4 騎士領の危機
帝国最北端の領国、騎士領プエスメンベリの現状は、芳しくなかった。
もともと決して住みやすい気候ではないんだが、今年はいつもより増して酷だった。
異常なほど肌寒い空気が何ヶ月も続いて、世界が温かい季節の存在を忘れたかのようだ。
おかげで農作の状況が良くなく、冬になってから農家の住民たちは一日を絶食することなど日常茶飯事になっている。飢え死にしている家も少なからずあった。
また、北方の異種族の領域から侵攻がもうすぐ始まるとの噂が広まっており、人々を不安にさせている。
のみならず、東からは盗賊の群れが跋扈していて、出没する範囲がどんどん西へ広がっている状況だ。
こういった難局に際して、この地を治める領主である騎士団執行吏、イントレド・バイネローホはどうやって乗り越えるつもりなのか?
*
────これは、ソワンコール班がプエスメンベリに接近する何週か前のことである。
領主の住処である砦。
そこの防壁の門楼の上は、街を囲む外壁の中の街の情景が全て見下ろせる。
その高さゆえ、冬の寒風のあたりももっときつい。
本来通りなら、ここは常にしっかと警備が役目を果たしていくべき所だ。
そこで、一人の兵士が壁に凭れて、いびきをかきながら寝ている。
こんな寒い空気の下で、よくもそんなに眠り心地の良さそうな顔をしているものだ。
「早く起こらぬか!」
そういう叱りの声が響いた。
今まで眠りに落ちていた警備兵はハッとなって目を覚ます。
彼の前に厳しい表情をして直立している人は、地毛が頭頂まで後退していて、その代りかなり印象的な口ひげを生やしている、中背よりもちょっと下の初老の男だった。
イントレド執行吏の最側近、チェスムスである。
自分が置かれた状況が理解できた警備は無理をして早く身を起こそうとしたが、その瞬間目眩と頭痛に冒されて、そのまま前へひれ伏してしまう。
「……貴様、勤務中に酒を飲んで寝ていたのか」
「い、いいえ……おれ、いや、自分は……」
四つん這いになった警備は弁明しようとするが、その隣には酒瓶が二本も転がっている。
勿論空っぽになっている状態だ。
「ハア……。もう良い」
チェスムスは嘆息した。
それ以上彼を責める気にもならず、そこから去ることにした。
どうせ、こんな状態で彼一人咎めたとして、どうせ何にもならない。
それを知っていたからである。
チェスムスは門楼の上から下がって、中庭まで通じる階段を下りる。
「これまで杜撰になるとは……」
彼は呟いた。
砦の管理がますます悪化している現状については、嘆かわしく思わざるを得ない。
しかも、不作やら、北からの人外の敵やら、そして盗賊の攻め込みやらで様々な問題が攻めてきているこの時にだなんて。
そのなか、最も厳しい問題は賊どもである。今はもはや領地の三分の一以上が彼らの手に落ちているのだ。あと半年こんな状況が続ければ、確実にこの砦までも賊が攻撃してくるだろう。
軽く頭痛を起こしそうになり、歩みを止めて手で額を抑えた。
一体ご領主様は何を考えておられるのか。
彼はここ最近何ヶ月も自分の書斎に閉じこもって、外に出てくることはめったにない。
その間、チェスムスは領地のことを何度も伝えて、領主の勤しむ意志こそ大事だと強く訴えたが、まるで相手にされず。殆どの場合、一言一句の反応も示さない。
唯一はっきりと答えてくれたのが、いったい砦の中で何をしているのか、それをチェスムスが聞いた時だった。
『友人からの頼み事をする』
イントレドは短くも明確にそう答弁した。
それ以上のことを問い詰めようとしても、黙殺されただけだった。
更に妙なのは、領主は週にも何度も部下たちを書斎に呼び寄せて、何かを命令するということだ。チェスムスには直接その命令が何なのか伝えられたことは一度もなかったが、その部下たちが街に出て住民の何人かを砦に連れ込んでいることは数回も目撃した。
そして──何故か、砦内に招かれた彼らはその日きりで消えてしまうというのだ。
似たようなことが何ヶ月も行われた今は、失踪者の数はこの小さな領地に比べればかなり多くなっている。
推測したくもないが、推測するしかないことがある。
領主が書斎の中で何をしているのかについて。
そして城内に連れて来られた彼らにどんなことが起こったのかについて。
「……まずいかも、知れんな」
無意識に、そんな言葉が口から漏れ出した。
