第四話 帰らなかった者の名を、今から呼び直します
「ございません」
私は答えた。
広場の沈黙が、さらに深くなる。
その答えを望んでいなかった人がいるのは分かっていた。
イレーネ。
アルバート様。
グランヴィル侯爵家の者たち。
そして、今日の凱旋式をただ勝利の祝いとして見に来た民の一部も。
けれど、ここで嘘をつくわけにはいかなかった。
「理由は」
カシアン閣下が問う。
「遺族席の視界が遮られました。負傷兵を正面階段へ通しました。そして、戦死者名を読み上げる前に、勝利を祝う言葉でまとめました」
私は白い階段を見る。
外された白いマント。
名簿を抱えたまま立つ式典官。
花籠の前で立ち尽くす遺族たち。
「特に、名を呼ばなかったことが致命的です」
言葉は自然に静かになった。
怒りで荒げてはいけない。
ここで必要なのは、感情ではなく判断だ。
「今から何事もなかったように凱旋式へ戻せば、王国軍は《《名を省いたままでもよい》》と認めた形になります」
「つまり、完全な凱旋式には戻せない」
「はい」
「では」
カシアン閣下の目が、ほんの少し鋭くなる。
「終わらせる方法はあるか」
私は息を吸った。
終わらせる。
それは失敗を隠すことではない。
成功したように見せることでもない。
崩れたものを、崩れたと認めたうえで、これ以上踏みにじらない形へ変えることだ。
「あります」
私は答えた。
「祝勝の凱旋式ではなく、帰還追悼礼へ切り替えます」
「具体的には」
「楽団を止めたままにしてください。勝利曲は使いません。英雄席を一段下げます。アルバート様は英雄として上に立つのではなく、帰還した指揮官として遺族へ報告する位置へ移るべきです」
「婚約者席は」
「機能していません」
イレーネが息を呑む音がした。
私は彼女を見なかった。
今ここで見るべきなのは、白いマントを失った妹ではない。
名を待っている人たちだ。
「白いマントは外されました。婚約者席の演出は中止。花籠と旗持ちは下げ、遺族席の前を空けます」
「負傷兵は」
「南側の緩い通路へ誘導してください。正面階段を使わせないでください。松葉杖の兵を先に通し、歩ける兵は後ろへ。途中で列を止めるのではなく、通路そのものを変えます」
「名簿は」
「式典局の正式名簿を使います。部隊順で読み直します。爵位の注記は不要です。戦場で同じ列に立った者を、家の大きさで並べ直してはいけません」
広場の空気が、少しだけ変わった。
ざわめきではない。
何かが、ようやく正しい方向を向き始めた時の静けさだった。
「君は、それを組み直せるか」
カシアン閣下が言った。
私はすぐには頷かなかった。
「正式なご命令があれば」
そう答える。
「今の私は招待客です。命令なく動けば、また責任が曖昧になります」
「いい返答だ」
カシアン閣下の口元が、ほんのわずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
けれど、すぐに総司令官の顔へ戻る。
「王国軍総司令官カシアン・ヴァルクの名で命じる」
その声は、広場の端まで届いた。
「リディア・フォルスターを、この場限りの式典補佐として任じる。式典局、近衛、軍務係は、彼女の指示を補助せよ」
「承知いたしました」
私は深く一礼した。
その瞬間、胸の奥にあった迷いが消えた。
正式な命令。
正式な役目。
ならば、動ける。
「楽団はそのまま待機。勝利曲は再開しないでください」
私はまず、式典局長エルマー卿へ向き直った。
「帰還行進曲の低音部だけを、名簿読み上げ後に短く使えますか」
「使えます」
エルマー卿の返事は早かった。
顔色は悪い。
だが、目は落ち着いていた。
この人は混乱していない。
待っていたのだ。
正式な命令と、動ける形を。
「式典官は正式名簿を確認。部隊順。爵位注記なし。途中で略称を使わないでください」
