1 『是非を齎す』
────糧を与え給え。
昔、そういう祈りを聞いた。
なぜ糧なのか?
質問した。
糧は大事だと、彼女は言った。
糧は人を生かせる、もう少し明日に縋らせる。
来たるべきことがしっかと来ていると信じさせる。
糧を得た人は、現在の嵐に嘆くより、未来の夜明けを夢見ようとする、と。
疑問が残る。
だったら、あの人が、もしそれを失くしてしまったら?
一度、命の糧の甘味を味わったものが、それから離れ離れになってしまったら。
そうなったら、彼はどうなるのか。
……彼女はなんて答えたんだっけ。
今じゃもう、うまく思い出せない。
思い出すことも、
俺には…………。
❖ ❖ ❖
「────是非を齎す」
男は呟いた。
針葉樹の並ぶ、冬の森を貫通する道。
小一時間まえに登った旭がここまで届いて、周りを確かに明かす。
天気は晴れ晴れとして、その眩しい青さと雪に覆われた地上の白さが互いを際立たせる。
その風景の隅っこの他より低い枝の上で、朱色の胸の小鳥たちが囀りながら周りを観察していた。
風がうるさく通らないかぎり、その鳴き声を除くとあまり騒ぎ立てられることもない場所だ。
この時間帯のここの道は、そういう平和が常だ。
だが、今は違う。
「──」
──遠くから近づける蹄の音。
それは一気に距離を詰めてきた。
いつの間にかここの梢まで震わせる勢いで、通り抜ける。
驚いた大勢の鳥たちは飛び上がるが、そんなものには少しも目をやらない。
騎乗者は、ただ驀らに走る。
「──ハッ!」
それは褐色の早馬と、それに乗っている金髪の男──いや、少年である。
彼が纏う雰囲気の真摯さじゃなければ、かなり幼い顔の造形からして、どうも単に『男』とは呼び難い。
頬あたりから耳たぶまでの綺麗な肌が寒風に晒されて真っ赤になっているのも、彼の幼さゆえなのかも知れない。
「──ハッ!」
その後も何度か似たように、小鳥たちを驚かす事態があった。
だが、彼は周りには振り向かず。
ただ再度、三度、鞭を打つだけだ。
それがある程度続いた。
「──」
少年は馬を止める。
遠くから相応する理由が現れたからである。
「……」
正面を凝視しながら、顔を顰める。
そっちの方角には、七人の男がいた。
革製の材料をぞんざいに縫い上げて作ったと見える防具を着ていて、槍やら斧やら何か武器になれるものを持っている。
他は全員が地面に佇んでいるが、中央の一人のハゲ頭の男だけ驢馬に乗っていて、不敵の笑みとともにこっちを睨んでいる。
彼らが何者かは歴然としていた。
「……チッ、賊どもか」
「ひでぇじゃねぇか。ただ道の上に突っ立っているだけなのに、勝手に見切りやがってよ」
驢馬の上のハゲ頭のその言葉に、ふざけるのも大概にしろ、と言い返したい所だ。
こんな人気のないない森の中で急に現れて、しかも物騒な道具まで持っていて、聖職者の群れだとでも言うのか。
だがそこで大胆な口を叩くほど少年の心は鍛錬されていない。
わざと表情を強張らせているが、実は今でも逃げたいと思っている。
一応レイピアを持ってはいる。しかし、それを使うまでは至らない。
彼としては、手綱を掴む手の震えを隠すのが精一杯の勇気だった。
「期待しているところ済まないが、カネは持っていないぞ」
どうにか、少年はどもらず声を張ることができた。
「嘘つけ。あんな高そうな馬乗ってるくせに。それだけでも襲い甲斐があるんだよ」
「……馬をくれたら、僕を逃してくれるのか?」
「ガハッ、なに言ってやがるこのガキ。北方の盗賊の噂も知らねぇのかぁ?
