第32話 過去編 ニナとエマの出会い
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
レオ・バートン 白鹿のギルド所属の探索隊長の一人
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
白鹿の館の治療部屋で、ニナは眠れない夜を過ごしていた。ノルはギルド長と話すため部屋を出ていき、エマも家へ戻されている。急に一人になると、六階層で死を覚悟した瞬間がよみがえった。左腕の毒、痛む足、崩れる石、救助を装った男の気配。言葉にすれば怖くなりそうで、ニナは布団の中で丸くなる。強がっていても、誰かにそばにいてほしかった。暗がりの中で、エマが叫んだ「三人います。二人とも、まだ帰れます」という声だけが耳に残り続ける。その声は、ニナがかつて妹リラへ書いた手紙の記憶へとつながっていく。
リラへ。
そっちは、もう朝晩が冷える頃だと思います。
咳が残っているなら、外へ出る時は必ず厚い肩掛けを使ってください。薪代を惜しんで体を冷やす方が、あとでずっと高くつきます。あなたはすぐ我慢するから、そこだけは本当に気をつけて。
仕送りは、少しだけ待ってください。
今度の潜りで、ちゃんと成果を持ち帰ります。白鹿の契約も、必ず更新してもらいます。ここに残れれば、今より安定して送れるようになります。
心配しないで。
私は足も速いし、目も利きます。役に立てるところを見せれば、きっと認めてもらえるはずです。
だから、もう少しだけ待っていてください。
姉より。
ニナ・クラークは、そこまで書いてから、ペン先を止めた。
机の上には、小さな封筒と、まだ乾ききっていないインクの匂いがあった。宿舎の窓の外では、白鹿のギルドの中庭を行き交う探索者たちの声がしている。革鎧の留め具が鳴り、誰かが矢束を落として悪態をつき、別の誰かが笑った。
いつもの朝だった。
ニナは手紙を読み返し、最後の一行を指で押さえた。
心配しないで。
嘘ではない。けれど、本当でもなかった。
契約更新の話は、まだ決まっていない。前に出る者として見込みがあるとは言われている。けれど、それだけだ。探索者は、見込みだけでは残れない。成果を出し、役に立ち、次も必要だと思われなければならない。
リラに送る薬代も、食費も、待ってはくれない。
ニナは封筒に手紙を入れ、息を吐いた。
「大丈夫」
小さく声に出す。
誰に聞かせるでもない。自分に言い聞かせるための声だった。
今回の隊長は、レオという男だった。背は高く、腕も立つ。声が通り、判断も早い。白鹿の中では若い方だが、何度も中層手前まで潜っている。
ただ、成果への意識が強い人だと、ニナは知っていた。
悪いことではない。
成果を持ち帰るから、ギルドは回る。素材が売れるから、治療所に薬が入り、探索者に報酬が出る。誰かが奥へ進まなければ、貴重な素材は手に入らない。
だから、レオの隊に入れたことを、ニナは運がいいと思った。
準備部屋に行くと、すでに数人が集まっていた。革鎧の男、槍を持った若い探索者、採取用の袋を確認している者。その隅で、一人の女が黙って荷を整えていた。
腰にも肩にも、細々した道具が多い。前に出て斬り込む者の支度ではない。誰かが怪我をした時や、道に迷った時のための荷だと分かる。
ニナは少しだけ眉を動かした。
誰だっただろう。
顔は見たことがある。白鹿に長くいる人だ。前は前に出ていたが、今はサポーターをしていると聞いたことがある。けれど、名前はすぐには出てこなかった。
レオがその女に声をかけた。
「エマ、荷は終わってるか」
「終わってます」
女が短く答える。
エマ。
ニナはそこで、ようやく相手の名前を拾った。顔は見たことがある。噂も聞いたことがある。けれど、名前と顔を結びつけるほどには見ていなかった。
