第30話 こころ戻る為に
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
追い詰められたエマたちのもとへ、灰鷹のギルドの救助隊がたどり着く。カーラの指示で油と火矢が放たれ、石喰い虫の群れが割れる。救助隊の灯りと足音を前に、救助を装っていた男はそれ以上の口封じを諦め、闇の奥へ姿を消した。ノル、ニナ、エマはそれぞれ深い傷と毒を抱えたまま、灰鷹の手で六階層から運び出される。地上へ戻る途中、エマは自分も限界だったことに気づけないまま歩き続け、監視所の灯りを前に意識を失う。次に目を覚ました時、彼女は白鹿の館の治療部屋にいた。三人とも、生きて帰っていた。
ノルとニナは、館の奥の治療部屋に並んで寝かされていた。
二人が目を覚ました時には、エマの姿はもうなかった。マルタに傷と毒の具合を確かめられたあと、先に自宅へ戻されたらしい。
オスカーが待っているからだと、治療係が教えてくれた。
他の仲間たちも、それぞれ処置を受けたあと、自室や家へ戻されていた。骨を折った者も、裂傷を負った者もいたが、命に関わる状態ではないと判断されたのだろう。
負傷者として運び込まれたリックは、白鹿ではなく、所属するギルドが引き取ったと聞かされた。詳しい話は、まだ誰もしてくれなかった。
治療部屋に残っているのは、ノルとニナだけだった。
ノルは上体を少し起こした姿勢で、肋骨に負担がかからないよう布と枕で支えられている。脇腹の傷は縫われ、上から厚く布が当てられていた。
深く息を吸うと痛むらしく、呼吸は浅い。
ニナはその隣の寝台にいた。
左腕は包帯で固定され、毒抜きの処置を受けたあとだった。顔色はまだ悪い。足の痛みも残っている。それでも、目だけは妙に冴えていた。
「生きてるね」
ニナがぽつりと言った。
ノルは少し間を置いて答えた。
「ああ」
「ほんとに、生きてる」
「そうだな」
「もう少し反応してくれてもよくないですか」
「痛む」
「それは私もです」
ニナはそう言って、天井を見た。
笑おうとしたが、うまく笑えなかった。代わりに、息だけが震えた。
ノルはその顔を見て、しばらく黙っていた。
「戻った」
それだけ言った。
ニナは目を細めた。
「……はい」
それ以上、二人とも言わなかった。
生きて戻った。それだけで十分なはずなのに、心はまだあの場所に置き去りにされていた。
昼を過ぎた頃、治療部屋の扉が静かに叩かれた。
「入ってもいい?」
柔らかい女の声だった。
ニナは掛け布をかぶり目を閉じたまま、息を浅く整えた。
眠っているふりをした。
本当は少し前から目が覚めていた。けれど、体を起こすには左腕が重く、足も痛い。それに、扉の向こうの声に、なぜか起き上がってはいけない気がした。
ノルが少しだけ顔を向ける。
「……カーラか」
扉が開いた。
入ってきたのは、灰鷹の紋をつけた女だった。救助の時は炎の前で声を張っていた人だ。
今は鎧を外し、髪も簡単に結い直している。
背筋は伸びているのに、部屋へ入る足音は静かだった。寝台に眠っているニナを見ても、声をかけず、起こさないように少しだけ歩幅をゆるめた。
そのまま、ノルの寝台のそばへ来る。
「起きてて平気?」
「寝ている方が、息がつらい」
「そっか」
カーラは椅子に手をかけた。
「座ってもいい?」
「ああ」
ノルが答えると、カーラは静かに腰を下ろした。
ニナは目を閉じたまま、耳だけをそちらへ向けていた。
「深かったんだね」
カーラの声が少し沈んだ。
「エマに縫われた。しばらくは動くなとマルタに言われている」
「ちゃんと聞いてね」
「聞くつもりだ」
「本当に?」
ノルが少しだけ息を吐いた。
「……たぶん」
「たぶんは駄目」
叱るような言葉なのに、声は優しかった。
ニナは布団の中で、少しだけ眉を動かした。
救助の時と違う。
炎の前で声を飛ばしていた時のカーラは、迷いのない隊長だった。今は、同じ声なのに、ずっと近い。無理に強く見せるのではなく、相手の痛む場所にそっと触れないようにしている声だった。
「水、飲む?」
カーラが聞いた。
「自分で取れる」
「分かってる。でも、今は取らせて」
少し間があった。それから、ノルが静かに言った。
「……頼む」
「うん」
水差しの音がした。杯に水が注がれる。
布がわずかに擦れる音。たぶん、カーラがノルへ杯を渡したのだろう。
「ありがとう」
ノルの声がした。
「うん」
カーラの返事は短かった。それなのに、どこか嬉しそうだった。
ニナは目を開けそうになるのをこらえた。
これは、見てはいけない。
でも、聞こえる。
「まだ痛む?」
「痛む」
「そう」
「でも、戻れた」
「うん」
カーラは少し黙った。その沈黙のあとで、声がやわらかくなる。
「戻ってきてくれて、よかった」
ノルはすぐには答えなかった。ニナはその沈黙の重さを、掛け布の下で感じた。
