第五話 総司令官は、私を気の毒な令嬢とは呼ばない
軍務式典局の聴取室は、華やかな広場とはまるで違っていた。
白い階段もない。
花もない。
楽団も、民衆の拍手もない。
あるのは、重い机と、数脚の椅子と、記録官のペンが紙を擦る音だけだった。
部屋の中央には、王国軍総司令官であるカシアン・ヴァルク閣下が座っている。
その右には、式典局長エルマー・ローヴェン卿。
左には、軍務監査官。
記録官は二人。
さらに壁際には、近衛士官が控えていた。
私は、少し離れた椅子に座っている。
招待客ではなくなった。
先ほど、総司令官の正式命令で、この場限りの式典補佐に任じられたからだ。
その命令を受けた以上、私は今日の報告をする必要がある。
ただし、それは責められるためではない。
何を見て、何を判断し、どう終わらせたのかを記録に残すためだった。
「まず確認する」
カシアン閣下が口を開いた。
部屋の空気が、わずかに締まる。
「リディア・フォルスター」
「はい」
「君は、凱旋式当日以前に、英雄婚約者席連絡員の登録を外れていた」
「はい」
「登録解除後、式典準備に関与しない旨を、式典局へ文書で提出している」
「はい」
「式典局長」
「確認済みです」
エルマー卿が、手元の書類を開いた。
「リディア・フォルスター令嬢より、婚約解消手続き開始および英雄婚約者席連絡員変更に伴い、正式な命令なき限り凱旋式準備には関与しないとの返書を受領しております」
「受領日は」
「凱旋式前日、午前」
「写しは」
「総司令部にも提出済みです」
「よろしい」
カシアン閣下は短く頷いた。
「よって、本日の凱旋式不備について、リディア・フォルスターに準備責任はない」
記録官のペンが走る。
その音を聞いた瞬間、胸の奥にあった硬いものが少しだけほどけた。
責任がない。
その一言は、慰めではない。
記録だった。
感情ではなく、文書として残る言葉だった。
「ありがとうございます」
私は静かに頭を下げた。
「礼は不要だ」
カシアン閣下は言った。
「事実を確認しただけだ」
その言い方が、ひどくありがたかった。
気の毒だからかばわれたわけではない。
婚約を失った令嬢だから守られたわけでもない。
私は、線を引いた。
そして、その線が記録された。
それだけだった。
「次に」
カシアン閣下の視線が、部屋の反対側へ向く。
「イレーネ・フォルスター」
妹は椅子に座っていた。
白いマントは、もうない。
凱旋式用の華やかなドレスだけが残り、その華やかさがかえって痛々しく見えた。
目元は赤く、手袋を握る指が震えている。
「はい……」
「君は、リディア・フォルスターの後任として、英雄婚約者席連絡員に登録された」
「はい」
「その役目を理解していたか」
「わたくしは」
イレーネは、かすれた声で言った。
「アルバート様の婚約者席に立つのだと」
「それだけか」
「え?」
「英雄婚約者席連絡員の役目は、それだけかと聞いている」
妹は唇を震わせた。
視線が私の方へ流れかける。
私は何も言わなかった。
「お姉様が」
イレーネは、やはりその言葉を選んだ。
「お姉様が、もっと分かりやすく教えてくだされば」
「式典局長」
カシアン閣下が遮った。
「引き継ぎ資料は」
「リディア嬢より、登録変更時に提出されています」
エルマー卿が即座に答える。
「式次第、遺族招待名簿、負傷兵導線図、献花順、白いマントの扱いに関する軍務通達。すべて受領済みです。写しはイレーネ嬢にも渡されています」
「事前説明は」
「式典局より二度設定しました」
「出席は」
「初回は途中退席。二度目は欠席です」
「欠席理由は」
「白いマントの飾り合わせ、ならびに髪飾りの確認とのことでした」
イレーネの顔がさらに赤くなった。
怒りではない。
恥だった。
けれど、その恥を受け止めるには、少し遅すぎる。
「遺族代表への事前挨拶は」
「欠席です」
「負傷兵導線の確認は」
「出席しておりません」
「戦死者名の読み上げ短縮案は、誰の申請か」
「イレーネ嬢より、グランヴィル家の歓迎演出担当を通じて申請されました」
「理由は」
「一人ずつ名を呼ぶと場が沈むため、代表文にまとめたい、と」
部屋が静まり返った。
その静けさに耐えられなかったのか、イレーネが小さく声を上げる。
「わたくしは、明るくしたかっただけですわ」
「明るくするために、誰の名を消したのか理解しているか」
カシアン閣下の声は静かだった。
だからこそ、妹は言葉を失った。
「わたくしは、消すつもりでは」
