第二話 私は婚約者ではないので、遺族席には触れません
翌朝、軍務式典局から封書が届いた。
フォルスター侯爵家の応接室でそれを受け取ったとき、私はまだ朝の紅茶を半分も飲んでいなかった。
封蝋には、王国軍式典局の印。
差出人は、式典局長エルマー・ローヴェン卿。
内容は、予想していたものだった。
アルバート・グランヴィル様との婚約解消手続きが両家で開始されたこと。
凱旋式における英雄婚約者席連絡員を、リディア・フォルスターからイレーネ・フォルスターへ変更する申請があったこと。
変更後、リディア・フォルスターが凱旋式の準備に関与するか否かについて、本人の意思を正式に確認したいということ。
私は読み終えたあと、少しだけ息を吐いた。
丁寧な文面だった。
そして、必要な文面だった。
婚約者席は、ただ隣に立つための飾り席ではない。
王国軍式典局に登録された連絡員が、遺族席、負傷兵導線、献花順、戦死者名の読み上げ順を確認するための窓口でもある。
それが変わるなら、責任も変わる。
誰が何を知り、誰が何を知らなかったのか。
そこを曖昧にしたまま凱旋式を迎えてはいけない。
「お嬢様」
侍女のセラが、少しだけ不安そうに私を見た。
「お返事は、いかがなさいますか」
「書くわ」
私は便箋を引き寄せた。
ペン先にインクを含ませ、しばらく白い紙を見る。
アルバート・グランヴィル様との婚約解消、および凱旋式における英雄婚約者席連絡員の変更について、確認いたしました。
今後の凱旋式に関する確認は、新たに登録されるイレーネ・フォルスターへお願いいたします。
私リディア・フォルスターは、王国軍式典局または総司令部より正式な命令なき限り、凱旋式の準備に関与いたしません。
そこまで書いて、私は一度手を止めた。
冷たい文面だと思った。
でも、必要な冷たさでもあった。
情で濁せば、また同じことになる。
白いマントは妹がまとう。
英雄の隣も妹が立つ。
けれど、遺族席も、負傷兵の通り道も、帰らなかった人の名も、見えない部分だけは私が整える。
それでは、何も譲ったことにならない。
「お嬢様」
セラが、今度は少し声を落として言った。
「本当に、何もなさらないのですか」
「ええ」
「ですが、凱旋式です。失敗すれば、兵の方々も、遺族の方々も」
「分かっているわ」
私は静かに答えた。
「だからこそ、正式な命令なしには動かないの」
セラは黙った。
分かっているのだろう。
でも、納得しきれない顔だった。
私も同じだった。
正しいことをしていると思う。
けれど、胸の奥が痛まないわけではない。
「私はもう、婚約者ではないのよ」
私は便箋を封じた。
「婚約者ではない女が、婚約者席の準備だけを続ける方が、よほど遺族の方々に失礼だわ」
「……はい」
セラは深く頭を下げた。
私は封蝋を押し、使いへ持たせた。
その赤い蝋が固まるまで、指先が少しだけ冷たかった。
昼前、父に呼ばれた。
フォルスター侯爵家の書斎は、昔から少し暗い。
厚い緑のカーテンと、重い樫の机。
父はその向こうに座り、私が送った返書の控えを手にしていた。
「リディア」
父は渋い顔で言った。
「少し、角が立つのではないか」
「何がでしょう」
「正式な命令なき限り関与しない、というところだ」
「必要な一文です」
「だが、相手は王国軍式典局だ。あまり冷たく突き放すのも」
「突き放しているのではありません」
私は父を見る。
「責任の所在を明確にしているだけです」
「責任、か」
「はい」
私は頷いた。
「白いマントをまとうのはイレーネです。婚約者席へ立つのもイレーネです。であれば、式典局からの確認を受けるのもイレーネでなければなりません」
「姉として助けてもよいだろう」
「助けるなら、姉としてではなく、正式な補佐としてです」
父の眉が寄った。
昔なら、ここで私は少し言い方を和らげただろう。
でも今日は、それをしなかった。
「お前は最近、ずいぶん頑なだな」
「頑なではありません」
私は言った。
「ようやく、普通の線を引いているだけです」
父はすぐには答えなかった。
たぶん、まだ分かっていない。
