第11話 見えていないもの
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
オスカー・ウォーカー エマの弟
マルタ・リード 治療師(50代くらい/女性)
フィン・アルダー 商人・道具屋 ギルドと治療所に出入りしている
リディア・グレイス 神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
助けられなかった命のことを抱えたまま、エマは翌朝を迎える。家では、弟のオスカーがいつも通り朝食を用意していた。エマは、昨日の探索で助けられなかった人がいたこと、そして怪我人の見方や手当てをマルタという治療師に教わりに行くことを、オスカーに打ち明ける。オスカーは心配しながらも、行ってきなよと背中を押す。ギルドへ寄ったエマは、フィンの荷車に同乗し、清潔布に使える端切れを受け取る。やがて町外れのマルタ治療所へたどり着いたエマは、怒鳴り声のする扉の前で手を洗い、覚悟を決める。
それから、エマは治療所の扉を開けた。
中は思っていたより狭かった。薬草の匂いに、酒精の匂いが混じっている。奥の棚には包帯や瓶、木の板、針の入った小箱が詰まっていた。寝台は二つ。片方には、若い男が座らされている。
腕に布を巻かれ、顔をしかめていた。
その前にいた女が、振り向く。
髪には白いものが混じっている。後ろでひとまとめにし、袖は肘までまくっていた。背は高くない。けれど、立っているだけで、部屋の空気を押さえるような人だった。
この人が、マルタ。
そう思った瞬間、女は言った。
「閉めな。冷える」
「はい」
エマは扉を閉めた。
「手」
「洗いました」
「見せな」
エマは両手を出した。マルタはちらりと見ただけだった。
「爪が甘い。やり直し」
いきなりだった。エマは手を引っ込め、自分の爪を見る。
「洗いましたけど」
「きれいな手かどうかは、あんたが決めるんじゃない。私が見る」
言い返す言葉がなかった。
エマは外へ戻り、水桶の前にしゃがんだ。指先をこする。爪の間も、手首も、さっきよりしつこく洗った。
冷たい水が皮膚に刺さる。
昨日の血はもうない。それでも、落ちていない気がした。
「遅い!」
中から声が飛んだ。
「手の皮を剥く気かい!」
「今行きます!」
エマは手を拭き、扉を開け直した。マルタは男の腕に巻かれた布をほどいているところだった。
「そこに立つな。暗い」
エマは横へずれた。
「そこも邪魔」
「どこなら邪魔じゃないんですか」
「見りゃ分かる」
むっとした。
だが、部屋を見回してみると、確かに分かった。
寝台の横はマルタの手元を塞ぐ。棚の前に立てば道具が取れない。窓際に立つと光が遮られる。
エマは、寝台が見えて、棚の邪魔にもならない場所へ移った。
マルタは何も言わなかった。たぶん、そこならいいのだろう。
「名前」
「エマ・ウォーカーです」
「リディアから聞いてる」
マルタは男の腕から目を離さずに言った。
「昨日、戻せなかった子だね」
戻せなかった。
死なせた、とも、失敗した、とも言わなかった。けれど、軽くもなかった。
エマは喉の奥が詰まるのを感じた。
「……はい」
「そこで沈むな。今それをやると邪魔だよ」
きつい言い方だった。けれど、マルタの手は止まっていない。
エマは顔を上げた。
男の前腕には、裂けた傷があった。血は出ているが、噴き出してはいない。男は痛そうにしているが、顔色は悪くない。
マルタが言った。
「死ぬかい」
「……今すぐには」
「なんで」
「血が噴いてない。顔色も悪くない。息も荒くない」
「足元は」
エマは男の足元を見た。
膝が、小さく震えていた。
見ていなかった。
「平気な顔してる奴ほど、余計なことを隠す」
マルタは傷の周りを拭いた。
「痛いかい」
男はすぐに首を振った。
「いや、別に――」
マルタが傷の少し横を押した。
「いっ……!」
「ほらね」
男は気まずそうに黙った。
マルタはエマを見ないまま言った。
「治癒スクロールは?」
「あります」
エマは腰袋に手を伸ばしかけた。
「出すな」
手が止まった。
「傷を見たらすぐ光、って顔をしてる」
「……そうですか」
「してる。腹が立つくらい、してる」
そこまで言うか。
エマは唇を結んだ。
マルタは男の腕に清潔な布を当てた。
「この傷で毎回スクロールを切ってたら、奥へ行く前に空になる。かといって、切るべき時に惜しめば死ぬ」
「じゃあ、どっちですか」
「だから見るんだよ」
「見てます」
「見てない。足を見落とした」
エマは黙った。
言い返したかった。けれど、男の膝はまだ小さく震えている。
見落としたのは、本当だった。
悔しい。
けれど、ここで悔しがって終わるために来たわけではない。
マルタは布の上から圧をかけた。
