第38話 餌をまく
ダンジョンに潜る人達の話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
オルブライト・ケイン 白鹿のギルド長
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ノア・ベル 神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者
ガイ・ラザフォード 白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
六階層から生還したあと、ニナはエマとオスカーの家で食事を囲む。まだ傷は痛み、笑えば腕に響く。それでも、治療部屋で見たノルとカーラのやり取りを思い出すと、黙ってはいられなかった。カーラはノルを弱い人扱いせず、ただ顔を見に来たと告げる。ノルもまた、普段なら口にしないような言葉で、来てくれて嬉しいと返していた。ニナはその距離感を「オトナの恋」だと語り、エマとオスカーを巻き込んで食卓を少しだけ賑やかにする。六階層の恐怖は消えていない。それでも、温かい煮込みと他愛ない会話の中で、三人は少しだけ日常へ戻っていく。けれど、白鹿の館ではすでに、六階層事件の裏にあるものを探るため、静かな罠が動き始めていた。
翌朝、白鹿の館は朝から人で膨れていた。
門の前には、これからダンジョンへ潜る隊が三組ほど集まり、荷車の周りで装備の確認をしている。水袋の栓を確かめる者がいれば、油袋を布で包み直す者もいる。縄の長さを測る声に、矢筒を抱えた若い探索者の返事が重なった。
戻ってきた隊もいた。
泥のついた外套を脱ぐ間もなく、監視所の札を握ったまま記録係へ回される順番を待っている。素材袋を足元に置いた者がいて、包帯を巻いた腕を仲間に支えられている者がいた。奥からは、先に怪我人の記録を取ってほしいという声が飛び、別の場所では、持ち帰った骨と皮を仕分け場へ回すよう支援係が手を振っている。
白鹿の朝は、静かに始まらない。
誰かが潜り、誰かが戻る。そのたびに人と荷が動き、記録が増える。
記録係の机の前だけでも、探索者と支援係を合わせれば三十人近い人間が入れ替わっていた。出発する隊は持ち込む荷を申告し、帰還した隊は戻った時刻と怪我人の有無を告げる。使ったスクロールの本数、持ち帰った素材、監視所の札。帳面は開かれたまま閉じる暇がなく、木札と紙束が人の手から手へ渡っていく。
昨日、墓地の近くの小屋で何が話されたのか。
ギルド長室で、どんな木札が机に置かれたのか。
そんなことは、この騒がしさの表には何ひとつ出ていない。
だからこそ、ノルは普段通りの顔で記録室へ向かった。
六階層で負った傷は、もうほとんど塞がっている。肋骨の奥に残っていた鈍い痛みも、深く息を吸った時に少し引っかかる程度になっていた。治癒スクロールとリディアの白魔法、それにマルタの処置が効いている。
完治したわけではない。
だが、誰かに肩を貸されるほどでも、治療室へ押し戻されるほどでもなかった。
今日のノルは、怪我人ではなく、白鹿の隊長としてそこに立つ必要があった。
記録係の机に近づくと、若い係が帳面から顔を上げた。
「ノルさん、五階層の報告書ですか」
「それもある」
ノルは机の端に置かれた束を見た。
「昨日戻った隊の帰還記録は、まだ途中か」
「はい。朝から出入りが多くて。怪我人の記録を先に回してます」
「そのままでいい。怪我人と出発隊を先にした方がいい」
係は少しだけほっとした顔をした。
「助かります」
ノルは頷き、帳面を一冊開いた。
記録室の中には、係が三人。棚の前では地上支援の者が荷札を仕分けていた。出発前の確認を待つ隊と、戻ったばかりの隊が入り混じり、廊下の方まで声が流れている。
忙しさの中では、誰もが聞いているようで、聞いていない。
だから、話を落とすには向いていた。
ノルは帳面の端を押さえたまま、係へ声を落とした。
「五階層の再調査分だが、領主側へ提出する写しを作ることになった」
係の羽根筆が、紙の上で一瞬だけ止まった。
すぐにまた動く。
「領主側へ、ですか」
「証拠も添える。調査結果だけでは弱い。崩落地点の記録、持ち帰った石片、現場で回収したスクロールの残滓も合わせる。いったん東側書庫へまとめる形になる」
ノルは、あくまで事務の話として言った。
「五階層の古い報告書も要る。前回の鉱脈争いの分も、出せる範囲でそろえてほしい」
係は慌ただしく帳面に書きつけた。
「東側書庫ですね」
「ああ。人の出入りが多い場所は避けた方がいい。関係者以外が触れない形で頼む」
「分かりました」
壁際にいた探索者の一人が、何気なくこちらを見た。
ただ、見ただけだった。
ノルはその顔を覚えた。
問いただしはしない。追いもしない。
紙を見る。人を見る。問いただすな。
