第10話 始まりの朝
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 主人公です。
オスカー・ウォーカー エマの弟
マルタ・リード 治療師(50代くらい/女性)
フィン・アルダー 商人・道具屋 ギルドと治療所に出入りしている
リディア・グレイス 神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
助けられなかった男の死を、エマは報告書に記した。治癒スクロールを使っても命を戻せなかった事実は、紙の上では「死亡」の二文字に変わってしまう。納得できないまま、エマは白魔導士のリディアを訪ね、治癒スクロールに何ができて、何ができないのかを尋ねる。リディアは、スクロールは傷を塞ぎ、体が戻ろうとする力を助けるものだが、失った血までは戻せないと告げる。そしてエマに、白魔導士ではなく、人を生かすための手を知る治療師――マルタの名を教える。エマは、もう何も知らないままでいたくないと、マルタに会うことを決める。
翌朝、エマが目を開けた時には、台所から小さな物音がしていた。
鍋の蓋が鳴る音。木の匙が器に触れる音。火を弱める時の、ぱち、という乾いた音。
オスカーが起きている。
エマはしばらく天井を見ていた。
よく眠れたわけではない。寝たのか、ただ目を閉じていただけなのかも分からなかった。
それでも、朝は来ていた。
「姉さん、起きてる?」
隣の部屋から、オスカーの声がした。いつも通りの、少し明るい声だった。
「……起きてる」
エマは体を起こした。
少し遅れて、オスカーが戸口から顔を出す。片手に木椀を持ち、もう片方の手は壁に軽く添えていた。杖は、すぐ届く場所に立てかけてある。
「顔、ひどいよ」
「朝からそれ?」
「うん。ひどいものはひどいから」
「言い方」
オスカーは少し考える顔をした。
「じゃあ、ものすごく働いた人の顔」
「変わってない」
「だめか」
オスカーは少し笑った。
その笑い方が、いつも通りだった。だからこそ、エマは少しだけ胸が詰まった。
オスカーは気づかないふりをして、木椀を机に置いた。
「粥、温めてあるよ。昨日の残りの干し肉も、細かくして入れた」
「朝から干し肉?」
「肉が入ると元気出るでしょ」
「硬いやつ?」
「細かくしたから大丈夫。姉さん、硬いと文句言うし」
「言うね」
「知ってる」
オスカーは得意げに言った。
エマは寝台から立ち上がり、顔を洗った。冷たい水が肌に触れると、少しだけ頭がはっきりした。
台所に戻ると、オスカーは布巾を畳み終え、鍋の横に置いた匙を壁際へ寄せていた。火はもう弱めてある。洗い桶には水が張られ、使い終えた器が邪魔にならないよう端に重ねられている。
この家の朝は、たいていオスカーの手で始まる。
足が悪いから何もできない、などと本人に言えば、たぶん本気で怒る。
エマは椀を手に取った。
「ありがと」
「どういたしまして」
オスカーは椅子に腰を下ろし、こちらを見た。
「今日は早いの?」
「うん。ギルドに寄ってから、治療所に行く」
「治療所?」
オスカーの声が、少しだけ変わった。
エマは首を横に振った。
「違う。怪我したわけじゃない。教わりに行く」
「何を?」
「怪我人の見方とか、手当てとか。スクロールでできることと、できないこととか」
オスカーは少し黙った。
その沈黙に、エマは粥をかき混ぜる手を止めた。
「昨日、何かあった?」
いつもの明るさを残したままの声だった。けれど、少しだけ硬い。
エマは答えに迷った。
全部は言えない。
言えば、オスカーはたぶん笑って「大丈夫」と言う。自分のことでもないのに、姉を心配させまいとする。
そういうところがある。
「助けられなかった人がいた」
結局、それだけ言った。
オスカーは目を伏せた。
「……そっか」
「うん」
「姉さんのせい?」
エマは少し息を止めた。
「違うって言われた」
「じゃあ、違うんじゃない?」
あまりに真っ直ぐな言い方だった。
エマは少しだけ眉を寄せる。
「そんな簡単じゃない」
「簡単じゃなくても、姉さん一人のせいじゃないでしょ」
オスカーは木匙を指で回した。