いつものノルなら、ここで何か短く返す。必要なことだけ言って終わらせる。
けれど、今は違った。言葉を探している。
そう思った瞬間、ニナの口元が勝手に緩みかけた。
笑ってはいけない。そう分かっているのに、掛け布の下で肩が少しだけ震えた。
「……心配をかけた」
「うん。心配した」
カーラは隠さなかった。
強くもない。重くもない。ただ、素直だった。
「助かった」
ノルが言った。
「救助のことなら、もう聞いたよ」
「それもある」
少しだけ間が空いた。
「声が聞こえた。炎の向こうから、お前の声がした。あれで、持ち直した」
カーラは何も言わなかった。
ニナは、布団の中で完全に目が覚めた。
今のは、聞いてよかったのだろうか。
だめな気がする。でも、聞いてしまった。
やがて、カーラが小さく息を吐いた。
「そっか」
それだけだった。けれど、その声はとても嬉しそうだった。
ノルも、それ以上は言わなかった。
治療部屋の中に、静かな時間が落ちた。
嫌な沈黙ではなかった。
言葉を足さなくても、そこにあるものが分かるような沈黙だった。
カーラが立ち上がる気配がした。
「そろそろ行くね。灰鷹の方にも報告があるから」
「忙しいのに、来てくれたのか」
「うん」
カーラは自然に答えた。
「顔を見たかったから」
ノルが黙った。
ニナは布団の中で息を止めた。
カーラは笑ったようだった。
「困らせた?」
「いや」
ノルの声は、少しだけ低かった。
「来てくれて、嬉しい」
今度はカーラが黙った。
ニナは目を閉じたまま、心の中で叫んだ。
言った。
ノルが、ちゃんと言った。
「……よかった」
カーラの声が、少しだけ弾んだ。
その声は、救助隊長のものではなかった。もっと柔らかくて、少しだけ照れたような、普通の女の人の声だった。
「また来るね」
「ああ」
「無理に起きて待たなくていいから」
「それは、少し難しいな」
カーラの動きが止まった気配がした。ノルは続けた。
「来ると分かっていたら、起きていると思う」
また沈黙。今度の沈黙は、さっきよりもずっと甘かった。
「……そういうこと、急に言うんだね」
カーラの声が少し小さくなった。
「変だったか」
「変じゃない」
やわらかい声だった。
「嬉しい」
ニナはもう、布団の中で顔を隠したくなった。
寝たふりをしていてよかった。起きていたら、絶対に顔に出ていた。
カーラは扉の方へ歩いた。
途中で、眠っているニナを起こさないようにしたのか、足音がさらに静かになった。
「じゃあ、また来る」
「ああ」
扉が静かに閉まった。足音が遠ざかる。
部屋に、ノルの浅い呼吸だけが残った。
少しして、ノルが閉じた扉を見たまま言った。
「……おい、起きてんだろ?」
ニナは目を閉じたまま、布団を口元まで引き上げた。
「起きてません」
「寝言です」
声が少し弾んでいた。
ノルは小さく息を吐いた。
ニナはゆっくり目を開けた。口元には、まだ笑みが残っている。
「困らせないでください。途中から、寝られる空気じゃなくなりました」
ノルは目を伏せた。
「聞いていたなら、忘れろ」
「無理です」
ニナは布団の中で、にやにやするのをこらえた。
「カーラさん、優しい人ですね」
「そうだな」
「綺麗な人ですね」
「そうだな」
今度は、ノルの返事に迷いがなかった。
ニナはそこで、少しだけ目を細めた。
「……そこは素直なんですね」
ノルは水の杯を取ろうとして、手を止めた。
「何がだ」
「いえ。別に」
ノルは横目でニナを見た。
「大人をからかうなよ」
「ニナもオトナですよ?」
ニナは目だけで笑った。
「今度、飲みに連れて行ってください。カーラさんも一緒に」
「なんで!?」
思ったより早く返ってきた声に、ニナはとうとう小さく笑った。
傷に響いたのか、すぐに顔をしかめる。
それでも、笑みは消えなかった。
「ノルさんの危機を救ったのは、カーラさんだけですか?」
ノルは一瞬、黙った。
その沈黙に、ニナの笑みが少し深くなる。
「もちろん、エマも誘います。あの子がいなかったら、私たち、ここにいませんし」
ノルは杯を置いた。
「……そうだな」
その声は、さっきまでより少し落ち着いていた。
ニナは布団を少し引き下げた。
「やったー」
声だけは軽かったが、笑うと左腕に響いたのか、すぐに少し顔をしかめた。
ノルはその顔を見て、少しだけ目を細めた。
「……治せ。飲みに行くなら、痛むままじゃ困る」
「もちろん早く治します。カーラさんに会うために……」
「やめろ。動機がよこしまになってる」
「冗談ですよ」
ニナは小さく笑った。
けれど、笑った拍子に左腕が痛んだのか、また顔をしかめた。
ノルは呆れたように息を吐いた。
「だから、笑うな」
「それは無理です」
ニナはそう言って、布団に潜った。
笑っている間だけは、あの場所の音を思い出さずに済んだ。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




