42.ブロッコリー、ナス、銀相場、星
日暮れの二時間前に唱えられる詠唱がきこえるころ、カンレルはどうしても刻んだニンニクと一緒にオリーブオイルで炒めたブロッコリーが食べたくなり――ときどき猛烈に食べたくなるんだよな、とクルトも賛同した――神殿を出て、町に出かけた。
神殿の裏口は入り組んだ市街地につながっていた。
U字型の階段が商店の並びの前に下っていて、路地には坂があった。道が二股に分かれ、片方はアーチのある下り階段。その先には鳳凰樹のまわりに立つ長屋があるのだが、そのあちこちに黒板がかけてあって、数字は常に更新される。
魚屋の石造りの水槽の上、ロバの引く荷馬車の横板、漆喰で塗りつぶした壁。
あちこちに銀相場を殴り書きした黒板があるだが、カンレルにはどういう仕組みかわからなかった。
銀貨一シェケルは百枚の銅貨一コパルと交換だ。
ところが、黒板に書いてあるのは54、18、76=23=7。
そこにはカンレルには理解できない国際銀相場の悪夢のような計算の数々がある。
ただ、問題なのはこの数字が変化することでブロッコリーが遠ざかることだ。
ある料理屋の店先で老婆が素焼きの鍋でブロッコリーを炒めていた。
「おばちゃん。おれもブロッコリー」
ところが、老婆は、
「もう、売らないよ」
と、つれない。
「なんでだよ?」
「相場が3=61だからね」
「でも、いま、ブロッコリー、料理してるじゃねえか」
「これはあっちのお客に出すものだよ。あのお客は22のときに注文したから」
「じゃあ、おれはいつブロッコリーが食べられるんだよ?」
「相場がよくなればね」
そして、その相場の見方がカンレルにはわからないのだ。
もう、日は傾いている。
口はブロッコリーのニンニク炒めの口になった。ボウルいっぱいのブロッコリーを食べなければ、生きているとは言えない。人間は十万個のブロッコリーを食べてからでないと人生を楽しんだとは言えない。
カンレルは『ババアの迷惑省みない作戦』を取ることにした。
料理している老婆に、黒板の数字が変わるごとに、
「ブロッコリー!」
と、注文するのだ。
「相場がよくないから作らないよ」
そのたびに返事はつれない。
だが、カンレルはあきらめない。
このまま、注文し続ければ、いつかきっと当たりをつかめる。
「なにより、おれがこうしてしつこく言い続ければ、根負けしてブロッコリーを料理するかもしれない」
「それはないね。あたしは生娘のころから銀相場で料理をつくってきたんだ」
カンレルはそれから繰り返し、ブロッコリーを唱えたが、そのたびに相場がブロッコリーの相場ではないと返事が返ってきた。
調理場にはタイムやバジルと一緒に平らなパンやアスパラガス、串に刺された羊肉が炭火に脂を垂らし、そして、ブロッコリーが山積みにされている。
アスパラガスやアーティチョークが鍋に放られて、炒められるたびに浮気しそうなるが、カンレルは初志貫徹、ブロッコリーあるのみだとブロッコリーを唱え続けた。
日が沈み、油のランプが路地を照らし出したあたりで、カンレルは負けた。
「もう、こうなったら、相場なんて関係なくブロッコリーを出す店に行く。じゃあな、ババア!」
そう言って、カンレルが立ち去ったとき、また黒板の数字が書き換えられた。
そして、その瞬間、訪れた客が、
「ブロッコリーのニンニク炒めをお願いします」
と、注文すると、老婆は、あいよー、と言って、土鍋にオリーブオイルをひいた。
カンレルは癒光が発生するくらいの突進で料理屋の前に戻ったが、そのころには数字は書き換えられていて、
「相場がよくないから出せないよ」
と、きた。
カンレルは、んぎゃあああ!とわめいたが、
「もし、よければ、わたしのを食べませんか?」
と、さっきの注文した、洋装のクルカロアス人がカンレルにたずねた。
「いいのか!?」
「ええ。ブロッコリーもそこまで望む人に食べられたほうが幸せというものです」
「マジかよ!」
「ただ、ひとつ、お願いがあります」
「なんでも言ってくれよ!」
「そんな大げさなものではありません。わたしの夜の散歩に付き合ってほしいのです」
「それだけでいいのか?」
「ええ」
「行く行く、散歩と言わず、ランニングで付き合うぜ」
「ありがとうございます」
そして、貴公子のごときクルカロアス人が名乗った。
「申し遅れました。わたしはハルキアシュと申します」
たっぷり熱々のオイルに絡んだブロッコリーを堪能して、すっかり幸せ巨大質量になったカンレルは店を出て、散歩に付き合いながら、相手がキシュティが鼻血を出すほど尊敬する兄さまだということに気づいた。
「今日は秘密選挙をしたぜ」
「楽しそうで何よりです」
人びとはオイルランタンで照らされた銀の相場の前に集まって、数字の増減に目を血走らせている。
