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第三話 凱旋式は、拍手より先に沈黙しました

 凱旋式の朝、王都の中央広場は、まだ静かだった。


 けれど、それは穏やかな静けさではない。


 人が多すぎて、全員が同じ音を待っている時の静けさだった。


 石畳の上には、王国軍旗が並んでいる。


 王城へ続く白い階段には、赤い絨毯が敷かれていた。


 その両脇には楽団。


 さらに外側には、花籠を持った子どもたち。


 民衆は広場の柵の向こうで、東境から帰ってきた兵たちを待っていた。


 勝った。


 砦は守られた。


 敵は退いた。


 その事実だけを見れば、今日は祝う日なのだろう。


 けれど、帰ってきた者がいるということは、帰らなかった者もいるということだ。


 凱旋式とは、その両方を王都の空の下へ置くための式だった。



 私は招待客の列の端に立っていた。


 婚約者席ではない。


 英雄婚約者席連絡員でもない。


 ただのフォルスター侯爵令嬢として、式典局から指定された場所に控えている。


 灰青色のドレスを選んだのは、正解だったと思う。


 白は、もう私の色ではない。


 少なくとも今日、白いマントをまとうのは妹だった。



「リディア嬢」



 低い声が、斜め後ろから届いた。


 振り向くと、黒に近い軍礼装の男性が立っていた。


 ヴァルク辺境公爵カシアン閣下。


 王国軍総司令官であり、今日の凱旋式全体の監督権限を持つ方だ。


 王都の社交場ではあまり見かけない。


 けれど、軍旗の下では誰よりも空気を支配する人だった。



「総司令官閣下」



 私は一礼した。



「今日は、ずいぶん端にいるのだな」


「婚約者席ではございませんので」


「そうか」



 カシアン閣下は、広場へ視線を戻した。



「君の返書は読んだ」


「式典局宛てのものですか」


「総司令部にも写しが回った」



 私は小さく頷く。


 当然といえば当然だった。


 凱旋式の連絡員変更は、式典局だけの話ではない。



「明確でよかった」



 カシアン閣下は言った。



「曖昧にしていれば、今日の責任も君に寄っただろう」


「責任が寄るのは、困ります」


「だろうな」



 短い返事だった。


 慰めでも、同情でもない。


 けれど、その短さが奇妙に楽だった。


 この方は、私を婚約を失った令嬢として見ているのではない。


 どこまで線を引いた人間なのかを見ている。



「フェイン夫人からの照会も届いた」



 閣下が続けた。


 私は一瞬だけ息を止める。



「そうですか」


「夫君の名が呼ばれるか、遺族席は正式案内どおりか、という照会だ」


「はい」


「式典局長が正式に回答した」



 私は少しだけ肩の力を抜いた。


 よかった。


 少なくとも、彼女の不安は正式な記録になった。



「君が書いたのか」


「いいえ」


「そうだろうな」



 閣下は短く答えた。



「君は書かない。だが、書く道は示す」


「それは、越権でしょうか」


「ぎりぎりだな」


「……申し訳ございません」


「責めていない」



 カシアン閣下は広場を見る。



「ぎりぎりの線を知っている者は、使える」


 使える。


 その言い方は、決して甘くなかった。


 でも、私は嫌ではなかった。


 同情よりずっとましだった。



「閣下は」



 私は小さく訊いた。



「今日の凱旋式が、無事に終わると思われますか」


「無事の意味による」


「そうですね」


「花と拍手だけなら、終わるだろう」



 カシアン閣下は言った。



「だが、名を呼ばなければ、凱旋式ではない」


 その声は低く、静かだった。


 怒鳴るより、ずっと重かった。


 私はそれ以上言えず、広場へ視線を戻した。




 最初に違和感を覚えたのは、遺族席の位置だった。


 本来、白い階段の前列に置かれるはずの席。


 そこには、黒い縁取りの小さな札と、白花が添えられる。


 戦死者の家族が座るための席だ。


