40.荒れた海とは
荒れた海。
それはスープが飲めないということ。
荒れた海。
それはテーブルが自分へすっ飛んでくるということ。
荒れた海。
それは壁に向かって、自分自身が落ちるようにすっ飛んでいくということ。
船がほぼ真横になったとしか思えないときが何度もあり、どうして沈まないのだろうという不思議になったが、それを確認するために船室を出て、甲板に出る勇気はなかった。
船が真横になるたびに、忘れ去られた過去があらわれる――船員がなくした小銭や鍵が何かの隙間から飛んできてクルトの額に当たり(これが巧者のデコピンくらいに痛い)、そして船が逆に傾くと、元あった場所へ帰っていく。
これは記憶そのものの寓意をあらわしているのかもしれないが、そんなことを考える余裕がない。
荒天の海のなかの部屋にいるということは、自分たちが小人になり、箱のなかに入れられて、蓋を閉じられ、それが五歳児の手にわたって、めちゃくちゃに振り回されるということだ。
ただ、船酔いをなおす薬でエルテには怖いものはない。
元暗殺者らしい軽い身ごなしで壁に着地し、飛んできた椅子を華麗にかわす。
キシュティはとっくの昔に気絶して、ポンポン見えない手で投げ合われているボールのようだ。気がついたら、頭に覚えのないたんこぶが十個くらいできていることだろう。
問題はカンレルで、大きな図体がドッカンドッカンぶつかりまわる。
「おもしれー! いやっほう!」
本人はいたって頑丈だからケロリとしているが、クルトからしたら、たまったものではない。
しかも、そこでわかったことがあるのだが、カンレルの体が壁や天井、タンスにぶつかるたびに癒光が生まれていることだ。蹴りと拳に体当たりも加わった。医療の進歩である。
ただ、クルトは何度か、その〈医療の進歩〉にぶつかってぺしゃんこになりかけている。
カンレルは大切な仲間だが、いまのカンレルは危険な巨大質量だ。
ついにドアが勝手に開き、クルトは外の廊下に投げ出された。
なんとか歩こうとするが、一歩踏み出すと、その一歩は床を踏む代わりに宙を舞い、十歩くらい離れた斜めの壁に着地する。
壁にぶつかってよろめき、飛び跳ね、船員たちが同じように吹っ飛びながら「今回の波は大したことないな」と笑いながら話しているのを見つけ体の芯が凍りつくほどの恐怖を感じ、そのうち、自分が壁に吹っ飛ぶのではなく、壁が自分へ吹っ飛んでくるのではないかと思ったところで、クルトは大きな繭を見つけた。
それは奇跡の繭だった。
箱や椅子が吹っ飛びまくるなかで、ずっと宙で制止しているのだ。
よく見ると、それはハンモックで、二本の柱ではなく、天井のフックから吊るして揺れの動きを吸収するためのおもりも一緒に吊るしていた。
これを考えたものは愚かな人類を救済するために神に選ばれた救世主に違いない。
その繭型ハンモックは既に人がいたが、隣には無人のハンモックがあり、クルトは壁にぶつかる前に、そのなかに飛び込めた。
静止した状態を数時間ぶりに味わっているはずだった、まだ自分のなかにあの大揺れの残響みたいなものが残っていた。だが、それもしばらくして消え、家具や縄の塊がぶつかる音も気にならなくなった。
「……」
クルトはそっと自分の手を広げ、癒光をまとわせ、自分の胸にあてた。
手に反発する力は以前よりもずっと大きく、ずっと無遠慮なものになっていた。
「ッ!」
そして、心臓を撫でるような温かさ。
この呪いは刺すような痛みを与えない。
温もりで宿主を取り込もうとする。
もし、このまま続けば、呪いは意識を溶かすように働き、クルトを乗っ取るのだろう。
全てのリミッターが外れた状態の姿で。