元は前に出ていた人。今は後ろで荷を持つ人。
ニナの中では、それで十分だった。
今回、大事なのは前に出る者だ。月並みな獲物ではなく、契約更新に響くだけの成果を持って帰ること。そのために必要なのは、速く動ける足と、迷わず仕留める判断だ。
エマがニナの腰回りをちらりと見た。
「布はそれだけ?」
ニナは一瞬、自分に言われたのだと分からなかった。
「……私ですか?」
「うん」
「最低限は持っています。重いと動けないので」
「最低限が少ない」
言い方はきつくない。けれど、はっきりしていた。
ニナは口元だけで笑った。
「私は前に出るので。荷物は、そちらで見るものだと思っていました」
準備部屋の空気が、少しだけ固くなった。
誰かが小さく鼻を鳴らす。レオは聞こえなかったふりをした。エマは怒らなかった。ただ、棚から巻き布を一つ取り、ニナの前に置いた。
「使うことになるかもしれない」
「怪我をしたら、ですか?」
「怪我をして、歩けなくなって、それでも帰る時」
ニナは返事をしなかった。
大げさだと思った。
そんなことばかり考えていたら、前へは進めない。
レオが手を叩いた。
「準備が済んだなら出るぞ。今回は成果を出す」
その言葉に、ニナの背筋が伸びた。
そうだ。今回は成果を出す。
白鹿のギルドを出て、監視所で荷を記録し、隊はダンジョンへ入った。
入り口からしばらくは、よく踏まれた道だった。壁は岩肌だけではなく、ところどころ古い石造りの建物の残骸のように変わっている。柱の折れた跡。床石の隙間。用途の分からない低い壁。誰が作ったのか分からないものが、ダンジョンの中には当たり前のように現れる。
奥へ進むほど、空気は湿り、音が変わった。
遠くで、何かが石を引っかく音がした。小さな魔物が走ったのか、闇の中で砂利が跳ねる。レオは足を止めず、灯りを前へ向けた。
「今回はもう少し奥まで行く。手前の獲物は他の組に取られてる」
エマが地図板に印を入れながら言った。
「急ぐなら、曲がり角ごとに戻る印を残してください」
「分かってる」
「あと、退く合図を決めておいた方がいいです」
レオが振り返った。
「まだ獲物も見ていない」
「見てからだと遅い時があります」
その声に、槍の若い男が息を漏らした。
「またそれか」
ニナは何も言わなかったが、同じことを思った。
慎重なのはいい。けれど、慎重すぎれば、得られるものも得られない。奥へ行く前から退く話ばかりでは、隊の足が鈍る。
レオは短く言った。
「エマ。今回は成果を取りに来ている。歩いただけで戻るわけにはいかない」
「素材を持って帰るには、人が帰らないと」
「そのために、お前を入れている」
レオの言葉は、信頼にも聞こえた。けれど、扱いとしては後ろの備えだ。前に立つ判断ではない。
ニナは少しだけ息を吐いた。
やはり、そういう人なのだと思った。
しばらく進んだところで、向こうから灯りが見えた。
レオが手を上げ、隊を止める。相手もこちらに気づき、武器を下ろした。白鹿の印が見えた。
「白鹿、レオ隊だ」
「同じく白鹿、ハルド隊だ。戻るところだ」
相手の隊は五人だった。皆、荷が膨らんでいる。革袋の口から、淡く光る白い角がいくつも覗いていた。
ニナの目がそこに吸い寄せられる。
月角兎の角。
薬師が高く買う。熱下げや痛み止め、白魔導士の使う補助薬にも混ぜられることがあると聞く。数がまとまれば、かなりの金になる。
レオも同じものを見ていた。
「月角兎か」
「ああ。この先の崩れ柱のあたりで群れに当たった。百は下らない数だった。俺たちは持てるだけ取ったから戻る。まだ残ってる」
ニナの胸が跳ねた。
百は下らない。まだ残っている。
レオが一歩近づく。
「どっちへ行った」
「奥から手前へ流れてたな。妙に散ってたから、全部は追ってない」
