7.夜の街
カンレルはふたつ返事で加勢を約束してくれた。
「参加するっきゃないだろ。試験からトンズラこけるし、喧嘩ができる。それになにより、女を使って人殺しをさせるやつは許しちゃならん。鉄拳制裁が必要だ」
「相手はプロの殺し屋たちになると思う。本当にいいのか?」
「しつこいぞ、クルト。行くと決めたら、おれは逃げねえ。だいたい心配してやるべきはやつらのほうであって、おれじゃない」
そう言ってニッと笑うと、シュッシュと息を切りながら宙に拳をふるう。右、左、右。癒光をまとう。
「そういうクルトこそ、いいのかよ? 入学してからお前が殴り合いの喧嘩をするのを見たことがない」
「おれも自分でどうかしてると思う。どうかしてると思うけど、どうにかしたい思いが強くて、アタマがおかしくなりそうなんだ」
「義を見て、せざるはナンチャラなりっていうもんな。それより――」
と、エルテを見下ろす。
中庭から出た廊下の長椅子に座っている彼女は後ろ手に縛られてるものの、目が覚めていて、表情もまた冷めている。
「無駄ですよ……」
と、いつものささやくような声で言う。
「なにが?」
「わたしは任務に失敗しました……。処刑されます……」
「へー。ふんふん」
「あなたたちはがギルドにかなうわけは思えません……」
クルトがたずねる。「そのギルドはどこにある。王都か?」
「それは――」
「やつらはきみを殺すし、邪魔をしたおれも狙うだろう。ギルドは王都にあるのか」
エルテがクルトを見上げた。
表情はない。ただ、ほんのわずかに黒い瞳が潤んだ気がした。
それが希望と呼べるならば、戦おう。
クラウディオだったころの誓いだ。
「……」
しばらくして、こくん、とエルテはうなずいた。
「ロマリ地区です。貴婦人通り」
学校教師はその名をきいて顔をゆがめる。
ロマリ地区というのはそういう場所だった。
酒場と賭博場と売春宿。飲んで打って買うための地区。
夜になれば、狭い街路に調子っぱずれな唄。バタつくスイングドアの向こうからカボチャ色の怪しげなもやが流れ出る。路上では石畳でとろける獣脂蝋燭を男たちが囲み、色あせたカードを並べてはめくり、一喜一憂しながら小銭をやり取りしていた。
そして、喧嘩。技の下手なスリの指が叩き折られ、酒場でナイフを取り出した酔っ払いを用心棒がこん棒でぶん殴って外に放り出し、こん棒の刻みがひとつ増える。
「カンレルのための天国だな」
「ほんとにそうだ」と、カンレル。「喧嘩のタネがそこいらじゅうにまかれてる。どいつもこいつも人を刺したことがありそうな懲役面ばかりじゃねえか」
カンレルはロマリ地区に来たことがなかった。学業に忙しくて、ここに来るヒマがなかったのだ。勉強は苦手だし、隙あらばさぼろうとするが、なんだかんだで根が真面目なのか、学科の提出物やら抜き打ち試験やらはギリギリで通っていた。もちろん、その裏側ではクルトの献身的な貢献があったのだが。
もちろん学校はロマリ地区へ足を踏み入れることを禁止している。バレたら、大目玉を食らうが、これはクルトとカンレルが言うところの緊急事態であり、ふたりは涙を呑んで、校則違反をすることにした。
「困るのはよ」と、カンレルが頭をふる。「暗殺者ギルドの連中が手ぶらでまったく抵抗しなかったときのことよ」
エルテがあきれる。「そんなことがあるわけないです……。向こうは素人が相手だろうが、暗殺術の粋を尽くして、本気で殺しに来ます……」
「そうであることを祈るぜ。だって、相手がまったく抵抗する気がなかったら、こっちは一発も殴れねえ」
「……どうしてですか?」
「弱いものいじめになっちまう」
「……は?」
「お前もクルトもおれのこと、ただの喧嘩バカだと思ってるんだろうが――」
「そうじゃないのか?」
「違うに決まってるだろ! おれはちゃんとルールをもうけてる。流儀ってやつだ。流儀のない喧嘩はただの戦争だ」
ふと、クラウディオだったときの、〈門〉をめぐる戦争を思い出した。無軌道な殺し合いの日々。胸の奥がジクッと痛んだ。
「なあ、カンレル。二年からは哲学の授業が始まるそうだけど、お前、哲学の試験で学年一位がとれるかもな」
「お世辞言っても、セロリしか出ないぞ」
貴婦人通りに着くと、カンレルがセロリを食べる手を止めて、にやりと笑う。
「これが貴婦人なら、おれのおふくろは女神さまだぜ」
貴婦人通りはロマリ地区でも最も騒がしく、最も悪徳だった。それにひどく不衛生だ。道の真ん中に泥水の溝があり、酒場や家から流れる排水が底に集まっている。オレンジの皮がひとつ、溝の石に引っかかっていた。石壁によりかかるボロ布つくりの料理屋からはさんざんタラやら羊肉やらを揚げるのに使われたくたびれた油が流れてきて、溝の水をより吐き気をもよおす代物に変えていた。
貴婦人通りの名はこの街路が売春宿の集まりだったからだ。割れた窓ガラスを油紙で塞ぐ、ボロボロの小屋もあれば、緑樹の庭と車まわしのある高級娼館もある。どこの売春宿にも属さない娼婦たちは酔っ払った魚屋や空き巣、挙句の果ては彼女たちを取り締まるはずの夜警まで自分たちの部屋に引きずり込む。
