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杭打ちの伝令  作者: にに部
第一章 「春失くし」
32/34

31 亡骸の少年



「これは、たまげた」


 中年の騎士トリセインは、ボロ屋の窓外を眺めながら言った。

 隣には茶髪ピアスのベーグィと、灰金髪のウムペースティーが立っている。

 そしてその二歩後ろに桃髪のエメーソリナが佇む。


 男騎士三人の顔は、皆驚きの色を帯びている。


「……行っちゃった。あんなに大勢で囲んでたのに」


 と灰金髪の騎士ウムペースティー。

 ぽかんとした顔をしている。


 彼らの視線の先には、北の街の方へ向かっている異様の生き物たちがある。


 直前までこっちに襲いかかるように威嚇する異音を立てていた。

 しかし、ある時点で行動が急に止まった。

 と思ったら、今度はあの壁の方へ動き出したのである。


「これって、いったい何のことなん?」


 ウムペースティーは信じられないという顔で言う。


「まさか班長さんとディギちゃんと顧問さん、執行吏と結託して俺たちに仕掛けたドッキリだったとか?」


 怪物が消えてしまうと、小屋のあたりは静まる。

 さっきまであたふたしていたことが馬鹿馬鹿しく感じられてくるほどだ。

 今夜は風もずっと弱くて、小屋が軋まれて出す騒音もあまり聞こえないのである。


「……ちくしょう……。俺、お酒要るわ」


 トリセインは両手で顔を覆って、周辺の椅子の一つに適当に腰掛ける。


「初めてオッサンに共感した」


 ウムペースティーは床に倒れるように座る。


「……なぁ、何かあっちも火事になったみたいだけど」


 ベーグィ立ったまま、街の方を指差していう。

 正確には、街の北部の砦である。

 別に良く観察しなくても、あそこの高みから火が上がっているのは歴然だった。

 その勢いは激烈で、この澄んだ冬の夜には遠くからでもちゃんと見える。


「…………」


 男三人に比べて、女性陣はずっと静かだった。

 だが、それは別に彼女らが落ち着いていたからではない。


 実際、病床のヴィルビとその娘グンデルは互いのことを抱き合っているままだ。

 この二人の場合、怯えすぎて一切の言葉を失ったと表現するのが正しいだろう。


 しかし、怪物の包囲の途中、ヴィルビは娘以上の恐慌状態に陥った。

 彼女は体をふるふるとして、グンデルの小さな肩に顔を埋めている。

 比して、グンデルは向こうの砦の火炎のことを確認している。

 彼女も、いったい何が起こっているのかを知りたかったのだろう。


「────」


 そして、桃髪の騎士、エメーソリナだけは、様子が他と明らかに違う。


 彼女は、心配そうに遠くの火炎を見つめてはいる。

 が、動じてなさすぎである。

 何十分前まで生命を脅かす地獄からの手招きがここに確かに存在していた。

 というのに、むしろ他の新入騎士と恋バナや占いのことで熱を上げていたときよりもずっと冷静なのだ。





「──うち、ちょっと行ってみるから」


 いきなり彼女の口からそんな宣言が出された。


 しかし、トリセインとウムペースティーはこれ以上驚く体力もなくなっている。

 だから、二人はおかしな女を見る視線でエメーソリナを一瞥しただけだった。


 だが、ベーグィは違う。


「行くって、どこに?」


「砦の方に決まってるでしょ」


「は? エメちゃん何いってんのマジで??」


 その声には懸念よりも、呆れの混じった苛立ちの色が濃かった。

 彼女の奇行の連続に、そろそろ怒りが出たようだった。


「今見なかった? あんな化物がうようよするところに、自分から行くって? そもそもなんのために?」


「……別に、説明する義務は、ない」


 それだけ言って、エメーソリナは扉の方へ足を運ぶ。


「ちょっまっ」


 そんな声を出して呼び止めようとした。

 が、彼女の歩みは素早く、彼女はすぐ外へ出てしまう。


 それを慌てて茶髪ピアスの騎士は追う。


「ちょっと待ってって!」


 座っている二人の騎士たちは、その場面に適当に目玉を転がせるだけだ。


「あ……もう無理だわ。任務もクソもねぇって」


 とトリセイン。


「オッサンに共感、二度目」


 とウムペースティー。


 彼らはそれぞれ椅子と床と一つに溶け合っている。

 もうどうでも良いって思うくらい、困憊しているのだ。


 だから、


「──グンデル! どこに──」


 病床から女の声が聞こえたときにも、反応が遅くなった。


 すばしっこい足音が扉の方へ移動する音が聞こえた。

 

