第29話 帰るために来る
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
救助隊を名乗った男が偽物だと分かり、エマたちは六階層の回廊跡で追い詰められる。ノルは重傷で動けず、ニナも足を痛めており、まともに戦える者はいない。男は剣を抜かず、毒針と崩れかけた天井や壁を使って、三人を事故に見せかけて殺そうとする。ニナは毒を受けながらも男を引きつけ、エマはノルを支えながら油袋を投げて一瞬の隙を作る。だがエマも針を受け、毒のしびれが広がっていく。石喰い虫の群れと崩落の気配に囲まれ、動けば虫に足を取られ、止まれば石が落ちる。逃げ道は、ひとつずつ潰れていった。
頭上の闇が、また軋んだ。
エマはノルの腕を引こうとした。
けれど、足が動かなかった。肩から広がるしびれが腕を重くし、指先の感覚を鈍らせている。ノルも壁に手をついたまま、立っているだけで精一杯だった。ニナは片膝をつき、右手一本で短剣を構えている。
石喰い虫が、炎の弱い端から寄ってくる。
男の口元が、また同じ形を作った。
次は避けられない。
そう思った時だった。
遠くから、声が響いた。
「灯りを下げろ! 油を前へ出せ!」
女の声だった。
強く、迷いがない。
エマは顔を上げた。
暗がりの奥で、複数の灯りが揺れている。ひとつではない。水音も足音も重なっている。ばらばらに走る音ではない。隊列の音だった。
男も、その声を聞いた。
針を構えた手が、ほんの少し止まる。
救助隊。
複数の灯り。
証人。
男はエマたちを一度だけ見た。
焦りも、悔しさもない。
ただ、ここで続ける意味がなくなったと判断した目だった。
次の瞬間、男は手元の灯りを水面へ落とした。
火が消える。
暗がりが深くなった。
ニナが短剣を構え直した時には、もう男の姿は薄れていた。石柱の影と粉塵の向こうへ、足音だけが遠ざかっていく。
「ここです!」
エマは叫んだ。
喉が裂けるように痛い。
「三人います!」
炎の向こうで、盾を持った女が現れた。
鎧の肩に、灰色の鷹の紋が見える。
灰鷹のギルド。
女は走りながらも、視線だけは冷静だった。炎の切れ目。虫の寄り方。壁際に固まる三人。どこを押さえれば道ができるかを、歩幅を落とさずに見ていた。
「油袋、前! 虫の流れを切れ!」
命令が飛ぶと同時に、後ろの隊員が油袋を投げた。
火矢が続く。
炎が石喰い虫の群れの前を走り、黒い波が割れた。焼けた殻が弾ける音がする。虫の群れが怯み、その隙に灰鷹の隊員たちが水場の手前へ踏み込んだ。
一人が盾を立てる。
もう一人が、火の弱い端へ油を足す。
炎が低く広がり、虫の群れが左右へ逃げた。
エマはその場に膝をつきそうになった。
だが、まだ崩れなかった。
灰鷹の女が近づいてくる。
「ノル! 大丈夫?」
ノルがわずかに顔を上げた。
「……カーラ。助かった」
その名で、エマはようやく、目の前の女がノルの知り合いなのだと分かった。
ノルは息を切らしながら続けた。
「気をつけろ。敵がいる」
カーラの表情が変わった。
「どこ?」
「石柱の奥に消えた。まだいるかもしれない」
カーラはすぐに周囲へ声を飛ばした。
「後方、警戒! 深追いしないで。救助を優先!」
隊員たちの動きが変わった。
追う者はいない。
二人が後ろを見張り、残りが三人の周囲へ入る。逃げた男を追うより、倒れかけた者を運び出すことが先だと、全員が分かっている動きだった。
カーラはノルの傷、ニナの左腕、エマの肩を素早く見た。
「状況は?」
低い声だった。
エマは息を整えようとした。
うまく入らない。
それでも、言わなければならなかった。
「三人とも負傷。ノルさんは脇腹と肋骨、出血が続いています。ニナは左腕に毒針、左足も痛めています。私は肩です」
カーラの表情がわずかに硬くなった。
「毒は?」
「ニナと私です。しびれが出ています」
「意識は」
「全員あります」
「歩ける?」
エマは一瞬だけノルとニナを見た。
ノルは壁から手を離せない。ニナは立とうとして、左足に力が入らず顔をしかめている。
「……長くは無理です」
カーラは頷いた。