昨夜、ケインに言われた言葉が、手の中の帳面の重さに混じった。
記録係が別の札を差し出してくる。
「ノルさん、こちらの確認もあります」
ノルは札に一度目を落とした。
「これは後で見る。先に出発隊の処理を回した方がいい。戻った隊も待っている」
「今でなくていいんですか」
「ああ。怪我人の記録が先でいい」
係は頷き、札を机の脇へ寄せた。
「では、後ほどお願いします」
「分かった」
ノルは帳面を閉じず、そのまま横へずらした。
忙しさは、隠れ蓑になる。同時に、逃げ道にもなる。
聞いた者が、聞こえなかったふりをするのも簡単だった。
そこを見る。
ノルは記録室のざわめきの中に立ったまま、誰にも気づかれない程度に息を整えた。
廊下の向こうで、別の声が上がった。
「ケインギルド長、こちらです」
ケインは奥の階段から降りてきていた。
朝の館の中でも、ケインの歩き方は変わらない。急がない。だが、誰より遅れもしない。人が道を空けるのは、威圧されたからではなく、その進む先を邪魔してはいけないと自然に分かるからだった。
ケインは記録室の前を通り過ぎ、物資記録室へ向かった。
途中で、ノアが合流した。
白い衣の袖をきちんと整え、片手には封をした小箱を持っている。顔はいつも通り硬い。朝の騒がしさの中では、その硬さも白鹿の日常の一部に見えた。
「ノア」
ケインが低く呼ぶ。
「はい」
「五階層調査で使った特殊スクロールの残滓だが、神殿へ出す前にこちらで控えを取る」
ノアは一拍だけ間を置いた。
「神殿への提出物として、ですか」
「ああ。調査記録と合わせる。今夜だけ物資記録室へ移す」
ノアは小箱を持つ手に、わずかに力を入れた。
「扱いは慎重にお願いします。残滓とはいえ、普通の使用済みスクロールとは違います」
「分かっている。お前にも立ち会ってもらう」
「承知しました」
そのやり取りは、近くにいた者にはただの事務連絡に聞こえただろう。
神殿へ出すもの。特殊スクロールの残滓。物資記録室。
言葉だけなら、白鹿の館で珍しくない。神殿から派遣された白魔導士がいる以上、神殿へ戻す書類や道具はいつでもある。
だが、聞き方を変えれば、匂いは違う。
ケインは廊下を歩きながら、すれ違った支援係に声をかけた。
「物資記録室の奥棚だが、今夜までに空けられるか」
支援係は荷箱を抱え直した。
「今夜ですか」
「一晩だけ使う。明朝には戻す」
「分かりました。鍵はいつもの手順で?」
「今夜は俺の方で見る。棚だけ空けておいてくれ」
支援係は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「はい」
ケインはそれ以上言わなかった。言いすぎれば作り物になる。
言わなさすぎれば、餌にならない。
その境目を、ケインは淡々と踏んでいた。
廊下の先で、古参の夜番が壁際に立っていた。昼のうちに交代の札を受け取りに来たのだろう。白髪混じりの髪を後ろへ撫でつけ、片手に鍵束を持っている。
ケインは足を止めた。
「今夜の地下は、お前だったな」
「はい。交代までは私が見ます」
「地下保管棚の奥を開けておいてくれ」
夜番の男は鍵束へ目を落とした。
「奥ですか」
「古い地図を戻す」
「ギルド長が保管されていたものですか」
ケインは短く頷いた。
「長く手元に置きすぎた。地下へ戻す」
夜番は、少しだけ表情を引き締めた。
古い地図。ギルド長が保管していたもの。それだけで、十分だった。
何の地図かまでは言わない。
誰のものだったかも言わない。
だが、古参なら、古い地図という言葉の重さを知っている。白鹿が長く抱えてきた記録の中には、ただの道順以上のものが混じっていることを知っている。
「承知しました。地下保管棚ですね」
「余計な者が入らない形にしてくれ」
「いつも通りに」
「いつもより少し固く頼む」
夜番の男は、ケインの顔を見た。何かを聞きたそうだった。
だが、聞かなかった。
「分かりました」
ケインはそれだけで歩き出した。
少し離れた場所で、ガイが柱にもたれてその様子を見ていた。
何もしていないように見える。
ただ、邪魔にならない場所で朝の白鹿を眺めている男にしか見えなかった。
手には紙包みがある。中身は焼き菓子か何かだろう。通りかかった若い探索者に一つ取られかけて、ガイは器用に手を引いた。
「おい。これは俺の朝飯だ」
「ガイさん、どうせ二つあるじゃないですか」
「二つあるから二つ食うんだ。算術を学べ」
「けち」
「生き残る探索者は、たいていけちだ」
若い探索者は笑って去っていった。
ガイも軽く笑った。
だが、その目は若者を追っていなかった。
記録室の前を通る者。物資記録室の方へ顔を向けた者。地下へ続く階段の近くで足を緩めた者。
その全部を、退屈そうな顔のまま見ていた。
ノルが記録室から出てくると、ガイは紙包みを少し持ち上げた。
「食うか」
