16 春催い
他に音がないと、小屋を叩く冬風の騒ぎが一層うるさく感じられる。
忽ち、扉の開けられる音が聞こえた。
そこから現れたのは、グンデルである。
彼女はとても不面目そうな顔で、主に有鱈を見ている。
「あの、外が寒かったので……駄目、だったでしょうか」
二人だけにしてくれ、と言った有鱈の頼みを無視したのだと思ったんだろう。
「いや全然、こっちの方が悪かったぜ。もっと早く気付くべきだった」
口元を綻ばせて、有鱈は言う。
しかし、今は髭のせいで口が良く見えないことに気づいた。
だから、手の動作も添えて、どうにかこっちが怖いものではないことを伝えようとした。
……いや、こんな格好をして、さすがにそれは無理かも知れない。
せめて髭剃りでもした方が良かった、と有鱈は思った。
*
「──そう言えば、姉貴」
急に思いついたことがあって、再びヴィルビの方へ向かう。
「息子の方はどこに行った? 確か、フィーゼって言ったよな」
名前だけは、どうにか思い出せることが出来た。
「あの時はちっちゃい赤ん坊だったけど、もうすっかりデカくなったりしねぇのか?」
好奇心半分、陽気な空気にしようとした考え半分で出した話題だった。
「……っ」
だが、それを聞いたヴィルビの方は頭痛がしたようだった。
目を瞑って、右手で頬と額の部分を抑えるのである。
「……どうした、姉貴」
「有鱈。……実はね、お前が玄関に現れるのを見たときから、ずっと言おうとしたことがあるんだ」
顔を抑えていた右手を下ろして、ヴィルビは有鱈を直視した。
「けれど、これは結局旧情に訴えてお前に無理を言うだけだろうね。だから、断れても絶対恨まないし、理解するよ」
「え」
その表情はとても苦しそうだ。
ヴィルビは言う。
「有鱈、アタシの息子、フィーゼを、助けてくれ」
「──はっ、なにを……?」
話が全く読めなかった。
有鱈は目を大きく開いた。
「実は今朝、領主がいきなりこの家に訪れたよ」
「……イントレド・バイネローホが」
「そう。それで彼はただ、『砦の補修工事のための人手が足りなくて、いま暫くここの少年の力を借りてもらう』とだけ言って、フィーゼを連れて行ったのよ」
「……なんだ、それは」
「そう。意味がわからないのよね。あの言い訳はともかく、領主がここまで来たこと自体おかしな話だ。領主がアタシたちに何か直接的な用があるはずもないし、万が一あったとしても部下に連れてこいと言ってれば済むことじゃないか。
なのに、直々このボロ屋まで来ただと? あり得ない話なのよ」
彼女は、とても辛い表情をしている。
「……アタシも、どうにか引き留めようとしたのよ。けど、見ての通り、アタシは自由に身動きができないし、グンデルにそれを為せる力があるわけでもない。──結局、ただ見ることしか出来なかったのよ」
有鱈としては、それを責めるつもりは全く無い。
それより、有鱈が最も気にかけていることは、イントレド・バイネローホがフィーゼを攫っていったその理由だった。
……何か、道筋が見えなくもない気がする。
「まさか、あいつの家柄と糧伝との因縁で、何か……」
「ううん。多分それは無いと思う」
だが、ヴィルビは首を横に振る。彼女は既にそれについて考えてみたようだ。
「今の領主はバイネローホ家とは疎遠になっていると聞く。帝都からこんな北の果てまで来たのも、当主からこっぴどく嫌われたからだとか。
それに、この一帯にアタシの過去について知っている人などいないはずよ。ここに移住してきてから、この小屋を訪れた外部者なんて、指で数え切れるほどもない。頻繁に外出する人も今はグンデルだけで、あれは十分賢い子なのよ」
深刻な表情で、彼女は言葉を継いだ。
「本当は、心当たりがあるの。だって、この街で人が拐われて無くなることは今は珍しい事件でもないんだから」
「どういう意味だ?」
「領主から、人を拉致していくのよ」
ヴィルビのその言葉に、有鱈は眉根を寄せる。
彼女は続く。
「巷の噂によると、こうだ。──ある朝、いきなり領主の部下が扉を叩いて出たら、彼らが家族の一員を連れて行く。それっきりで、その人はもう家には返ってこない。それが何度も何度も繰り返されて、今は街の半分くらいが無くなっているって」
「……そんな馬鹿な」
「ひょっとしたら、失踪するのは住民だけじゃなかったかもだよ。それはイントレドの部下たちにも同じだったかも知れない。もはや指図する人員までも全て失い、今度は領主直々漁りに出たのかも、ね……」
言いながら、彼女はその衰微している姿にわずかに残っていた活気までも失ってしまう。
