19 近づく炎
「────」
いつの間にか、目を瞑っていた。
だが、いつまで待っていても自分を襲ってくると思っていた痛覚は、来ない。
恐る恐る、ディギタリスは目を開けた。
「──なんじゃ、こりゃあ」
それを言ったのは、便所帰りにその光景を目撃したトリセインだった。
「──間にあいましたね」
と、顧問騎士の言葉。
彼はディギタリスの方へ、指に力を入れて尖らせた右手を伸ばしている。
それが狙う方向には、ディギタリスの鼻先である。
彼女の目先には、ある物が空中に浮いていた。
それは……かすり傷だらけでひどく損傷された、鉄球に見える。
どうやらエンセヴは、その鉄球を操作しているようである。
「いきなり帝国騎士への攻撃とは、感心しませんね」
そう言い、エンセヴが伸ばした手を下ろした時、ディギタリスの目前の鉄球は大きな音をだして床へ落ちた。その言葉は病床の女に向けられたものだった。
それを聞いてやっとディギタリスは、十数秒前に見かけた煌めきの正体に気がついた。
それは、良く研がれた短刀である。
寝台の女は咄嗟の間でディギタリスに向けてそれを投げて、それがエンセヴの鉄球に弾かれ、今はディギタリスの右方の壁際に刺されているのだ。
病床の女は自分の行動が思い通りに実らなかったことを悔しがっているらしく、歯を食いしばっている。
「トリセイン兄弟、ウムペースティー兄弟、彼女を捕まえてください」
「……は、はぁ……」
「……うす」
二人は状況が良く理解できなかった。しかし、少なくとも自分らの上官である顧問騎士のその命令に従うべきだということだけは受け容れた。だから、彼らは女に近づいていく。
「……っ」
彼女は騎士たちの手先が自分に触れることに多大の不快感を覚えたみたいだったが、抵抗が無駄なことを自覚しているらしく、あまりじたばたしたりはしない。
トリセインは彼女を抱き上げ、その手足の動きがはっきり見えるように、辺りに置かれた古椅子に座らせてた。
帝国騎士の遠出の時に携えることが義務付けられる道具の中には、罪人を束縛させる特殊な縄や檻だってあるのだが、彼女の足が皆に晒されて途端、そんなものは要らないことが分かった。
それは、もう使い物にはならない片輪の身体だったのだ。
近くに刃物とかがない限り、椅子に座らせて見つめるだけで十分なほどである。
ただ、彼女を運ぶ過程で、その寝台の布団の裏が露呈された。
「……これは?」
ソワンコールはそこの布の切れっ端みたいなものを手で掴み上げた。
それは、旗だ。
摩耗され過ぎてもとの形を失っているが、一時は確かにどこかの平原の上で風に当てられ霹いていたはずの、立派な旗印である。
外角がぼやけているが、それでもそれが何を象っているのかを理解するくらいは問題なく──九芒星だと分かった。
そしてその一隅には、明らかに手で掴まれていた跡が残っている。あの女はずっと布団の裏でこれを握っていたと見える。彼女にとってそれはよほど大切なもののようだ。
「……糧伝の党の、旗印?」
間違いない。
その九芒星の章は、見紛うはずもないのだ。
それが表すのは、帝国とエイギヴェル領国を揺るがしていた、預言者を騙った魔女の追従者の表彰。
「──どうやら、彼女も杭打とやらの仲間だったみたいですね」
侮蔑の混じった視線で、エンセヴはその女性を一瞥する。
「その旗印、彼女はかなり大切に持っていたようですね。もはや否めることの出来ない確然たる証拠ですよ。五年前の魔女騒ぎにあまり詳しくない僕でも、この象徴くらいは聞いたことがありますから。
そうですよね、ディギタリス姉妹?」
「……そう、です」
顧問騎士の問いかけに現実に戻ってきたディギタリスは、頷いた。
崩されていた口調も元通りになる。
「これは糧伝の党の旗じるし──魔女のしもべの証しです」
その言葉が一種の宣告となり、騎士たちは皆、その歩けない女への敵意を剥き出した。
ディギタリスもまた、彼女へ向ける睨みに熱気を入れる。
それは単に彼女が自分を殺そうとしたという衝撃からのものだけではない。
この少女騎士にとって、杭打はもはや罰するべき凶悪な犯罪者で据え付けられているのだ。
もしこの女が憎むべきその犯罪者に思いを寄せ、彼を仲間だと思っているのなら、彼女もまた罰するべき犯罪者になる。
そういう、極めて簡単な話だ。
だが敵意が向けられても、彼女はまるで怯まない。
騎士たちと向かい合うように、表情を強張らせている。
不自由の体にもかかわらず、騎士たちの首を千切らんばかりに爪を立てた手を力ませているのだ。
ただ一人、彼女の娘であろうあの痩せ帰った少女だけが、今の状況に圧倒されている。
しばらくうろたえていた彼女は、一番近くにあった灰金髪のウムペースティーの裾に縋った。
「騎士様、どうかお母さんのことをお許しください」
それを言う少女の目は、湖のように深く光っている。
「母さんはただ、フィーゼのことが、弟のことが心配で不安になっただけです。私たち、この地に来て一度も悪事にかかわらず、貧しいながらも正しい生き方をして来たんです。
どうか、どうか、母さんを、私たちを、お許しください」
詫びの対象になった灰金髪の騎士はしかし、ただただ困ったようすだった。
一瞬その母親に対していた敵愾心もこっちには向けることが到底できず、はっきり名状にならない「ちょっと、こら……」とかの声を漏らして、少女から離れようとしているだけである。
それを見て少女の方へ話しかけたのは、班長の方だった。