「へ?」

「は?」


 間抜けな音を出しながら、はんぶん瞑っていた目を見開く騎士二人。


 彼らが見たのは、扉のしきいあたりで立っているあの少女。

 今まで静かすぎて、また礼儀ただしすぎた、グンデルという少女のいきなりの突発行動。


「──母さん、私、絶対フィーゼを探してくるから、待ってて!」


 響き渡る声を聞いて中年騎士と灰金髪の騎士が立ち上がった時には、

 もう複数の馬の蹄の音が小屋を過ぎ去って行っていた。


「……どうすんの、これ」


 ウムペースティーは、考えるのを放棄した。





❖   ❖   ❖





「待って! エメーソリナァ!!」


 そう叫び、ベーグィは彼女の後を追った。

 が、エメーソリナはもう馬に乗っている。


「────」


 こっちには目もやらず、彼女はそのまま出発してしまった。


「くっ」


 なら、自分にもぼうっとしている余裕はない。

 彼女を追いかけて、どうにか引き止める。

 そう、ベーグィは思った。


 今のエメーソリナは正常じゃない。

 もう何年にも至る彼女との付き合いだが、そんな一面を見せたことなど、今まで一度もなかったのだ。

 何が原因なのかは分からない。

 しかし、せめて砦に彼女を行かせてはダメだということは分かる。


 ベーグィもまた、自分の馬に乗った。

 そして急いで出掛けようした──が、何かが鞍の後ろの方についた。


「──何だよ、君は!」


 そこにはあの大人しかった少女、グンデルが必死に馬上に上がろうとしている姿がある。


「いま超忙しいから、遊ぶのはマジでやめろ!」


「遊んでなんかないっ!!!」


「──ッ」


 彼女の迫力に満ちた一喝に、面食らってしまう。

 この子がそんな声を出せるとは、思いもしなかった。


「……今、弟が、あそこに居るのですよ……」


 グンデルは震える声をしていた。

 だが、その意味ははっきりと伝えられる。


「フィーゼが見たくて、私いま、どうにかなれそうなんです……。騎士さま、どうか、私を連れて行ってくれませんか?」


 一連の事件が彼女の心の中に点した火を、良く分かった。

 それが化け物の群れと、砦の火炎を見たせいで頂点に達してしまったのだ。


「──ちっ」


 ともかくも、自分も時間がない。

 ここでうじうじしてもしょうがないだろう。

 だから、ベーグィは、


「きゃっ」


 馬上であの少女の方へ少し屈み、あの痩躯を容易く自分の前に座らせた。


「行くよ、ちゃんと掴んでて!」


 言う。

 そして、発つ。


 その先で見えてくる景色が何なのかを、この茶髪ピアスの騎士も、そして痩せ返った少女も、きっと今は知らない。





❖   ❖   ❖





 有鱈は、目を大きく見開いて、歯をきしきしと鳴らした。


 まずは、否定したかった。

 現れた少年たちは、ただ今まで避難していただけた。

 今も生きた人間のままで違いない。


 そう、思いたかった。


 だが、魔術があまり使えない有鱈でも、勘だけは優れている。


 あれからは、『美の女神』這い寄ってきた生殖器と同じ臭いがしているのだ。


 有鱈は、項垂れた。


「っ、くっ……」


 周りの騒音が全部、自分から遠ざかってゆく気がした。

 自分が立っているここは、本当に現実の地上なのか? 


