12 『だっこをしましょう』
深夜。
プエスメンベリの領主イントレド・バイネローホは、相変わらず自分の書斎の中に籠もっていた。
彼は丁寧に装丁された敦厚な書物を本立ての上に固定させ、注意深く一頁ずつ読んでいる。
熟読する彼の外見は──
左右に分けられた濃紺の長髪も、
線と角が鋭い印象を与える顔つきも、
彼が着ている上位騎士の法衣の袖口も、
全部動きを失ってその場に固定されている蝋人形みたいだ。
ただ、唯一、深い窪みの内からぎらつく紫紺の瞳孔が動いていて、それが生きている人間であることを知らせている。
彼の腰掛ける椅子の後ろには外の風景が眺められるが、今夜は激しい吹雪のせいで視界があまり良くない。
しかも強風が砦を揺さぶっているので、そこかしこから聞こえる軋めきがかなり不穏な空気を紡いでいる。
「────」
ふと扉の方から、重たい木材の表面を叩く音がどよもされた。
風の騒音のなかでも、それははっきりと聞こえてきた。
「夜遅く失礼します。チェスムスでございます」
「入れ」
答えを聞いた者はぐずぐずとした動きで扉を開け、入ってくる。
その印象的な口ひげを生やした男が机の向こうまで近づいているのに、イントレドの方は本の文字を目で追っているだけだ。
しかし入場したチェスムスの目を最初に引いたのは、その冷遇の態度をとる領主よりも、彼の机の右に見える棚に神秘の光を帯びている何かだった。
それは装身具に見えた。輪郭は上下が塞がっている提灯の形に近い。上部に紐がついているのからすると、首飾りなのかも知れない。
その『提灯』の中身になっているのは蝋燭ではなく、鐘や壺──或は、蝶々のような形の何かである。
それは炯々と薄い黄金色の明かりを発しているが、不思議にもその明度は一定の周期性をもって強くなったり弱まったりしていて、蛍の瞬きのようだ。
その蝶々は空間の中央に浮遊していて、周りは液体でも気体でもなさそうな何かで満ちている。
色は碧じみた透明であり、妙なのは中央の『蝶々』の瞬きと相応しているようで、次第に色をほんの少しだけ変化させている。
「────何という、美しさ」
いつの間にか見惚れてしまい、そんな感想を零した。
「うむ?」
やっとイントレドの視線が書冊からチェスムスへ移る。だが他の部分は相変わらず微動もしない。
「ああ、あの不愉快な首飾りのことか。心配しなくても、すぐ処分するからな」
「不愉快、とは……」
イントレドの目にはあの蝶々の色が快くないものに写っているのか。
「それより、新しいおもちゃを見つけたんだが、どう思うか?」
再び本の上に視線を移して、言う。
彼はその装身具の隣に置かれている変な形の壺みたいなものを言っているらしい。それは太い円周を持つ円筒形の鉄製の物である。
何か精密な作り込みが仕込まれるようには見れるが、正直、チェスムスの目にはあの神秘な明かりに比べたら、どうでも良いようなものに見えた。
ただ、その表面の章の、両刃を象っている形は少し気にかかる。
「刃刺の団には頭の良い者が多いらしい。遭遇するたびに、新しいものを私に見せてくれるからな」
チェスムスもその名前は知っている。確か、それは隣国エイギヴェルを拠点とする戦闘集団の名前だった。
そしてイントレドがそれからの発明品に妙な興味を示してきたのも既知である。
だが、彼らについては良くない噂話が多いので、チェスムスとしては刃刺からの品物は出来るのならあまり触れたくないと思っていた。
そもそも、こんなに一日中部屋の中に閉じこもっている方が、どうやって刃刺の団の発明品を手に入れたのか。
……疑問が増したが、今はどうでも良い。
そんなことにうつつを抜かしている場合ではない。
「……ご領主様、お忙しい所すみません。どうしてもお伝えしたいことがございましたので」
「ならば、速やかに申せ」
「実は一つ、お諌め申し上げるため参りました」
「諌め、とは?」
そのくだりで、彼の顔色がもっと冷たいものになった気がした。
昔から人への接し方があまり物柔らかでない人ではあったが、どうも今はその不気味さを強く意識してしまう。
なにせ、あんな場面──イントレドの娘がおぞましい怪物と成り果てた光景──を目撃したあとだ。チェスムスにはこの砦の中の全てがどこか正道とは外れている気がしてならない。