エマが口を挟んだ。
「奥から?」
ハルド隊の男が頷いた。
「ああ」
「何かに追われている様子は?」
「そこまでは見ていない。ただ、少し荒れてたな。俺たちは十分取ったし、荷も重い。深追いはやめた」
エマの表情がわずかに変わった。
ニナはそれに気づいたが、気にしなかった。
荒い散り方。そんなものは、探索者に追われれば当然だ。大事なのは、まだ月角兎が残っていること。
レオは決めた。
「行くぞ」
エマがすぐに言った。
「待ってください。群れが奥から流れているなら、後ろに何かいるかもしれない」
「かもしれない、で逃す獲物じゃない」
「せめて、足跡と周囲を見てから」
「見ながら進む」
レオはそれ以上聞かなかった。
ニナもレオに続いた。エマの視線を感じたが、振り向かなかった。
崩れ柱のあたりに近づくと、月角兎の痕跡はすぐに見つかった。
小さな足跡。白い毛。石床に擦れた角の跡。さらに奥で、淡い影が跳ねた。
「いた」
ニナは短く言い、身を低くした。
月角兎は兎に似ているが、額から細い角が一本伸びている。角は月光を閉じ込めたように白く、灯りを受けると青く光る。体は小さいが、動きは速い。傷つける場所を間違えれば、肝心の角が割れる。
レオが手で合図した。
ニナは横へ走った。
足場は悪い。倒れた柱と崩れた壁の間を、月角兎が鋭く跳ねる。ニナはその先を読んで回り込み、逃げ道を塞いだ。前衛の一人が短槍で追い、ニナが横から刃を入れる。角を折らず、首筋を一息で切る。
一匹。
続けて二匹。
袋に角が入る音がした。
ニナの呼吸が熱くなる。
できる。
やっぱり、進めば成果は出る。
エマは後方で、仕留められた月角兎から素材を回収していた。角を折らないように頭部を押さえ、根元に刃を入れる。血で滑る指を布で拭い、傷の少ないものを選んで袋へ分けた。
ニナには、その動きがひどく地味に見えた。
けれど、狩った魔物は、持ち帰れる形にして初めて成果になる。エマはそれを黙々とこなしながら、時折、通路の奥へ視線を投げていた。
しばらくして、エマが低く言った。
「レオ。ここで切り上げた方がいい」
レオは月角兎を追いながら振り返った。
「まだいる」
「この群れ、人から逃げてるんじゃない」
ニナは思わず声を強くした。
「また止めるんですか。やっと取れ始めたところなのに」
エマがニナを見た。
「止められる時に止める」
「そんなことを言っていたら、他の組に取られます」
「他の組に取られる方が、帰れなくなるよりいい」
「帰れなくなるって、まだ何も起きてません」
言ってから、ニナは自分の声が少し尖っていることに気づいた。
でも、止められなかった。
リラの顔が浮かんでいた。手紙の最後に書いた、もう少しだけ待っていて、という言葉が胸の奥で熱くなっていた。
エマは怒らなかった。ただ、床に残った跡を見ていた。
月角兎の足跡に混じって、深い爪痕があった。石に食い込むほどの、大きな跡。
その時だった。
奥の暗がりで、低い唸りが響いた。
空気が震えた。
月角兎たちが一斉に跳ねた。人間からではない。奥の闇から、何か大きなものが押し出してくる気配に怯えていた。
次の瞬間、崩れた柱の向こうから、裂牙熊が現れた。
熊に似ていた。だが、普通の獣ではない。四つ足で立っているだけで、肩の高さが人の背丈に届きそうだった。もし後ろ足で立ち上がれば、人を二人重ねたほどの巨体になる。裂けたような牙の間から涎が落ち、丸太のような前足が床石を削っていた。
「退け!」
レオが叫んだ。
遅かった。
裂牙熊が突進した。柱が砕け、石片が飛ぶ。月角兎が散り、探索者たちも散った。誰かが悲鳴を上げた。灯りが一つ落ち、転がった。
ニナは走った。
最初は、誰かがすぐ近くにいると思っていた。