「ええと、君、名前は何と言うのかい?」
「……グンデルと申します」
「うむ、ではグンデル嬢、聞きたいことがあるんだが、まさか、あの『杭打』という男はさっきまでこの家のなかに居たのかい?」
問われた者は椅子に座った母の顔色をうかがったが、彼女からは別に反応がない。ただ暗い顔をして床の方を見ているだけだ。
「……あのお方がそういう呼び名だったとは知りませんでした。でも、騎士様たちのご訪問の直前まで、ある荒い格好の男性の方がいらしていたのは事実です」
「そうかい。ではその時、彼とは何を話したのかい?」
「──砦へ連れて去られた弟のことを連れ戻してくれと、彼に頼みました。あのお方なら、今そのためにご領主様の砦へ向かって移動していると思います」
「……」
ソワンコールは不安げに視線を顧問騎士の方へやり、エンセヴも意味深な目つきで返した。
「執行吏様の身辺の危機ですね。今すぐ砦に向かって移動して、彼と合流するべきですよ」
それはエンセヴからの提案だった。
聞いた班長はやっと心を決めたらしく、頷く。
そして班長は、ディギタリスにも向かって口を開けた。
「とにかく、私たちは砦に向かうべきだな。執行吏様のことも、杭打のことも、全て絡まれていて、そこで決着が着くだろう」
つまり、もう諍いをする必要はないということだ。
「……異存はないです」
反対する理由などない。
自分の目的は相変わらずである。砦に向かって、杭打を見つけたら即座に射殺するのだ。
その過程で執行吏がどうなろうと、どうでも良いことである。
「でも、彼女はどうします?」
エンセヴの方から班長へそう問う。
「この場でほっとくわけにはいかないですね……トリセイン兄弟」
「はい」
班長の呼び声に応じる中年騎士の姿には、今までの酒気が無かった。
「兄弟はこの小屋の中で、彼女らのことを監視しながら待機してください。そしてウムペースティー兄弟も。外の二人にも、同じことを言い伝えてくれ」
「……はい」
「うす」
椅子に腰掛けたあの女がディギタリスに投げられた刃先は確かに尖鋭だったが、武器がない彼女は無力だ。そして落ち着きのある女の子が一人。結局、監視する対象は非力の女性と女の子の二人である。そんな役目のために四人もいらないはずだが。
しかし、今回の任務の班の情報を騎士団から聞いている班長は、戦闘に役立つ人員のことを知っていたのである。だから、そもそも話にならないであろう人たちを排除したのだ。
だが、ディギタリスからすると、班長自身もそんなに武力がありそうには考えない。なので、結局彼女と顧問騎士二人だけが戦える人員になるということである。
(しかし、さっきの鉄球はいったい)
器の小さくてうざい言動をするとは言え、顧問騎士という肩書きを持っているエンセヴ・アケイルだ。流石に一定の実力はあるんじゃないかな、と適当には思っていたのだが──それがあんな形だったとは思っていなかった。しかも、こっちがそれに助けられるようになるとは。
ちらりと床の方を再度確認する。
だが、その鉄の毬はいつの間にか回収されているのか、もうあそこにはいない。
「この小屋のことを拠点としましょう」
班長はトリセインに向けて話し続ける。
「私たち三人はまず砦に向います。それで事態が収まったと判断すると、人を使って兄弟たちを呼び寄せますから。
だが、もし私たちからの連絡がこの先二十四時間以上もないと、彼女ら母子を連れて帝都へ向かってください。そして隣接の領国のご領主様方々に伝書蜻蛉を送って、そっちへ増援の要請をするのです」
「……はぁ」
そう答える中年のトリセインからは、半信半疑の顔色がうかがえる。
まさかそんなことがあろうか、とでも言いたげに班長の顔を見ている。
「では、行きましょうか」
だが班長は気にせず、ディギタリスとエンセヴに言った。
どうやら彼は、最初に杭打発見の報せを聞かされたときよりは冷静を取り戻しているようだ。
ひょっとしたら、不確定要素だったものたちが一点の場所に収斂していることを知って、彼はすこし安心したのかも知れない。
ともあれ、ここからは本番ということだ。
ディギタリスは気を取り直して、二人の後を追おうとした。
「騎士様!」
瞬間、呼び止められて、そこに振り向いた。その声はグンデルと言っていた少女からだ。
彼女はためらいながらも、何かが言いたげに見える。
「……もし会うのなら、私の弟をどうか、助けてください。
あの子はまだ幼すぎます。彼に何かあったら、私と母さんはもう」
「……」
「あの子は騎士に憧れているのです。きっと騎士様のような綺麗なお方に救われると、とても喜びましょう。お願いします、騎士様」
「────」
瞬間、息が詰まった。
──ここは、何て言えば正解なんだろう。
答えが決まっている問題だけに慣れているディギタリスとしては、それはちょっと難しすぎる。
しかし、時間はあまりないのだ。どうにか頭に浮かんで来た言葉を選ぶしかない。
「……最善を尽くすわ」
それだけ言って、振り向かず、外に出た。
*
外の空気に当てられ真っ先に思いついたのは、嗅覚の変化だった。
室内であの腐蝕の匂いが満たしていた鼻腔を、今度は風から運搬される燃えさしの匂いがびっしょりと濡らして行く。
見ると、東の森の火事は烈しくなっているらしい。
上がる煙はずっと太く、大きくなっていた。
それが西の方の茜に染まる色彩と対照をなしている。
──もうすぐ、日が暮れる。