「……頼む。有鱈。こんな久しぶりにやっと会えたのに、無理を言ってて本当に悪いと思う。けれど、けれど、アタシには、もう何一つ成すすべがないのよ!」
必死の感情を詰めた言葉が、小屋中に鳴り響いた。
「アタシ、朝の時は呆気にとられてた。あいつがフィーゼを拐っていくことを見たから、必死になって寝台から出て、地を這ってそれを追おうとしたけど、玄関に至るだけで体力を尽してしまったの。
もう、なさけなくて、でも何も出来なくて。この体の無力さを実感するだけだったの。でも、それが現実だったのよ。アタシとグンデルだけじゃ、何も出来ない」
彼女は不自由な身体をどうにか動かして、有鱈の腰掛けた椅子の方へもっと寄る。
そのせいで光を失った彼女の肌の衰えの具合が良く見えてきた。
「イントレドの砦では、何か良くないことが起きているに違いない。あの子も、今からどんな目に合うかなど、想像もできないの。
……アタシ自身はどうになったって良いわ。けど、フィーゼとグンデルだけは、守らなくちゃいけない。あの子たちは、アタシの全てよ。あの子たちまで失ってしまったら、もうアタシに生きる意味は、ないの」
必死になって、彼女は有鱈のマントの端っこを強く引っ張っている。
たぶんそれは意図しない思わずの動作で、彼女のもっている余力の全てが込められているはず。
にもかかわらず、それは弱すぎる。弱すぎて、有鱈の身じろぎ一つで振り払えそうに思われてしまう。
「ねぇ、有鱈、お願い。フィーゼを、アタシの息子を、助けてよ……!」
女はそう、懇願する。
今でも消えそうな弱い声だが、その内には捨てがたい必死さが確かに存在している。
「…………」
ヴィルビという人間の全てがこの願いに懸かっていることが分かった。今から聞かされる答えによって、彼女を構成する大事な部分が壊れるかも知れないということが、理解できたのだ。
「……俺、は」
有鱈は、急いで何かを言い出そうとした。
何でもいいから、言うのだ。
その憐れな女のことを、お前の言葉で救うのだ。
そう思った。
「──」
なのに、妙にも、何も言えなかった。
喉元が、何か重たくて粘着くもので密栓されたように、何の音も出ない。
──俺は……。
……。
…………。
*
は?
何を迷っているんだ、お前は?
なぜ、それを聞いた即座に、承諾しなかったのだ?
なぜ息が詰まって、はっきり言えないままなのだ?
まさか、それが嫌とでも言うのか、お前は?
彼女、ヴィルビのことなど、どうでもいいって言おうとするのか?
「ち、がっ」
項垂れて、言葉にならないそういう呻き声を漏らす。
「ちがう」
それは、本当だ。
……そうだ。
嫌というわけでは、決してそうではないんだ。
ヴィルビが大切なのは真心からの思いだ。
なのに、彼女の子供たちがどうでもいいわけがないじゃないか。
だが、問題はそこじゃない。
いや、彼女が大切すぎるからこそ、問題なのだ。
(…………ああ、俺は)
心のなかで、自分を嘲笑うしかなかった。
俺は、自信がないのだ。
そんな責任、自分に負えるわけがないと、そう卑劣に訴えようとしているのだ。
考えてみれば、当然なことなのかも知れない。
過去から学習して、未来を予想するのが人間だ。
俺は既に、似たような責任が全く果たせなかった。
当時、自分に負われていた責務は、失敗を超えて、粉々にまで粉砕されて、破壊されてしまった。
「──」
瞬間、頭蓋の内に確かに響いたのは──
五度鳴る、時鐘の音。
守るべきものを守れなかったことを思い出させる、ある種の象徴のような音だ。
今でも目を瞑ると、鮮明に繰り返される。
忘れたくても忘れられない、色彩と音響と残り香の、連なり。
そんな過去があったのだ。
なのに、今度は違うって保証はどこにあるんだ?
今さら似たようなことを試みたって、同じ結末にならないという保証がどこにあるというのだ?
むしろ、ここで快諾するという方が、人でなしの所業ではないだろうか?
過ぎた五年間、知りたくなくても、散々知らされてきた。
自分が成せることなど、一握にもならないくらい、少なく、小さい。
己の身体のことさえ、己の命のことさえも自由に出来ないのが、有鱈という人間なのだ。
そうだ。
そんな自分なんだ。
息子を助けてくれと言われても、ただ困ってしまうだけだ。
この先のことなど、誰でも知るはずがない。
……それは、例え『預言者』だって同じだった。
人間は不確定の中をさまよう存在なのだ。
なのに、どうやって『俺が必ず助けて来るから待ってろ』とか、無責任な台詞が言えるというんだ?
