第12話 遠きに行くは近きよりす
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
オスカー・ウォーカー エマの弟
マルタ・リード 治療師(50代くらい/女性)
オルブライト・ケイン 白鹿のギルド長
フィン・アルダー 商人・道具屋 ギルドと治療所に出入りしている
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
床を拭き終える頃には、膝が痛くなっていた。
血のついた布を、言われた桶へ入れる。水を替えようと桶を持ち上げると、思ったより重かった。
「こぼすんじゃないよ」
「分かってます」
「分かってる奴ほどこぼす」
「じゃあ、今だけ分かってないことにします」
「口が減らないね」
マルタはそう言いながらも、桶を持つエマの手元をちらりと見た。
エマは水を外へ捨て、新しい水を汲み直す。戻ってくると、マルタは別の布を畳んでいた。
「それ、こっち」
エマは桶を指定された場所へ置いた。
「違う。半歩右」
「細かいですね」
「急いでる時に足を引っかける。半歩で転ぶ。転べば怪我人の上に倒れる」
エマは黙って、桶を半歩右へ動かした。
「ここですか」
「そこ」
たった半歩、桶を動かすだけのことだった。布の分け方や立つ場所、手を洗う順番まで、治療というより片づけと段取りばかり教わっている。けれど、マルタの目はどれも見逃さない。
エマは棚の前に立ち、布の束を見た。
「これは?」
「きれいな布」
「こっちは?」
「さっきまできれいだった布」
「つまり?」
「まだ使えるかどうか、私が見る布」
「そこまで分けるんですか」
「命を扱う仕事で、そこを面倒がる奴は邪魔だよ」
エマは言い返したいのをこらえ、口を閉じて手を動かした。きれいな布を使い終えた布から離し、血のついたものはさらに分ける。洗って干すものと捨てるものも、見た目は似ているのに扱いが違った。
血のついた布を清潔な布と分けるのは、エマもやっていた。だが、洗えばまた使えると思っていた布まで、マルタは包帯用の箱から除いていく。
傷に当ててよいものと、道具を拭くものは、洗ったあとにも分けるのだ。
「エマ」
マルタに呼ばれて振り向く。
「それ、包帯箱に入れるな」
エマは手元を見る。
洗った布を、うっかり包帯の箱へ入れようとしていた。
「すみません」
「謝るな。戻せ」
エマは布を戻した。
「今、何を見てた」
「布を」
「嘘だね」
マルタは即座に言った。
「考え事をしてた顔だ。手だけ動かして、目がどこかへ行ってた」
エマは言葉に詰まった。
図星だった。
「ここでは、手だけ動かすな。目も動かせ。頭も動かせ。考え事をしたいなら、外でやりな」
「……はい」
「返事だけなら誰でもできる」
エマは布を握り直した。
「分かりました」
「前よりはまし」
マルタは棚を閉めた。
その時、裏口からフィンが顔だけ出した。
「マルタさん、荷物は裏の棚に全部入れました」
「薬瓶は?」
「奥です」
「水袋は?」
「入口側です」
「添え木は?」
「長い順に並べました」
「長いのが右になってる」
「えっ、見てないのに分かるんですか」
「前もそうだった」
フィンは一瞬固まった。
エマは横目で見る。
「やったの?」
「……たぶん」
「たぶんじゃない。直しな」
「はい!」
フィンは慌てて引っ込んだ。
エマは思わず言った。
「よく覚えてますね」
「覚えてるんじゃない。あの子は同じ失敗をする顔をしてる」
「顔で分かるんですか」
「だいたいね」
「怖いですね」
「怖がってるうちは、まだましだよ」
マルタはそう言って、机の上に置かれた包帯を一つ取った。
「怖がらなくなった奴から、手を抜く」
その言葉に、エマは黙った。
怖い。
昨日から、ずっと怖かった。
助けられなかったこと。また間に合わないかもしれないこと。知らないまま手を出すこと。
怖いのは、悪いことではないのかもしれない。
そう思いかけて、マルタの声が飛んだ。
「また顔がどこかへ行ってる」
「……すみません」
「戻ってきな」
エマは息を吐いた。
「戻りました」
「なら、これを巻いてみな」
マルタは包帯を投げて寄越した。
エマは受け取る。
「誰に」
「自分の腕」
エマは左腕を出し、右手で包帯を巻き始めた。人の手つきを何度も見てきたし、戦闘後には仲間の腕や足だけでなく、自分にも巻いてきた。だから、できると思った。
「遅い」
マルタが言った。
「きつい」
「まだ巻いてる途中です」
「途中で分かる」
エマは包帯を見た。
「どこが」
「指先を見な」
エマは自分の指先を見る。
さっきより、白い。
「……きついですね」
「だろう」
エマは巻き直そうとした。
「全部ほどくな」
手が止まる。
「全部ほどいたら、その間にまた血が出る。直せるところだけ直す」
「押さえたまま、そこだけ緩めるんですか」
「そう。いま手を離していい傷ばかりじゃないんだよ」
マルタは椅子を引き寄せ、エマの腕を取った。
「ここを緩める。ここは押さえる。端は逃がさない」
エマは、早いのに乱暴ではないマルタの手元を見つめた。言葉は荒くても、指先は必要なところにしか触れず、余計に押さえて痛ませることもない。
マルタは包帯を巻き直し、最後に軽く指先を押した。
「色を見る。動くか聞く。痺れがないか聞く」
「はい」
「自分の腕に聞いてどうする」
エマは眉を寄せた。
「痺れは?」
「ないです」
