第22話 戻る
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
カイル・ブレント 白鹿のギルド所属の前衛の一人 以前エマが救護して助けた
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
五階層の床が崩れ、エマたちは崩落から逃れながら負傷者の救護と撤退を続ける。裂牙犬の気配が迫る中、エマは血を止め、呼吸を見て、戻るための道を選び続けた。だが、崩れた床の穴は下の層まで抜けており、ノルとニナはその闇の奥へ落ちてしまう。すぐに追いたい。けれど、目の前には負傷者がいて、背後には魔物がいる。ここで止まれば、誰も戻れない。エマは震える声を押し殺し、負傷者を三階層の休息地点まで運ぶことを選ぶ。ノルとニナを置いていくのではなく、助けに戻るために、まず生きている者を連れて戻るためだった。
「三階層の休息地点まで。止まらないで」
エマの声で、一行が動いた。
誰も返事をしなかった。返事をする余裕がなかった。
負傷者を担いだ前衛が先に出る。灯り持ちがその少し前を照らす。採掘確認役は、足を引きずらないよう必死でついてきた。
エマは負傷者の脇につき、布のずれと呼吸だけを見た。
背後では、裂牙犬の唸り声がまだ追ってきている。
ノルの声はもう聞こえない。
ニナの声も聞こえない。
考えると足が止まりそうになる。だから、エマは負傷者の口元だけを見た。
浅い息。
悪い色。
まだある。
まだ消えていない。
「段差。右に寄って。そこは石が浮いてる」
灯り持ちが足元を照らす。前衛が頷き、負傷者の体を少し持ち上げた。
男が喉の奥で呻く。
「ごめんなさい。痛いです。でも進みます」
男の返事はなかった。
けれど、指がわずかに動いた。
通路の奥で、こん、こん、と石を叩く音がした。
小鬼かもしれない。
誰も返さなかった。
ノルがいなくても、さっきの指示は残っている。
灯りを中央へ。
荷に注意。
音に返事をしない。
「前、早すぎます」
エマが言った。
「負傷者の息が乱れます。半歩落として」
前衛のひとりが、苛立った声を漏らした。
「後ろから来てる」
「分かってます。でも急ぎすぎたら途中で止まります」
言い切ると、前衛は歯を食いしばりながら歩幅を落とした。
それでよかった。
遅すぎても駄目。
早すぎても駄目。
負傷者を運ぶ速度は、逃げる者の速度ではない。
死なせずに動かす速度だ。
背後で裂牙犬が吠えた。
近い。
「一匹、曲がり角まで来てる!」
最後尾の前衛が叫ぶ。
灯り持ちが腰の油袋へ手を伸ばしかけた。
「油はまだ使わない!」
エマはすぐに止めた。
「煙がこっちに来ます。狭いです」
「じゃあどうする!」
「左の積み石を落として。崩れれば少し塞げます」
言いながら、エマは視線だけで壁際を示した。
崩れかけた石積みがある。古い仕切りなのか、誰かが作った目印なのかは分からない。だが、支えは甘い。
前衛が一瞬迷い、すぐ足で払った。
石が崩れ、通路の床へ転がる。
裂牙犬が足を止めた。唸り声が近くで低くなる。
完全には止められない。
けれど、数呼吸分は稼げる。
それで十分だった。
「進んで」
エマは言った。
三階層への登りは、思ったより遠かった。
下りてきた時には短く感じた階段が、今はやけに長い。負傷者の重みが前衛の肩にかかり、布がじわじわ赤く染みていく。
エマは何度も圧迫の位置を直した。
強すぎれば息が詰まる。
弱ければ血が出る。
「もう少し」
自分に言っているのか、男に言っているのか分からなかった。
やがて、空気が少し変わった。
四階層の湿った冷気が薄れ、三階層の乾いた石の匂いが戻ってくる。
灯りの先に、低い石囲いが見えた。
休息地点。
戻ってきた。
「ここ!」
エマが言った。
「奥じゃない。入口から見える場所。壁に寄せすぎないで」
前衛たちは負傷者を慎重に下ろした。
男の体が石床に触れた瞬間、呻き声が漏れた。
「布、緩めないで。あなた、そこ押さえてください。ずらさないで」
前衛の男が慌てて手を置く。
「ここか」
「そう。強く。でも押し潰さない」
エマはすぐに水袋を取り、手を洗った。酒精を使う。布を替える。額の血も気になるが、まだ腹が先だった。