今でも怪物と化したイントレドの娘御の顔が目の前にひらつくようだ。
しかし、言わないと駄目なことがある。
「……前日、砦内で泥鬼と遭遇したことはご報告いたしましたはずです。その対処がいまだ何一つできてないのは何事でございましょうか? ことの重大さをご領主様がお心得おありなのか、不安でなりません」
「……」
「もしやあの化け物の部類が人々を襲い始めたら、取り返しのつかない状態に至る可能性だってあります。そうでなくても、今のプエスメンベリの民草は既に盗賊と凶作で大きい被害を受けています。彼らの苦痛を少しでも抑えるためでございます。
何卒、ご対処のお急ぎを……」
「ふっ」
丁寧なお願いを聞いた者の反応は、しかし、軽い鼻鳴らしである。
「《泥鬼》ってまさか、私の娘が滑稽な形と化して無様に地を這っていたことか」
「────ご領主様、あれは貴方様のご子息でございました。そのようなお言葉はさすがに……」
「言葉の綾とかそういものはどうでも良い」
イントレドは眉間に皺を寄せて、五月蝿い虫を払うように手を振る。
これでやっと彼は動作の変化を見せたのである。
その顔は、やけに不愉快に見える表情をしている。
「言葉の正確さを言えば、もっと間違っているのはチェスムス、貴様の方だ」
「は……?」
「あれは《泥鬼》ではないんだよ。泥鬼の成り損なった間抜けの、いわゆる《亡魂》の類だ。あんな下級の《泥浴び》と《泥鬼》を一緒にするだなんて、貴様の眼球は腐食しているのか」
「……さようでございましたか。あまり怪物の見分けには長けておりませんでしたので、大変申し訳ございません」
────正気ではない。
確信に近い思いが、チェスムスの胸のあたりから絶え間なく湧いてきた。
仮にも自分の娘があんな悍ましい姿になって、死んでも生きてもない状態で、今は行方不明になっている。なのにこの男が気にするのは、そんな化け物の分類がどうのこうのの問題というのか?
目の前の男は本当に同じ常識を共有する人間であっているのか?
いや、それよりも、この男は本当に、チェスムスが幼子のころから仕えてきた、あのイントレド・バイネローホなのか?
「……それで、相応するご対処は……?」
「ああ、まあ。────別にしなくていいだろう」
「はっ……? 今、なんて……?」
「対処なんか無し、と言った」
「そ、んな……!」
その冷酷な言い草にさすがに感情を塞き止めることができなくなり、無礼も忘れてチェスムスは声を上げた。
「泥鬼は人を食い散らす凶暴な怪物だとお聞きしてございます! あんなものがプエスメンベリの地をのさばっているというのに、ご領主様はそれについて何もなさらないと仰りますか?! 貴方様のご子息だったお方が忌々しい怪物となり、いまやプエスメンベリを脅かす脅威と化したかも知れません!」
「だからあれは泥鬼ではないといったはずだが……」
領主はまるで駄々をこねる子供に対していらいらしているようだ。
彼はさらに顔をしかめ、ため息をつきながら片手で自分の眉の方を軽く押さえる。
そして再度こちらを睨んだ彼の目には、確かな敵意が宿っていた。
「チェスムス。何ヶ月前から何度も言っていた。私は今、大事な友からの頼み事の実行のために勤しんでいて、他のことに費やす時間などないんだよ」
「しかし今私の申し上げることは、人命を救うことに繋がっています! いくらご友人の方からのお頼み事とはいえ、民草が死にかけているのを顧みずそのことだけにご専念というのはあまりでございます!」
「……貴様。ここの領主がいったい誰だと思っている? それは貴様か? 私か?」
「しかしご領主様……!!」
「はぁぁ…………」
二人の会話はそこで途絶えた。
イントレドの長い溜息が止んだ後は、ただ砦の色んな部分が爆風に当てられ、ぎしぎしと呻きをあげる音だけが鳴り響いた。
ふたたび会話のやりだした方は、イントレドだった。
「チェスムス」
「……は」
「さっき貴様は言っていたか? 『ことの重大さ』とな」
「そうでしたが」
「それを理解できていないのは、貴様の方だ」
「はっ……?」
「仕方ないか。今からそれを教えてあげよう」
言い、彼は椅子から立ち上がる。