「あんたは目ぇ血走らせなくていいのか?」
「はい。わたしは夜を歩くほうが楽しいのです」
オリーブオイルの灯は並んで、道を登り、城壁を照らし出し、素焼き粘土の像のある広場をめぐり、年老いた両替商が読む銀の権利書を照らしている。
「ただ、銀の取引に関する古い書字板なら、わたしも少し好みにうるさいんですよ」
「おれは野菜の好みにうるさいぜ」
「では、地元の方には知られているけれど、旅人には知られていないお店はどうです? 大陸では、まだナスには季節は早いですが、クルカロアスではとっくに旬が始まっています」
「マジで!?」
「もし、お腹がいっぱいでなかったらのお話ですが」
「行く行く! まだまだ食えるし、昔から言うじゃん。ナスは別腹って!」
その日の午後に死刑判決の布令がまわっていた強盗殺人犯が斬首される広場に出た。人混みで通れそうにないが、おいしいナスの店はこの向こうだ。
「死刑見てから食った野菜がうまくなるって話はきいたことがないな」
引き返そうとするが、見物人がどんどんやってきて後ろの道も塞がった。
広場は強盗の首が胴と異になる瞬間を見たい人間でいっぱいになり、そのなかでアーモンド水や死刑囚の犯罪の場面を描いた粗末なカードを売る行商人が声を張り上げていた。
困ったことにカンレルもハルキアシュも背が高いから後ろからでも死刑台の無残な有様が見えてしまう。ボロボロの衣だけをつけた死刑囚は見苦しいまでにもがき、泣き叫んでいた。ハルキアシュが行商人から買ったカードをカンレルに見せた。固い植物に絵を彫って何枚もスタンプにしたらしい絵。そこにはあの死刑囚と首を切り落とされた三人の子どもが捺されている。
「やっちまえ!」
「首をはねちまえ!」
民衆の怒号。それで死刑囚はますます怯え狂って、大人が三人がかりでも押さえられないほど暴れている。
カンレルはまた死刑台を見た。石で積み上げた台は端が欠けている。どうやら数百年前から使っているらしい。たぶん、落ちた首の数は百や二百ではないだろう。
「あー、ったく」
「あの」
と、ハルキアシュがカンレルにたずねる。
「あそこまで連れて行ってもらえないでしょうか?」
「死刑台?」
「はい」
「よっしゃ。行くぜ」
その後、健康になりたいやつからかかってこいと体で群衆の壁に穴をぶち明けた。
死刑台のまわりの兵士たちが槍を手にカンレルの前に立ちはだかる。
「貴様! 何をしている!」
「ちょっとした医療行為よ」
「なめた口をきくと――あ、あなたは」
ハルキアシュを見ると、兵士たちが慌てて槍を置き、ひざまずいた。
「なんだ、なんだ? こいつら、あんたを見たら、物凄く低姿勢になったぞ」
「ちょっと昔、あったのです」
まもなく隊長らしい中年の剣士がビーズの剣吊り飾りをジャラジャラさせてあらわれるが、ハルキアシュを見つけると、慌てて平伏しようとした。
「いいのです、隊長。それにあなたたちも立ってください」
「し、しかし――」
なー、なー、と、カンレルが隊長にたずねる。
「ハルキアシュって偉いのか?」
「貴様、ハルキアシュさまを呼び捨てにするな! このお方は三百年に一度、あらわれるか否かの、星の神官長なのだぞ!」
ハルキアシュが苦笑いして首をふった。
「いまはただのハルキアシュですよ」
「いえ、万民は今でもハルキアシュさまが星の神官長であられると思っています」
「それより、彼と話せますか?」
死刑囚を指差す。
「危険ですよ」
「多少の心得はあります」
「おれが押さえてようか?」
「お気持ちだけ」
死刑囚は三人の兵士に台の高床に組み伏せられている。
ハルキアシュはその死刑囚の真向かいに立ち、膝を曲げて、小さな本を取り出して、それを見つめながら、解呪の詠唱を始めた。
恐怖と混乱で気が狂う寸前だった死刑囚が大人しくなった。そして、涙を流したが、それは間違いなく悔恨の涙であり、死刑囚はもはや誰に押さえられるでもなく、自ら断頭台に首を置いて、打ち首に差しだした。
それだけではなかった。まわりの兵士たちも、死刑を見物に来た人たちも、行商人までが、そこに膝を折って、手を胸の前で組み、祈祷をささげた。
こうして刑は静かに執行された。
「すげーな。死刑囚が大人しくなるのはわかってたけど、まわりの人間全員大人しくなるとは思わなかったぜ。昔、すげーことしてたんだろうな、あんた」
「すごかったかもしれませんが、狭かったのです」
「狭い?」
「はい」
「ふーん。それより、さっきの本には何が書いてあったんだ?」
「どうぞ。ご覧になってください」
本のなかには影絵酒場がいくつか、演目、それにブドウ酒の店や絨毯、最近購入した書字板について書いてあった。
「あの呪文は暗唱できるのですが」と、ハルキアシュは苦笑いして頬をかく。「何か小道具があったほうが効き目があるかと思いましてね」