「つもりは聞いていない」
第三話の広場でも聞いた言葉だった。
けれど、部屋の中で聞くとさらに重い。
「結果を確認している」
カシアン閣下は言った。
「遺族席の前に花籠と旗持ちを置き、視界を遮った。負傷兵を正面階段へ通した。戦死者名を読み上げる前に、勝利を祝う代表文でまとめた。白いマントに勝利の赤を足した」
「……」
「これらは、すべて記録される」
「記録……」
「王国軍主催式典において、君を代表席、補佐席、連絡員席へ登録することは、今後認めない」
イレーネの顔から血の気が引いた。
「そんな」
「本日の判断だ」
「わたくしは、フォルスター侯爵家の娘ですわ」
「家名は、役目を理解した証明にはならない」
「でも」
「君は凱旋式を飾ろうとした」
カシアン閣下は、短く告げた。
「だが、凱旋式は君を飾るための式ではない」
妹は、とうとう何も言えなくなった。
膝の上で握られた白い手袋が、しわになる。
その手袋も、白いドレスも、真珠の髪飾りも、どれも美しい。
でも、今日この部屋では、何一つ彼女を守らなかった。
「アルバート・グランヴィル」
次に呼ばれたのは、私の元婚約者だった。
アルバート様は、妹の隣ではなく、少し離れた椅子に座っていた。
凱旋式でまとっていた白銀の外套は外されている。
胸の東境戦功章だけが、まだそこにあった。
「はい」
彼は、ひどく低い声で答えた。
「君は第三槍騎隊を率い、東境砦を守った」
「はい」
「その戦功は、軍記録に照らして正当なものだ」
アルバート様が、わずかに顔を上げる。
けれど、カシアン閣下の声はそこで柔らかくならなかった。
「よって、戦功章は取り消さない」
「……ありがとうございます」
「ただし」
その一言で、彼の表情がまた強張った。
「本日の凱旋式における監督不備は、別に記録する」
「監督不備」
「君は英雄席の当事者であり、帰還部隊の指揮官だ。婚約者席の演出が、遺族席、負傷兵導線、戦死者名の読み上げを侵した時点で、止めるべきだった」
「私は、そこまで式典に詳しくなく」
「詳しくないなら、式典局に従うべきだった」
アルバート様の唇が止まる。
その言葉は、逃げ道を残さなかった。
「君は、リディア・フォルスターの助言を退けた。式典局の反対を演出上の変更として押し切った。イレーネ・フォルスターの判断を、婚約者席の権限として扱った」
「……はい」
「結果、自分の部下の名が省かれかけた」
アルバート様の顔が、そこで本当に歪んだ。
広場で遺族席を見た時よりも、深い痛みが浮かぶ。
「私は」
彼は声を絞った。
「本当に、そのようなつもりではありませんでした」
「つもりは、死者の家族には届かない」
「はい」
「君に命じる」
カシアン閣下は、手元の書類を一枚開いた。
「第一に、凱旋式監督不備に関する軍務報告書を提出せよ。第二に、遺族代表十二家へ、グランヴィル侯爵家と君自身の名で正式謝罪を行え。ただし、式典局の立会いなく私的訪問は認めない」
「私的訪問を、認めない?」
「謝罪を、君の許しを得る場に変えるなということだ」
アルバート様は、言葉を失った。
私はその横顔を見て、少しだけ胸が痛んだ。
彼は悪人ではない。
だが、悪人でないことは、誰かを傷つけなかった証明にはならない。
「第三に」
カシアン閣下は続けた。
「今後一年間、君は王国軍主催式典における代表挨拶、英雄席演出、後援者席の推薦権を停止する」
「一年間……」
「戦場での指揮能力と、式典での責任能力は別だ」
「はい」
「戦場で英雄であっても、遺族の前で英雄でいられるかは別だ」
部屋の中で、記録官のペンだけが動いていた。
その音が、やけに大きく聞こえる。
アルバート様は、やがて深く頭を下げた。
「処分を、受け入れます」
「よろしい」
カシアン閣下は短く答えた。
「それから、グランヴィル侯爵家とフォルスター侯爵家の間で進められている、イレーネ・フォルスターとの婚約協議については、軍として口を出す立場にない」
イレーネが一瞬だけ顔を上げた。
だが、次の言葉でその希望は消えた。
「ただし、王国軍主催式典で本日の不備を起こした両名として、社交上の推薦状は出さない。グランヴィル侯爵家がどう判断するかは、家の問題だ」
「……父は」
アルバート様の声は苦かった。
「すでに、婚約協議を凍結すると言っています」
「妥当だな」
カシアン閣下は、それ以上言わなかった。
その短さが、かえって厳しかった。
聴取が終わったのは、夕刻近くだった。
窓の外では、王都の広場から外された旗が、荷馬車に積まれている。