おもちゃの果物を飾った帽子の娼婦がクルトにしなだりかかろうとするように言い寄ってきた。
「あら、かわいい。ぼく? 筆おろしはお済み?」
こたえを曖昧にしつつ、カンレルにたずねる。
「筆おろしってどういう意味だ?」
「そりゃあ、ほら、筆をおろす。つまり、筆をおいて、ちょっと勉強をひと休みするって意味だ」
「なんで、娼婦がおれたちの勉強のことを気にする?」
「会話の糸口ってやつだよ」
クルトは言った。
「おれたち、もう、筆はおろしている。おろしてから来た」
「おれたちって……ふたりで筆おろししたってこと?」
「そうだ。おれたち以外、誰がやるんだ?」
娼婦は驚き、瞬きし、カンレルの巨体を見上げて、帽子の果物が落ちかけた。
「まあ、なんていうか……あんたたち、まだ若いのに、ずいぶんな極めた趣味してるわねえ」
……ぷっ。――ちなみにエルテは〈筆おろし〉の意味を知っている。
娼婦たちの噂話はクルトたちの歩く速度よりもずっと速く、娼婦たちは誰ひとり、クルトたちに絡んで来なくなった。
貴族の音楽堂だったアーケードの下に二階建ての白粘土壁のキセル窟が立ち並び、ねばっこく白い煙が屋根に開いた斜めの穴から流れ出ている。空気よりも重いその煙はするすると壁にそって流れ落ち、その煙は薬学の授業で嗅いだキロッパのにおいを思い出させた。
キロッパは宝珠草の種をすり潰し、煮立たせてつくる薬の一種で、世のなかではもっぱら気分を高揚させるために用いられている。ところが、キロッパをキセルに詰めて吸うと、気持ちよくなれるが、効能が切れると不安感と骨が軋むような激痛に襲われる。それから逃れるにはまたキロッパを吸うしかない……。
キセル窟から出てくる人間のは、たいていがガリガリに痩せていて、目が血走っていて、小刻みにふるえながら、五歩歩いては一歩振り向く。キロッパの副作用のひとつに、常に自分の背後に殺人鬼がいるような不安症状がある。
「なあ、クルト。どいつもこいつも、ビンタ一発食らったら、バラバラになっちまうぜ? 喧嘩できる体を捨てるほどの価値がキロッパにあるのかねえ」
「ブラットケ先生が言ってただろ。キロッパを吸い込むと、魔王を倒した瞬間の百倍の快楽がやってくる。それじゃ勇者だって中毒になる」
「そんな薬。なんで作っちまったんだ?」
「鎮痛剤になるんだよ。即効性があるから、痛みで悶絶して、傷がさらに広がるのを防げる」
「へー、そうなんだ」
「言っておくが、これは今日の勉強でやったことだぞ」
ぴたり、とエルテが立ち止まる。
「どうした?」
「どうせ死ぬんですから、お肉を食べたいです……」
「お肉ぅ~?」
「分厚くて、脂がのっていて、熱い肉汁がたっぷりかけてあれば、何でもいいです……」
クルトが言った。「それは何でもいいとは言わない」
カンレルが、口のなかをシャクシャクと鳴らしながら言う。「セロリなら持ってるぞ。おれの携帯食」
「セロリはお肉ではありません……」
「そもそも、このあたりできちんとした肉を食べさせる店があるのか? このあたりの店はどれも『うちは人肉は使っていません』の札を立てている」
「そのことなら心配いりません……。いい店を知っています……」
「ダメだダメだ。肉なんか食ってる場合じゃねえだろ? 殺し屋たちがおれにぶん殴られるのを待ってるんだから」
「……そこのニンジンのグラッセは絶品ですよ」
「おい、クルト。なに、ぐずぐずしてる? すぐに行くぞ」
最初の角を曲がったところに何の看板もない小さな木の扉があり、エルテは余裕をもって通り、クルトはギリギリ、カンレルは小人の国に迷い込んだ巨人みたいに体を曲げながら、入店した。店は二階にあり、テーブルが三つ、それぞれに四つの椅子、調理台には熾火を囲った薪があり、客がやってくると、店主は鉄串で灰を突き、火をよみがえらせ始めた。
客はクルトたちだけである。カンレルはエルテに本当にこの店はうまいのかたずね、エルテはここのステーキが絶品なことは命をかけてもいいと言った。その命はひょっとすると、あと数十分で尽きるかもしれないのだが。
分厚いステーキが二人前。大きなボウルに入ったニンジンのグラッセが十人分。
確かにうまい。噛むと肉汁が口いっぱいに広がるし、肉の味を失わない絶妙なスパイス。カンレルはというと、ガツガツとニンジンを食べている。ガツガツ? だが、まろやかなバターで仕上げた柔らかいグラッセからガツガツという音が実際にしている。
ぐすっ。
エルテが涙を流している。
「なんでしょう……今日、食べるお肉がすごく、すごくおいしいんです……。いつも食べているお肉なのに……」
「スパイスが変わったんじゃねえの?」
クルトがテーブルの下でカンレルの足を蹴る。
「いてっ。なんだよ?」
「感慨にひたらせてやれ」
イヴ。初めて、あの島、アーナドを見つけたときも、きみは涙をこぼしたのか。




