第1話 酒場の帰り道
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
オスカー・ウォーカー エマの弟
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
酒場の扉を開けると、熱気が顔に触れた。
焼いた肉と麦酒の匂いに、火のそばで乾かされる外套の湿った匂いが混じる。笑い声の中で皿が卓に置かれ、その音まで熱気に溶け込んでいた。
エマは肩の荷を持ち直し、人の間を抜けた。
奥の卓に、オスカーがいた。
杖は椅子の横に立てかけてある。倒れないよう、脚の間にきちんと挟んでいた。卓には水と温かいスープが置かれている。エマが来る前に頼んでおいたのだろう。
オスカーがこちらを見た。
「遅かったね」
「監視所で地図を書き足してた」
エマは向かいの椅子に腰を下ろした。荷を床へ置くと、背中だけがまだ革紐の重さを覚えていた。
「三階層、帰り道まで変わってたの?」
「目印の楔は残ってるのに、通路が狭くなってた。地図にある小部屋も半分潰れてた」
「それで遅くなったんだ」
「それと、黒鉄トカゲ」
エマは水を飲んだ。喉に残っていた石粉のざらつきが、ようやく薄くなる。
「鱗を割らずに剥がすの、ほんと面倒」
オスカーは口元だけ緩めた。
「報酬になるんでしょ」
「なる。だから面倒でもやる」
「エマらしい」
「それ、どういう意味」
「いい意味」
「ならいいけど」
エマは卓に肘をつきかけて、やめた。袖に細かな石粉が残っている。払うと、白っぽい粉が卓の端に落ちた。
オスカーは何も言わず、指先で白い粉をスープから遠ざけた。
代わりに給仕の娘へ手を上げる。
「すみません。麦酒を一つ」
「分かってるね」
「今日はそれを楽しみに帰ってきた顔だったから」
「出てた?」
「出てた」
酒杯が運ばれてくる。エマは両手で受け取り、香りを確かめてから口をつけた。
冷えた麦酒が喉を通る。
一口目で、体の奥に残っていた緊張がほどけた。乾いた石の匂いも、黒鉄トカゲの硬い鱗の感触も、若手探索者の足首を固定した時の焦りも、酒場の熱気の向こうへ遠のいていく。
エマは杯を卓に置いた。
「……沁みる」
「大げさ」
「今日くらい言わせて」
「何かあった?」
声は軽い。けれど、オスカーの目はエマの袖口と指先を見ていた。
エマは杯の縁を親指で拭った。
「若手が一人、転んだ」
オスカーの指が、卓の端に触れた。
「怪我は?」
「腕と足首。歩ける形にはした」
「スクロール、使ったの?」
「使ってない。添え木と布で固定した」
「それで歩ける状態にはできたんだね」
「できた。でも、何でもそれで済むわけじゃない。血が足りなければ間に合わないし、傷を見る順番を間違えたら、スクロールだけ使っても無駄になる」
エマは酒杯を引き寄せた。
「使う前に見る。使わずに済むなら使わない。使ったあとも見る。そこで手を抜くと、帰れない」
オスカーは短く頷いた。
それ以上は聞かなかった。
泡が、杯の内側で細く消えていく。
「前衛だった頃なら、たぶん通路の奥を先に見てた。今日は、怪我人の足元を先に見た」
「いいことじゃないの」
「たぶんね」
「たぶん?」
「自分で言うと腹立つから」
オスカーは笑った。
「変なところで意地張るよね」
「変じゃない」
「はいはい」
エマは睨もうとして、やめた。オスカーが笑っているなら、それでよかった。
人波の向こうから、ニナが姿を見せた。
「お疲れ様です。遅くなりました」
薄い外套を肩にかけ、髪を後ろで結び直している。明るい顔をしていたが、目元には打ち合わせ帰りの疲れが残っていた。
「お疲れ、ニナ」
エマが手を上げると、ニナは空いている椅子に腰を下ろした。
「明日の三、四階層の素材回収で、打ち合わせが長くなって」
オスカーが給仕を呼ぶ。
「ニナさんも飲む?」
「飲みます。大杯で」
「迷いがない」
エマが言うと、ニナは真面目な顔で頷いた。
「迷っている間に席が取られますから」
「そこまで混んでないでしょ」
「油断は禁物です」
給仕が笑いながら人波へ戻っていく。
ニナは卓の皿を見た。
「もう食べてます?」
「まだ。オスカーが待ってた」
「えらい」
「僕が?」
「はい」
オスカーは肉皿を自分の方へ引いた。
「エマを待たせると、肉が消えるので」
「消さない」
「今、目が動いた」
「動いてない」
「動いた」
ニナが笑った。
給仕がニナの麦酒を置く。ニナは礼を言い、半分ほど飲んでから、杯を卓に置いた。
「これは……沁みますね」
「ほら」
エマがオスカーを見る。
「ニナも言った」
「探索者はみんな大げさなのかな」
「無事に帰ってきた人間には、多少の大げさが許される」
「じゃあ、許す」
オスカーは肉皿を真ん中へ戻した。
エマは満足げに一切れ取った。
ニナはその様子を見届けてから、思い出したように身を乗り出す。
「そういえば、明日の打ち合わせ、エマさんも来ればよかったのに」
「前衛組のやつでしょ」
「そうです。三、四階層の素材回収の件」
「私は後ろを見る役だから。前衛の動きまで口を出したら、嫌がられる」
