13 生殖器
「紹介しようじゃないか。世産みの亀裂。耽美の安息地。
私の偉大な永遠な恋人────彼女の、生殖器だ」
何も反応しなくなった自分の家来に、イントレドはそう言った。
部屋の中央に立てられた──いや、生えているおぞましい肉塊を指して。
それは肉の質感をしっかと保っているが、どうも生き物のそれとは違っていて、まるでひどく汚された泥のような色である。
表面には毛なのか、それとも突起なのか分からないものが数多く突出しており、気持ち悪くしきりに蠢いている。
それは確かに縦に裂け目がある形をしていて、イントレドが『生殖器』と言っていた意味が分かる。
健全な人なら誰しも驚愕して絶望するような、そんな化け物の類だ。
だが領主はむしろ、愛らしいものを見つめる人のように、愛情に満ちた表情をしている。
「……まあ、言っても聞き取れないか。彼女の隣に立つと、生物なら皆強く影響されてしまうからな。だが意識の全てが奪われるとは……」
面白そうな顔で、イントレドは少し屈んで、霊魂が吸い取られたような様子のチェスムスの姿を観察した。
「それは、もともと貴様の精神が弱すぎた、ということか」
「────」
その時、『生殖器』の方から何か変化が起こった。
一度強く痙攣したそれは、その裂け目の向こうから、何かをひりひりと出そうとしている。
「そろそろ、時間のようだな」
言葉を理解できなくなってしまったチェスムスだったが、それでもイントレドは一々そんなことを告げた。
「────」
しばらく経つと、あの泥のような肉の中から『何か』が産まれてきた。
それは暗闇自体のように真っ黒だが、異様の光沢を帯びている。
それからは狐火というか、あるいは日蝕の色というか、そういう奇妙の光が少しずつ漏れ出されているようだ。
その形は、全体的に体躯が小さいのに、手足と胴体は細長すぎて均衡がまるでとれていない子供の体型みたいだ。
そして頭部の方は──鼻も、耳も、目も、口もいない、ただ頭の形があるだけである。
「────」
亀裂から出てきたそれは、ぎこちない足さばきで前へ進もうとする。
しかしうまく出来ず、すぐ倒れてしまう。
その必死さには、何か直視しがたい滑稽さと不愉快さが確かに共存している。
しかし、イントレドの方はあまり感情の動じていない顔のままだ。
彼は言う。
「これが、貴様を彼女と繋げる『稚児』だ。今から貴様はあれと抱擁するようになる」
言う途中、『稚児』は再び起き上がってきた。
今度は以前よりゆっくりと、ぶるぶるする細い足で、一歩ずつ前へ歩く。
その狙い先は、今や開けられた口からよだれを垂らしている、あの口ひげの男、チェスムスだ。
彼には今、何が見えるのか?
微かに振動している唇から、何を言おうとするのか?
「────」
チェスムスは、徐ろに両手を広く開放した────
それはもちろん、近寄る抱擁者を抱き返すために。
目も見えないはずの『稚児』も、似たような動きをして見せる。
その姿はまるで、遠くから子供が走ってきて、親がそれを待っているような。
だが、その速度だけはカタツムリのようで、遅すぎた。
チェスムスは、とても幸せそうな顔で、目尻には涙が凝結されている。
今まで、イントレドはこの男のこれまでの喜ぶ姿を見たことがなかった。
思わず、領主は呆れた笑いを浮かべてしまう。
「ふっ……これで貴様もその身を以て知ったであろう。私が勤しんでいた、彼女からの頼みの『重大さ』をな。
人々に、そして私に、無辺際の幸福を齎す仕事なんだ。それはある意味、人命を救う云々より遙かに重大なものなのだ」
だが、その顔には僅かに焦燥のようなものが混じっている。
その抱擁に至ろうとする二つの事物を観察する目には、嫉妬のようなものが宿っていたのだ。
「────ッ」
やがて、二つは一つになった。
『稚児』の身体が、溶けるようにその形を失い、代りにチェスムスの身体の上に粘つく『泥』となる。
それは間もなく彼の全表面を覆い、あの神秘の光沢はチェスムスに伝染する。
その下では何が起こっているのか、チェスムスはびくびくと震えている。
だがせめてもの、それが苦痛からではないと分かる。
「うっ」
イントレドは思わず歯ぎしりをして、満面に不快の気味を表した。
人間なら誰しも彼のように幸福を得るわけではない。
実際、何周か前に娘を生殖器に捧げたときは、彼女は最後まで──いや、ことが終わったからもずっと絶望して喚き、叫び続けていた。
経験上から言うと、どうやら精神の強い者ほどもっと絶望を感じて、弱い者ほど気持ちよくなる傾向があるらしい。
────いっそ、娘のときが気分が良かった。
自分は彼女に触れられず半年も我慢しているのに、眼の前で自分の恋人の一部があの見窄らしいチェスムスという男とまぐわっていて、しかもあの男はそれから至高の悦喜を感じているようである。
それは、あまりにも気持ちの悪いものだ。
「────」
訴えるように、『生殖器』を見る。
「愛する者よ。これで、そろそろ良くないか?