「姉さん、すぐ自分が背負えばいいと思うから」
「思ってない」
「思ってる顔してる」
「どんな顔」
「今の顔」
エマは言い返そうとして、やめた。
オスカーは、こういう時だけ妙に鋭い。
「行ってきなよ。教わりに行くんでしょ」
「うん」
「怒られる?」
「たぶん」
「姉さん、怒られるの嫌いだよね」
「好きな人いる?」
「いないけど、姉さんは顔に出る」
「余計なお世話」
「でも行くんでしょ」
エマは椀の中身を一口食べた。
干し肉は、確かに細かく刻まれていた。少し塩辛い。けれど、腹には入る。
「行く」
そう答えると、オスカーは満足そうに頷いた。
「じゃあ、帰りに油を買ってきて。残り少ない」
「油?」
「灯り用。あと、安かったら豆も」
「治療所に怒られに行く途中で、買い物まで頼む?」
「帰りでいいよ」
「遠慮がない」
「家事担当の権限です」
エマは少しだけ笑った。ほんの少しだったが、笑えた。
「分かった。油と豆ね」
「忘れそうなら、腕にでも書いて」
「子ども扱いするな」
「姉さん、疲れてる時は忘れるから」
「……否定しづらい」
オスカーは得意げに笑った。
その顔を見て、エマは椀を置いた。
昨日と同じ町に、昨日と同じ朝が来ている。
それが少し腹立たしくて、少し救いでもあった。
エマは支給品の上着を羽織り、腰袋を確認した。
包帯と清潔布は奥に入っている。水筒は満たした。小さな刃物、針と糸、余った革紐もある。
何度も使ってきた道具だった。
けれど今朝は、少し違って見えた。
自分は、これを本当に使えていたのだろうか。
そう思いかけて、エマは頭を振った。
考えるなら、歩きながらでいい。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
オスカーはいつもの声で言った。
「怒られても、殴り返しちゃ駄目だよ」
「しないよ」
「姉さんなら、ちょっとありえる」
「ない」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
エマは扉を開けた。朝の空気が流れ込んでくる。背中で、オスカーが笑った。
エマは振り返らずに片手を上げ、家を出た。
道には、まだ夜の湿り気が残っていた。
パンを焼く匂いが、路地の奥から流れてくる。
白鹿のギルドへ向かう道を歩きながら、エマは息を吐いた。
怒られるかもしれない。
追い返されるかもしれない。
それでも、行く。
その前に、ギルドでフィンを見つけたら、マルタの治療所の場所を聞けばいい。
そう思って角を曲がると、ちょうどその先に、見覚えのある荷車が止まっていた。
「エマさん」
フィンが荷車の横で手を振っていた。
荷車には、木箱がいくつも積まれている。包帯、油紙、薬瓶、細い板、替えの水袋。いつもの納品より、少し量が多い。
「朝から元気だね」
エマが言うと、フィンは困ったように笑った。
「元気というより、朝しか通してもらえないんです。昼になると皆さん忙しくなるので」
「商人も大変だ」
「そう言ってくれるなら、今度から値切らないでください」
「それは別」
「ですよね」
フィンは諦めた顔で頷いた。
エマは荷車の中を覗いた。
「それ、マルタのところに持っていくやつ?」
「あ、はい。包帯と添え木と、洗浄用の酒精です。マルタさん、納品の品が少しでも悪いとすぐ怒るんですよ」
「フィンも怒られたの?」
「何度もです。包帯の巻きがゆるいとか、箱の積み方が悪いとか、薬瓶を揺らすなとか、扉の前でぼんやり立つなとか」
「商人なのに?」
「商人でも怒られます」
フィンは真顔で言った。
「だから、先に言っておきます。エマさんもたぶん怒られます」
「なんで決めつけるの」
「マルタさんは、初めて来た人にはだいたい怒るので」
「厳しそうな人だね」
「はい。でも、悪い人ではないです」
少し間を置いて、フィンは荷車の取っ手を握った。
「一緒に行きます?」
「荷物のついで?」
「はい。僕は納品で、エマさんは……その、マルタさんに会いに」
エマは横目で見た。
「今、怒られにって言いかけた?」
「言いかけました。すみません」
エマは少しだけ鼻で笑った。
「正直でよろしい」
「許された感じがしません」
「許してないし」