周囲の声が遠い。
誰かが息を切らして座り込む。誰かが外を見張る。採掘確認役が壁に手をつき、青い顔のまま黙っている。
ノルはいない。
ニナもいない。
その事実だけが、何度も頭の中へ戻ってくる。
エマはそれを押し込んだ。
今は、この人だ。
「名前、言えますか」
男の唇が動いた。
聞き取れない。
エマは耳を近づけた。
「……リック」
かすれた声だった。
「リック?」
男はわずかに頷いた。
「……青槍……リック・ハロウ……」
青槍のギルド。
エマはその名だけ覚えた。
「リックさん。話さなくていいです。今は息してください」
「……ほかにも……」
その言葉に、周囲が止まった。
エマも手を止めかけた。
「ほかにも、いたんですか」
リックの目が震えた。
「下……いや、奥……声が……崩れて……」
言葉が切れる。
呼吸が乱れた。
「もういい。今は喋らないで」
エマは布を押さえ直した。
「喋ると血が出ます」
リックは目を閉じた。
意識が遠のいたのかと思い、エマは頬を軽く叩く。
「リックさん。聞こえますか」
まぶたがかすかに動いた。
まだいる。
「水は?」
前衛が聞いた。
「まだ飲ませません。口を湿らせるだけ」
エマは布に少し水を含ませ、リックの唇に触れさせた。喉が動きかける。
「飲まない。舐めるだけ」
リックはかすかに従った。
休息地点の入口では、前衛の一人がずっと外を見ていた。裂牙犬の声は遠のいている。けれど、消えたわけではない。
エマはリックの布を押さえたまま言った。
「誰か、地上へ戻って救援を」
「エマ」
声をかけてきた前衛の男を見て、エマはようやく相手の顔をはっきり見た。
カイル・ブレントだった。
前に、五階層でエマが助けた男だ。
あの時の血の匂いが、一瞬だけ戻った気がした。
「カイルさん」
「俺は動ける。地上へ行くなら、俺が行く」
エマは一瞬、言葉に詰まった。
「危ないです。道も崩れています」
「分かってる」
カイルは短く答えた。
「でも、ここで誰かが戻らなきゃ、救助は来ない」
エマは唇を噛んだ。
ノルとニナが落ちた。
リックはここで動かせない。
残った者たちだけでは、六階層まで救助に行けない。
分かっている。
それでも、誰かを一人で地上へ走らせるのは怖かった。
カイルは、少し息を整えてから言った。
「あの時、俺は戻された。今度は俺が走る」
その言葉に、エマの胸の奥が詰まった。
でも、泣く場面ではない。
「お願いします」
エマは言った。
「監視所のダンに伝えてください。六階層まで抜けたこと。負傷者がいること。ノルさんとニナが落ちたこと。救助隊が必要なこと。全部」
「分かった」
「白鹿だけじゃ足りないかもしれません。近くの救助隊も。灰鷹でも、どこでも」
「言う」
「途中で小鬼の音がします。返事しないで。左の古い横道は裂牙犬がいます。右回りで戻ってください。四階層の水脈のところ、真ん中は滑ります」
カイルは頷きながら聞いた。
「覚えた」
「忘れないで」
「忘れない」
エマは地図板を渡しかけて、止めた。
これは必要だ。
自分が行くなら、これがいる。
代わりに、休息地点の壁に短く印を刻んだ。
戻り道の注意。
裂牙犬。
小鬼。
崩落。
監視所へ。
「これを見て、道を戻って」
カイルは壁の印を見て、頷いた。
「行く」
「一人で走りすぎないでください。途中で転んだら終わりです」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってる」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
けれど、すぐに消えた。
カイルは前衛のひとりと目を合わせた。
「ここを頼む」
「任せろ」
カイルはもう一度エマを見た。
「エマ」
「はい」
「死ぬなよ」
その言葉は軽くなかった。
エマは少しだけ息を吐いた。
「そっちも」
カイルは頷き、灯りを一つ取った。予備の短剣を腰に差し、少しの水と乾いた布を持つ。
余計な荷は持たない。
走るためだ。
彼は休息地点を出る前に、奥へ続く道を一度だけ見た。
それから、振り返らずに走った。
足音が遠ざかっていく。
