過ぎだと分かっていた。
隊長も危険な場所にいた。
分かっているのに、止まらなかった。
「スクロールの数がどうとか、消費を抑えられたところがなかったかとか、そういう話じゃないんですよ」
エマの声が震える。
「死ぬんです。判断ひとつで。遅れたら、迷ったら、惜しんだら」
カイルが苦しそうに息をする。
エマは奥歯を噛んだ。
「私は、死なせたくないんです」
また目の前で誰かの息が浅くなるのが怖くて、エマはカイルへ視線を落とした。
「……すみません。今のは、言い過ぎました」
隊長はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「いや」
短い言葉だった。
「言わせたのは、俺だ」
エマは何も返せなかった。
副隊長が場を切るように声を上げる。
「負傷者を運ぶ準備をする。素材は最低限を手分けして回収。撤退経路を確認するぞ」
隊長が頷く。
「撤退する」
その判断は早かった。
「五階層での狩りはここまでだ。全員で帰る」
それで、エマの肩から力が抜けた。
エマは血のついた手で、壊れた背嚢を拾い上げた。中では潰れた薬草と砕けた食料が混じり合い、布が血を吸っていた。
でも、役に立った。
人一人を、冷たい地べたの上に叩きつけられたままにせずに済んだ。
それだけで十分だった。
ニナがそっと近づいてくる。
「エマさん」
「なに?」
「服、また汚れてますよ」
エマは自分の服を見下ろした。
血が袖に染み、膝には土がこびりついていた。薬草の汁まで前身頃に擦れて、服はもう元の色が見えない。
こないだの肉汁なんて、かわいいものだった。
エマはしばらく服を見下ろし、力なく笑った。
「……もう、今日は服ごと酒に浸かりたい」
ニナが小さく笑う。
オスカーがいたら、きっとくだらないことを言っただろう。
エマはそんなことを思いながら、カイルの容体をもう一度確認した。
まだ油断はできない。
でも、生きている。
隊長が撤退の指示を出す。副隊長が隊列を組み直す。
前衛は負傷者を守るように周囲へ散った。
エマは壊れた背嚢を背負い直し、残ったスクロールを数える。
少ない。
かなり少ない。
それでも、帰るだけなら足りる。
足りさせる。
エマはカイルの顔を見て、静かに呟いた。
「帰るよ」
誰に言うでもなく。
自分に言い聞かせるように。
「全員で」
五階層の闇は、まだ深く口を開けていた。
だが一行は、その奥へは進まない。
背を向ける。
生きて帰るために。
そしてエマは、誰よりも忙しく、誰よりも静かに、撤退の準備を始めた。