この家でも、私はずっと同じだった。
妹が困れば姉が支える。
家が困れば長女が整える。
誰かが華やかな場所へ立つために、私はその足元を見ていた。
それを家族は、当然だと思っていたのだ。
「イレーネは」
父が少しだけ声を落とす。
「まだ若い」
「私と二つしか違いません」
「華やかな場には向いている」
「そうですね」
私は静かに答えた。
「ただ、凱旋式は華やかな場だけではありません」
「分かっている」
「でしたら、本人にも分かっていただく必要があります」
父はまた黙った。
私は一礼し、書斎を出た。
廊下へ出ると、窓の外から馬車の音が聞こえた。
王都の道は、凱旋式のために少しずつ整えられている。
旗。
花台。
仮設の観覧柵。
見えるものは、どんどん華やかになっていく。
だからこそ、見えないものが軽く扱われる。
その危うさを、私は知っていた。
午後、エルマー卿が訪ねてきた。
式典局長が侯爵家へ直接来るのは、珍しいことだった。
玄関広間で迎えた父は少し驚いていたが、エルマー卿は礼を尽くしたうえで、私へ向き直った。
「リディア嬢。少しだけ確認を」
「正式な確認でしょうか」
「はい。式典局長としての確認です」
「では、お受けします」
父が何か言いかけたが、私は先に応接室へ案内した。
ここで曖昧にしてはいけない。
私的な相談ではない。
正式な確認。
その形を取るなら、話せることはある。
エルマー卿は席につくと、まず一通の写しを出した。
昨日、私が渡した引き継ぎ書の受領記録だった。
「あなたが登録変更前に提出した資料は、式典局で正式に受領しています。今後、式典局内で使用してよろしいですね」
「もちろんです」
「新たな判断をあなたへ求めるものではありません」
「分かっています」
「それを先に言っておきたかった」
エルマー卿は、少し疲れた顔で言った。
その疲れ方が、妙に現場の人間らしかった。
「局長」
私は訊いた。
「何が起きていますか」
「いくつか」
彼は指を折る。
「イレーネ嬢は、本日午前の遺族代表への事前挨拶を欠席されました」
「理由は」
「白いマントの飾り合わせです」
「そうですか」
胸の奥が、少しだけ沈んだ。
驚きはなかった。
でも、沈む。
「次に、遺族席を一列後ろへ下げる案が出ています」
「誰から」
「イレーネ嬢です。前列に花を持つ子どもたちを置いた方が、明るく見えると」
「……式典局は」
「反対しました」
エルマー卿は即答した。
「ただし、婚約者席周辺の演出として出されると、功績者家門側の要望でもあります。最終的には総司令官閣下の判断へ上げる必要があります」
「分かりました」
「さらに、戦死者名の読み上げを短縮したいという申し出もあります」
「短縮」
「全員の名を呼ぶと場が沈むため、『勇敢に戦われたすべての方々へ』という代表文にまとめたい、と」
私は思わず目を閉じた。
遺族席を下げる。
名を省く。
負傷兵の導線を飾りのために変える。
全部、彼女がしそうなことだった。
そして全部、してはいけないことだった。
「リディア嬢」
エルマー卿の声が、少しだけ低くなる。
「あなたに新たな判断を求めるつもりはありません」
「はい」
「ただ、昨日まであなたが担当者として作成した引き継ぎ資料の中に、反対理由はありますか」
「あります」
私は答えた。
「遺族席を最前列に置く理由は、白い紐の束の二枚目。戦死者名を部隊順に読む理由は、黒い紐の束の最初。負傷兵導線は赤い紐の導線図に、正面階段を使えない理由まで書いてあります」
「それを、式典局の正式資料として引用してよろしいですか」
「はい」
私はまっすぐ頷いた。
「登録解除前に提出した資料です。式典局で正式に受領されたのであれば、ご自由にお使いください」
「助かります」
「ただし」
私は言った。
「今日以降の新しい判断は、私のものではありません」
「承知しています」
「イレーネが資料を読まず、稽古を欠席し、遺族席を下げようとしている。その責任は、私にはありません」
「その点も、記録します」
エルマー卿はすぐに答えた。
その早さに、胸の奥の硬さが少しだけゆるむ。