レオの声。槍を持った男の足音。誰かが怒鳴る声。エマの、短く指示する声。
けれど、角を曲がり、崩れた壁を越え、細い通路へ入り込んだ時には、背後の音はもう分からなくなっていた。
自分の息だけが聞こえた。
荒い呼吸が、石の壁に跳ね返って戻ってくる。まるで、誰かがすぐ後ろで息をしているようだった。振り向いても、暗い通路があるだけだった。
「……レオさん?」
小さく呼んだ。
返事はなかった。
ニナは唇を噛んだ。
大丈夫。少し離れただけだ。すぐ合流できる。自分は足が速い。目も利く。何度も潜っている。こんなところで迷うはずがない。
そう思おうとした。
けれど、壁に残したはずの目印は見つからなかった。通路は似たような石壁ばかりで、足元には月角兎のものか、自分たちのものか分からない跡が乱れている。さっき通った場所のはずなのに、崩れた柱の形が違って見えた。
ダンジョンが動いたのか。
それとも、自分が間違えたのか。
どちらにしても、帰り道は見えなかった。
ニナは胸の奥が冷えていくのを感じた。
さっきまで、成果のことばかり考えていた。
月角兎の角。契約更新。仕送り。リラの薬代。次の便に間に合うかどうか。白鹿に残れるかどうか。
必要なことだった。
間違っていないはずだった。
けれど、今、手の中には何もなかった。短剣はある。小さな採取袋もある。けれど、それだけだ。地図もない。退く道も分からない。誰がどこにいるのかも分からない。
エマが何度も言っていたことを思い出した。
急ぐなら、帰り道を確認してから。
魔物が少ない場所には理由がある。
退く合図を決めてから進むべき。
その時は、臆病な言葉に聞こえた。
前に出られなくなった人の言い訳に聞こえた。
ニナは目を閉じた。
違う。
今になって、分かった。
あれは逃げるための言葉ではなかった。
帰るための言葉だった。
喉の奥が詰まった。
リラ。
名前を思っただけで、胸が痛くなった。
手紙には、心配しないでと書いた。必ず契約更新してみせると書いた。仕送りは待っていてと書いた。
もし、帰れなかったら。その手紙が、最後になる。
リラは待つ。きっと待つ。姉は帰ってくると思って、何度も通りを見て、便が来るたびに尋ねるかもしれない。
そして、いつか誰かから聞かされる。
ニナ・クラークは、ダンジョンで戻らなかったと。
「いや……」
声が漏れた。
自分の声なのに、ひどく頼りなかった。
壁の奥で、何かが動いた気がした。
ニナは短剣を構えた。手が震えていた。刃先が小さく揺れる。
暗がりの中に、何か白いものがみえた。それは月角兎だった。
一匹だけ、通路の端で動けずにいる。後ろ足を裂かれ、血を引きながら、それでも逃げようとしていた。角は無事だった。淡く青白く光っている。
ニナは一歩近づきかけた。
角を取れば、少しは成果になる。
そう思った自分に、ぞっとした。
こんな時まで。
こんな時まで、自分はまだ、何かを持って帰ることを考えている。
違う。今は違う。帰ることが先だ。分かっている。分かっているはずなのに、目が角に吸い寄せられる。
月角兎が小さく鳴いた。
その声は、助けを求めているようにも、ただ怯えているだけのようにも聞こえた。
ニナは動けなかった。
役に立つものか。
持って帰れるものか。
得になるものか。
自分は、ずっとそうやって見ていたのではないか。
エマのことも。。。
荷物の人。後ろの人。足を引っ張る人。
自分の役に立つかどうかで、勝手に分けていた。
その時、月角兎が急に暴れた。
耳を伏せ、傷ついた足で床を掻く。逃げようとしている。ニナからではない。
もっと奥からだ。
ぬるい獣臭が流れてきた。ニナの背中が凍った。
聞こえた。
重い足音。
一歩ごとに、床石が低く鳴る。爪が石を引っかく音が混じる。さっき聞いた、あの音だった。
ニナは息を止めた。
来ないで。
