37.最初の供物
密輸船が沈んだ、劇場がみな保護料を支払わない。
そんな情報を流すと、偽の大神官の戦士たちの八割が落ち着かなくなり、ひとり、またひとりと消えていった。
シェ・クブヌヌは何とか信頼できる部下を集めて、エルテを含めて五人が配置についた。
神殿に忍び込み、間合いに偽の大神官が入ったら、ためらうことなく実行する。多くの司祭と戦士は肥やした私腹のために持ち場を離れているが、残ったものたちは金銭でどうにもならない殉教者志願たちだ。
エルテは神殿内部に潜む。四つ足の古い香炉が並んでいる後ろで控えていた。偽の大神官があらわれる。他の四人は決行のタイミングをつかめなかったらしい。
青銅の古いトカゲ像、カルケミー神の前に大きな燃焼皿があり、油が注がれる。
後ろ手に縛られた少女がやってくる。怯えて、涙ぐんでいて、それでいてあきらめている。
ああ、これは燃やす気だな。そう思うと、体が動いた。
次の瞬間には護衛のあいだをすり抜けて、エルテの短剣が偽の大神官の胸に深々と刺さった。
外で騒ぎ――キシュティを入れた袋をふりまわしながら、カンレルとクルトが神殿の内陣になだれ込んだ。
「タイミングは完璧だな」
カンレルがそう叫んで、袋を逆さまにすると、キシュティが転がり落ちてきた。
「冒涜だ!」キシュティが叫ぶ。「信徒たちよ、挙兵せよ! 僕の権威が傷つけられた!」
本物の大神官がわあわあ見苦しく叫んでいるそばで、偽の大神官は、
「偉大なるハトゥーヌムよ――」
クルトの呪いと同じ名前をつぶやいて死んだ。
大神官がふたりいる、と外では騒ぎになり、予言はどうなるのだと騒ぎ始めたところで、燃焼皿に火がつけられ生贄の代わりに、小さな埃っぽいパンが投げられた。投げられたパンが燃えるのを眺めながら、クルトはエルテから教えられたことについて考えた。
パランテロ先生は半年前からここにいた。だが、二週間前に出ていった。
では、あのとき見かけたパランテロ先生は何なのか?
パランテロ先生はキシュティの元面倒見係と風について語った。キャッサバを使った料理を懐かしんだ。
その先生がなぜ、自分にハトゥーヌムという、〈門〉という意味の呪いをかけるのか。
クラウディオだった時代、結局〈門〉が何だったのかは誰にもわからなかった。南アメリカ大陸の人間がそれを独占するという野望のために全滅したのにだ。
――なぜ、人は〈門〉のために戦うのに、風のためには戦わないのだろう。
イヴとふたりであのアーナドという島で、クラウディオは様々なものの名前を再定義していった。
そのとき、ふたりはパランテロ先生なら、こうするだろうと仮定して、名前をつけていった。
「――ぐっ」
胸が蹴り飛ばされた直後のように苦しくなった。
紫に広がった染みが熱を持った。
キシュティは呪文を唱えている。
古い青くなった青銅の器に何かの種を入れ、そこからつまんで、火に投げている。
こうしてみてみると、キシュティはちゃんと大神官に見える。
実際、外の群衆も一時は偽の大神官の死で動揺していたが、本物の大神官が正式な儀式を執り行うことで落ち着きを取り戻し始めている。
さらにこの後、亡命していた役立たずたちが社会に解き放たれ、本物の大神官のための一大正当化を行うことになっている。ものを煮る火も起こせない彼らだが、これから携わるのは得意分野だ。パエリヤ分の働きをしてもらおう。
キシュティの抑揚のない詠唱が止まった。それと同時に燃焼皿の炎が消え去った。まだ、燃える油があるにもかかわらずだ。そして、供物のパンは消えている。それはつまり――、
「カルケミー神が供物を受け取ったということだ」
キシュティはすっくと立ちあがると、自分のことをきちんと崇める精神的土壌を用意できた群衆へ、権威の再定義を行うべく、列柱へと歩いていった。
まもなく、割れるような歓声が沸き上がった。
カラハの街が平穏を取り戻したと同時に太守が亡くなったという報せが入った。
だが、本物の大神官がいるカラハは神殿を中心に堅い秩序を取り戻していたので、混乱はなく、次の太守が任命されるのを待ちながら、人びとは耕し、商い、漁り、書き記した。
「さあ、もっと僕をたたえろ!」
キシュティは輿を見に行くと言ってきかなかった。
「そんなものを買って、誰が運ぶんだ?」
「きみたちに決まっている」
「ついに歩くのを面倒くさがりやがった」
「僕を袋詰めにして、ふりまわした罰だ」
そんなことを言いながら、三人が工房街でぎゃあぎゃあやっているのを見ながら、エルテは心に浮かんだ疑問を口にした。
「おねしょなおった?」
ぴた、と時が止まる。
太守がいない現在、カラハで最も権威のある人物となったキシュティがききかえした。
「い、い、いったい何の話だ?」
「してたんでしょ? 十一歳まで」
カンレルが、そしてクルトまでが腹を抱えて笑い転げた。
「誰がそんなことを言ったんだ!」顔を真っ赤にして、カラハで最も権威のある人物が言った。「誰だ、名前を言え! いや、きっと偽の大神官一派の残党に違いない! うぐぐ、なんて卑劣な真似を!」
「ハルキアシュ」
また、ぴた、と時が止まる。
「いま、なんと?」
「だから、ハルキアシュよ。あなたがおねしょしてないか心配していたのは」
また、卑劣なとか、愚弄とか騒ぐのだろう、そう思っていたが、
「ハ、ハルキアシュ兄さまが僕のおねしょを心配してくださっている!」キシュティは目をぐるぐるまわして、「兄さまが、兄さまが、その偉大な思考の一部を僕のために割いて、うっ、鼻血が――」