この人は分かっている。
式典局は無能ではない。
ただ、英雄家門と婚約者席の見栄えに関する要求が、軍式典の本体を侵し始めている。
そこをどこで止めるか。
今は、その線を引く作業をしているのだ。
「局長」
「はい」
「総司令官閣下は、ご存じですか」
「今日の夕刻、すべて報告します」
「そうですか」
「閣下は甘くありません」
エルマー卿は短く言った。
「軍の式を、私的な祝勝会に変えることはお許しにならないでしょう」
その言葉は、少しだけ救いだった。
私は一礼する。
「では、私はこれ以上申し上げません」
「はい」
エルマー卿は立ち上がった。
「リディア嬢」
「何でしょう」
「何もしないことも、時には難しい任務です」
思わず顔を上げた。
彼は少しだけ疲れた目で笑った。
「あなたは今、それをしている」
「褒められているのでしょうか」
「おそらく」
「曖昧ですね」
「文官ですので」
その返しに、少しだけ笑ってしまった。
エルマー卿はもう一度礼をし、応接室を出ていった。
私はしばらく、その扉を見ていた。
何もしない。
それが、今の私に残された役目。
けれどそれは、ただ見捨てることとは少し違うのだと思いたかった。
夕方、黒いヴェールの女性が訪ねてきた。
玄関番から名を聞いた瞬間、私は胸の奥が小さく鳴るのを感じた。
マルグリット・フェイン夫人。
東境戦役で夫を亡くした遺族代表の一人。
本来なら、凱旋式当日に最前列へ座る予定の方だった。
「リディア様」
彼女は応接室へ入るなり、深く礼をした。
まだ若い。
けれど、黒いヴェールの奥の目は、年齢よりずっと静かだった。
「突然の訪問、お許しください」
「お座りください、フェイン夫人」
「いえ、長くは」
彼女は小さく首を振った。
「今日、式典局から事前挨拶の日程変更の連絡がありました。その後、遺族席が変わるかもしれないと聞きました」
私は黙って聞いた。
ここで、私が知っていることを口にしてはいけない。
けれど、知らないふりをするには、彼女の声はあまりにも静かだった。
「夫の名は」
フェイン夫人は言った。
「明後日、呼ばれるのでしょうか」
その問いは、ひどく重かった。
泣き叫ぶよりも。
怒るよりも。
ただ静かに名を問われることの方が、胸に刺さる。
「フェイン夫人」
私はゆっくり口を開いた。
「申し訳ございません。私は、凱旋式の婚約者席連絡員を外れました」
「存じています」
「ですから、今の私には、式典内容について確約する権限がありません」
「はい」
「けれど」
私は言葉を選ぶ。
「あなたのご不安は、式典局へ正式な照会として出すべきです。私宛てではなく、式典局長宛てに」
「照会」
「はい」
私は机の端から白紙を一枚取った。
ただし、書くのは私ではない。
紙を彼女の前へ置くだけにした。
「夫の名が読み上げられる予定であることを確認したい。遺族代表席の位置について、正式な案内を求めたい。そう書いてください」
「リディア様が、書いてくださるわけでは」
「書けません」
私ははっきり答えた。
「私が書けば、私の働きかけになります。けれど、あなたが遺族として尋ねるなら、それは正式な照会です」
フェイン夫人は、しばらく紙を見ていた。
それから、小さく頷く。
「分かりました」
「書き終えたら、式典局へ直接届けてください」
「はい」
「そして、もし明後日、あなたの席が後ろへ下げられていたら」
私は一度だけ息を吸った。
「それは、あなたの夫君の名が軽いからではありません」
フェイン夫人の指が、紙の端をぎゅっと握った。
私は続ける。
「誰かが、その意味を知らなかっただけです」
「……ありがとうございます」
彼女の声が、少しだけ震えた。
でも涙はこぼさなかった。
彼女はその場で短い照会を書き、封をした。
私は封蝋も押さなかった。
差出人は、フェイン夫人。
宛先は、式典局長エルマー卿。
それでいい。
それが正しい。
フェイン夫人が帰ったあと、私はしばらく席から立てなかった。
胸が痛かった。
助けたのではない。
ただ、正式な道を示しただけだ。