「動くかい」
エマは指を動かした。
「動きます」
「なら、一応はまし」
「一応」
「一応だよ。今のは遅い。迷いが多い。巻き方がきれいすぎる」
「きれいなのも、駄目なんですか」
「見た目のために巻いてるんじゃない。押さえるところを押さえて、動かしていいところは殺さない。そのために巻くんだよ」
エマは自分の腕を見た。
現場でも、指先の色は見ていた。きつければ緩めたし、ずれれば巻き直した。
ただ、直すたびに全部をほどいていた。マルタが押さえ続けていた一か所へ、エマは指を置いてみた。ここを残しておけば、全部をやり直さずに済む。
「もう一回」
マルタが言った。
「え」
「もう一回。今度は緩めに」
エマは包帯をほどき、巻き直した。
「緩い」
「さっききついって」
「だからって緩めすぎるな」
「難しいですね」
「当たり前だよ。簡単なら、誰でも治療師になってる」
エマは黙って巻き直した。
三回目で、マルタが何も言わなくなった。
怒られないと、逆に不安になる。
「……どうですか」
「聞く前に見な」
エマは指先の色を見て、動かしてみた。色は悪くなく、痺れもない。巻き目は歪んでいるが、押さえるべき場所は押さえていた。
「悪くない、と思います」
「じゃあ、そう言いな」
「悪くないです」
「まだ悪いよ」
「どっちですか」
マルタは口の端を上げた。
「さっきよりは、悪くない」
エマは小さく息を吐いた。
褒められた気はしない。けれど、前に進んだ気はした。
裏口から、フィンがまた顔を出す。
「添え木、直しました」
「今度は?」
「長い順です」
「左右は?」
「……右が長い方です」
「逆」
フィンの顔が崩れた。
エマは我慢できず、笑った。
フィンが情けない目でこちらを見る。
「笑いましたね」
「笑ってない」
「絶対笑いました」
「見間違い」
マルタが包帯を片づけながら言った。
「フィン、あんたは毎回、左右で負けるね」
「左右で勝ち負けがあるんですか」
「あるよ。あんたは負けてる」
「ひどい」
エマは今度は声に出して笑った。
ほんの短い間だったが、治療所の空気が緩んだ。
マルタはそれを咎めなかった。
「笑ったなら、動きな」
「はい」
「その包帯、ほどいて畳む。巻き癖を見る。端を内側にして、次に取りやすくする」
エマは包帯をほどきながら言った。
「これも手当てですか」
「そうだよ」
マルタは棚を整理しながら答えた。
「次に誰かが血を流して入ってきた時、包帯の端が見つからなくて慌てるのは馬鹿らしいだろ」
「馬鹿らしいですね」
「馬鹿らしいことで人は死ぬ」
軽く言ったのに、言葉だけが重かった。
エマは包帯を畳む手を止めなかった。
小さなことばかりでも、それを飛ばす人間の手に怪我人を任せるのは怖い。エマはだんだん、それが分かってきた。
外から、荷車の車輪が鳴った。
フィンが裏口から顔を出す。
「僕、そろそろ店に戻ります。エマさん、帰りに場所が分からなかったら――」
「子どもじゃない」
「いえ、帰り道じゃなくて、豆の店です」
エマは固まった。
フィンは得意そうに言った。
「さっき、腰袋の紐に挟んである紙が見えました。豆と油って」
エマは腰袋を見る。
出がけに、オスカーに渡された小さな紙片が、紐の間に挟まっていた。
油。豆。
マルタがそれを見て、眉を上げた。
「買い物も仕事のうちかい」
「家の仕事です」
エマはむっとして答えた。
フィンは笑いをこらえている。
「西通りの豆屋、今日は安いです。油は南の店の方がましです」
「先に言ってよ」
「今言ってます」
「帰りに案内して」
「はい。では、帰りに」
フィンは手を振って、裏口から出ていった。
しばらくして、荷車の音が遠ざかる。
マルタはエマの手首をちらりと見た。
「忘れっぽいのかい」
「疲れてる時だけです」
「だいたい皆そう言う」
「本当です」
「まあ、書いて持ってるだけましだね。忘れる奴は、忘れることも忘れる」
エマは包帯を畳みながら、口を尖らせた。
「オスカーに持っていけって言われたんです」
「弟かい」
「はい」
「しっかりしてるね」
「腹立つくらいには」
マルタは短く笑った。
「なら、帰りに忘れず買って帰りな。人を助けたいなら、まず家の灯りを切らすんじゃないよ」
エマは手を止めた。
マルタはもうこちらを見ていなかった。
何気ない一言だったのかもしれない。けれど、エマは目を伏せた。
家の灯り。
オスカーが火を見て、食事を作って、洗濯物を畳んで待っている家。
「また顔が遠い」
マルタの声が飛ぶ。
エマは顔を上げた。
「戻りました」
「よし。次、添え木」
「もうですか」
「嫌なら床でも拭くかい」
「添え木で」
「返事が早いね」
マルタは棚から短い板を二本取り出した。
「骨は、曲がったまま放っておくと後が面倒だ。けれど、無理に戻そうとしても駄目にする。今日は固定だけ、みっちりやるよ」
エマは板を受け取った。
木は軽く、現場で何度も使っているものなのに、持った瞬間、少し怖かった。これで人の折れた骨を動かさないようにするのだと思うと、ただの板が急に重く感じられた。
マルタはその顔を見て、言った。
「怖いかい」
「少し」
「ならいい。怖くない奴よりはね」
エマは板を握り直した。
「……折れた腕なら、触るだけで痛いですよね」
「だから、あたしの腕で練習する。痛くしたら言うよ」
マルタが袖をまくった。エマは板の角を指でなぞり、さっき巻いた包帯を手元へ引き寄せた。