「ですよね」
エマは荷車の横に立った。
「押すの、手伝う」
「え、いいんですか」
「どうせ行く方向は同じでしょ」
「助かります。でも重いですよ」
「フィンよりは力ある」
「否定できないのが悔しいです」
二人で荷車を押し始めた。
車輪が石畳の上で、ごろごろと音を立てる。
朝の町は、昨日と同じ顔をしていた。
パンを焼く匂い。井戸端で話す女たちの声。眠そうな馬の鼻息。どこかの家から、子どもが叱られる声。
人が死んでも、朝は来る。
そのことが少し腹立たしくて、少しだけ救いでもあった。
フィンが、荷車を押しながら言った。
「マルタさんのところ、初めてですよね」
「うん」
「じゃあ、先に言っておきます」
「まだあるの?」
「入口でぼんやり立っていると怒られます」
「それはさっき聞いた」
「入っても怒られます」
「入らなくても怒られる。入っても怒られる。どうしろっていうの」
「僕も毎回そう思っています」
フィンは真顔だった。
エマは少しだけ吹き出した。
笑うつもりはなかった。
でも、出た。
フィンはそれを見て、ほっとしたように目を細めた。
「まあ、怒るだけで、悪い人じゃないです」
「リディアさんも同じこと言ってた」
「たぶん、みんな最初にそれを言うんです。言っておかないと逃げる人がいるから」
「そんなに?」
「います。包帯の巻き直しだけで半泣きになった新人を見ました」
「フィン?」
「僕じゃありません」
少し間が空いた。
「……一回だけです」
「やっぱり」
「だって、商人なのに『手が邪魔』って怒られたんですよ」
「商人の手が邪魔なら、何なら邪魔じゃないの」
「黙って荷物だけ置いて帰る商人です」
エマはまた少し笑った。
フィンが、ふと思い出したように荷車の隅へ手を伸ばす。
「そうだ。エマさん、これ」
小さな布袋だった。
「何」
「端切れです。売り物にはしにくいんですけど、清潔布の代わりにはなります。洗ってあります」
エマはすぐには受け取らなかった。
「いくら」
「いえ、これは本当に余りで」
「いくら」
フィンは肩を落とした。
「……銅貨一枚で」
「高い」
「今のはほぼただです」
「じゃあ半分」
「銅貨半分ってどうやって払うんですか」
「次に包帯買う時、まけて」
「結局そこに戻るんですね」
エマは布袋を受け取った。
「借りにしとく」
「それ、エマさんが言うと、だいたい僕が損するやつです」
「商売の勉強になるでしょ」
「できれば利益の出る勉強がしたいです」
エマは布袋を腰袋に入れた。
「ありがと」
小さく言うと、フィンは少し驚いた顔をした。
「いえ」
それから、慌てて前を向く。
「どういたしまして」
荷車は町外れの細い道へ入った。
そこに、小さな治療所があった。
白く塗られた建物ではない。
聖印も、大きな看板もない。
木の扉の上に、古びた板が一枚かかっているだけだった。
――マルタ治療所。
扉の前には、水桶が二つ置かれていた。
ひとつは澄んだ水。もうひとつは、すでに少し赤く濁っている。
エマは足を止めた。
フィンも荷車を止める。
中から、低い女の声が聞こえた。
「そこにいるなら、さっさと入りな!」
エマとフィンは顔を見合わせた。
フィンが小声で言った。
「ほら」
「早いね」
「だいたい、いつも早いです」
扉の向こうで、また声が飛ぶ。
「荷物持ちは裏へ回れ! 突っ立ってる若いの、用があるなら手を洗ってから入りな!」
エマは一度、深く息を吸った。
怒鳴られると聞いていた。
優しい教え方をする人ではないとも聞いていた。
それでも、来た。
エマは水桶の前にしゃがみ、袖をまくった。冷たい水に手を入れる。
昨日、何度洗っても落ちなかった気がした感触が、少しだけ遠のいた。
フィンが荷車を押して裏へ回りながら、小さく手を振った。
「健闘を祈ります」
「戦場みたいに言うな」
「似たようなものです」
エマは鼻で笑い、手を拭いた。
それから、治療所の扉の前に立った。
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本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