「エマさんが言うと、たまに当たるから困るんですよ」
「たまに?」
「わりと」
「そこは最初から言い直して」
ニナは笑い、杯を置いた。
「でも、明日は一緒ですよね」
「行くよ。荷とスクロールを持つのは私だし」
エマは肉を飲み込み、水を挟んだ。
「ただし、前には出ない」
「エマさんが前に出たら楽なのにって、みんな言ってますよ」
「楽をするために私を前に出すな」
「たしかに」
エマは皿の端に置いた布で指先を拭いた。
「前に出る人間が増えればいいってものじゃない。荷が傾いた時や、道が変わった時、後ろで気づく人間が要る。水を飲まずに進んだり、痛いのに平気な顔をしたりする人もいるんだから」
ニナは言い返しかけて、布をつまんだまま口を閉じた。
オスカーも黙って聞いている。
隣の卓で誰かが笑い、奥では楽器の弦が軽く鳴った。
エマは自分の手を見てから、酒杯の縁に触れた。爪の間は何度も洗ったのに、石粉の匂いがまだ残っている気がした。
「エマさんも、前に出てた頃は見てなかったんですか?」
ニナは茶化さずに聞いた。
「敵の動きばかり見てた」
エマは酒杯の縁から指を離した。
「人の足の置き方も、荷の傾きも、見えてなかったんだと思う。今は、そっちが気になる」
ニナはすぐには返さなかった。
オスカーが卓の下で、癖のように杖の柄へ触れていた。エマはそれに気づきながらも口を開かなかった。
ニナは杯の中を見た。
「そこまで言われると、前衛に誘いにくいですね」
「誘ってもいいよ。断るけど」
「そこは変わらないんですね」
「そこは変わらない」
沈みかけた空気を、オスカーが肉皿で押し戻した。
「じゃあ、サポーター様には肉を一切れ追加で」
「分かってるね」
「でも二切れはだめ」
「細かい」
「生活費を見てるのは僕なので」
ニナが目を丸くした。
「オスカーさん、しっかりしてますね」
「しっかりしないと、エマが塩も肉も多めにします」
「言い方」
「事実でしょ」
「味は濃い方が元気が出る」
「それを毎回やるから止めてる」
ニナは肩を震わせて笑った。
エマは言い返せなかった。心当たりがありすぎた。
「そういえば」
ニナが酒杯を置いた。
「エマさんって、どうして前衛からサポーターに回ったんですか?」
エマの手が止まり、オスカーも視線を上げたので、ニナはすぐに両手を振った。
「あ、無理に聞く話じゃないなら」
「別に」
エマは笑った。
遅れて出た笑いだった。
「私も、たまに分からなくなるし」
ニナは続きを待った。
エマは肉皿へ手を伸ばしかけ、杯を持った。
「前に出るのが嫌になったわけじゃない。戦えなくなったわけでもない。たぶん、前だけ見てるのが怖くなった」
「怖く?」
「後ろで倒れてる人に、気づかないまま進むのが」
言ってから、酒場で出すには重い言葉だったかもしれないと思った。
けれど、もう戻らない。
オスカーは返さなかった。ニナもすぐには続けなかった。
その間を、隣の卓の笑い声が破った。賭けに負けたらしい男が大げさに頭を抱え、周りが手を叩いている。
エマはその音に助けられるように、杯を口に運んだ。
「まあ、だから今日は飲む」
ニナがようやく笑った。
「そこに戻るんですね」
「酒場に戻る。帰ってきたから」
オスカーが水の杯を持ち上げた。
「お疲れ、エマ」
いつもの軽口より、柔らかい声だった。
エマは返事に迷い、それから杯を持ち上げた。
「ただいま」
「おかえり」
ニナも麦酒を掲げる。
「おかえりなさい」
三つの杯が小さく触れ合い、その縁に酒場の灯りが揺れた。
こういう夜があるから、帰ってこようと思える。
エマはそう思った。
口には出さなかった。
出すと、何かが壊れそうな気がした。
ニナはふと、エマの胸元へ視線を落とす。
「エマさん」
「なに?」
「服に肉汁、ついてますよ」
「え」
エマは自分の服を見下ろした。
小さな染みが跳ねている。慎重に食べたつもりだったのに、まったく意味がなかった。
「……うわ」
オスカーが口元を押さえ、ニナもこらえきれずに笑う。その前で、エマは慌てて布で染みを拭いた。
「最悪。これ、落ちるかな」
「石粉よりは落ちるんじゃない?」
オスカーが言った。
「比べるものがおかしい」
「じゃあ、血よりは」
「もっとおかしい」
ニナがとうとう声を出して笑った。
エマは顔をしかめたが、怒る気にはなれなかった。
オスカーが笑っている。
ニナも笑っている。
卓の上にはまだ温かい皿があり、酒杯があり、外へ出れば夜風がある。
ダンジョンの中では、目印や床、壁の変化を見ながら、道を何度も確かめなければならない。
でも、この卓へ帰る道だけは、体が覚えている気がした。
エマは布を置き、もう一度杯を持った。
「次の一口はこぼさない」
オスカーが言った。
「信用してない」
「私もです」
ニナまで続けた。
「二人とも、そこは信用して」
エマは笑った。
三人の声は、酒場の喧騒に溶けていく。
それだけのことが、どうしようもなく愛おしかった。
もうほんの少し、こういう夜が続けばいい。
そう思っても、口にはしなかった。
ただ、酒杯の縁に残った泡を見て、それが消える前に静かに飲み干した。