 答えの当たり前な質問が、溢れ出てきた。

 それは、この結果から逃げたいからだ。


 再び、彼の頭の中に再生される声がある。


 ──守れるかどうか曖昧な約束など、しない方が良いです。


 ……だが、呆けている暇がない。

 周りは、有鱈が自分だけの世界に逃げることを決して許さない。

 有鱈は、自分が現実に参ずるしかないと知っている。


「────」


 フィーゼが、フィーゼだったものが──飛び出した。

 バッタのように、高く飛び上がった。

 それは飛行の高さに達していた。


 魔術で脚力を補強してもないただの人間たちが、あんな跳躍ができるもんか。

 彼は、あの少年は、すでに人間ではない。

 それは明らかだった。


 空中で絶巓の点に至った少年が墜落し始めたころ、

 その狙い先には、有鱈の肉体がある。


「く────ッ!!」


 キィィンッと、鋭い金属のぶつかる音が鳴り響く。


 瞬時で両手の杭を交差させて、有鱈はその攻撃防いだ。

 それは、少年の爪を以ての攻撃だ。

 彼の爪は、長く伸ばされている。

 その未成長の身体とはとうてい似合わない、獣の詰めだ。

 太く、長く、そして尖っている、凶器なのだ。


 少年は今でも有鱈の杭にくっついている。

 下の杭打を押し潰さんばかりに、力強く押している。


 有鱈はそれから離れようとするが、思うままにはならない。

 自然に仰け反る姿勢になってしまう。


「くっ……」


 ギシギシと、少年の爪が杭のそこかしこに擦過する音が聞こえる。


 こんな小さな男の子から出ても良いような力じゃない。

 そのままでは、もしや自分の脊椎が折られるかも知れない。

 有鱈はそれを確かに感じた。


「く────は!!」


 一回、回転をする。

 その勢いを使って、どうにか絡んでくる少年を遠くへ投げつけた。


 少年は当たり前のように空中で何回か回転をした。

 そして、とても軽やかに、地面に着地する。


「ふーっ、ふー、ふー」


 これまでが、少年たちが現れて、わずか十秒内で行われたことだ。


 見回すと、あの大きな虫けらの混合物のような化け物も健在である。

 有鱈に襲いかかる隙を狙っている。


 正面からの少年の群れは、少し前かがみになっている。

 どうやら今のフィーゼだったものがやったように、飛び出してこっちに襲来するつもりらしい。


「……」


 有鱈は、自分の両腕が震えていることに気づいた。


 少年の人外の力が押せられて、筋肉がそれに反応するのもある。


 だが、それよりも、有鱈の全身を激烈に振動させるのは。


(もう慣れていたはず、なのに)


 ──またしても自分は失敗した。

 その実感からの敗北感、そして無力感だった。


「…………」


 自分は、いつになったらことを成せるのか?

 何一つ成せなく、空回りして、大事なものは掌からすり抜けて。

 そして、犬死する。


 それが、自分の定めだとでも言うのか?

 そんな最悪な運命が、あるものなのか?


(……い、いや、もしか、したら)


 有鱈の心の中、微動をし続ける蛆虫みたいなものがある。


 それは、『まだまだ終わっていない』と、自分に訴えている。


 有鱈はフィーゼだった、いや……フィーゼを見た。

 最初にコンキリオウが威嚇に使っていた怪物に比べれば、人間の形を維持している。


 もしかしたら、

 もしかしたら、

 彼を取り戻せる方法が、あるのでは……ないか?


(そうだ、もしあれは──ただの催眠術みたいなものにかかっているだけなのかも、知れない、じゃないか)


 だって、そうだろ。

『泥浴び』の怪物のことは、謎に包まれている。

 全てが終わったという確証を、いったい誰が持っているというのか?


(そうだ、まだ終わって、ない──かも知れない)