そう思った。
今だけは、来ないで。
けれど、願いは何の役にも立たなかった。
暗がりの向こうで、裂けたような牙が光った。
裂牙熊だった。
ニナが想像した、いちばん悪い形だった。
一人。
帰り道は分からない。仲間の声も届かない。
そして、目の前には、自分たちが見落としたものがいる。
月角兎が悲鳴のように鳴いた。裂牙熊の前足が振り下ろされる。小さな体は、音もなく石床に叩きつけられた。
ニナの足が、ようやく動いた。戦うことなど考えられなかった。
声を出す余裕もなかった。走るしかなかった。
通路を駆け抜ける。背後で裂牙熊が動いた。床石が鳴り、砕けた破片が跳ねる。ニナは左へ曲がり、崩れた壁を越え、細い道へ入り込んだ。
だが、先は崖だった。
下は暗い裂け目だった。底は見えない。崖沿いに細い足場が続いているが、崩れかけている。戻るしかない。だが、背後から裂牙熊が来る。
ニナの喉が乾いた。
月角兎の角。契約更新。仕送り。リラの薬代。全部が頭の中で散らばって、何も掴めなくなる。
帰れなかったら仕送りどころではない。
手紙も書けない。
リラに、大丈夫だと言うこともできない。
裂牙熊が姿を見せた。牙が灯りを受けて濡れている。
ニナは短剣を握った。手が震えた。
その時、横の崩れた壁の隙間から声がした。
「伏せて」
ニナは反射で身を落とした。
頭上を何かが飛び、裂牙熊の前足の下で割れた。油が石床に広がる。続けて短剣が一本、裂牙熊の鼻先をかすめた。
裂牙熊が唸り、横を向く。
エマが立っていた。
息は乱れている。頬に擦り傷があり、片手には縄、もう片方には予備の刃を持っている。
ニナは、すぐには声が出なかった。
さっきまで、あの人の言葉を邪魔だと思っていた。臆病だと思っていた。後ろにいるだけの人だと思っていた。
その人が、今、自分と裂牙熊の間に立っている。
「なんで……」
声になったのは、それだけだった。
助けを呼んだわけではない。謝ったわけでもない。名前を呼んだわけでもない。
それなのに、エマは来た。
エマは裂牙熊から目を離さずに言った。
「走れる?」
ニナは答えられなかった。
エマが少しだけ声を強める。
「ニナ。走れる?」
名前を呼ばれて、ようやく息が戻った。
「……走れます」
「なら、言う通りにして」
その声に、さっきまで感じていた頼りなさはなかった。
エマは崖の方を見た。崩れかけた足場。浮いた石。裂牙熊の重さ。油で濡れた床。通路の幅。
全部を一瞬で見ている。
「落とす」
ニナは耳を疑った。
「落とすって、あれを?」
「正面からは無理」
「エマさんが潰されます」
初めて名前を呼んだことに、ニナ自身は気づかなかった。
エマは短く息を吐いた。
「潰されないように動く。縄を低く張って。あの割れた柱に回して」
「でも」
「今は迷う時間がない」
裂牙熊が動いた。
エマが前に出た。
ニナは叫びそうになった。だが、エマは裂牙熊に向かって走ったのではない。斜めに、柱の影へ誘うように動く。裂牙熊の目がエマを追う。大きな前足が油を踏み、わずかに滑った。
「左!」
エマの声。
ニナは走った。崩れた柱に縄を回す。手が震える。結び目が甘い。
「低く。膝より下」
「はい!」
裂牙熊がエマへ突進した。
エマはぎりぎりまで引きつけて、横へ飛んだ。肩が壁にぶつかる。裂牙熊の爪が空を裂き、石を削った。
「張らないで、まだ!」
ニナは縄を握ったまま息を止めた。
エマは崖際へ下がる。わざとだ。裂牙熊を、脆い足場へ向けている。
そんなことをする人間が、臆病なはずがない。
怖くないわけではないはずだ。エマの顔は青い。呼吸も乱れている。それでも、目だけは逸らしていない。
裂牙熊がもう一度突進した。
エマが叫ぶ。
「今!」
ニナは縄を引き、支えにしていた朽ちた木杭を蹴り外した。
