20 柔かき、音高きの演奏会
三人の騎士が街の中に入ってからの状況は、急迫に展開された。
まず、街の防壁の南門に到達したとき、門が開けっ放しで警備兵も見かけないことに異常さを感じざるを得なかった。
そして入城した彼らは、すぐさま街の軒並みの半分以上が空っぽになっていることを知った。
残っている住民は窓辺に隠れて外の気配を監視していた。
騎士のマントに明確に表れている帝国騎士団の二の蹄鉄の章を見かけると、彼らは忌まわしいものを見たという表情で窓掛けを引くのである。
おかげで、街の中の道筋は全て閑散としている。
人気に代わって異様な空気が空間を満たしていて、どうも平穏な静けさとは言えなかった。
だが、三人が遭遇した一番の問題は街の不穏な雰囲気ではなかった。
それを知ったのは、彼らが砦に繋がる跳ね橋のあたりに差し掛かったときだった──橋が吊り上げられて、濠の彼方まで渡れるすべがなかったのである。
その前でどれほど大声を上げても、迎えに出るものは存在しない。
門楼の上の監視塔でも、誰一人こちらを見下ろす警備兵など見つからない。
騎士たちは、すぐことの奇怪さを理解した。
ただの留守の状態でないことなど、明らかだった。そもそも留守だとしても一国の領主の住いが空白状態になるはずがないが、そんな理屈よりも、本能的にくすぐるものがあった。
彼らは、強く感じてしまったのである──。
基本的に魔術が使える騎士として、三人は濠の向こうから何か異様な魔力のざわめきを感じ取ったのだ。
その中の誰より魔術に長けていて、適性の高いディギタリスの場合、軽い身震いをしてしまうほどだった。
──ともかくも、あの跳ね橋を渡れる術が全く見当たらない。
それで、ソワンコール班長がこれからの先のことに迷っていた頃だった。
──突然、ディギタリスは自分の馬を捨てて、使い魔のソーフォイオールの項に取っ付いたのである。
すると、相棒の意図を完璧に分かっていたその使い魔は、高く飛び上がって、何十メートルの高さの砦の壁を飛び越えた。
その瞬間に、女騎士が残した言葉はただ一つ、
「必ず、杭打を捕まえて見せます!」
それを呆然と見守るしかなかった男二人は、ディギタリスが見えなくなってからやっと互いの顔を見つめ合った。
「……ヤバいですね、これは」
顧問騎士の言葉だった。
西日の橙色が、プエスメンベリの古の石垣を照らしている。
❖ ❖ ❖
「ようこそ集まってくれた、少年たちよ」
イントレド・バイネローホは領地から漁ってきた少年の群れを自分の応接間に入れながら、そう言った。
群れの中には、他より頭一つ小さな、褐色に緑青色の混じった髪の色で、右頬に大きな火傷の痕が残って、湖のような瞳をした坊やもいる──フィーゼである。
彼は多少萎縮しているようには見えたが、それでも怯えてはなさそうだ。
それなりに勇敢な態度で、ただ自分に迫ってきたこの状況をじっと観察している。
「今晩は、貴様らのための……小さな、労い会だ」
言い、イントレドが全身を以て指したのは、東向けの窓の前に置かれているあるものだった。少年らの目にはあまり見覚えのない不思議な何かである。
それは家具にも見えて、ある種の機械にも見える。椅子が置かれた前方の部分に小さな蓋が付けられていて、今はそれが開けられ、中身に並べられた白黒の鍵盤が見える。その大きな体の部分にもう一つの蓋があり、ちらっと見させるその中には張られた数々の糸のようなものが仕込まれている。
それを見せびらかすイントレドは衒う態度で、かなり自慢げである。
「三ヶ月前についた。帝都から注文した品物である。ヒャキンスベリの無名の工によって発明された楽器──その名も『ピアノ・フォルテ』と言う。
さて、その流麗の声を聴け」
そこまで言った彼は、指を鳴らす。
すると、鍵盤たちは自ら動き始める。
「────」
そして伝わってきた音色は、産まれて初めて聞く妙なものだった。
なんて表現すればいいのか、これは?
歌声でもなく、弦の擦られる音でもなく、管に空気が通る音でもなく、鼓が叩かれる音でもない。
鍵盤が下へ動くたびに、その胴体の中の何かが合わせて動作することが見える。だが少年たちの視点からは良く確認できず、正確な仕組みは分からない。
確かに言えることは、ただ一つ。
その音は、とても、とても、繊細ということ。
それだけが、フィーゼの幼い耳が分かりえた全てだった。
「『ピアノ・フォルテ』の意味を、知っているか?」
領主はそう言う。
囁く声だが、それでも奏でられる楽器の音を超えて、聞こえてくる。
「それは今は人々が喋り方を忘れてしまった言葉の単語からだ。『柔らかき・音高き』の意である。つまり強弱の調節が可能であるということ。別の仕掛けは要らなく、奏者が奏でる最中でいくらでもそれを操ることができるということだ」
演奏者のない楽器の前で、領主はまるで舞台の上で芝居をしている役者のようなはっきりしすぎた言葉遣いと身動きをしてみせた。
だがそれは道化には思えない。
ひょっとするとそれは、鍵盤の動きから始まる紡ぎ出される音色が背景にあるからかも知れない。
「どうだ、この音楽の先駆けのまばゆい色の演奏は。美しいと思わないか?」
否と言える余地のない問だ。
それは正に、美しさという概念のしっかとした現れだった。
「この音を聴く前までは、鍵盤の楽器はあまり好きではなかった。特に、私はオルガンが大嫌いだった。あの醜い巨体は、それを聞くものに『汝の小ささを知れ』といわんばかりに圧倒してくるのだ」
イントレド・バイネローホは語り続ける。
「それは音の小さいはずの曲を出す時にもまったく同じで、太陽の輻射を矮小なる覗き見の穴から見ていることに過ぎない。
つまり、オルガンなど、あまりにも神に近すぎるのだ」
不快な臭みを嗅いだことを思い出す人のように、彼は言う。
「だがこっちの方は、もっと人間に近い。それがこの楽器、ピアノ・フォルテの最も大事な特徴なのかも知れぬ。
この、ためらうような手さばきを見ろ! 今私たちは魔術の真似を観覧しているだけだが、それを記録した時私は確かに優れた演奏者のそばでそれを感じ取っていた。
それは、人間の肉の感覚、そのものなのだ」
彼の語りには、どんどん熱が入っていく。
「人間の劣情も、絶望も、酩酊も、狂気も、その全てが絡み合う、繊細で悪臭を放つ対位法を、この楽器ならもっと表現できる。素晴らしいとは思わないか?