 帰ってきた兵を、誰より先に見るための席でもある。


 だが今日は、その前に花籠を持った子どもたちが並んでいた。


 さらに、小さな旗持ちの列まで置かれている。


 椅子そのものは、前列と呼べなくもない場所にある。


 けれど、遺族の視界は花と旗で半分遮られていた。


 実質的に、後ろへ下げられている。



「前を塞いだな」



 カシアン閣下が、ほとんど独り言のように言った。



「はい」


「遺族席を下げたのと同じか」


「少なくとも、遺族の方々にはそう見えます」


「そうか」



 短い返事。


 その横顔に、怒りはまだ見えない。


 ただ、記録している顔だった。


 何が、誰によって、どのように崩されたのか。


 それを一つずつ見ている顔。



 遺族席の中に、マルグリット・フェイン夫人の姿があった。


 黒いヴェール。


 膝の上に置かれた白花。


 彼女はまっすぐ前を見ている。


 ただし、その視線の先には、英雄ではなく花籠の子どもたちの背中があった。


 子どもたちに罪はない。


 旗持ちにも罪はない。


 けれど、そこは彼らが最初に立つ場所ではなかった。



 次に、楽団が鳴った。


 明るい曲だった。


 勝利を称える曲としては間違いではない。


 けれど、凱旋式の冒頭には使わない。


 最初に鳴るべきは、帰還の低い行進曲だ。


 帰ってきた者が、自分だけが帰ってきたことを理解しながら歩ける、遅い曲。


 それがない。



「曲も変えたか」


「はい」


「誰の申請だ」


「おそらく、グランヴィル家側の歓迎演出です」


「式典局長は反対したはずだ」


「はい」


「後で聞く」



 その短い言葉だけで、少しだけ救われる気がした。


 見逃されるわけではない。


 なかったことにはならない。


 少なくとも、この方はそうするつもりがない。



 やがて、東門の向こうから兵たちの列が見えた。


 民衆の間から歓声が上がる。


 旗が揺れる。


 子どもたちが花籠を掲げる。


 先頭に立っていたのは、アルバート様だった。


 白銀の外套。


 胸には東境戦功章。


 戦から帰った若き英雄として、彼はたしかに見栄えがした。


 隣には、イレーネ。


 白いマント。


 けれど、その縁には規定より多い金刺繍が入っていた。


 肩には白花ではなく、勝利を示す赤いリボンが結ばれている。


 美しい。


 たしかに美しい。


 けれど、凱旋式の婚約者席としては違う。



「赤を足したな」



 カシアン閣下が言った。



「はい」


「どの程度まずい」


「意味を知らないと分かる程度には」


「なるほど」



 閣下は短く言った。



「分かりやすくまずいな」


「はい」



 分かりやすく、まずかった。


 白いマントは、勝利を飾る布ではない。


 戦場の埃を払って迎える布だ。


 帰ってきた者にも、帰らなかった者の家にも、同じ白花を届けるという誓いを示すものだった。


 そこに勝利の赤を足せば、意味は変わる。


 少なくとも、知っている者にはそう見える。



 行進は進んだ。


 アルバート様は民衆へ手を上げる。


 拍手が起きる。


 イレーネは白いマントを軽く押さえ、華やかに微笑む。


 表から見れば、成功しているように見えた。


 だからこそ、歪みがよく見える。



 負傷兵の列が、東門からではなく正面階段へ向けられていた。


 本来なら南側の緩い通路を使う。


 松葉杖の兵、片足を引きずる兵、肩を吊った兵。


 彼らを正面階段へ上げる必要はない。


 むしろ、上げてはいけない。


 けれど、今日の導線では、彼らが英雄の後ろを通って白い階段へ進む形になっていた。


 絵としては分かりやすい。


 英雄と、彼に続く負傷兵。


 だが、歩く本人たちには負担が大きすぎる。



 近衛士官の一人が、すぐに動いた。


 南側へ回すよう手で示す。


 しかし、グランヴィル家の旗持ちが、正面へ進むよう列へ合図していた。


 さらにアルバート様が、民衆へ向けた手を下ろさないまま、行進継続の合図を出してしまう。


 列は止まらなかった。