凱旋式のために飾られた花の一部は、遺族席へ届けられることになったらしい。
勝利のためではなく、呼ばれた名のために。
私は聴取室を出た。
廊下へ出ると、足元が少しふらついた。
自分では落ち着いていたつもりだった。
けれど、身体は緊張していたのだろう。
壁に手をつきかけたところで、低い声がした。
「無理をするな」
振り向くと、カシアン閣下が少し離れた場所に立っていた。
近すぎない距離。
手を貸すには遠い。
けれど、倒れればすぐ届く距離だった。
「失礼いたしました」
「謝ることではない」
「今日は、少し疲れました」
「当然だ」
即答だった。
私は小さく笑ってしまった。
「そう言われると、少し楽です」
「なら、言ってよかった」
「閣下は、慰めがお上手なのか下手なのか、分かりませんね」
「慰めたつもりはない」
「では、下手です」
「そうか」
カシアン閣下は、真面目に頷いた。
その反応があまりにも真面目で、また少し笑ってしまった。
今日、初めて自然に笑った気がした。
「リディア・フォルスター」
カシアン閣下が、改めて私の名を呼んだ。
「はい」
「王国軍式典監理室で働く気はあるか」
私はすぐに返事ができなかった。
軍務式典局。
式典監理室。
似た響きだが、意味は違うのだろう。
そう思っていると、カシアン閣下が続けた。
「式典局は、式を運営する部署だ。監理室は、総司令部直轄で式典の基準、遺族接遇、負傷兵導線、名簿確認、慰霊式の監査を行う。人手が足りない」
「なぜ、私なのでしょう」
「今日の帰還追悼礼への切り替えは、君が出した」
「閣下が採用なさっただけです」
「採用できる形で出したのが重要だ」
第三話から何度も聞いたような短い言葉。
けれど今は、その意味が前より少し分かる。
「君は、凱旋式を無理に成功したことにはしなかった」
カシアン閣下は言った。
「失敗は失敗として残し、その上で、遺族と兵を広場から見捨てなかった」
「それは」
「それができる人間は多くない」
静かな声だった。
同情ではない。
慰めでもない。
能力を見たうえでの評価だった。
「君は英雄の隣に立たされていた」
彼は続ける。
「だが、本来は英雄を飾る側ではない」
胸の奥が、ゆっくり熱くなった。
白いマントをまとうこと。
英雄の隣に立つこと。
民衆の前で微笑むこと。
私はそれらを嫌っていたわけではない。
ただ、それだけで見られるのが苦しかった。
その下にある遺族の席も、負傷兵の道も、名前を呼ぶ順番も、全部含めて見てほしかった。
「君は英雄を飾っていたのではない」
カシアン閣下は言った。
「英雄が英雄でいられる場所を守っていた」
私は、すぐには返事ができなかった。
その言葉が、胸の奥の深いところへ落ちた。
誰かにそう言ってほしかったのだと思う。
たぶん、ずっと。
「正式な役目でしょうか」
ようやく、私は訊いた。
「侯爵家の娘だから手伝う、ではなく」
「正式な役目だ」
閣下は即答した。
「任期、権限、報酬を文書にする。君の家にも、式典局にも、総司令部にも写しを出す」
「私を、婚約を解消された令嬢として保護するためではなく」
「違う」
また即答だった。
「使えるから呼ぶ」
「……ずいぶん率直でいらっしゃいますね」
「嫌か」
「いいえ」
私は少しだけ笑った。
「かなり、ありがたいです」
「なら、よかった」
「ただし、条件があります」
「言え」
「第一に、私の職務範囲を文書で明確にしてください。遺族接遇、名簿確認、導線監理、慰霊式準備。どこまで判断でき、どこから上申するのか」
「当然だ」
「第二に、報酬を明記してください。侯爵家の娘だから無償で手伝う、という形にはしないでください」
「当然だ」
「第三に、フォルスター侯爵家、グランヴィル侯爵家、アルバート様、イレーネのいずれからも、私の勤務に口を出せないようにしてください」
「当然だ」
あまりに早い返事だった。
私は少しだけ目を瞬く。
「考えなくてよろしいのですか」
「考えるまでもない。正式に雇うなら、正式に守る」
「……そうですか」
「ほかには」
私は少し考えた。
「第四に」
「あるのか」
「あります」
私は、まっすぐカシアン閣下を見る。
「私を、誰かの代わりとして扱わないでください」
廊下が静かだった。
遠くで、記録官が紙を束ねる音がする。
カシアン閣下は、私から目を逸らさずに答えた。
「君は代わりではない」
「はい」
「王国軍式典監理室に、リディア・フォルスターが必要だから呼ぶ」