灯りの揺れも小さくなり、やがて石床を叩く音だけが残った。
その音が聞こえなくなるまで、エマは顔を上げなかった。
「リックさん、聞こえますか」
返事はない。
けれど、息はある。胸が浅く上下しているのを確かめて、エマは血を吸った布の上から、もう一度手の位置を押さえ直した。
「この人はここで待機させます。動かすのは危ない。ここで圧迫を続けて、救援を待つ」
前衛のひとりが言った。
「エマ、お前は?」
エマは布を押さえたまま、六階層へ落ちた方を見た。
ノルとニナが落ちた。
下は六階層まで抜けているかもしれない。
救援は来る。
カイルが走った。
けれど、すぐには来ない。
来るまでに、二人が動けなくなったら。
魔物に見つかったら。
出血していたら。
呼吸が止まったら。
考えたくないことばかりが、暗い穴の底から這い上がるように浮かんでくる。
エマは手元を見た。
血で濡れた布。
そこに置いた自分の指。
震えている。
それでも、さっきよりは動く。押さえる場所も、力の入れ方も、分かっている。怖くても、手はまだ使える。
エマは息を吸った。
「私が行きます」
休息地点が静かになった。
前衛の男が低く言った。
「一人でか」
「はい」
「無茶だ」
「無茶です」
エマは認めた。
「でも、全員では行けません。負傷者がいます。ここを守る人も必要です。カイルさんが救援に行った。誰かが下を探さないと、ノルさんたちがどこにいるかも分からない」
「だからって、お前一人で」
「戦うために行くんじゃありません」
エマは地図板を握った。
「見つけて、持たせます。救援が来るまで」
前衛は黙った。
採掘確認役が、かすれた声で言った。
「下までの道が分かるのか」
「分かりません」
エマは答えた。
「だから、落ちた穴からは降りません。あそこは崩れます。近くに下へ続く割れ目か、古い階段があるはずです。水音がしていました。空洞がつながっているなら、通れる場所があるかもしれません」
「かもしれない、で行くのか」
「かもしれない、で待てないです」
エマはリックの布を前衛に押さえさせた。
「ここ。力を抜かないで。血が増えたら、上からもう一枚。口に水は入れない。吐いたら横を向ける。でも腹は折らない」
前衛は押さえながら、まだエマを見ていた。
「エマ」
「戻ります」
エマは言った。
「二人を見つけたら戻ります。すぐじゃなくても、救援が来るまで持たせます」
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙が、止めたいという意味なのは分かった。
でも、誰も代わりに行けるとは言わなかった。
エマは荷を選び直した。
治療に要るもの。
道を戻るためのもの。
灯り。
縄。
地図板。
それ以外は置く。
持てるだけ持てばいい場面ではなかった。
リックの横に残すものを分ける。
「これはリックさん用。こっちは私が持ちます。酒精は半分残します。布は多めに置きます」
動いていると、怖さが少しだけ遠のいた。
止まると戻ってくる。
だから動いた。
前衛の男が、腰の短剣を一本抜いて差し出した。
「持っていけ」
「ありがとう」
「魔物を倒すためだけじゃない。縄を切る時にも使える」
エマは一瞬迷い、受け取った。
「借ります」
「返せ」
「返します」
そう言ってから、エマは喉の奥が詰まった。
返す。
地上で。
生きて。
エマは灯りを取った。
休息地点の入口に立つ。
下の方から、遠く水の音がしている気がした。さっき聞いた音と同じかは分からない。
「エマ」
前衛が呼んだ。
「本当に一人で行くのか」
エマは振り返った。
怖い。
今度は、はっきりそう思った。
でも、足は前を向いていた。
リックの浅い息が背中に残っている。
カイルの足音は、もう聞こえない。
ノルとニナの声も、まだ戻ってこない。
エマは灯りを少し低く持った。
地図板の端が、手のひらに食い込む。
「行ってきます」
声は震えなかった。
そのあとで、膝が少しだけ震えた。
エマはそれを置いていくように、暗い道へ足を踏み出した。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