 松葉杖の兵が一人、段差の前で足を止めた。


 隣の兵が肩を貸す。


 彼らはどうにか上がったが、その間に列が詰まった。


 楽団が音を伸ばしてごまかす。


 民衆の一部は気づかない。


 でも兵は気づく。


 負傷して帰った自分たちの通り道が、誰にも考えられていなかったことに。



「正面階段を使わせたか」



 カシアン閣下の声が、少し低くなった。



「はい」


「君の資料では」


「南側の緩い通路でした」


「理由は」


「階段で足を痛める兵が出るからです」


「当然だな」


「当然です」



 私は思わず強く答えていた。


 カシアン閣下は、こちらを一度だけ見た。


 何も言わなかった。


 けれど、その沈黙の方が、言葉よりも重かった。



 負傷兵の列がようやく落ち着いたところで、白い階段の中央へアルバート様が立った。


 隣にイレーネ。


 二人の後ろには軍旗。


 前には民衆。


 花と音楽と拍手。


 ここだけを切り取れば、たしかに英雄の凱旋に見えた。


 でも、最前列にいるはずだった遺族たちは、花籠と旗の後ろでそれを見ていた。


 見えにくい場所から。


 邪魔にならない場所から。



 式典官が進み出る。


 その手には、正式な戦死者名簿があった。


 黒い革表紙の名簿。


 部隊番号順に、帰らなかった者の名が並ぶ。


 爵位順ではない。


 家の大きさでもない。


 戦場で同じ列に立った者たちを、同じ順で呼ぶための名簿だった。



 私は、そこで少しだけ息を吐いた。


 名簿はある。


 式典官もいる。


 ならば、まだぎりぎり崩れきってはいない。


 そう思った瞬間、イレーネが一歩前へ出た。


 白いマントの裾が、赤いリボンと一緒に揺れる。



「本日は、勇敢に戦われたすべての方々へ、心より感謝を捧げます」



 明るい声だった。


 広場によく通る、可愛らしい声。


 けれど私は、その瞬間に血の気が引いた。


 名を呼ぶ前に、まとめようとしている。



「まさか」



 私が呟くと、カシアン閣下がこちらを見る。



「何だ」


「戦死者名を、省くつもりです」


「全部か」


「おそらく」



 手の中にあった扇を、私は強く握った。



「一人ずつ呼ぶと場が沈むから、と言っていたと聞きました」


「……そうか」



 カシアン閣下の声は、ほとんど冷え切っていた。



 イレーネは続けた。



「帰られなかった方々の分まで、今日この場で、アルバート様の勝利を祝いましょう」



 広場が、少しだけ静まった。


 民衆のすべてが違和感を覚えたわけではない。


 けれど、遺族席は違った。


 花籠と旗の後ろへ置かれた遺族たちが、同時に息を止めるのが見えた。


 マルグリット・フェイン夫人の手が、白花を握りしめる。


 老いた母親らしい女性が、膝の上の手袋をぎゅっと掴む。


 父の古い軍帽を抱えた少年が、口を開きかけて閉じる。



 名前を待っていたのだ。


 自分の夫の名を。


 息子の名を。


 父の名を。


 王都の広場で、一度だけ呼ばれるはずだった名を。



 それが来なかった。



 式典官が、名簿を持ったまま固まっている。


 エルマー卿が脇から一歩出ようとした。


 だが、その前にマルグリット夫人が立ち上がった。


 誰にも文句を言わなかった。


 ただ静かに椅子から立ち、手にしていた白花を席の上へ置いた。


 次に、老いた母親が立つ。


 その後ろで、軍帽を抱えた少年が立つ。


 遺族席が、音もなく崩れていく。



 民衆の拍手が止まった。


 負傷兵の一人が、敬礼していた手を下ろした。


 もう一人も下ろす。


 さらに後ろの兵も。


 拍手も、楽団も、すべてが少しずつ遅れて歪んでいく。



「え……?」



 イレーネの声が、白い階段の上で小さく響いた。


 その声は、静まり返った広場では思いのほか遠くまで届いた。



「どうして」



 妹は周囲を見回した。


 民衆。


 兵士。


 負傷兵。


 遺族。


 全員が、同じものを見ている。


 白いマントをまとい、英雄の隣で微笑む美しい令嬢。