本当に、良いものを作ってくれたものだ、ヒャキンスベリの名無しの工よ。貴方に最高の敬意を払う」
そこに至ると、その演説者はかなり興奮していた。
このお城まで少年たちを連れてきた時の冷淡なものと同一人物とは思えないほど、熱いものを発散している。
それは確かな陶酔状態の中にいて、語りは延々と続けられている。それを他の少年たちは柔懦な思いで見物していたが、フィーゼだけは興味ぶかく凝視していた。
彼とてこの状態に怖い思いがしなかったわけではなかったが、彼の好奇心がそれを間一髪で勝っている。
幼い観察者たちを顧みず、語り手はぶきみな追想に浸ってゆく。
それから彼が突然言い出した思い出は──
「部屋の中で演奏を聴いていると、あの日を思い出すな……」
*
ある日、妻が死んだ。
いつのことだったのか。それは……もしや何年前になるのかな。忘れてしまったな。
とかく、うろ覚えではあるが、あれを殺したのは私なんだよ。
あの日も鍵盤の演奏を聞いていた。強弱の無い弾き鍵盤だったが。
音楽鑑賞の間は邪魔しないでくれとあんなに注意してきたのに、あのアマはいきなり扉を壊す勢いで入り込んだ。
その上に、私に有りもしない罪を認めろと煩く喚いたのだ。
私が浮気をしていると、あれは言った。
あれが訝しんだ相手の目録が掲げられだ。それは全部人の雌だった。
笑うべき話しだったな。
なぜなら、人の雌など臭すぎて勃起も出来ないのだ。
親に強いられてあのアマと同衾するしかなかったときも、どれほど私の魂が死んでいったのか、いくたび吐きそうになっていたのか、自分でも計り知れないのだ。
そんな不愉快な騒ぎで、もう、温和な私もついに我慢が出来なくなった。
だから、殺ったよ。
あれの内臓を全部ぶち抜いた頃に、少しは落ち着いてきた。
その瞬間、最初に思いついたのは、
『娘に知らさないと』だった。
それもそうではないか?
母親が亡くなったのだ。一番先に知るべきものはその親族だというのが一般の常識ではないか。
一刻も早い方が良いと思い、全身に浴びた血を拭くこともせず、血まみれの状態で我が娘の部屋に行った。
私がその扉を開けた時、彼女は多分、眠りにつく直前だったと思う。
廊下から漏れてくる光に確かめられた私の姿を彼女が見た途端、目を大きく開いたまま固まってしまった。
構わず、私は一言だけ伝えた。
『明日は、お前の母の葬式だ』
多少は言葉足らずだったかも知れぬ。
だが、伝えるべきものは全て含まれていた。
なので、そっと扉を閉じて、部屋に戻り、音楽の鑑賞を続けた。
なぜか旋律に普段以上にへべれけになってしまって、妻だったものから血が流れて来て靴を汚したことも気がつかなかったな。
後に知って、心悪いと思ってしまったが。
なぜなら、あの臭いにおいが残ってしまったからだ。
*
「────」
演奏はまだまだ続く。
隈無くそれを分かり切ることなど出来ずとも、子供たちはおそろしいことを聞かされているということをはっきりと分かった。
彼らの中には、隣の坊やの背中に身を寄せている少年もある。それでこの状況から逃げることが出来るわけでもないのだが。
「どうした、なぜそんなに怯えているのだ?」
ふと、領主は子供たちを向かってそう言う。
まるでその行動が理解できないとでも言いたいように。
──この男は、本当に人外のものなのか。
ここに集まった坊やたちにも巷の領主の噂が広まっていて、その内容が何なのかを知っている。
その何もかもが、イントレド・バイネローホは単純に悪辣な貴族なだけでなく、まさしく人の域を逸した化け物だと言っていた。
そして今ここで彼に直面し、話を聞いてみたところ、
それはどうやら、本当のようだ。
領主は、人ではないのだ。
だから、あんなにも人の心が理解できずにいるのだ。
だから、自分の言っていることが正常ではないと、気がつかないのだ。
彼にはわからないのだ──一般の人の恐怖が。
…………。
……いや、それは、おかしい。
フィーゼは思った。
故に、問わずにはいられなかった。
「──領主さま、なぜ分かってないふりなんかするんですか?」