チェスムスは本来バイネローホ家に仕えた家来だ。
主のことは、イントレドが少年だった頃から知っている。
いや、知っていた、と表現する方が良いかも知れない。
チェスムスにとって、イントレド・バイネローホは『お坊様』だった。
昔のお坊様は、名家の子息として、ただ自分に与えられたことを無難にやり遂げる少年だった。
無難に勉強をして、無難に訓練をして、無難に騎士となって、無難に結婚をして、無難に昇進をする。
お坊様が少年から一人の成人の男になった頃──チェスムスは彼を見て、多少面白さにかけるかも知れぬが、それでも彼の人生はこの後も別状ない平坦なものであろうと、確信に近い予測をした。
混乱と複雑を嫌うチェスムスとしては、そんなお坊様に仕えることも悪くないと思った。
お坊様が騎士団の執行吏になり、騎士領プエスメンベリの領主に赴任された時も、地方での閑寂な生活も良いかも知れないと思った。
北の他種族のことは少し気にかかったが、当時は侵攻のことなどあまり議論されていなかった。
だからチェスムスはお坊様に同伴した。
だが、この地に到着して、はっきりといつだとは言えないが、ある時点からしてお坊様は変わってしまった。昔よりも感情豊かになり、生き生きとしているようだった。
最初は変貌の程度も微弱だったが、それはますます歴然となり、やがて今年の夏の頃からは、執務を蔑ろにして書斎に閉じこもるという奇行にまで発展して行ったのである。
(やはり、奥様がお亡くなりになったのが原因なのか……?)
奇行の始まりと、妻の死。確かに二つの事件は時間自体は噛み合っていた。
……しかし、そんなに妻思いでは無かったお坊様だ。それが原因だった可能性は低そうに思える。他の何かがあったはず。
だが、何が? 自分としては、見当もつかぬ。
(……『不可解』を考えても、無駄なだけか)
イントレドには不可解に決まっている。解くことのできない謎に執着していても、しょうがないではなかろうか。
壁際に支えられてしばらく休憩している間、頭痛が少し治まったようだった。
いつまでここでうろうろしているわけにはいかない。
チェスムスは再度歩き出した。
彼が中庭に出ると、夜空からの紺色の薄明かりが射されてきた。
やたらと寒気がする夜だ。
それはこの地を覆っている冬風のせいだけではない気がする。
ひょっとしたら、チェスムスはこの地方に初めて到着したときからずっとこういった胸騒ぎに苛まれてきたのかも知れない。
夏の日向の中でも、暖炉の隣で温もりを感じているときも……。
この薄気味悪さの存在を意識せず、穏やかな気持ちになれたときって、いつが最後だったのか。
良く思い出せない。
「────」
その時だった。
中庭の一隅、紺色の明かりが届いていない、真っ暗な陰のなかから、
何かが、蠢いた?
「誰か、居るのか?」
返事はない。
まさか警備の中のひとりが酔っ払ってあんな所で寝転がっているのではあるまいな。
いくらなんでも、領主の庭で兵士がそんな醜態を?
「────タス」
「えっ」
いきなりそっちから放たれた声音で、素っ頓狂な反応をした。
あれは人の声だった。明らかになった──あそこには人がある。
しかも、声の幼き質感からして、子供っぽい。
けど、やや異質感を感じるが、聞き覚えのある、ような。
「誰だ?」
「タス、ス、ス」
「何を言っている? あそこで何をやっているんだ」
「タス、ス、ス、ス、ス、ケ────」
声がそこまで発せられた途端、名状しがたい怪音が聞こえた。
「────ッッ」
それを敢えて表現するなら、生きた動物の首の関節をむりやり捻たらそういう音が出そうだ。
筋肉と骨髄を丸ごと破壊する暴力自体からなる音と、その動物が苦痛に耐えず出せる断末魔に似る悲鳴にならない呻き──そういうものがごっちゃ混ぜになって、とても不快な騒音と化して、人の耳まで伝達されたら、今のあれになると思う。
「ど、どうしたんだ」
さすがに何か悍ましいことが起こったことを察して、チェスムスはそちらの方へ何歩か近づける。
だがそれと同時に、空からの薄明がその音の発信地まで届いて、正体を暴いてくれた。
「ハ────ッ?」
逆さまになっている顔が、こちらを睨んでいる。
とても蒼白で、苦しみからか強張った顔の肉付きがとても顰められている。
その両眼から黒い涙が出ており、そんな姿勢だとそれは自然と額の方へ流れる。