彼は軽く二度、手を合わせて音を出した。
「────」
すると、チェスムスの左側の書架から異変が発生した。
建築の構造の何かが大きく動いたような振動と低音がしばらく続くと、それは扉のように、片方の端を軸として前方へ開けられたのである。
すると向こう側に見えるのは漆黒に支配された回廊である。
「ご、ご領主様、これはいったい?」
「この奥に、貴様に見せるべきものがあるのだ」
イントレドはこっちへ近づいて、片手でチェスムスの背中を軽く押す。
「何ですか? まずご説明いただきたいと存じますが……」
「言ったはずだ。『ことの重大さ』を分からせる、と。ここを通って行くと、貴様を納得させる光景があるのだ」
そう言っている彼のようすはどこかズレている。
何故か、彼はとても上機嫌である。今まで自分の主からは感じ取ったことのない軽快に近い磊落さを感じたのである。
名状しがたいが、チェスムスは圧倒的な拒否感に襲われた。
「……ご領主様。また今度に、していただけませんか? もし今夜のお諌めの言葉をご無礼だとお思いになりましたのなら、どうかお許しください。私はただ領民のことを思い────」
「つべこべ言うのは終りだ。一緒に来い」
言い、もう一度後押しする。
軽い動作のはずが、どうも抵抗することのできない底力が秘められている気がする。
もう何も言えず、主の命令に従うことになった。
「…………」
二人は書架の扉を超えて、内部の空間へ足を運ばせた。
そこから、一気に空気が変化したのを感じた。
それは言葉通りと比喩の両方の意味であっている。
今砦の空間全てにはびこっている忌まわしさが増幅した。
それを感じたのは間違いなどではない。確かな事実だ。
魔術を以て何かの仕掛けが張られているに違いないと思った。チェスムスのような魔術の才能のない人でも、十分嗅ぎ取ることができるくらいなのだ。
そしてそれに伴ったものなのか、大気の温度が更に低下した。
しかし冬の雪原の上で感じるような清らかな冷たさではなく、何年も放置されたが、水分と温度が低すぎて保存されてしまった獣の屍の眠るほら穴に入ったような気分である。
「ここは……」
口ひげの先を弱く揺らしながら、不安げにそう呟き、見回す。
砦の構造と繋がっている空間なのは確かで、壁と床と天井を成す材質も同じ木材と石材だが、なぜか表面がひどく汚れたようである。
その上に見える跡は黴にも似ているが、色とか膨れ具合とかから黴とは程遠い別物だって分かる。それを敢えて表現するなら、腐れかけた肉の色合いと、腫れ上がった病人の肌に近いかも知れない。
「────」
これは、錯覚だろうか?
耳元を打つ、気持ち悪い声音を感じる。
囁きのような。悶える人の病床の上の喘ぎのような。
確実ではない。外の雪嵐から生まれた騒音がそう感じさせるのかも知れない。
「どうした? 早く行くんだよ」
その空間の中で、彼の声はあまりにも鮮やかに透き通る。
「……はい」
チェスムスは微弱に返事をして、彼の指差す方向へ進んで行く。
ある程度歩くと、そこには上の層へ繋がる階段が出てきた。
それを成す材質もまた、今までの壁と似ているような汚れで覆いかかっている。
心なしか、以前よりその程度が甚だしくなっているような。
……いや、何かがおかしい。
ここは砦の最上階だったはずだ。なのにこの階段はどこへ連結されたというのか?
しかも高さがかなりあるらしく、それは確実に屋根の頂点のそれを超えている。
「上がれ」
短い命令には逆らうことの出来ない強制力が潜んでいる。
一瞬戸惑ったが、チェスムスは、呆然として階段を上がってゆく。
迫る疑問の連鎖にも、もはや答える動作一つさえ示さなくなったのは、きっとそれが何も良い結果に自分を導かないという、自暴自棄に良く似た悟りからできたものである。
「…………」
チェスムスはあまり膝の状態が良くない。
それは特に負傷したところからできた障害というものではなく、ただ歳をとったあかしである。
普段ならこんな一直ののびのびとした階段なんか避けたいと思うし、こんなに勢い良く上がることなどない。
だが、今は弱音を吐いて休息することなど、きっと許されていない。
「…………」
どれだけの時が過ぎたのか。
何分? 何十分? 何時間?
