第21話 止まるな
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
エマたちは銅角のロイス隊から得た情報をもとに、五階層の調査地点へ近づいていく。鉱脈の黒い筋は濃くなり、床には採掘道具とは違う細かな削り跡が増えていた。壁の奥から聞こえる、石を食うような音。石喰い虫の気配を前に、採掘確認役はなお鉱脈を見たがるが、ノルは足元の危険を優先し、これ以上奥へは進まないと判断する。エマも地図から退く場所を示し、隊は一度立て直そうとする。だが、壁の奥の音が不自然に止まった直後、床の下で何かが割れ、エマの足元がわずかに沈んだ。
エマは息を詰めず、暗い通路を駆けた。
背後で、石が崩れる音が追ってくる。一度大きく鳴り、それから細かな音が続いた。砂が流れ、石片が床を叩き、どこか奥で空洞が潰れていくような低い響きがした。
「止まるな!」
ノルの声が飛ぶ。
「石柱の手前まで出ろ!」
前衛が採掘確認役の肩を押した。
「足元!」
エマは叫んだ。
採掘確認役の足が、割れ目の縁にかかる。男は慌てて踏み直し、前衛に引かれて前へ出た。ニナは先に広い場所へ飛び込むと、すぐ振り返った。
「こっち! 右は崩れてる!」
灯りが揺れる。影が壁を走る。
エマは胸に押さえていた地図板を、すぐ腰紐に差し直した。手を空ける。誰かが転べば、すぐ掴まなければならない。
広い場所へ出た。
崩れた石柱の根元が並ぶ、小さな空間だった。天井は高くない。だが、さっきの通路よりは足場がましだった。床には古い石板のようなものが半分埋まっている。誰かが作った広間の跡なのか、ダンジョンがそういう形を取っただけなのかは分からない。
「止まれ。壁から離れろ」
ノルが手を上げた。
全員が息を切らして止まる。背後の通路では、まだ砂が落ちていた。ぱらぱら、と乾いた音が続く。大きな崩落ではない。だが、戻る通路の一部が痩せたのは間違いなかった。
エマはすぐに周囲を見た。
ノル。ニナ。前衛二人。採掘確認役。灯り持ち。六人。自分を入れて七人。
いる。
全員いる。
「怪我は」
エマは息を整える前に言った。
「足、手、頭。痛む人は言ってください」
前衛のひとりが腕を振った。
「擦っただけだ」
「見せて」
「大したことない」
「大したことないなら、早く見せて」
男は少し顔をしかめたが、腕を出した。石片で皮が切れている。浅い。出血も少ない。エマは布で押さえた。
「これはあとで洗います。今は押さえて」
「分かった」
採掘確認役は膝に手をついていた。顔が白い。
「足は」
「……捻ってはいない。たぶん」
「たぶんは禁止です」
エマはしゃがみ、足首の動きを見た。腫れはない。だが、靴の横に石粉が入り込んでいる。
「歩けますか」
男は頷いた。
「歩ける」
「なら今はそれでいいです。痛みが増えたら、すぐ言ってください」
「分かった」
言い方はまだ硬い。だが、さっきよりは素直だった。
ノルは崩れた方を見ていた。
「ニナ」
「見る。でも奥までは行かない」
ニナは低く身をかがめ、通路の入口まで戻った。床に手を置き、壁には触れずに奥を覗く。
「通れなくはない。でも狭くなった。石がまだ落ちてる」
「今は通らない」
ノルは即座に言った。
「ここで立て直す。灯りを寄せろ。壁際に近づくな」
エマは地図板を抜いた。
手が少し震えていた。震えを止めようとするより、文字を小さく書くことに集中する。
戻り道。危ない足場。今いる広い場所。崩れた通路。
書き込みながら、耳は周囲を拾っていた。
砂の落ちる音。
水の音。
誰かの荒い息。
それから、遠くで鳴る、かり、かり、という細い音。
まだいる。
石喰い虫か。別の何かか。分からない。
「ノルさん」
「何だ」
「ここも長居はまずいです。音が近い」
「ああ」
ノルは前衛に目を向けた。
「三階層まで戻る。走るな。崩れた場所を抜けるなら一人ずつだ」
「調査は中止か」
