6.夏休みの中庭
王都の夏はマウリッツ村の夏よりも蒸した。
人が多く、建物が多く、市街地を囲っている城壁が風の入れ替えを阻むのだ。
学校は開けた土地にあり、泉もいくつかあるので、まだマシらしい。鍛冶屋町は言うに及ばず、皮なめし場なども皮を煮る湯気と獣脂のにおいで地獄の苦しみだと言う。
入学から四か月後、夏季休暇が来て、名家良家の子女たちは里帰りしていた。
クルトもマウリッツ村へ帰る予定だったが、
「うぎゃー、わかんねえー!」
友情と義理で帰れないでいた。
以前からクルトは「勉強はできない!」と豪語していたカンレルが第一クラスに入れたことを喜んでいたことを不思議に思っていた。そして、分かったのだがカンレルは数字の多い第七や第八クラスのほうが難しい勉強をさせられるという致命的な誤解をしていた。第一とは一番難しいという意味だった。いま、思えば、カンレルの第一クラス編入はフクロウ型測定像をボコボコにされた意趣返しかもしれない。
一学期の成績によって、カンレルは再試験を食らってしまった。
「頼むよー、クルトさまー。おれに勉強を教えてくれー」
そんなわけで学年二位で中間試験を合格したクルトがカンレルの専属教師になったのだ。
「じゃあ、これは分かるだろ? 白のエリクシルを象徴する鳥は?」
「それは分かるぜ。コロコロにわとり!」
「違う。正解は月カラス」
「なんで? コロコロにわとりじゃねえの?」
「赤のエリクシルは第三星線と第七星線の位置によって、その性質を決めている。それにより、〈硫黄〉と〈水銀〉の割合が三十四対六十六になり、エリクシルは月カラスの象徴を得る。基礎錬金術の挿絵を覚えろよ」
「おもろくねえんだよ、あんなん。太陽に顔が書いてあったりしてよ。じゃあ、分かった。薬草学にしてくれよ」
「確か、採集は割とできてたよな? じゃあ、問題。リミリロ膏薬の材料になるリミリロは次のうち、どれだ? 一、木陰に生える紫の苔 二、さわると鞘から種が弾ける草 三、嗅ぐと鼻がヒリヒリする花」
「三番!」
「正解は二番。三番はゴリカルブだ。これでつくった湿布を貼ったら、体に穴があくぞ」
「あー、勉強難し過ぎじゃねえ? おれが覚えるべきなのは寸止めだろ?」
「学校の理事会に文句を言うんだな。次の問題は――」
「キューケイ、キューケイ!」
「さっきもしただろ」
「暑いからキューケイ! それに体が野菜を求めてる!」
そう言って、カンレルは止める間もなく、逃げてしまった。
「……逃げた先にあるのは再々追試なのにな。……あいつ、サラダにうるさいから、薬草をサラダに例えさせてみるかなぁ……あっつぃ」
クルトとカンレルの部屋はこの四か月で生活感が出てきた。小さな棚は教科書や薬学書、処方箋の書き方、精神の休息に関する魔法使いの本で埋まり、部屋を斜めに張り渡した紐に陰干ししている薬草が吊るしてあった。クルト側の壁には複数の薬草の成長や性質を損なわない植え方を考えた菜園の図案がピンで止めてある。
一方、カンレル側だが、意外にもきちんとしてある。シーツは船の帆みたいに力強く張っていて、本は種類ごとにきちんと整頓されている。壁には授業のスケジュールが貼ってあるが、それ以外はきれいなものだ。練習用の処方箋や街のスケッチを描き散らし、枕元に本をだらしなく積んだクルトのほうがずっとごちゃごちゃしている。
そんなカンレルの棚には長さが違う紐が入っている。これをベランダの鋳鉄の支柱に結んで、口でしっかり噛みくわえ、拳を放つ。紐は寸止めの長さだ。
カンレルもカンレルなりに、人を癒すための方法を模索しているのだ。
「あっつ……」
蒸す暑さは日陰でしのぐことができない。ただ、幸いなことに学校の敷地には泉がいくつかある。薬泉で腰痛をなおす、頭痛をなおすと様々な効能があるが、今となっては蒸し焼きになるのを防ぐというのが一番ありがたい。
「……」
教え子は逃げた。空気はねっとりとねばついて暑い。熱い。厚い。
そこでクルトもキューケイすることにした。当然の帰結だ。
寮舎の中庭は昔、球形や正方形に形を切りそろえた植木のあいだに磨いた石畳が走っている幾何学庭園で中央に噴水があったと言われている。ところが、現在はまったく手が入らなくなったために野放図に伸び放題になり、野生の森よりもワイルドで、どこに出しても恥ずかしくない立派な熱帯雨林となっていた。
先輩や教師たちからきいたのだが、この野生庭園の中央には大きな噴水があるらしい。
クルトたちの部屋は三階にあり、ベランダが中庭に向いてるが、噴水は枝葉や蔓草に隠れて見えない。音はかすかにきこえるが、鳥と猿の鳴き声で簡単にかき消されてしまう。
他の泉は少し遠いし、途中、ほとんど日陰がない。このジャングルの噴水を探すのと、苦労は五分五分だが、何かを探索し、それを見つけ出す感動を考えると、やはり中庭のほうが価値がある。
そこで中庭へ言ったが、山刀を持ってこなかったことを後悔した。鬱蒼と茂る蔦。その昔、直線に走っていた石畳は根に持ち上げられ、押し流され、ジグザグに歪んでいた。
『見つけ出す感動』なんて下らないものに惑わされて、中庭に足を踏み入れた自分をめちゃくちゃになじりたいと思い始めたころ、奇妙なものを見た。
公爵の息子スーエンだ。古代シダの茂みの向こうに道があるらしく、そこを進んでいる。
いつから貴族のあいだでジャングル散歩が流行ったのか。そもそも、やつはなんで家に帰っていないのか。見回れば一か月潰れる広大な領地とか屋敷とかがあるだろうに、なぜ、中庭に?
