36.油を惜しまぬ商い
「よいブドウ酒は神と人と土地を結びつける」
いま、ハルキアシュの頭に浮かんだのか、あるいはことわざなのか、療術学校の言葉のように、どこかの門に刻まれた言葉なのか。
路地は明かりと屋台でいっぱいだ。鮮やかな染め布の屋根の下、古びた絨毯の上に様々な形の酒壺があり、ブドウ酒はつくられた場所やブドウの品種ごとに分けられて、たくわえられていた。甕で売る店もあれば、酒杯単位で売る店もある。
濃厚で力強い高級なアマル種。庶民の常飲向けのさっぱりした酸味のダリト種。若飲みもうまい赤シカル種。花と桃を思わせる華やかなカナン種。人が飲むにはしぶすぎるが神々は好むというお供え用のレブ種。耐塩性があるヤムム種は島での栽培に向いているので、地酒としてよく出回っている。
「ブドウ酒は作るのであれば一部の人の問題ですが、飲むとなると、全人類の問題になります。ハーブやスパイスを入れて飲むのがいいという派閥、ブドウを育てた土の味まで舌で感じ取れると主張する派閥、できるだけ度の強いものを好む派閥、ツマミは炒った木の実さえあればいいという派閥、玉ねぎとニンニクとひよこ豆を蒸して小麦と少量の牛乳でつくったソースをかけたものこそが至高のツマミという派閥。そして、とにかく量を飲みたい派閥。あなたが運んでいたのは赤シカルの作柄が良かった時代のものですね。あなたが自分で味を見たのですか?」
「少し値の張るものを、って言ったら、あれが入っていた」
「なかなかいい趣味をしている店です。店が高級すぎると、アマルばかりでダリトや赤シカルは貧民のブドウ酒だというものがあるのですが、ブドウ酒の価値は作柄次第です。アマルのブドウ酒は確かに王のブドウ酒です。それでも年によってはさっぱりな年があるのです。そして、ダリトや赤シカルでも作柄が優れれば、アマルよりも美味なものです。ああ、あの店に行きましょう」
天井の高い店だった。巨大な甕を壁際に並べ、中央には試飲のためのテーブルが置いてあった。壁には稚拙なブドウの絵が描いてある。大きな白い口髭の両端を種の油で跳ね上げさせた店主が帳面に立っていて、少し癖のありそうなアンバーロックの買い付け人を相手に百五十壺分のヤムム・ブドウ酒を売る商談をまとめて、奉納用のレブ・ブドウ酒で乾杯をしていた。神殿奉納用のレブ種に蜂蜜を垂らした飲みやすくしたもので乾杯をするのは、神を取引の証人とする商慣習だ。破ったからといって天罰が下った例はおとぎ話でしかきいたことはないのだが。
アンバーロックの男が帰ると、店主が口髭をひねる手を止めて、大げさに驚いた。
「ハルキアシュさま、よくぞお越しくださいました!」
「こんばんは、アハンドさん。お邪魔でしたか?」
「とんでもない! よき舌をお持ちのお客さまはいつでも大歓迎ですよ」
去り際に、たったいま商談を終えたアンバーロック人がじろりとハルキアシュとエルテを睨んできた。まるで役人を見るような目。いま買ったブドウ酒の関税を支払う気がないのだろう。だから、会う人間全員が税関の手下に見えてしまう。アンバーロックはあまり上品な土地ではない。国ひとつ、犯罪に落ちている。国家元首は王や教皇ではなく、ボスと呼ばれる。犯罪組織同士の利害がこんがらがって、最後は首を切り落とされて樽に詰められて海に捨てられるような国だから用もないのに行きたいと思える土地ではない。ただ、音楽には独特の活気さがあると評判だ。
そんなことを考えていると、店主がブドウをひとつ取り出していた。黒くもなく薄い赤でもない。ブドウとしては理想的な紫色だ。粒はまるまるとして今にもはちきれそうだ。
「これは?」