「貼り紙だよ」
「?」
もうひとつの繭から声がした。年配の男の声だ。
「剥がして売るんだ。肉屋は一ポンドくらいの重さの貼り紙を銅貨三枚、つまり三コパルで買ってくれる。切った肉を包む紙が必要だからな。一ポンドってことは三十枚くらい剥がせばいい。それで一ポンドに少し足りないくらいのパンが買える。まあ、あまり質のいいパンじゃないがな。二枚重ねのやつなら厚紙造りが買ってくれる。問題はボロボロのクズみたいな貼り紙だが、これは自分の家に貯めておく。冬になったら燃やして暖を取るんだ。もちろん、ろくな暮らしはできない。ただ、贅沢はまったくできないが、食いっぱぐれることはない。貼り紙はいくらだって貼ってある。気楽なもんさ。ガミガミ言う上役も女房もいない。世界の人間の半分に威張りくさって、残り半分にペコペコするのにうんざりしたら、おススメの仕事だ。誰にも威張らず、誰にもへいこらしない。ただ、剥がす貼り紙はもう期限が過ぎたもんだけにしないといけない。本の宣伝やまだ上映中の劇の貼り紙を剥がすともめ事になるからな。誰とももめたくないから、貼り紙剥がしをやってるんだ。それがもめちゃあ、本末転倒だろ」
「なぜ、そんな話を?」
「あと、従兄と一緒にウサギを商売にしたことがある。食用じゃない。真っ白なウサギが幸運の証だって、小金持ちどもが買い集めたころの商売だ。簡単だ。自分の部屋のなかに仕切りを作って、ウサギを入れればいい。それで勝手に増えてくれる。餌は町じゅうに落ちている野菜くずを拾えばいい。とはいっても、腐っちまっているようなもんはダメだ。あの耳の長い畜生どもはこっちが思っている以上にグルメだからな。ウサギは一羽につき、銀で八から十シェケルで売れた。信じられないよな。もし、落としたら、あ、落っことしちまった、で済む額じゃない。腕も評判も頭も悪い職人が一か月で稼げるかどうかって額だ。それが一匹、小さな畜生に商人たちが払うんだ。縁起がいいってな。ぼろい商売だった。肉として売るならある程度でかくしないといけないが、ペットとして売るなら、むしろ小さなときのほうが高く売れる。そのうち、拾った野菜だけではすまなくなって、くず拾いの未亡人たちから金で買うようになった。ぼろい商売だが、おれは途中でやめちまった。なんでかって言うと、ウサギを売るために平身低頭、客にへいこらしなきゃいけなかったからだ。おれはそういういやらしさが嫌だった。だが、もっと嫌だったのは、野菜くずを売りに来る女どもだ。本当にかわいそうな女たちでよ。育てなきゃいけない子どもが三人いるのに仕事がない。でも、体を売るようなことはしたくないって真っ正直な女たちさ。そんな女たちが何人も野菜くずを買ってくださいって必死に頭を低くしてお願いしてくるんだ。ところが、従兄はそんな女たちに野菜は足りてるからいらないって言うんだ。本当は足りていないのにな。それでもかわいそうだから、って従兄は情にうたれたふりをして、野菜くずを買うのだが、それが安く買いたたく。袋いっぱいの野菜くずに一コプルしか払わない。女たちはどうしようもなくて、小さな一コプル銅貨を握って、とぼとぼ帰っていく。おれは嫌になって、おれの取り分を精算して、その商売を従兄に全部売り払った。世界の人間の半分に威張りくさって、残り半分にペコペコする。それが嫌なんだ」
「どうして、そんな話をするんだ?」
「あんた、深刻そうだったから。みんなそうなんだ。このハンモックに入ると、最初はほっとするんだが、そのうち何もできることがなくなって、考えなきゃいいことを考えるんだ。だから、気晴らしにな。それに――」
「それに?」
「もう、海をぬけちまった」