勉強は得意らしく、試験は余裕で合格したはずだ。ただ、採集実技が不可ギリギリだった。だから、その自習なのだろうか?
「嫌な予感がするな……」
いろいろ不安がある。
スーエンを見失わないよう注意しながら、道を選び、ついていく。だんだん腐葉土の甘いにおいに新鮮な水のにおいが濃く香り始めた。スーエンは噴水へ向かっているようだ。
石の翼に花蔓が巻かれた恵みの天使像が見えた。手にした水瓶から流れ出た水が石造りの池に透明な泡を立てている。あふれ出た水の通り道に網のような苔がかかっていて、それが足音を吸い込んでいたので、スーエンはクルトがつけていることに気がつかなかった。
スーエンの服装を見ると、そのあっぱれな根性を認めずにはいられない。ビロードのマントにバフコート、短い飾りの剣。この暑いのにそれらをこれっぽっちも乱さずに着た制服の上につけていた。ただ、枝に引っかかれたり、樹液を浴びたりして、破れたりシミができていたが。
しかし、自殺というのは自分で自分を刺したり、毒を飲んだり、高いところから飛び降りるものと相場は決まっているが、真夏に厚着をして死ぬという方法もあるものだろうか。その高価な服は上級貴族が集まる礼拝堂に行くときに着るのかもしれないし、国王が参加する食事に出かける着るのかもしれない。
そして何より、これは誰か女性との待ち合わせで着る服だ。
入学以来、漠然と思っていたことが現実になりつつあった。
クルトは草むらから飛び出し、スーエンに体当たりして、池に突き落とした。
よそいきの高級服がダメになったが、そのおかげで頭上から落ちてきた刃を首に突き立てられずに済んだ。
クラウディオだったころの記憶が手早く採集ナイフを逆手持ちにさせ、顔の前にかざす。左足を引いた姿勢で賊――暗殺用の黒装束に身を包んだエルテと向かい合う。
構えが終わらないうちに錐のような刃が目の前に迫り、慌てて顔をそらすと、鋼鉄の投げ矢が乾いた音を鳴らして、背後の樹幹に刺さった。
避けながらクルトはエルテの膝へ蹴りを見舞ったが、バックステップでかわされた。
「……なぜ、邪魔をするんですか?」
細く小さな声。
「いつから気づいてたかきいたほうがいいんじゃないか?」
「じゃあ、そのこたえを望みます……」
「おれには人殺しの訓練を受けたやつを見分ける目がある。そして、入学翌日――」
エルテの顔が目の前に迫り、冷たく見落とす黒い瞳に刃の光が映る前に肩から相手の胸にぶつかって、構えも切っ先も全てを崩し、元のにらみ合いに無理やり戻す。
「――入学翌日、寝ているふりをして、こいつを見ていた」
「……なぜ、わたしをそのときに殺さなかったんですか?」
「殺す理由がないし、おれは誰も殺したくないし、少なくともおれの目の届く範囲で誰かが殺されるのを黙ってみているつもりもない」
エルテがクスっと笑った。
「勝ち目はありますか?」
「こっちは採集ナイフしかない」
その唯一のナイフを投げた。スーエンへ飛んでいった錐型のナイフを宙で弾いた。
「これで丸腰ですね。標的以外を殺害するのは好みませんが、贅沢も言っていられないようです」
エルテの両手が素早く閃き、二本の短剣が袖から手に滑り込んだ。
クルトは噴水の漏れ水のそばに生えていたリミリロ草を引きちぎって、エルテの顔に投げる。
ぱちっ!
草の鞘から小さな種が目へと弾けた。一瞬のまばたき。隙。それをありがたく使わせてもらって、みぞおちに拳をめり込ませた。
「うぐっ!」
エルテが呻き、その場に崩れると、採集袋の口から革紐を抜き取って、それでエルテの手を後ろで縛る。
「これでよし……おい、スーエン。大丈夫か」
噴水の天使像の向こうから歯がかみ合わない震えた返事がきこえてきた。
「あ、あ、あ。その、大丈夫だ」
「四か月近く、ふたりだけで会う機会を狙ってきてた。いつも取り巻きがいたのが命を救ったわけだ。で、こんなやつに命を狙われる覚えはあるか?」
「いや、ない。エルテさんはどうしてもふたりで会いたいって言うから、実家にも帰らなかった」
「いますぐ、近くの騎士団詰め所に行って、保護してもらえ。公爵の息子なんだから、何とかなるだろ。ただ、エルテのことは話すな」
「きみは、その、エルテさんをどうするつもりだ」
「分からない。でも、少女を使って、人殺しをさせるやつを見過ごせるほど、おれは慎重に生きられない」