 自分の中の蛆虫が、熱を入れて頷くのを、有鱈は感じた。





❖   ❖   ❖





「どうなっているんですか、あれは!」


 ソーフォイオールはもやくやする気持ちを抑えずにそう言い出した。

 それは、地上で戦っている杭打の変化を見てからだ。


「……」


 明らかに様子がおかしかった。

 そのなった時点は、砦から少年の形をした新たな怪物が現れた時だ。


 今までは、まるで埃を払う箒のように敵を薙ぎ倒していたあの男だった。

 しかし、少年の怪物が襲いかかった途端、ぐずぐずする動きになってしまう。

 そして、ただ自分の一身の守るのが精一杯に見える、ぶざまな防御戦をしていたのである。


 今のところ、どうにか致命傷はちゃんと防いでいる。

 しかし、


「とても姿勢が危うく見えます」


 ソーフォイオールはそれを敢えて口にする。 


「あの男は、心の平静も、体の均衡も、前から一転して失っていますよ!」


 見つめていたディギタリスは、口を開けた。


「オル、こっちから支援しよう」


 今では、もはやこっちから介入しないと終わらない局面に見える。

 あるいは、反転して杭打の方が殺されるかも知れない。


「──分かりました」


 大きすぎる使い魔は、そう答えた。


 再び杖を構えて、地上の方を狙う。


 二人が最初に注目した対象は──どこかで見かけたことがあったような、一回り小さめの、少年。

 彼は、明らかに他の少年たちと様子が違う。

 彼の攻撃だけ、他よりもっと鋭い。そして早い。

 泥浴びの存在目的が殺生なら、彼は他の少年よりもっと優れていると言えるだろう。

 彼らが全部元は人間だったなら、怪物になるのにも適性と才能があるのかも知れない。


 しかし、今はそんなのは重要ではない。


「────」


 あの小さな少年が、再び飛び上がる。

 まるで夏の昆虫のように、跳躍しては、空中へ漲る。


 しかし、その跳ね上がりの絶巓の時点、少しだけ暇が隙が見える。

 その半秒足らずの時間に、ディギタリスの魔術が、狙いを決める。


 そして──


「──えっ」


 狙撃は、阻止される。

 あの少年の代りに攻撃を受けたのは、ある金具。

 その道具は熱く重い一撃を受けて、街の向こう側のどこかに飛んでいく。


 それが何だったのかを、目の良い少女騎士は見逃さなかった。

 杭だ。


「な、ぜ」


 杭打のところを見る。


「────」


 瞬時に、気圧された。


 杭打も、こっちを睥睨していた。

 激憤の形相で、その視線は確かな殺意を含んでいる。

 熱気は、最初に彼女が彼に攻撃を仕掛けたときにも向けられたことがなかったものだ。


 その瞳が言おうとすることは、おそらく、


「──邪魔を入れるな、ということですか……」


「……はっ」


 その時になってから、ようやく気がついた。

 自分の頭の鈍さに愕いてしまう。


「そう言えば、さっきボロ屋のあの少女、杭打は弟を助けに行ったと」


「えっ」


 隣の使い魔もそれに気がついたようだ。


「では、まさかあの少年の中に彼が……?」


「……誰なのは、明確だと思う」


 見間違えるはずがない。

 ちょっと前に二人でその頭を壊そうとしたあの小さな少年だ。


「だって、あの子、姉とあんなに似ているから」


 歯を食いしばる。

 瞬間、あの少女の哀願を思い出した。


 ──もしあったら、私の弟をぜひ、助けてください。


「まさか、あの男は……」


 ソーフォイオールは呆れた声音で言う。


「あの状態になった少年が、今さらどうにか出来るとでも思っているのでしょうか?」


 使い魔の声音が、やけに残酷に聞こえる。

 しかし、彼女に非はない。

 それが冷静な判断なのだ。


 でも、どうしようもなく、

 ディギタリスも、その言葉が気に入らなかった。


「……そんなの、まだ分からないでしょ」


「は?」


「『泥浴び』が呪いならば、それを解ける魔術があるかどうかは、分からないでしょ」


 ソーフォイオールはその真意が汲み取れなかった顔をしている。

 ただ黙って相棒のことを窺っているだけだ。


 だが、それも長くは続かない。


「…………ディギ、済みません。新しい情報です。本当に今日は事件が絶えないですね」


 ふと何かに感付いたように、南の方角を見つめた。


「何かあるの?」


「その少年の姉の方です。南の方から、エメーソリナ様、ベーグィ様と一緒に、こっちへ近づいています」


「え────」





❖   ❖   ❖





 残っている怪物と、化けた少年の群れの攻撃が、四方八方から攻めてくる。

 だが、有鱈からは、一度もまともに攻撃を使返せないままだ。

 それは少年たちが現れたからずっとである。


 ただただ、彼の頭を満たしていたのは、淡い夢だった。

 どうにかフィーゼのことを元通りにさせる。

 彼を連れ戻して、あのヴィルビとグンデルと、お目出度しの結末を迎える。

 そういう、妄想に近い、希望。


 何かすべはないのか?