約束通り、この街の者の多くを既に捧げたはずだ。
だから、もう私の声に答えてくれないか? ……」
だが、それに応じる響きは聞こえない。
「…………ッ! チッ」
怒りを隠せなかったイントレドは、法衣の裾から音が立てられるほどの勢いで振り向いて、泥の中で踊っている無様な男を置き去りにして、その部屋をあとにした。
*
彼がそこを出て書斎につくまで、階段などなかった。
ただ平らな廊下が続いているだけだった。
❖ ❖ ❖
……。
朝がやってきた。
朝はいつだってやってくる。
暁前までどれほどの悲鳴と絶望が描かれたのかなど、登る旭は無関心なのだ。
ともかくも、この輪なりはいつまでも巡る。
*
ひどく損傷された小屋から、有鱈がゆったりと歩いて出てきた。
「…………ッ」
あたり一面を雪が覆っていて、白さが旭の光を増大させている。
彼はあまりの眩しさに、渋い顔になれずにはいられなかった。
左手で目を隠そうとして、そこに付けられた血の跡を見て、気分はさらに沈みゆく。
だがそれはやってきた行為に対するやましい気分ではなく、その血液の主への嫌悪であり、彼の一部が自分についてしまったことについてのうざったさである。
いや、それだけでは──ない。
「……っ」
瞼の裏に揺らめいた映像は────
寒い石造りの壁と天井と床を伝う暗闇。
どこかで侵襲した滴りが落下する音。
蝋燭の赤黄色とそれが醸し出す陰のかげろう。
鎖の相ぶつかる音。
そして、空洞を響かせる悲鳴。
情けない声を上げたのは、自分自身である。
「……ちがう」
いつの間にか震えている手先に力を入れて、拳を固める。
今、俺はもうあの要塞の地下層から遠く離れているんだ。
俺はもう苦痛を給わる側ではなく、与える側である。
もう、拷問される側ではなく、拷問する側なのだ。
だから震えてるはずがねぇ。
怯えてるわけがねぇ。
────状況を主導するのは、俺なのだ。
心の中ではそう力説していたが、それは虚無な谺意外何でもない。
すべて馬鹿馬鹿しくなり、自然と強張らせた緊張も解けた。
(……とにかく、この汚れを落とさなきゃだ)
ここから川は遠いだろうか? あまり瞭然ではない道の辿る記憶のなか、大水を見かけたことはなさそうである。
仕方なく、有鱈はどっかと雪原の上に膝をついて、跪いた。
まわりの雪を掻き集めて、それで手でついた痕跡を落とそうとする。
「……」
ふと、自分が太陽に正面から向いているのに気づいた。
きっとそっちの方が東だ。
太陽の方角を観察する。
それは天頂とは遠いが、それでも東の地平からずいぶんと離れている。
日の出からかなりたった頃だと見う。
そう言えば、事を終えて疲れ果てて、屍の間に倒れて眠りについたのは、もう周りが藍色で満ち始めて暁直前のころだった。
有鱈は両手を合わせた。
「……糧を、与え給え」
そして、また呟いた。
自分のものではない、他人からの言葉。
だが、今の彼には、自分と世界をつなぐ唯一の唱えである。
この真似事だけが、自分がまだ生きていると確かめさせる。
「────」
そうしていると、近くの林の上から囀る鳴き声が聴こえる。
こっちの汚れなど知らない、まっすぐに透き通った清涼さだ。
そして陽光が樹皮を軽く焼ける気持ちのいい香りが鼻先をくすぐる。
昨日と同じで、いつだってそうだろう。
彼の後ろに山積みしている汚物の肥溜めとは、まるで別世界の存在のようだ。
振り向いたら、すぐ見えるような距離にあるのに。
有鱈は無力感に冒された。
世界がどうしようもなく美しいと、もう一度知らされてしまった。
「糧を与え給え」
彼は言い捨てて、立ち上がった。
そして、太陽の方とは正反対を向く。
「イントレド・バイネローホ」
昨日、聞いた情報を思い出す。
その方角に、首飾りの盗人の在り処がある。
それを今から取り戻さないと、だめだ。
有鱈は歩き出す。
────その懐に、赤い花の綾取られた『目玉』を隠して。
*
十五分ほど歩いたころ、有鱈は小屋の方から雷鳴のような轟きを聞いた。
が、介意はしなかった。
何話か前に「これから第一章後半です」って言いましたけど、あれって私の錯覚でした。この後の話からが本当に後半です。
バカじゃね?
そうですね。
とにかく、よろしくお願いします!