「承知しました」
「近衛士官」
私は次に、警備担当へ声を向ける。
「花籠の子どもたちは南側へ。怖がらせないよう、女官を二名つけてください。旗持ちは階段脇ではなく、軍旗の後ろへ移します。遺族席の前を空けてください」
「はい」
「遺族席は、椅子を動かさずに前を空けます。今から椅子を引きずると、また見世物になります」
「承知しました」
「負傷兵の列は南側通路へ。正面階段を上がっている兵には、無理に戻らせないでください。すでに上がった方を動かすと余計に負担がかかります。これから通る方だけ変えます」
「承知しました」
返事が連なっていく。
声が戻る。
広場が、少しずつ人の動く場所へ戻っていく。
それでも、私は分かっていた。
これは立て直しではない。
崩れた凱旋式を成功に変える作業ではない。
失敗を失敗として残したまま、帰らなかった者の名だけは守るための作業だ。
「アルバート・グランヴィル様」
私は彼へ向き直った。
彼は、今まで見たことがないほど青ざめていた。
白銀の外套も、東境戦功章も、今は彼を支えていないように見えた。
「白い階段を一段下りてください」
「私が?」
「はい」
私は頷く。
「英雄として上に立つのではなく、帰還した者として遺族に報告する形へ変えます」
「だが、私は」
「今、あなたに許されている最も正しい立ち位置です」
言い方は少し厳しかったかもしれない。
けれど、柔らかく言っている時間はなかった。
アルバート様は唇を結び、やがて一段下りた。
白い階段の中央。
さっきまで英雄のために敷かれていた場所から、少しだけ下へ。
その一歩は小さい。
けれど、意味は大きかった。
「イレーネ」
私は妹の名を呼んだ。
彼女は外された白いマントを女官に持たせたまま、泣きそうな顔でこちらを見る。
「あなたは、後援席の後ろへ下がって」
「わたくしは」
「今日の婚約者席は、もう機能していません」
「でも、アルバート様の隣に」
「下がって」
私の声は、自分でも驚くほど静かだった。
イレーネの唇が震える。
彼女はアルバート様を見る。
けれど、彼は何も言わなかった。
言えなかったのだろう。
結局、妹は女官に促され、階段の脇へ下がった。
白いマントを失った彼女のドレスは、急に軽く見えた。
華やかで、美しくて、けれど役目のない布に見えた。
「フェイン夫人」
私は遺族席へ向き直った。
黒いヴェールの彼女が、ゆっくり顔を上げる。
「勝手ながら、席へお戻りいただけますでしょうか」
「夫の名は」
彼女の声は、静かだった。
けれど、その静けさは刃のようだった。
「呼ばれます」
私は答えた。
「正式名簿で、部隊順に」
「……そうですか」
フェイン夫人は、置いていた白花をもう一度手に取った。
そして、席へ戻った。
それを見て、老いた母親も座り直す。
軍帽を抱えた少年は、すぐには座らなかった。
椅子の前に立ったまま、名簿を持つ式典官を見ている。
それでよかった。
座るかどうかを、こちらが決めてはいけない。
花籠の子どもたちが下がる。
旗持ちが軍旗の後ろへ移る。
負傷兵の列が、南側の緩い通路へ流れ直す。
楽団は黙っている。
民衆も、もう拍手をしていない。
広場には、ただ人が息をする音があった。
カシアン閣下が、軍旗の前へ進んだ。
総司令官の礼。
それだけで、広場の空気がさらに締まる。
「本日の凱旋式は、帰還追悼礼へ改める」
低い声が響いた。
「王国軍は、帰った者だけを誇らない」
一拍。
「帰らなかった者の名を、ここに呼ぶ」
その言葉で、広場の空気が変わった。
勝利の熱ではない。
さっきまでの冷たい失望でもない。
人が名を待つ静けさだった。
式典官が名簿を開く。
黒い革表紙。
部隊順。
最初の名が、王都の広場へ上がった。
「第三槍騎隊、第一班。カイル・デュラン」