採掘確認役が言った。
ノルはその男を見た。
「続けたいか」
男は口を開きかけ、崩れた通路を見て黙った。壁の奥で、また小さく石が鳴った。
「……中止だな」
「そういうことだ」
その時だった。
ニナが振り返った。
「待って」
声が低い。
全員が止まる。ニナは耳を澄ませている。
「何か聞こえる」
ノルが手を上げた。
誰も喋らない。
砂の落ちる音。水の音。壁の奥を削る細い音。
それとは別に、かすかな金属音がした。
ちりん。
一度だけ。
エマの背筋が冷えた。
小鬼か。
探索者の合図を真似ることがある。ノルも同じことを考えたのか、すぐに言った。
「返すな」
もう一度、音がした。
ちりん。
続いて、低く咳き込むような音。
人の声ではない。けれど、魔物の鳴き声とも違う。
ニナが顔をしかめた。
「小鬼の真似じゃないと思う。音が弱い。場所は……奥じゃない。右の崩れた石柱の裏」
前衛が盾を上げる。
ノルは短く指示した。
「ニナ、見る。近づきすぎるな。エマはここにいろ」
「分かってます」
エマは即答した。
自分でも少し驚いた。前なら、先に足が出ていたかもしれない。けれど今は、まず場所を見る。誰かが倒れているなら、引き出す場所がいる。灯りもいる。道具もいる。自分が狭い場所へ飛び込んで、荷も道具も置き去りにしては意味がない。
ニナが石柱の裏へ近づく。
短剣は抜いている。片足ずつ、床を確かめながら進む。
「……いる」
声が硬くなった。
「人?」
ノルが聞く。
「たぶん。倒れてる」
エマの胸が鳴った。
ニナは続けた。
「一人。男。銅角じゃない。肩章が違う。意識は……ある、かも」
「魔物は」
「見えない。でも血の匂いがする」
血。
その言葉に、奥の通路から低いうなり声が返った。
裂牙犬だ。
遠い。だが、近づいている。
ノルが顔を上げた。
「急ぐぞ。だが慌てるな」
エマは荷を下ろした。
「この場所に運んでください。壁から離して。頭をこっち、足をあっち」
「分かった」
前衛二人が石柱の裏へ向かう。ノルがそばにつき、ニナが足場を指示した。
「そこ踏まない。割れてる」
「こっちから回って」
「持ち上げるなら肩と腰。足は引きずらないで」
エマは布を広げた。
水袋と酒精、包帯、出血抑制のスクロールを手の届く順に置く。針と糸も出したが、すぐには使わない。
まず見る。
まず止める。
マルタの声が頭の奥で鳴った。
――慌てて治すな。何が死なせるかを見ろ。
前衛たちが男を運んできた。
若い男ではない。三十前後か。顔は石粉で汚れ、額から血が流れている。右の脇腹あたりを押さえていた布が、赤く染まっていた。
肩章は白鹿でも銅角でもない。見覚えの薄い印だった。汚れの下に、斜めの線が二本だけ見える。
エマは一瞬だけそれを見たが、すぐ顔に視線を戻した。
所属は後でいい。
生きているかが先だ。
「聞こえますか」
男のまぶたが動いた。
「……う」
声にならない声。
「白鹿のギルドです。今、見ます。喋らなくていい。聞こえていたら、まばたきしてください」
男のまぶたが、一度だけ閉じた。
生きている。
エマは息を吐いた。
「意識あり。呼吸は浅い。額は後で。先に腹」
ノルが横に膝をついた。
「どの程度だ」
「まだ分かりません。押さえている布を外します。ニナ、酒精。手を」
ニナがすぐに差し出した。
エマは手を拭い、男の脇腹に当てられていた布を少しだけめくった。
傷は深い。
刃物ではない。鋭い石か、魔物の爪か。皮膚が裂け、血が滲み続けている。勢いよく噴いてはいない。だが、止まってもいない。
「出血は続いてる。圧迫します」
エマは新しい布を当て、手で押さえた。
男の体がびくりと跳ねる。
「痛いです。でも押さえます。離しません」
男は声にならない呻きを漏らした。
ニナが顔をしかめる。エマは見ない。手元だけを見る。
「スクロールは?」
前衛のひとりが聞いた。
「まだ」
エマは短く答えた。