襲われると骨以外は何も残らねぇんだぞ。浪費のねぇ人種なんだよ、俺達は」
少年の純真な質問がおかしく思われたのか、彼らは一斉に卑賤な笑い声を上げる。
「でもそうだな……」
ハゲ頭はいやらしい視線で、こっちを頭の天辺から爪先まで舐めるように観察した。
「オメェみてぇな可愛いお坊ちゃんは、意外と人気があるぞ。だから殺しはしねぇ。少なくとも今はな。だから安心しろよ」
「──くっ」
案の定、話が通じる相手ではない。
賊どもの立っている方から反対の方へ逃げることもできる。
あのハゲ頭の驢馬がこの早馬の速度に追いつけるはずもない。
だが、逃げ出したとしてどうなるのか。
ここ以外に森を抜けて南の方へ行ける遠回りの道がいるとは聴いていない。
どうせこの道に戻らなければならないかも知れない。
こっちは急いでいるのだ。
一刻も早く、南の帝都にまで行かないといけない。
時間の無駄など、あまり許されていないはずだ。
金髪の少年は、必死で頭脳を働かせる。
だが、なかなか突破口が見えずにいた。
「……」
緊張の中、対峙の時間がもう少し続いた。
そろそろこの場の誰かが行動に出る頃だろう。
そう考えて、金髪の少年は歯を食いしばった。
「……。
……?」
その時だった。
賊どもの顔から、異変を感じる。
──こっちを見ている?
違う、彼らの視線が向けられたものは自分が立つ地点よりも少し遠い。
こっちの後ろの何かを見つめているのだ。
敵から視線をそらしても良い状況じゃないと分かっているのに、つられて振り向いてしまう。
「──」
見えたのは、一人の人影だった。
ここからは多少距離があって、その正確な輪郭も崩された。
故にそれは、分かりやすい一筆の印象となった。
その印象とは、ボロキレを着た浮浪者である。
それが現れた方向は少年が今来たばかりの方だ。
もし同じ道をずっと歩いていたのなら、いくら前方にだけ注目していたとしても、その存在くらいには気がついていたはずだ。
しかし、今まであんな人影は見た覚えはない。
「──」
彼との距離が少し縮んでいた頃、やっと彼の全貌が確認できた。
さっきから靡いているボロキレはフッド付きのマントだった。
だが使えられすぎて、ささくれた跡や端の破れ具合がひどく、まさにぼろの状態である。
で、それが包んでいる中身は、一人の男だ。
栗色と黒色の混じった散髪と無精ひげが汚い。
体格はかなり大きい。
そして、マントの状態とほぼ同じのシャツとズボンを着ている。
特にシャツの汚れはひどすぎて、恐らく元は白かったはずのそのものは、今はほぼ土色に近づいている。
ズボンは元々黒い色合いそうなので目立たないが、それもシャツと同じほどに汚い状態のようだ。
その格好は、マントをまとっているとは言え、この酷寒の地にはあまりにも薄着すぎる。
「──」
更に近くで見ると、最も目を引くのはその薄着なんかじゃなかった。
それは彼の両頬、ひげに覆われた領域のすぐ上に現れている紋様みたいなものだ。
それを形容するなら、彼の鼻について相対している、両面の顔であるようだ。
だが二つの顔面は反対の側を見ており、決して互いを認識することがない。
おまけに、髭で隠されてはいるがどうも顔の造形がこっちの人たちとは異質感がある。
だから、遠くから来た異邦人だと分かった。
たぶんあれは、東方からの人──つまり、『東方人』である。
「…………」
彼はまるでここの局面が視えないように、何の躊躇もなくこっちへ一直線に向かってくる。
「おい、なんだオメェは! 取り込み中なのが見えねぇのか」
ハゲ頭が威嚇の声を上げる。
どうやらあのぼろぼろの服装からして、彼からは掠めるものがないと判断したんだろう。
こっちの金髪の綺麗な少年の方に集中したいと思っているのだ。
「…………」
だが、相変わらず男は怯まない。
まっすぐに近づける。
「なんだあれ? 頭イッてんのか?」
「飢えすぎておかしくなったんじゃねーの」
動揺した賊どもはそんなことを言う。
だが彼らは怯えてざわめくのではなく、だしぬけの痴れ者と出くわした衝撃を口にしたまでだ。
だって、あっちは武器も持たぬ一人で、こっちは大勢が揃っているのだ。
いくら唐突な存在とはいえ、あれにたじろぐ理由など全くない。
「今すぐ止まって戻らないと、オメェぶっ殺すぞ!」
きっと、あれで最終の警告だ。
ハゲ頭なりの配慮とも言える。
「…………」
状況は変わらない。
ボロキレの男の靴の底が雪が溶けてない道の上に足跡を残す音だけがその場に響き続ける。
「くそ」
邪魔されたことでムカついたらしく、ハゲ頭は短い言葉を吐く。
「おいお前ら、あいつ殺せ」
そんな命令を、自分の右の三人へ言う。
言おうとした。
だが──
──シュッ、と。
風をつんざく音が鳴り響いた。
その後、ハゲ頭が見たのは、自分の右側に立っていた三人の頭が、胸板あたりから下を置き去りにして飛んでゆく場面だった。
とんでもなく破壊的であろうその光景に、不思議にも流血があまりないのは、たぶんそれを為した早さが尋常じゃなかったせいだろう。
頭は彼らのもとから遠くまで飛んで行き、どこへやら消えてしまう。
「はっ……?」
今度は左の方を見る。
そこも、首無しの胴体が三個。
武器を手にして硬直したまま、確かに死んでいる。
すぐさっきまで七人だったのに。
今は、自分ひとりしかいない。
「──」
急すぎる事態でまだ迫ってこなかった恐怖が、今になってやっとハゲ頭に襲来してきた。
「──うっ、ウヒッ」
ずっと後ろを見ていた少年も、ハゲ頭の奥底から漏れてきたその奇っ怪な音にやっと賊どもへ視線を戻した。
そして、状況を確かめる。
「なに、これ……」
少年はぼんやりと呟く。
理解が追いついていない。
なぜ彼は死んだんだ?