張った縄が裂牙熊の前足にかかる。油で滑った足がもつれ、巨体が崖際の床を踏み抜いた。
石が割れる音がした。
裂牙熊が吠えた。
床ごと崩れ、巨体が暗い裂け目へ落ちていく。牙が一瞬だけ灯りを反射し、それから闇に消えた。
落下音は、すぐには聞こえなかった。
少し遅れて、下の方で重い音が響いた。続いて、低い唸りが遠ざかる。死んだのか、逃げたのかは分からない。
ただ、今ここに戻ってくる気配はなかった。
ニナは膝をつきそうになった。
エマも壁に手をついている。肩で息をしていた。
「……エマさん」
エマが振り向いた。
「何」
ニナは口を開いたが、すぐには言葉が出なかった。
助けられた。
それだけなら、礼を言えばいい。
けれど、自分はそれまで、この人のことをまともに見ていなかった。名前さえ、レオに呼ばれるまで曖昧だった。慎重な言葉を、邪魔だと思っていた。
だから、ただ礼を言うだけなのに、喉の奥でつかえた。
「その……助けてくれて」
ニナは目を伏せた。
「ありがとうございました」
エマは少し困ったように眉を動かした。
「それは、ちゃんと帰ってから聞く」
ニナは一瞬、言葉を失い、それから小さく頷いた。
「……はい」
「歩ける?」
「歩けます」
「なら、レオたちを探す」
その言葉で、ニナははっとした。
まだ終わっていない。
自分が助かっただけでは、終わりではない。
レオたちは散っている。誰かが怪我をしているかもしれない。声を出せずに倒れているかもしれない。
ニナは短剣を握り直した。
「私が先を見ます」
エマが頷いた。
「遠くへ行きすぎないで。見えなくなる前に戻って」
「はい」
今度は、素直に聞けた。
二人は来た道を戻った。
エマは壁につけた小さな木札を確認し、床の擦れ跡を見て、誰がどちらへ逃げたのかを追った。ニナは細い隙間を覗き、崩れた柱の向こうを確かめる。遠くで小型の魔物が動く音がしたが、ニナが石を投げて注意を逸らし、エマが別の道を選んだ。
やがて、低いうめき声が聞こえた。
レオだった。
崩れた壁の陰で、片足を押さえている。肩にも傷があり、顔色が悪い。近くに月角兎の角が入った袋が落ちていた。
レオは二人を見ると、苦しげに息を吐いた。
「他は」
「探します。でも先に足を見ます」
エマは膝をつき、手早く傷を確認した。骨は折れていないが、深くひねっている。肩の傷からは血がにじんでいた。
「歩けますか」
「支えがあれば」
「なら、支えます」
レオの目が、素材袋に向いた。
「それは持って帰る。今回の成果だ。置いて帰るわけにはいかない」
エマが答える前に、ニナが言った。
「どうやって持って帰るつもりですか」
レオがニナを見る。
「何?」
ニナは、レオの足を見た。まともに歩けない。肩の傷からも血がにじんでいる。誰かが支えなければ、戻れない。
それでも、レオの視線は素材袋に残っていた。
ニナは唇を噛み、それから言った。
「隊長を置いて帰れって言うんですか」
レオは黙った。
月角兎の角は、白く光っていた。仕送りにも、契約更新にも近づけるものだった。
けれど、それを持つ手で、レオを支えることはできない。
ニナは素材袋から目を離した。
「置いていきます」
レオは何か言いかけたが、言葉にならなかった。
エマが少しだけニナを見た。驚いたようでもあり、何も言わない方がいいと判断したようでもあった。
結局、角は少しだけ袋に移し、残りは置いた。
その後、二人は他のメンバーも見つけた。一人は腕を切っていたが歩けた。もう一人は灯りを失い、壁際で動けなくなっていた。ニナが先に見つけ、エマが声をかけ、全員で戻る道を組み直した。
帰り道は長かった。
裂牙熊が戻ってくるかもしれない。月角兎の血に寄って小型の魔物が集まり始めている。遠くで骨が擦れるような音もした。エマは何度も立ち止まり、道を変え、油を少し撒き、足音を殺すよう合図した。