「血を止める位置がずれていたら無駄になります」
ノルが頷いた。
「何が必要だ」
「灯りをもう一つ。影が邪魔です。あと、周囲を見てください。血の匂いで来ます」
「前衛、外を見ろ」
ノルが命じる。
前衛がすぐに広間の入口へ散った。ニナも立ち上がりかけた。
「ニナはこっち」
エマが言った。
「私?」
「手がいる」
「了解」
ニナは膝をついた。
エマは布を重ねながら言った。
「ここを押さえて。強く。でも、ずらさないで」
「分かった」
「手が震えてもいい。離さないで」
ニナは一瞬だけエマを見た。
「震えてない」
「じゃあ、そのまま」
「了解」
エマは出血抑制のスクロールを取った。
紐をほどく。淡い光が広がり、傷の周囲にまとわりつく。血の流れが少しだけ鈍った。
完全には止まらない。
けれど、少し保つ。
それでいい。今は、それでいい。
「呼吸、浅いまま」
エマは男の顔を見た。唇の色が悪い。
「水は飲ませない。横向きにしすぎない。腹を圧迫しすぎると息が詰まる」
ニナが低く聞いた。
「この人、運べる?」
「動かせるようにする」
エマは周囲を見た。
広いが、安全ではない。背後の通路は崩れかけている。壁の奥では音がする。血の匂いも広がっている。
「ノルさん」
「ああ」
ノルは入口を見たまま答えた。
「三階層の休息地点まで戻します。ここで長く見る場所じゃありません」
エマは頷いた。
「担げます。ただ、腹を折らないように。布で固定します」
「時間は」
「少しだけください」
ノルは剣を抜いた。
「作る」
短い返事だった。
それだけで前衛たちが動いた。入口を塞ぐ者。灯りを高く掲げる者。背後の崩れた道を見る者。
エマは布を引き、男の体を固定した。腹を折らないように、肩と腰を支える位置を決める。手順を間違えれば、傷がまた開く。
「ニナ、押さえたまま」
「了解」
「私が合図したら、こっちの布を引いて」
「分かった」
男の呼吸は浅い。
でも、まだある。
エマは血で濡れた布を握り直した。
「……まだいける」
声は小さかった。
祈りではない。
自分の手を止めないための言葉だった。
その時、広間の入口で前衛が叫んだ。
「来た!」
裂牙犬が一匹、灯りの端に姿を見せた。
低い体勢。裂けた牙。濡れた鼻先が、こちらの血の匂いを拾っている。
その後ろで、もう一つ影が動いた。
一匹ではない。
ノルが前に出た。
「倒しに行くな。寄せるな。時間だけ稼げ」
前衛が盾を合わせる。
裂牙犬が低く唸った。ニナの手に力が入る。
「エマ」
「離さないで」
「離さない」
エマは布を結んだ。
もう一度、男の呼吸を見る。浅い。でも、ある。
「動かします」
ノルが少しだけ振り返った。
「三階層まで戻る」
「はい」
その瞬間、裂牙犬が飛びかかった。
盾に牙がぶつかる。鈍い音。前衛が踏ん張る。もう一匹が横へ回ろうとした。ノルが剣で通路を切るように払う。
斬るためではない。
近づけないための一撃だった。
「今だ!」
エマは叫んだ。
「持ち上げて!」
前衛の一人が戻り、負傷者の肩を支える。ニナが布を押さえたまま、エマの合図に合わせて位置を変えた。
男が呻く。
「痛いです。分かってます。でも動きます」
エマは短く言った。
「置いていきません」
その言葉に、男の指がわずかに動いた。
聞こえている。
なら、まだ戻せる。
一行は広間から退き始めた。
裂牙犬が吠える。その声に、遠くから別の声が重なった。
増える。
長引けば囲まれる。
ノルが鋭く言った。
「足を止めるな!」
崩れた通路を一人ずつ抜ける。
まず灯り持ち。次に負傷者。エマは負傷者の横についた。
「右、段差。ゆっくり」
「そこ、石が動きます。踏まないで」
「布、ずれてる。ニナ、少し上」
「了解」
ニナの声は短い。余計なことは言わない。
背後では、ノルと前衛が裂牙犬を押さえている。盾が鳴り、牙がぶつかり、低い唸りが通路に反響した。