 けれど、帰らなかった者の名を呼ばなかった婚約者席。



「わ、わたくしは、明るくしようと」



 イレーネが言う。



「せっかくの凱旋式ですもの。暗い名の読み上げを長く続けるより、皆さまで勝利を祝った方が」


「それが、凱旋式を変えるということです」



 カシアン閣下が前へ出た。


 その一歩だけで、広場の空気が変わった。


 総司令官が動いたのだ。


 楽団が完全に止まる。


 近衛士官が背筋を伸ばす。


 式典官が名簿を抱え直す。


 アルバート様の顔から、ようやく血の気が引いていく。



「総司令官閣下」



 アルバート様が声を絞る。



「これは、イレーネが民を思って」


「アルバート・グランヴィル」



 カシアン閣下は、彼の言い訳を最後まで聞かなかった。



「君は、自分の部下の名を省かれて、それでも英雄として立つつもりか」



 広場が凍った。


 アルバート様の唇が動く。


 でも、声は出なかった。



「私は」



 彼はようやく言う。



「そのようなつもりでは」


「つもりは聞いていない」



 カシアン閣下は静かに告げた。



「結果を見ろ」



 その一言で、アルバート様は遺族席を見た。


 空き始めた椅子。


 置かれた白花。


 敬礼を下ろした負傷兵たち。


 止まった拍手。


 そこまで見て、ようやく彼の顔に、本当の意味での恐れが浮かんだ。



「違う」



 イレーネが小さく呟いた。



「わたくしは、ただ」


「白いマントを外せ」



 カシアン閣下が言った。


 妹の顔が真っ白になる。



「え」


「そのマントの意味を知らない者が、今それをまとい続けるな」


「ですが、わたくしは婚約者席で」


「席があっても、役目が務まるとは限らない」



 その言葉は、鋭かった。


 イレーネは泣きそうな顔でアルバート様を見る。


 アルバート様は何か言おうとして、言えなかった。


 近くにいた女官が進み出て、妹の肩から白いマントを外す。


 金刺繍の縁が、広場の光を受けてきらめいた。


 美しかった。


 けれど、ただ美しいだけだった。



 カシアン閣下は次に、式典官へ視線を向ける。



「名簿は」


「正式名簿を用意しております」



 式典官が即座に答える。


 声は震えていたが、手は名簿をしっかり抱えていた。


 エルマー卿も、その横へ進み出る。



「部隊順名簿、遺族照会記録、負傷兵導線図、すべて式典局にございます」


「よろしい」



 カシアン閣下は頷いた。


 それから、こちらを向いた。


 私の方へ。


 招待客の列の端にいる、ただの侯爵令嬢である私へ。



「リディア・フォルスター」



 名を呼ばれた瞬間、背筋が伸びた。



「はい」


「君は、登録変更前まで英雄婚約者席連絡員だったな」


「はい」


「遺族席、献花順、負傷兵導線、戦死者名の読み上げ順を組んでいた」


「はい」


「今は役目を外れている」


「はい」



 私は、ひとつずつ答えた。


 今の私には、勝手に動く権限がない。


 それは何度も確認したことだった。


 そしてカシアン閣下は、それを分かったうえで私の名を呼んでいる。



「では、総司令官として問う」



 広場の全員が、こちらを見る。


 イレーネも。


 アルバート様も。


 フェイン夫人も。


 負傷兵たちも。


 そして、名を待っていた人たちも。



「この場を、完全な凱旋式として成立させる方法はあるか」



 問いは静かだった。


 けれど、逃げ道のない問いだった。


 私は白い階段を見る。


 花籠の前で止まった遺族。


 正面階段で足を痛めかけた負傷兵。


 まだ呼ばれていない名簿。


 外された白いマント。


 止まった拍手。


 沈黙した広場。



 答えは、ひとつしかなかった。


 私は息を吸った。

読んでいただきありがとうございます。

続きは明日18:10と19:10に投稿予定です。


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