「押さえな」
「はい」
「はいじゃなくて手」
エマは近づき、布を押さえた。
男の腕は温かかった。
昨日の、冷えていく指先が頭をよぎる。
「今はこっち」
マルタの声が飛んだ。
エマははっとした。
昨日の男ではない。今、手の下にある腕は温かい。
だったら、離すわけにはいかない。
「……はい」
「強すぎる」
力を緩める。
「緩めすぎ」
もう一度、力を入れる。
「そこ。動かすな」
男が顔をしかめた。
「痛い」
「我慢しな」
「俺に言ってます?」
「両方」
エマは思わず男と顔を見合わせた。
マルタは手早く布を巻いた。
「息を止めるな、エマ」
そこで初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。
エマは息を吐いた。
「手当てする側が固まると、怪我人まで固まる。迷うなとは言わない。固まるな」
「はい」
「壺でも返事はできる」
「壺よりは働きます」
つい、口から出た。
男が目を丸くする。
マルタも、一瞬だけ手を止めた。それから、ふっと鼻で笑った。
「口は動くね」
「すみません」
「謝るなら覚えな」
マルタは布の端を結び、男の腕を軽く持ち上げた。
「今日はその腕を振り回すな。酒も駄目」
「酒もですか」
「飲みたきゃ、反対の腕を切ってから来な」
男は黙った。
エマは少し変な顔になった。
「何だい」
「いや……言い方、強いなと」
「優しく言えば聞くのかい、こういう奴が」
男は目を逸らした。
エマは少し考えてから言った。
「聞かなさそうです」
「だろう」
男は礼を言って、そそくさと出ていった。
部屋に、エマとマルタだけが残る。
裏口の方で、木箱がこつんと鳴った。
マルタが振り向きもせずに怒鳴る。
「フィン、瓶を鳴らすな!」
「すみません!」
「すみませんで瓶は元に戻らないよ!」
「割れてません!」
「割ってから言うんじゃ遅いんだよ!」
エマは少し笑いそうになって、こらえた。
マルタは手を洗い、布で拭きながらこちらを見た。
「あんた、本当に覚える気があるのかい」
「あります」
「昨日の埋め合わせのつもりなら帰りな」
エマは黙った。
マルタは棚を開け、血のついた布を別の桶へ放り込む。
「死人は戻らない。別の怪我人で帳尻を合わせようとすると、ろくな手にならない」
エマの胸が、少し痛んだ。
きつい。
でも、嘘ではなかった。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「知らないよ」
エマは顔を上げた。
マルタは平然としていた。
「そんなもの、私があんたの代わりに決めることじゃない。ただ、ここにいる間は、目の前の怪我人を見る。それだけだ」
ずいぶん乱暴な答えだった。
けれど、きれいな慰めよりは、ずっとましだった。
エマは小さく頷いた。
「分かりました」
「たぶん分かってない」
「早いですね」
「顔で分かる」
マルタは古い布を一枚、エマに投げた。
エマは受け取った。
「床」
「床?」
「血が落ちてる。拭きな」
エマは床を見る。
小さな赤い跡が、いくつか残っていた。
「治療を教わりに来たんですけど」
「だから床を拭けって言ってるんだよ」
マルタは桶を顎で示した。
「血が残れば滑る。臭う。虫が来る。次の怪我人が見れば怯える。これも手当てのうちだ」
エマは布を握った。
最初に渡されたのは、包帯でも、針でも、スクロールでもなかった。
床を拭くための古い布だった。
少し拍子抜けした。
でも、不思議と腹は立たなかった。
「水は?」
「外。澄んだ方を使いな。汚れた水をきれいな場所に持ち込むんじゃないよ。布は分ける。血のついた布と、きれいな布を一緒にするな」
「はい」
「それは壺より少しましな返事だね」
エマは一瞬、目を瞬いた。
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「知ってます」
「なら動きな」
エマは布を持ち、床に膝をついた。
血の跡を拭く。こすっても、赤はすぐには消えなかった。
エマは布に力を込めた。
昨日、自分の手からこぼれたものは戻らない。
でも、ここで誰かが足を滑らせるのは止められる。
小さくて、地味で、誰にも褒められないことだった。
それでも、これで誰かが転ばずに済むなら。
エマはもう一度、床をこすった。
裏口で、また木箱が鳴った。
「フィン!」
「今のは風です!」
「この部屋にそんな器用な風が吹くか!」
エマは今度こそ、少し笑った。
マルタはそれを見ていたが、何も言わなかった。
ただ、次の包帯を棚から取り出していた。
前書きの設定情報を修正しました。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