それでも、少しだけ線を越えたのではないかと、自分へ問いかける。
いいえ。
私は心の中で答えた。
私は式を整えてはいない。
席を動かしてもいない。
名簿を直してもいない。
ただ、遺族が自分の名で不安を届ける道を示した。
それは、今の私に許されるぎりぎりのことだった。
夜になって、イレーネが私の部屋へ来た。
ノックの音は軽かった。
入ってきた彼女は、白い布を腕に抱えている。
凱旋式用のマントだろう。
縁には、まだ仮留めの金糸がついていた。
「お姉様」
妹は、少しだけ甘えるような声で言った。
「少しだけ教えてくださらない?」
「何を」
「遺族席のことですわ」
私は机の上に置いていた本を閉じた。
「式典局へ確認して」
「でも、お姉様の方が早いでしょう?」
「早いかどうかの問題ではないわ」
「意地悪ですのね」
イレーネは唇を尖らせた。
「少し教えてくださるだけでいいのに」
「昨日、革箱ごと渡したわ」
「あれは細かすぎます」
「細かくしなければならないから、細かいのよ」
「お姉様はいつもそう」
妹は、白いマントを胸元へ抱きしめる。
「大事なものを、自分だけが分かっているみたいな顔をする」
「違うわ」
「違わないわ。遺族席だって、戦死者の名だって、負傷兵の通り道だって。そんな暗いことばかり言って、わたくしが華やかにしようとすると怒るのですもの」
「私は怒っていない」
「では、どうして教えてくださらないの?」
「あなたが選ばれたからよ」
イレーネが目を瞬いた。
私は静かに続ける。
「あなたは、英雄の隣に立つ役を選んだ。アルバート様もあなたを選んだ。なら、あなたが式典局に聞き、あなたが資料を読み、あなたが遺族の前へ立つべきなの」
「でも」
「それをしないなら、あなたが欲しかったのは役ではなく、姿だけということになるわ」
妹の顔が赤くなった。
怒りと、恥と、たぶん少しの不安。
「お姉様は、わたくしに恥をかかせたいのね」
「いいえ」
「嘘です」
「イレーネ」
私は立ち上がった。
「凱旋式で恥をかくのは、あなた一人では済まないの」
妹の唇が止まる。
私は彼女が抱える白いマントを見る。
「あなたが遺族席を間違えれば、傷つくのは遺族よ。戦死者の名を省けば、失われるのはその家族が待っていた一度きりの場よ。負傷兵の導線を間違えれば、痛むのは兵の足よ」
「そんなに大げさに」
「大げさで済むうちに、読んで」
私は言った。
「昨日渡したものを」
イレーネは何も言わなかった。
白いマントの金糸が、灯りを受けてきらりと光る。
美しかった。
けれど、その美しさは今、ひどく軽く見えた。
「……もういいですわ」
妹は小さく言った。
「式典局の方々に聞きます」
「そうして」
「でも、お姉様が何も教えてくださらなかったことは、覚えていますから」
「ええ」
私は頷いた。
「私も、あなたが何を読まなかったのか覚えておくわ」
イレーネは顔を歪め、部屋を出ていった。
扉が閉まる音は、思ったより強かった。
私はその音を聞きながら、椅子へ座り直す。
手が少しだけ震えていた。
妹に言い返したからではない。
自分が本当に、戻らない場所まで来たのだと分かったからだ。
凱旋式の前夜。
王都の空には、低い太鼓の音が響いていた。
軍楽隊の最終稽古だろう。
遠くから、旗竿を立てる音も聞こえる。
民は明日、英雄を見る。
白いマントを見る。
花と楽団と、勝利の列を見る。
その華やかさの下に、どれだけの名が眠っているかを、全員が知っているわけではない。
でも、遺族は知っている。
負傷兵は知っている。
帰ってきた者たちは知っている。
私は窓を閉めた。
机の上には、何も置いていない。
凱旋式の資料も。
導線図も。
名簿も。
すべて、もう私の手元にはない。
明日、何が起きても、私は招待客として見るだけだ。
そう決めた。
そう書いた。
そう記録された。
それでも、眠る前に胸の奥で一つだけ祈った。
どうか、名を待つ人たちの前で、名が失われませんように。
けれど、その祈りを式に変える役目は、もう私のものではなかった。
面白ければ、ブックマークや評価で応援いただけると嬉しいです。