「いらない」
「即答か。毒は入ってないぞ」
「甘いものを食べながら帳面を見る気にはならない」
「お前は人生の楽しみをずいぶん狭くしているな」
ノルは答えず、廊下の流れを見た。
「外は」
「まだ普通だ。出る奴は出る。戻る奴は戻る。急ぎ足の奴もいるが、朝の白鹿で急いでない奴の方が少ない」
「見ている者は」
ガイは紙包みを閉じた。
「多すぎる」
ノルが横目で見る。
ガイは口元だけで笑った。
「見てない奴の方が怪しいくらいだ。あれだけ匂いのする話を三つも落とせば、耳のある奴は聞く」
「だから難しい」
「ああ」
ガイの声から、軽さが少しだけ抜けた。
「聞いただけの奴と、聞いて動く奴は違う。焦るなって話だろ」
「ケインに言われたのか」
「言われなくても分かる。俺だって、ただ飯屋のまずい煮込みを食うために呼ばれたわけじゃない」
「まだ食べていないだろう」
「だから、これからだ」
ガイは廊下の先へ目を向けた。
「外へ出る。昼前には東通りにいる。町へ話が流れるなら、そろそろ誰かが動く」
「単独で追うな」
ガイは少しだけ顔をこちらへ向けた。
「お前に言われる日が来るとはな」
「必要だから言っている」
「分かってる。噛みつく前に合図を見る。昨日も言っただろ」
「昨日聞いた」
「なら二度言わせるな」
ノルは返さなかった。
短い軽口はそこで途切れた。
廊下の向こうから、記録係が名前を呼ぶ声が聞こえた。戻ってきた隊の一人が、持ち帰った素材の数が合わないと言っている。別の者が、スクロールを一本余分に使ったはずだと揉めている。
日常の揉め事といつもの混乱。その下に、別の流れが落とされている。
ノルは記録室へ戻ろうとして、ふと足を止めた。
廊下の端で、ひとりの支援係が物資記録室の方を見ていた。
長くではないほんの一瞬だった。
声をかけられれば、何でもないと言える程度の短さ。たまたま目を向けただけだと言われれば、それ以上追えない。
ノルはその顔を覚えた。名前は、今ここでは呼ばない。
疑いで人を縛るほど、白鹿は軽くない。
ケインの声が、胸の奥で低く響く。
記録室へ戻ると、係の一人が別の帳面を抱えていた。
「ノルさん、東側書庫の棚ですが、昼過ぎなら空けられます」
「分かった」
「五階層の古い分も、一緒に出しますか」
「出せるものだけでいい。無理に急がなくていい」
係は頷いた。
その後ろで、別の係が物資記録室の鍵札を受け取っていた。さらに廊下の奥では、夜番の男が地下保管棚の鍵を確かめている。
三つの話が、それぞれ別の手に渡っていく。
紙の上では、ただの事務だった。館の中では、いつもの仕事の一部だった。
けれど、そのどれかに、誰かの指がかかるかもしれない。
あるいは、どれにもかからないかもしれない。
かからなかったことさえ、意味になる。
昼が近づく頃、白鹿の館の騒がしさは少しだけ形を変えていた。
朝に出る隊はほとんど出払い、戻った隊の素材仕分けも一段落している。記録係の机にはまだ帳面が積まれていたが、先ほどまでのように声が重なることは減っていた。
そのぶん、館の奥で人が動く気配が耳に残る。
夜番の男は鍵束を確かめながら地下へ向かい、階段の奥へ姿を消した。記録係は東側書庫へ運ぶ紙束を揃え、端を指で押さえて紐をかけている。物資記録室の前では、支援係が奥棚の荷を移し、空いた場所を確かめるように中を覗き込んだ。
忙しさが引いたわけではない。
ただ、朝の喧騒に紛れていたものが、少しずつ別の形を取り始めていた。
ノルはその流れを、帳面に目を落としたまま見ていた。
ガイは、いつの間にか館の外へ出ていた。
記録室の窓から、その背中が一瞬だけ見えた。外套を軽く肩にかけ、何も知らない男のように町の方へ歩いていく。
少し離れたところで、ケインが廊下の端に立っていた。
ノルが一瞬だけそちらを見る。
ケインは、いつもの顔で記録室のざわめきを見ていた。何かを確かめるようでもあり、ただ館の動きを眺めているようでもある。
声はかからなかった。ノルも、あえて反応を返さずに帳面へ目を戻した。
今はそれでよかった。余計な合図は、誰かの目に残る。
午後には、それぞれの場所が動く。
神殿へ出すという名目の記録とスクロールの残滓は、物資記録室へ移される。領主側へ提出するための五階層調査資料は、東側書庫でまとめられる。古い地図は、地下保管棚へ戻されることになっている。
表向きは、どれもただの保管と整理だった。
だが、そこへ落とされた話は、もう白鹿の中を静かに流れ始めている。
ノルは帳面を閉じた。餌は、もう落とされている。
誰がそれを拾うのかは、まだ分からない。だが、拾おうとする者がいれば、いつもの騒がしさの中でも必ず形が出る。
白鹿の館は、何事もない顔で昼へ向かっていた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