 もしかして、それも南の国々の優れた医術なら、治せることが出来るんじゃないか?

 あるいは、あの女神擬きの息の根を断てば、その眷属たちも全部元通りになるのでは?

 その前までは、フィーゼが暴れないように、どうにかその行動を抑制して捕まえている必要があるだろう。


(そう、可能性は──結構あるんじゃないか?)


 心の内に、相反する思いがある。


『可能性』という脆い概念に縋ろうとする、なさけなさ。

 現実はただ真っ暗だということを素直にうけいれろ、と自分に言い続ける、自己嫌悪に似た思考回路。


 せめて、少しだけでも、有鱈にじっと考える時間が与えられるなら。

 答えなんか全部保留にして、このるつぼに蓋をして、静かに熟考していられるかも、知れないのに。





❖   ❖   ❖





 騒乱の真っ只中に、二匹の馬が到着した。


「エメーソリナ!」


 ピアスのベーグィは再び叫びを上げるが、呼ばれたものはそれが眼中にない。


「…………」


 彼女はただ神妙な顔をして、下馬して、その騒ぐ中に更に近づける。


 砦の跳ね橋の前、広場の現状は、修羅場という表現が似合う。


 猛烈な火炎が上がっている砦が後ろに見える。

 それから照らされた光は圧倒的で、こっちだけは周辺の森とは違って、昼よりも明るい気がする。

 だがその明るさは、人が安心できるようなものではない。

 むしろ、罪人を焼ける猛火の狂気じみた光明に近い。


 そして、その光が映す場面は、死屍累々の血生臭いものである。


 未だに息のある物は、全てある者を基準にして回っている。


 さっきまで小屋を包囲していた怪物たちも、

 爪を立てて飛び上がっる少年たちも、

 あるボロキレの男を中心に、回っているのだ。


 あの男は、栗色の髪と無精ひげを靡かせている。

 火炎で照らされたその色は、赤に近くなった。

 そして、頬にはひょんな模様が現れている。


 杭打で違いないのである。


「……っ」


 エメーソリナは、胸を抑えた。

 吐息をして、跪いた。

 そのままに立っている力も無くなっているのだ。


「エメーソリナ!!」


 ピアスの騎士は、すぐそこまで寄ってきた。

 心配げに、躓いたような桃髪の騎士を見る。

 彼女はどこか傷でも負っているのか。


「……おい、エメーソリナ?」


 驚愕して、ベーグィは目を見開いた。

 それもそうだった、だって、彼女は頬を赤らめては、笑っていたのだから。

 それが純粋な喜びの表現だというのに、疑う余地はないのである。


「────」


 この場面を前にして、笑える?

 そんな者が、そんな人間が、この世にいるのだろうか?