ニナは、そのたびに気づいた。
エマは遅いのではなかった。
見ていたのだ。
誰が遅れているのか。誰が痛みを隠しているのか。灯りは足りるか。水を口にできる者はいるか。今進むべきか、少し待つべきか。誰かが声を出せないまま取り残されていないか。
ニナが成果だけを見ている間、エマは帰るために必要なものを、一つずつ確かめていた。
監視所の灯りが見えた時、ニナは初めて足から力が抜けそうになった。
帰ってきた。
全員で。
持ち帰った月角兎の角は、最初に思ったよりずっと少なかった。レオは負傷し、隊は大成功とは言えなかった。
それでも、誰も欠けなかった。
監視所で引き渡しを終え、治療所へ向かう前、ニナはエマに声をかけた。
「……エマさん」
エマが振り向いた。
「何」
「さっきの、帰ってからでいいって言われたので」
エマは少しだけ目を瞬いた。
ニナは深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
しばらく、返事はなかった。
顔を上げると、エマは少し困ったような顔をしていた。礼を言われることに慣れていない人の顔だった。
「無事ならいい」
ぶっきら棒ではなかった。
ただ、本当にそう思っている声だった。
ニナは胸の奥が少し痛くなった。
「はい」
それ以上は、まだ言えなかった。
何を謝ればいいのかも、何を言葉にすればいいのかも、すぐには分からなかった。
ただ、その日からニナは、エマの名前を忘れなくなった。
それから、しばらく日が経ったある日。
ニナは宿舎の机に向かっていた。
腕にはまだ浅い擦り傷が残っている。レオはしばらく治療所通いになったが、命に別状はなかった。月角兎の角は少なかったものの、状態の良いものがあり、報酬は思ったより悪くなかった。
仕送りの目処も立った。
ニナはペンを取り、リラへの手紙を書き始めた。
リラへ。
前の手紙から少し空いてしまって、ごめんなさい。
仕送りの目処が立ちました。多くはありませんが、今度の便で送れます。薬代と食べ物に使ってください。無理に節約しすぎないこと。これは姉からの命令です。
この前の探索で、少し怖い目に遭いました。
詳しく書くとあなたが心配するので、全部は書きません。ただ、私はたぶん、少し思い違いをしていました。
私はずっと、自分にとって役に立つかどうかで人を見ていたのだと思います。
誰といれば成果が出せるのか。誰がいれば契約に近づけるのか。誰が足を引っ張るのか。そんなことばかり考えていました。
それが必要なことだと思っていたのです。
あなたに仕送りをするためにも、ここで残っていくためにも。
でも、人をそんなふうに見ていると、その人が何を守ろうとしているのかが見えなくなります。
一緒に潜った、エマさんという人に、それを教えられました。
あの人は、怖いものを見ないふりにしない人でした。
私たちがどこから来て、どこへ戻るべきなのかを、ずっと考えていました。誰が遅れているのか、誰が無理をしているのか、声を出せないまま取り残されそうな人はいないか。私が成果のことばかり見ている間に、あの人は、全員で戻るために必要なことを一つずつ確かめていました。
私はそれを、弱さだと思っていました。
でも、違いました。あれは、誰かを帰すための強さでした。
私はまだ、あの人みたいにはできません。
でも、速く走るだけじゃなくて、誰かと一緒に帰れる人になりたいと思いました。
リラ。
私は帰ります。
成果も持って帰ります。お金も送ります。
でも、それより先に、私はちゃんと帰ります。
あなたにまた手紙を書くために。
姉より。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