「同隊、第一班。モーリス・ベル」
「同隊、第一班。エリオ・ハント」
「同隊、第二班。ロラン・フェイン」
フェイン夫人の肩が、そこで震えた。
声は出さなかった。
泣き崩れもしなかった。
ただ、白花を握る手が強くなった。
それだけで十分だった。
名は届いたのだ。
式典官は続けた。
爵位は呼ばない。
家の大きさも呼ばない。
騎士も、従士も、槍兵も、荷馬係も。
同じ部隊で、同じ日に帰らなかった者たちの名が、順に広場へ上がっていく。
老いた母親が泣いた。
声を殺して、けれど止められない涙だった。
軍帽を抱えた少年は、父の名が呼ばれた瞬間、ようやく一度だけ頭を下げた。
負傷兵たちは、もう一度敬礼した。
今度は、誰かに命じられたからではない。
自分たちのために。
帰らなかった者たちのために。
アルバート様も頭を下げた。
白い階段の上ではなく、一段下りた場所で。
その姿は、先ほどより小さく見えた。
けれど、さっきよりは正しかった。
英雄として飾られるより、帰還した指揮官として頭を下げる方が、彼には必要だったのだと思う。
名簿が進む。
ひとり。
またひとり。
その間、楽団は鳴らない。
花も舞わない。
民衆も拍手しない。
ただ、名が呼ばれる。
名が聞かれる。
名が、その家族の前へ戻される。
最後の名が呼ばれた時、式典官の声は少しだけかすれていた。
それでも、最後まで略さなかった。
エルマー卿が、小さく頷く。
私はその横顔を見て、やはり式典局は無能ではないと思った。
動ける形があれば、彼らは動ける。
責任の線と、正式な命令。
それが必要だっただけだ。
カシアン閣下が、再び軍旗へ一礼した。
その後で、低い行進曲の低音だけが鳴った。
短く。
重く。
勝利を称える音ではない。
帰還を告げる音だった。
民衆の中から、自然に頭を下げる者が出た。
一人。
二人。
やがて広場の多くが、拍手ではなく沈黙でその音を受け止めた。
それは華やかではなかった。
けれど、凱旋式が失ったものを、少しだけ取り戻す音だった。
帰還追悼礼は、予定よりずっと静かに終わった。
勝利の楽団は鳴らなかった。
花籠の子どもたちは、最後に白花を遺族席の後ろへ置いただけだった。
アルバート様の演説も中止された。
イレーネが民衆へ微笑む場面も、もうなかった。
それでよかった。
式が終わると、遺族たちはゆっくり立ち上がった。
フェイン夫人が、私の前へ来る。
私は先に頭を下げた。
「本来なら、最初からあの形であるべきでした」
「ええ」
彼女は静かに答えた。
「そう思います」
「申し訳ございません」
「あなたが謝ることではありません」
彼女はそう言った。
その声は優しくはなかった。
けれど、公平だった。
「でも、夫の名は呼ばれました」
「はい」
「それだけは、ありがとうございます」
彼女は深く礼をした。
私は慌てて礼を返す。
礼を受ける資格が自分にあるのか、少し分からなかった。
ただ、名を呼べたことだけはよかったと思った。
本当に、それだけは。
負傷兵の一人が、南側通路を通ってこちらへ来た。
松葉杖の兵だった。
階段の前で足を止めた、あの兵だ。
「フォルスター嬢」
彼は不器用に頭を下げた。
「通路を変えてくださって、助かりました」
「最初からそうあるべきでした」
「それでも」
彼は少しだけ笑った。
疲れた笑みだった。
「帰ってきて、もう一度転ぶのは、さすがに格好がつきませんから」
「ご無事で何よりです」
「帰った者として、次はちゃんと歩きます」
その言葉に、胸が少し詰まった。
帰った者。
その言葉の重さを、私は今日、改めて知った気がした。
彼が去ると、広場の片づけが始まった。
花台が外される。
旗が巻かれる。
楽団員たちが楽器をしまう。
白い階段の上では、式典官が名簿を丁寧に閉じていた。