その言葉は、短かった。
けれど十分だった。
「お返事は、明日の午前でもよろしいでしょうか」
「ああ」
「今日ではなく?」
「君は今日、崩れた凱旋式を見た。返事は一晩置いた方がいい」
「お気遣いですか」
「手順だ」
その返しがあまりにも真面目で、私はまた笑ってしまった。
手順。
そう言われる方が、私にはずっと分かりやすい。
「では、明日の午前に」
「待っている」
カシアン閣下は短く答えた。
その短さが、ひどくありがたかった。
軍務式典局の玄関広間へ出ると、アルバート様が待っていた。
イレーネはいない。
おそらく、先に父の馬車で帰されたのだろう。
アルバート様は私を見ると、一歩だけ近づいてきた。
けれど、すぐに足を止めた。
今日の聴取で、私的な弁明をする場ではないと告げられたばかりだからだ。
「リディア」
それでも、彼は私の名を呼んだ。
声は弱かった。
「はい」
「私は、君がそこまで見ていたとは知らなかった」
「そうでしょうね」
私は答えた。
「ご存じでしたら、婚約者席の変更をあのようには進めなかったでしょうから」
「……戻ってくれないか」
その言葉は、とても小さかった。
英雄らしくないほどに。
けれど、私の心は不思議なくらい動かなかった。
「戻る、とは」
「婚約者として。いや、せめて遺族への謝罪と、次の慰霊式だけでも」
「アルバート様」
私はまっすぐに彼を見る。
「あなたが今お望みなのは、私ではありません」
「何?」
「私が整えていた順番です」
アルバート様の顔色が変わった。
でも私は止めなかった。
「私自身を必要となさったわけではない。拍手が止まったから、拍手を戻すための手が必要になっただけです」
「そんなことは」
「ございます」
私ははっきりと言った。
「ですから、戻りません」
沈黙。
玄関広間の高い天井に、外の馬車の音だけが響く。
「私は、正式な役目のある場所へ参ります」
「カシアン閣下のところへか」
「王国軍式典監理室へ、です」
「……そうか」
アルバート様は、目を伏せた。
「君は、もう私の婚約者ではないのだな」
「はい」
「私は、遅すぎたのだな」
「はい」
残酷かもしれない。
けれど、曖昧にしない方がよいと思った。
アルバート様は、その答えを受け止めるように深く息を吐いた。
「謝罪は、式典局の立会いのもとで行う」
「それがよろしいと思います」
「君には」
「私は、遺族ではありません」
「リディア」
「謝るべき相手を、間違えないでください」
彼は何も言えなかった。
私は一礼し、玄関広間を出た。
外へ出ると、夕暮れの空が広がっていた。
王都の広場へ続く道には、まだ花びらが少し残っている。
凱旋式のために撒かれた花。
踏まれ、風に散り、石畳の隅に寄っている。
今日の式は、成功しなかった。
けれど、あの花の下に名が埋もれたままにはならなかった。
それだけは、よかった。
フォルスター侯爵家へ戻る馬車の中で、私は窓の外を見ていた。
白いマント。
英雄の隣。
民衆の拍手。
それらはもう、私のものではない。
けれど、胸の奥は不思議なくらい軽かった。
私は誰かを飾るためだけの人間ではなかった。
名を呼ばれるべき人の場所を守る。
その仕事を、初めて正式な名で呼ばれた。
翌朝、私は王国軍総司令部へ返書を出した。
お受けいたします、と。
ただし、昨日伝えた四つの条件を文書にすることを添えて。
昼前、返書が届いた。
カシアン・ヴァルク辺境公爵の署名入りだった。
条件を認める。
君は代わりではない。
名を呼ばれるべき者のために必要な人間として迎える。
私はその文を、しばらく見つめていた。
紙の上の文字は、飾り気がない。
けれど、必要なことはすべて書かれている。
任期。
権限。
報酬。
所属。
そして、私の名。
リディア・フォルスター。
王国軍式典監理室、臨時監理官補。
私はそっと息を吐いた。
婚約を失った令嬢としてではない。
気の毒な姉としてでもない。
必要な人間として、私の名がそこにあった。
白いマントは、もう私のものではない。
英雄の隣も、もう私の場所ではない。
でも、私はもう端に立つだけの招待客ではなかった。
次に軍旗が上がるとき。
私は王国軍式典監理室の徽章を胸につけて、その場に立つ。
誰かの隣を飾るためではなく。
名を呼ばれるべき人の場所を、きちんと守るために。
読んでいただきありがとうございます。
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