「分かった。担架を出す。ノルを先に固定。ニナは腕を縛って足を見る。エマ、あんたも座りなさい」
「私は」
「座りなさい」
カーラの声は荒くなかった。
けれど、逆らわせない声だった。
エマはそこで初めて、自分の膝が震えていることに気づいた。
「助けてください」
声がかすれた。
「二人とも、まだ帰れます」
カーラはエマを見た。
「大丈夫。そのために来ました」
その言葉を聞いた瞬間、エマは初めて息を吐いた。
殺しに来る足音ではない。
今度こそ、連れて帰るための足音だった。
灰鷹の隊員がノルの体を支えた。
ノルは何か言おうとしたが、息を吸っただけで顔を歪めた。カーラが短く言う。
「喋らない」
「……命令か」
「救助中は、私の命令」
ノルは目を閉じ、ほんのわずかに口元を緩めた。
「分かった」
ニナは隊員に支えられながらも、まだ短剣を離していなかった。
「ニナ」
エマが呼ぶと、ニナは少しだけ顔を向けた。
「敵は」
「カーラさんたちが見てる」
「……見てるなら、いいです」
そこでようやく、ニナの指が短剣から離れた。
離れた瞬間、手が震えた。
灰鷹の隊員が左腕を吊り、毒が広がらないよう布で強く縛る。ニナは声を出さなかった。ただ、唇だけを噛んだ。
エマも肩の針傷を見られた。
「浅い。でも毒が入ってる」
隊員が言った。
「抜いた?」
「抜きました」
「早かったな」
褒めたのではない。
生きている理由を確認する声だった。
エマは頷こうとして、頭が重く揺れた。
「エマ」
誰かが呼んだ。
ノルか、ニナか、カーラか。
分からなかった。
炎と油の臭いを背にして、エマたちは地上へ戻った。
どう戻ったのか、エマには途中からよく覚えていなかった。
灰鷹の隊員に肩を貸され、ノルは何度も足を止めた。息をするたび、脇腹の包帯が赤く滲んだ。そのたびにカーラが歩幅を落とし、何も言わずに隊を止めた。
ニナは歩けると言い張ったが、途中で膝が折れた。
灰鷹の隊員がすぐに支える。左腕は布で吊られ、毒が広がらないよう強く縛られていた。足も固定されている。ニナは悔しそうに目を伏せたが、もう強がる声は出なかった。
エマも歩いた。
歩けた。
だから、自分は大丈夫だと思っていた。
けれど、監視所の灯りが見えたあたりで、足元が急に遠くなった。白い灯りが揺れる。帳面の上に誰かの手が置かれる。誰かが名前を呼ぶ。
返事をしようとして、声が出なかった。
倒れると思った。
でも、石の床には落ちなかった。
誰かの腕が支えた。
「運べ!」
その声だけが、最後に聞こえた。
次に目を開けた時、エマは白鹿の館の治療部屋にいた。
天井が見えた。
石ではない。
梁のある、いつもの天井だった。
薬草と酒精の匂いがする。
水音も、石が削れる音も聞こえない。
それなのに、耳の奥ではまだ、かり、かり、という音が残っていた。
「目ぇ開いたね」
マルタの声だった。
エマは起き上がろうとした。
「起きるな」
短く止められた。
エマは動きを止めた。肩が重い。腕に力が入らない。体の奥に、まだ冷たい痺れが残っている。
「……ニナは」
「生きてる」
「ノルさんは」
「生きてる」
マルタは布を替えながら言った。
「お前も、ぎりぎり生きてる」
その言葉で、ようやく息が落ちた。
エマは目を閉じた。
生きている。
三人とも。
帰ってきた。
そう思った瞬間、体の力が抜けた。
マルタは何も言わず、エマの肩に巻いた布を確かめた。
針傷は浅かった。
だが、毒が入っていた。量が少なかったこと、すぐに抜いたこと、灰鷹の救助隊が早く地上へ運んだこと。
それらが少しでも遅れていれば、どうなっていたか分からなかった。
「よくもまあ、こんな状態で生還できたもんだよ」
マルタが呆れたように言った。
エマは薄く目を開けた。
「……運がよかったです」
「運だけで戻れる場所じゃない」
マルタは布を結び直した。
「でも、今は寝ろ。生きて戻った奴が、ここで無駄に体力を削るんじゃないよ」
「はい」
返事をしたあと、エマはまた目を閉じた。
今度は、抵抗できなかった。
眠りは深く、重かった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