(俺には、出来ない)
自分に出来るというのは、せいぜい砦の中を一回り調べてみることが全てだろう。
姉貴自ら言ったじゃないか、断れても理解するって。
そうだよ。
最初から俺が言うべきことは、決まっていたんだ。
*
……。
結論をつけた。
口を少し開いた。
「俺は──」
だが偶然にも、同時にヴィルビの方が言葉を発した。
「有鱈、あの子たちは、アタシの春の兆しなの」
「は────」
その言葉に、心を貫かれてしまう。
少し前まで自分が何を言おうとしたのかさえ忘れてしまった。
一度真っ白になった頭の中。
新しく浮かぶのは──あの要塞のことだった。
あの場所を思い出す。
あの穴ぼこの底のことを思い出す。
あの冷たさも。
あの暗さも。
あの臭さも。
人生の一番の下で、あの地獄の底で、俺は誓ったんじゃなかったのか?
決心したんじゃなかったのか。
──彼女の思想を、俺が続かなきゃ。
是非を齎さなきゃ。
糧を伝えなきゃ。
(……お前だったら)
またしても、思い浮かべるのは、その碧い瞳だ。
(お前だったら、この時どうしていた?)
『彼女』だったら、この状況で何を言っていただろう。
どんな言葉を発して、どんな行動を取っていたのだろうか。
しごく当然な答えが、一瞬で迫ってきた。
熟考とか逡巡とかは、要らなかった。
*
「…………」
有鱈はヴィルビの顔を見た。
彼女の目尻には、雫があった。
有鱈は、そんな表情には弱い。
彼にとってヴィルビは、いつまで磊落な姉貴なのだ。
朗らかに笑っていて欲しいんだ。
「──姉貴。約束するよ。
アンタの息子、フィーゼは、俺が必ず連れ戻してくる」
言ってしまった。
だが、それで終りではなかった。
「そして、この騒ぎが終わったら……俺と一緒に、南へ、聖居教会の領域へ行こうぜ。あそこの都市なら、エイギヴェルからの追手も来ねぇ。途中で何があっても、アンタとアンタの子供を俺が守ってやる。食いもんも俺が働いて、全部なんとかする」
それを聞くヴィルビの顔は、驚きの色を見せる。
「俺、一度だけ、南の国へ言ったことがあるのさ。ここよりずっと気候も優しいし、住みやすいぜ。もしかしたら子供たちに読み書きを学ばせて、立派な職に付けさせるかもだよ。
だから、こんな神にも見捨てられた所からは、一刻も早く出ようぜ」
いつの間にか、有鱈は満面の笑みになっていた。
「俺達、糧伝の党なんだよ。家族なんだよ! 何があってもそれは絶対に変わらねぇ。これからは、全部アンタの弟、この有鱈に任せろって。
そして、元気だせよ」
その口調と雰囲気は──子供のようで。
まるで、ヴィルビと有鱈が初めてあった頃のようで。
彼の顔で描かれているのは、汚れと疲れと傷跡と無精髭で覆われていても、
消されきれない、確かな、純粋な少年の笑いだった。
「…………ようやく、気がづいた」
独り言だった。
──五年ぶりだ。こんな笑顔になれたことって。
それを聞いたヴィルビの、涙まみれになったその顔にも、やっと笑みが描かれた。
五年前と比べて、歳月の跡が増えている女の顔──しかも心配と希望とでぐちゃぐちゃになったあの姿は、お世辞でも麗しいとは言えないだろう。
だがそれには、確かに純な何かを含んでいるのだ。
それが、有鱈にはとても愛おしいと思われた。
それを、何があっても守れないといけないと思った。
*
糧を与えることが、やっと出来るのかも知れない。
来たるべき季節を、確かに示せるのかも知れない。
今度こそ、守るべきものを守れるのかも知れない。
もしかすると、
俺にも『彼女』の真似が出来るのかも知れない。
ドクン、ドクン、と。
期待が迫りくる感覚が、彼の心臓をうるさく動かしていた。
──守れるかどうか曖昧な約束など、しない方が良いです。
記憶の彼方から、そういう冷たい声音が聞こえた気がした。
さて、いよいよ第一章『春失くし』も終りに向かって展開されて行きます。
プエスメンベリの地に集まる意志と思惑は、どうやって絡み合い、競い合うのか。
有鱈は、迫ってくる試練をどうやって乗り切るのか。
辛くなるところもあると思いますが、最後までよろしくお願いします。
※ 4月6日、エピソードタイトルを「『しない方が良いです』」から「春催い」に変更しました。