「はぁ、やっと」


 上気した顔で、エメーソリナは言う。


「やっと会えた……はは、は」


 そんな、わけの分からないことを。


 多分、そこでだ。

 ベーグィが、今起こっていることを理解するのをやり投げにしたのは。


 ウムペースティーよりは、もうちょっと続いた。

 しかし、彼もやがて何もかも馬鹿馬鹿しくなってしまった。

 彼は、ただエメーソリナの隣に座った。


 そして、空を見上げた。


「紺零しが、綺麗ですね……」


 彼が見上げた視線の先には、雲の存在しない冬の綺麗な空がある。

 その西の方角に少し傾いたところに、罅割れみたいなものが見える。

 紺色のあざやかな光が、そこから零れ出る雫のように、夜の地上を照らしている。


 この世界には、月がいないのだ。





❖   ❖   ❖





「──フィーゼ!!!」


 その呼び声で、やっと有鱈は新しいものの登場に気づいた。

 彼が振り向くと、そこには二匹の馬と、三人の人がある。

 二人は見たこともない。あの少女騎士の同僚だろう。


 そしてもう一人は──


「だ、ダメだ」


 そんな卑屈なことが、口から漏れ出してしまった。


 今は、この光景を見たらだめなんだ。

 もう少し、俺に時間をくれよ。

 じっと考えてみたら、どうにかこれを取り戻して、全部まとめて片付けるかっこいい方法を見つけるから。


 だから、今、俺がやらかしたことを、俺の醜態を、みつめないでくれ。

 俺が、またしても約束を守れなかったことを、確認して、確証しないでくれ。


 ──そんなことを真っ先に思うだなんて、自分はどれほど卑怯で、自己中心的なのか。


「──ッ!!」


 何を呆けているのか。

 あの少女、グンデルはここに居てはいけない。

 近づいてたら、怪物に殺されてしまうのだ。


 思い、彼女をやめさせようとするが、

 だが、そっちに構う暇も与えられない。


 敵がまた押し寄せてくる。

 自分の手足を千切って、それを壊して、胴体を破壊して、頭脳をかじろうとしている。


 今の有鱈にとって、出来ることはただ一つ、

 両手の杭を以て、それを防いで、延命するということ。

 だって、死にたくはないのだ。

 こんな状況でも、死ぬことだけはこっぴどく怖くて、それから逃げたいと思っているのだ。


「────」


 フィーゼだったもの、否、フィーゼは妙な視線を少女に向けた。

 彼は有鱈への攻撃をやめている。

 そのところに、何のためらいもなく、グンデルは接近してくる。


「い、いや、だめだ──いま、あいつに──したらッッ!!」


 敵の数々の攻撃をどうにか乗り切ろうとするが、力不足に迫れられ、有鱈はむしろ少女の方からもっと遠のかれていく。

 嘱目する先に、あの姉弟の距離がどんどん縮まって行く。


「──あああ!!」


 どうにか、前の二匹を払って、どっかへ投擲してしまう。

 その過程で持っていた杭も消失した。


 どうでも良い。


 今は、彼女を──


 その瞬間、何かに強く引っ張られる。

 振り向くと、他の少年の二人が自分の両足をそれぞれ掴んでいる。

 爪先が肌を破って侵犯してきて、鋭いう痛覚に駆られる。


「く、っ!」


 一つ目の奴を蹴散らして、その右手に新たに杭を掴んだ。

 そして左手では残りの少年の髪を捕まえて、その頭を貫こうとした。


 が、


 ──純粋を死なせるえやみを祓うことは、僕たちの役目だ。


 耳元に、確かにそんな声を聞いた。


 そして、思い出した。

 フィーゼがフィーゼのままだとすれば、こいつらはどうなるのか。

 こいつらもまた、取り戻せる方法があるのでないか。


 だったら、彼らはただの純粋の結晶体、子供だ。

 俺は、それを殺そうとするのか。

 この荒々しい杭という道具を以て。

 冷酷に、残忍に?

 それが自分のやるべきことなのか?


「フィーゼ……」


「──」


 その声に、有鱈は捕まえていた少年を解放した。

 姉弟のところへ振り向く。


 ふしぎにも、時間の流れが止まったように感じてしまう。


「フィー……」


 その言葉に終止符が打たれることはなかった。


 姉弟は、街の真ん中でお互いを抱擁している。

 姉の方は――

 口の橋から血を流して、

 衝撃に冒され、

 信じられない表情で、

 その胸の中のモノを見下ろした。


「ふぃーず……────」


 それも長続きせず、グンデルは力なく、地面に倒れ込んで行く。


 彼女から解き放たれた、フィーゼだったモノの手は、血でどろどろになっている。

 その先にきらつく鋭い爪先が、きっと殺すべからずの人を殺した、武器であろう。


「ふぃー……ぜ……っ。な……ん……で────」


 この世から、春の兆しが、


 また一つ、殺されちまった。







❖   ❖   ❖





……。

なんだ、この物語。

ちょっと、救いがなさすぎじゃない!?

何でそうなるんだよ……。

ごめんなさい。有鱈くん。

もうちょっと耐えてて。


あ、それに、次のエピソードで一章終りです。

今まで本当にありがとうございました。

次の後書きにも言いますけど。

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