いつ死んだ?
なにが殺した?
「う、うぎゃああァァ──ッ!」
その悲鳴は、直前まで他人を威嚇していたものから出た声とは信じがたい。
なさけない、まさに弱者の証しだ。
ハゲ頭は、驢馬の頭を金髪少年の反対側へ向かせた。
──ここから、逃げる、
そのことだけが、今の彼の思考を支配する全てである。
余裕はとっくに失われて、武器として持っていた剣も投げ捨てて、遁走する。
「……」
無様だったが、少年にはそれを嘲笑する暇も与えられていない。
事件の速度に追いつけないという不安が最高潮に達する。
鼓動だけがドクンドクンと早鐘を打ち続ける。
「これって、あのボロキレの男の──」
やっとそんな判断になった。
その瞬間、少年は自分の後ろから何かが跳ね上がって飛ぶ気配を感じた。
それが何なのか自分の目で確かめるには、その速度は早すぎた。
──こっちへ向かって来ているのか?
いや、違う。
飛んでいる物体は、少年の頭の高さを遥かに超えている。
──狙いは、僕じゃない。
それに気づいた次の瞬間、褐色の人影が逃亡するハゲ頭の頭上を過ぎる。
そして光景は血塗れになった。
「──」
気がつくと、さっきのボロキレの男は少年の正面に佇んでいた。
その右手には何か長い鉄棒みたいなのが握られている。
その左手にはハゲ頭の醜い首が強く掴まれている。
掴まれているのはあくまでも首だけだ。
残りの肉は、まだ驢馬の上に──。
鞍上の異変をあまり理解できなかった可哀想な動物は少し右に回り、意味もなく道端の方へ小走りをして、すぐ止まった。
失われた首から溢れ出した血液が、白い雪道のうえに痕跡を作る。
驢馬が止まった反動からか、やっと残りの身体が馬上から倒れて、雪のうえにザクっと音を立てながら、横たわる。
「──ッ! あ、あ、ア」
自分の内から出てきた音は、恐怖からか、驚愕からか。
それを聞いてやっとここの存在に気がついたかのように、ボロキレの男の視線はこちらへ移る──。
気を失いそうな緊張に冒される。
身体の震えが止まらなくて、眼球をまともに固定させることすら出来ない。
そんな烈しさの中で、響き渡る声がある。
「是非は、齎された」
しゃがれた声はボロキレの男からだ。
彼はしゃがみ、生首を地の上におく。
左手でそれを掴んだまま、右手の棒状のモノを一度天に上げ、
そして、ハゲ頭の両目の間にぶち込んだ。
グチャッと、
辺一面に、鮮血が振り撒かれる。
雪と土とがごちゃごちゃしていて既に混雑だった地面は、新しい色を受け容れた。
これであの醜い肉の塊は、地上に据え付けになってしまった。
……ようやく気がついた。
今ハゲ頭を固定しているあの棒状のモノがなんなのかを。
直前まで男が右手に提げていたモノがなんだったのかを。
最初に賊どもの頭をぶっ飛ばしたモノがなんだったのかを。
あれは、鋼の『杭』、だった──。