おかしすぎる光景に驚いてすぐには気づいて無かったが、知っている顔だ。
声から聞き覚えを感じたのも納得である。
「お嬢様……?!」
それは、イントレドの娘御である。
「アッアッアッッ────」
言語の域に達しない喘ぎみたいな声音だった。
空と大地が逆になっている目線から、こっちを必死に見ようとしている。
何かをその喉から喋ろうとしているが、それが思いのままにはいかないようだ。
せめて彼女が悶えていることだけは、分かるが。
「これは、いったい……?!」
闇に目がもっと慣れたからか、やっとその全容が確認できた。
それはお嬢様の身体がもとの関節の限界を超えて、腹を空へ向けて、四肢を全部使い『立っている』姿だった。
その佇まいは自然にして不自然なもので、それが人間だとすれば確実に不気味なものに感じるが、その偏見を除くととても安定していた。
まるで、もとからそういう動きができる生物種みたいだ。
彼がどうしようもなくうつけていた時、その顔とそれに繋がっている身体が動いた。
「────」
おかげで、今まで良く視えなかった身体の部分がはっきりと分かった。
彼女が一糸まとわぬ裸であったのも。
彼女の身体が鮮血の色を晒した傷口と、腐肉のような破れ目で覆われていたのも。
そして、そして、
もとは左の腰であろう位置に、大きな口が付けられていたのも。
それは大きすぎるほどに開かれ、中の夥しく刺されている汚い牙たちを露呈した。
目があった。
口の奥には餌食が入っていた。
たぶん、人間の首だったと思う。
あの忌々しい咀嚼で潰されきれず、片方の眼球がたしかにここを見ていた。
心做しか、それはひどく恐怖に蹂躙されて、まるでここに助けを求めているようだった。
まさか、まだ生きていたのか。
そんなことが思い浮かんだ直後、口は閉められた。
それが再び開放された時、その向こうで視えた眼光は無かった
飲み込まれたんだ。
「ッ、ッア、ハァ────ハ」
いつの間にか、尻もちをついていた。
逃げた方が絶対いいと分かっていても、そこから釘付けになって、どうも動けない。
四脚大口の化け物と、チェスムスの向かい合いは暫く続いた。
何十秒、いや、何分?
感覚が崩れて正確には分からないが、少なからず経ったと思う。
「…………キッッッ」
化け物の手足、或はただの脚たちが、何か大きな動作を準備しているように収縮した。
こっちに来るのか?
「い、イヤッ────」
衝撃を予想して、思わず防ぐように両腕を顔の前に上げた。
……が、その必要はなかった。
「────」
硬い物体が破壊される轟音が鳴り響く。
だがこっちへ攻撃が来たわけではない。彼は全く無事だった。
おどおどと目を開け、腕を下ろす。
────チェスムスの正面の方の砦の防壁に、大穴が開けられていた。
間違いなく、何秒まえまであの得体の知れない生き物が立っていた位置のすぐ後ろの壁際である。
どうやらあの化け物は壁に穴を開けて、そこを通じてどこかへ行ってしまったようだ。
そっちは城下町の方とは逆で、崖っぷちの傾斜が激しいところだが、あのモノにはそんなのは重要ではなかったみたいだ。
「……は、あ……」
……自分は、まだ生きている。
その事実から、歓びに浸っているべきなのか。
だがあんな化け物と出くわして、そんな快い感情を抱けるはずがない。
チェスムスはおずおずとその場から立ち上がった。
もう少し早く動きたくても、できない。
実際、手も脚もガタガタと震えている。
息を整えながら、彼は今の生物の正体のことを考えた。
あれは、何だったのか?
実は、心当たりがなくはなかった。
「……泥鬼だ」
──そうだ、あれはきっと、天空から落ちてきた《泥》に汚染された穢らわしい生き物、《泥鬼》に違いない。
「泥鬼が、このプエスメンベリの地にィ……!」
しかし大陸に、この領地に、しかも砦の真ん中にいきなり現れたのが不可解だ。
……いや、それは本当に不可解なのか。
心当たりは、本当にないのか。
領主イントレド・バイネローホの書斎がある、砦中央の建物の最上階を見上げた。
あの冒涜的化け物の出現は、まさか。
「いったい、この地で何が起ころうとするのだ……?」
答えのあるはずもないことを、虚空に問う。
疑問とともに発せられた息が白い霧となり、すぐ無くなってしまった。
いつの間にか空の穴が雲に隠されて、紺色の光明も無くなった。
暗闇だけが、砦全体に残留する。