エマは振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる。
今は、戻す。
それだけでいい。
崩れた場所を抜けた時、天井からまた砂が落ちた。
採掘確認役が小さく呻く。
「まだ崩れるのか」
「喋るなら足を見て」
エマは言った。
男は口を閉じた。
前へ。
四階層へ戻る道。三階層の休息地点。
そこまで行けば、処置をやり直せる。水を使える。灯りも置ける。背中を壁に預けずに済む。
もう少し。
もう少しで、いったん止まれる。
そう思った時だった。
音が消えた。
裂牙犬の唸りが途切れたわけではない。盾の音も、足音も、誰かの息もある。
それなのに、床の下だけが急に静かになった。
さっきまで壁の奥で続いていた、かり、かり、という細い音がない。
エマは足を止めなかった。
止めなかったが、背中が冷えた。
ニナも気づいたのか、布を押さえる手に力を込めた。
「今の」
言いかけた声を、低い音が潰した。
どん。
床そのものが、下から叩かれたような音だった。
一度だけ。
重く、近い。
ノルが叫んだ。
「全員、前へ!」
エマが振り返るより早く、通路の横壁が割れた。黒い亀裂が走り、床が斜めに沈む。負傷者を担いでいた前衛がよろめいた。
「支えて!」
エマとニナが同時に手を伸ばす。
負傷者の体が傾く。布がずれる。男が呻いた。エマは腹の固定布を掴んだ。
「落とさないで!」
ニナは負傷者ではなく、前衛の腕を掴んだ。
「こっち!」
その瞬間、さらに床が抜けた。
エマの足元ではない。
少し後ろ。
ノルとニナがいた場所。
「ニナ!」
エマが叫んだ。
ニナの体が揺れた。ノルが彼女の腕を掴む。だが、足元の石板ごと、二人の体が落ちた。
一瞬だった。
灯りが下へ流れる。
ニナの声が切れる。
ノルの姿が闇に沈む。
石が落ちる音だけが続いた。
「ノルさん!」
エマは駆け寄ろうとした。
だが、前衛が腕を掴んだ。
「駄目だ!」
「離して!」
「床が抜ける!」
前衛がエマの腕を引いた。
足元で、また石が欠けた。穴の縁が崩れ、砂が闇の中へ落ちていく。
下まで、抜けた。
そう思った瞬間、喉が詰まった。
ただの崩れ穴じゃない。
下の層まで続いている。
「ノルさん! ニナ!」
返事はない。
返ってくるのは、遠い水音と、石がまだ転がっていく音だけだった。
その奥で、何かが擦れた気がした。
「エマ!」
前衛の声で、エマは現実に引き戻された。
負傷者がいる。血がまた滲み始めている。裂牙犬の声も、まだ後ろから聞こえている。
ここで止まれば、全員が終わる。
分かっている。
分かっているのに、足が穴へ向きそうになる。
ノルとニナが落ちた。
今すぐ行かなければ。
けれど、負傷者を置けば、この人は死ぬ。他の仲間も、崩れた通路で止まる。
エマは歯を食いしばった。
息を吸う。
無理やり吐く。
「……三階層へ戻ります」
声が震えた。
それでも言った。
「この人を休息地点まで運ぶ。そこから考えます」
前衛が頷いた。
「分かった」
採掘確認役は青い顔で穴を見ていた。
「……六階層まで、抜けたのか」
エマは答えられなかった。
穴の奥をもう一度見る。
闇しか見えない。
「エマ、ノルさんたちは」
「分かってる!」
声が強く出た。
自分でも驚いた。
すぐに、少しだけ声を落とす。
「分かってます。でも、今ここで止まったら、誰も戻れない」
置いていくんじゃない。
そう言い聞かせた。
言い聞かせなければ、足が穴の方へ戻りそうだった。
エマは負傷者の布を押さえ直した。
指の下で、血がぬるく広がっている。
まだ生きている。
ここにも、連れて帰らなければならない人がいる。
「動かします。急いで。でも落とさないで」
裂牙犬の声が近づいていた。
ノルはいない。
ニナもいない。
エマは穴から目を引き剥がし、奥歯を噛んで、前を向いた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