その名簿を、エルマー卿が受け取り、両手で抱えた。
「リディア嬢」
カシアン閣下が近づいてきた。
総司令官の顔は、式の間と同じように静かだった。
「はい」
「よく終わらせた」
「成功ではありません」
「分かっている」
即答だった。
「これは、成功ではない。だが、放置すればもっと悪かった」
「……はい」
「君は、失敗を成功に見せかけなかった」
その言葉に、私は顔を上げた。
「そこがよかった」
カシアン閣下は言う。
「多くの者は、失敗した式を成功したように飾り直したがる。拍手を戻し、花を増やし、言葉で覆う」
「それでは、名を省いたままになります」
「そうだ」
閣下は頷いた。
「君はそれをしなかった。だから、少なくとも名は戻った」
私は、すぐには返事ができなかった。
今日の私は、ただ必要なことをしただけだ。
失敗を失敗として置き、できる範囲で終わらせた。
けれど、それを見てくれる人がいることは、少しだけ胸にしみた。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
「はい?」
「事情聴取がある」
カシアン閣下は淡々と言った。
「アルバート・グランヴィル、イレーネ・フォルスター、グランヴィル家の式典担当、旗持ち、楽団申請者、婚約者席演出を許可した者。全員、式典局で聴く」
私は一瞬だけ目を瞬いた。
「全員、ですか」
「当然だろう」
「……はい」
そう。
当然だ。
当然なのに、少しだけ安心した。
なかったことにはならない。
話し合いで済ませるのではない。
誰が何を変え、誰が止められず、誰が責任を持つのか。
それを確認するのだ。
「君にも来てもらう」
「私にも」
「この場限りの式典補佐として命令を受けた以上、報告が必要だ」
「承知いたしました」
「ただし」
カシアン閣下は、少しだけ私を見る。
「君を責める場ではない」
「分かっています」
「本当に分かっているか」
「……たぶん」
私がそう答えると、閣下はほんのわずかに眉を動かした。
笑ったのかもしれない。
「では、分かるように記録する」
「記録で」
「記録は、感情より長く残る」
その言い方が、妙にこの方らしかった。
そして、私はそれを少し好きだと思った。
甘い慰めではない。
けれど、必要なものを必要な形で残してくれる言葉だった。
その時、少し離れた場所からイレーネの声が聞こえた。
「お姉様……」
振り向くと、妹が白いマントを抱えた女官の横に立っていた。
目元は赤く、頬は青ざめている。
アルバート様も隣にいた。
彼は、私へ声をかけようとしているようだった。
けれど、カシアン閣下が一歩だけ前へ出たことで、二人は止まった。
「話は式典局で聴く」
閣下は短く告げた。
「この場で私的な弁明はしない」
イレーネの唇が震える。
アルバート様は、視線を落とした。
それでよかった。
この広場は、もう彼らの言い訳を聞く場所ではない。
私は白い階段を見た。
さっきまで妹が立っていた場所。
英雄が民衆の拍手を受けるはずだった場所。
今はもう、誰も立っていない。
その空白を見ながら、私は思う。
凱旋式は、成功しなかった。
けれど、名は呼ばれた。
遺族は、前を見た。
負傷兵は、正しい通路を歩いた。
失敗を消すことはできない。
でも、失敗の上に、これ以上別の誰かを踏ませずに済んだ。
それだけは、今日の意味だった。
カシアン閣下が歩き出す。
私はその半歩後ろへ続いた。
軍務式典局へ。
記録と聴取の場へ。
白いマントは、もう広場の中心にはない。
勝利の拍手も戻らない。
けれど、帰らなかった者の名だけは、王都の空へ届いた。
なら、次は。
誰がその名を省いたのかを、記録に残す番だった。
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