そんなの、チェスムスには分からない。
ただ、最初書架を渡った時に感じた不気味な空気が、その濃度を限りなく増していることだけを実感しているだけだ。
「────ご領主様?」
それに気づいたきっかけが何だったのか、良くわからない。
だが、今わかってしまったのである。
いつの間にか、自分は一人で階段に残されている。
「こ、これは」
慌てて、無くなった人の気配を探して後ろを向いた。
「────」
思わず、絶句した。
終りのないような階段の連続が、眩暈がするような高さでずっと自分の背中の方へ置かれている。途中には踊り場一つもいない。それも見えるのはあくまで壁に設置された灯りの届くまでであって、それを過ぎると完全な暗闇で下敷きになっていて、何も見えない。
「わ、私はい、いったい、これは、えっ?」
その時だった。
「────しょう」
「えっ」
囁きを、確かに聞いた。
それは今の段階よりもっと高いどこかから。
完全な言葉としては聞き取れないが、何かが、いや誰かが確然と音を立てている。
「────しましょう」
「や、やめ」
「────っこをしましょう」
「やめ、ろ」
甘ったるすぎる声。
若い、いや、もしかすると、幼い女の声。
それは──一人なのか? それとも、数人が同じことを復唱しているのか?
分からない。
「────だっこをしましょう」
「────だっこをしましょう」
「────だっこをしましょう」
「────だっこをしましょう」
「みんなで、だっこをしましょう?」
「私の中で、溶け込んで」
「貴方のすべてを、私色で染めてあげるわ」
その声音は──なんて、美しいのだろう。
今まで聴いたどんな奏でる音楽よりも、歌う歌唱よりも、ずっと璆鏘たる調べのようで。
だがその端っこは満遍なくぼかされていて、きっと明瞭とは程遠い。
馥郁たるが、人を容易く殺せる液体の渦巻く、るつぼの底を掻き回しているような。
沈む曖昧の流麗の重さと、浮かぶ混濁の頽廃する軽やかさの混じった、蠹毒の妖しさ。
「────貴方を、愛しているわぁ……」
「!!」
その告白を聴いた途端、チェスムスの中からは活力が漲ってきた。
彼は猛烈に階段を上り始めた。
彼女に会わないと。
彼女を抱き寄せないと。
彼女の愛の言葉に、こちらからも応じないと。
彼女に接吻して、一つにならないと。
自分が異常さの真ん中に置かれたことなど自覚している。
だがどうでもいいんだ。
あの柔らかく、甘い果実の表層に口づけしないといけないのだ。
自分はきっと、そのために産まれてきたんだ。
少し時間が経ち、男はやっと平らな床に差し掛かった。
そして向こうに、大きい敷居が見えた。扉はつけられていない。
感じる。嗅げる。
そこを超えてから伝わってくる。
彼女の肌の香りだ。
あれに触れないと。
そうしたら、
自分はきっと、
至福の中で、
《美》と一つになれる。
《美》の一色で己を染めることができる。
神聖な響きが自分の歩く両側の壁際から演奏されている気がした。
きっと、合一の儀式をことほぐ祝福の謡だ。
「ああっ、ああ……」
敷居を超えた瞬間、部屋中に満ちている彼女の日暈からの煌めきで、盲いになりそうになった。
「私の、恋人よ」
部屋の中央部には、縦に裂けられた亀裂があった。
それは命の起源、全ての息吹が存在を始めた場所。
大福へ繋がる、渡殿。
「私の、偶像よ」
気がつくと、嗚咽していた。
顔を両手で覆い、大泣きした。
すると、何者かに優しく抱きしめられた。
目を開けると、それに包まれているせいか、何も見えなくなっていた。
でも何も怖くなかった。
「私と、だっこをしに来てくれたんですね。嬉しい……」
「ああ、ああっ」
彼女からの抱擁だったに違いないからだ。
「ああ、私も、わたくしも……」
消えゆく意識のどこかで、自らの名前さえ忘れてしまった男、いや、《何か》は、おぼろげの果に、やっと────
「────貴女を、愛している」
最も大事な言葉を、言えた。