「はい。ズィムリという新種です。これが若い方に人気でしてね。ひと粒食べてみてください」
ハルキアシュはブドウの粒を一番下から取り上げて、口に含んだ。
「甘い」
「はい。これが若飲み向きでして、甘いですが、割合強いものができます。お値段もお手頃で、今はまだ若い方の常飲ですが、きっとこれは広く飲まれますよ」
「試飲しても?」
「もちろんでございます?」
口にして、舌の上で転がしてみる。
「甘いのにキレがありますね。コクに欠けるところがありますが、品種改良と土地次第といったところでしょうか」
「さすがおわかりになる方は違います」
「おもしろい。これをいただけますか? こちらの少女のワイン壺に入れてあげてください」
「かしこまりました。そちらのお嬢さんにはズィムリのブドウジュースはいかがでしょう?」
ジュースはぜひともサーロインステーキのお供にしたい味だった。ズィムリ種のブドウがもっと世界へ羽ばたくことを期待しよう。
「なんだね、これは? 新しい品種? 甘すぎる。でも、もう一杯」
「これでは蜂蜜を溶かしたブドウジュースを飲んでいるようなものではないか。。もう一杯」
役立たずは運ばれてきた甘口のブドウ酒に文句を言いつつ、何杯もおかわりしている。
クルトは少し口に含んで、思わず吐き出した。度が強すぎる。
とはいえ、甘さで口あたりがよく、酒精の強さで意識を覚醒させるのは雪山で遭難したような人びとの気つけ薬に使える。
「クルト、よくこんなもの、口にできるな」
「マウリッツ村は冬は冷えるから、子どもたちでも、お湯で割ってシナモンを入れたホットワインを飲んで体を暖かくするんだ」
「なんか苦いっていうか、顔をしかめそうになるというか。なんて言えばいいんだ?」
「しぶい」
「おれは酒は何がいいのかさっぱりわからないな」
「おいおい。授業でやっただろ? 一部の蒸留酒は薬や麻酔の代わりになるんだぞ」
「おれのパンチのほうが気持ちよく寝られるぜ」
「気持ち良すぎて死んじまうよ」
あいたたたた!
キシュティが地面に敷いた絨毯の外に出るほどのたうち回っている。
「下僕! なんとかしろ! いたたたた!」
「そりゃあれだけ食えば、腹も痛くならあ。もっと食わせりゃ、体が縦に裂けちまうぜ」
クルトはそばの茂みにしゃがみ込み、何本か草をちぎった。適当にやっているように見えるが、整腸・胃痛に効果のある薬草を用意している。それを旅カバンに入れている乳鉢ですり潰し、苦味を消すためにズィムリのブドウ酒を注ぐ。
「ほら。飲め」
んぐんぐんぐ。
「ぷはあっ」
「少し安静にしていろ。――というか、あんた、いつもごろごろして安静だったな」
「そんなことはない。いろいろなことをしている」
「たとえば?」
『死の影たちの宴』の登場人物たちはアンクット=クー産の絹の幕に吸いついて、杯を傾けたり、笛を吹いたり、踊ったりしている。テーブルの上に次々とごちそうがあらわれて、死者も生者もそれを食べる。そのたびに魚が消え、鶏が消え、果物が消える。
影絵酒場〈黒猫亭〉の演目は三百を超え、神話、戦記、冒険譚、滑稽劇、恋物語、分類不明の古代の抽象劇など種類は豊富。
いまやっている演目『死の影たちの宴』は泥酔した怠けものの神官が骸骨たちと宴会をし、生きることと死ぬことのくだらなさを笑い飛ばす、幻想的な滑稽劇だ。
ハルキアシュは劇を笑い、ブドウ酒を飲み、また笑う。
エルテはというと、自分で注文しに席を離れていた。ハルキアシュは羊のチーズとオリーブ以上のものを食べようとしない。
酒場そのものが小さいので、厨房も小さいが、料理人の腕も含めて、必要なものはきちんとそろっている。おいしいお肉料理、というと、細切れ肉とキャッサバと玉ねぎのみじん切りを薄いパンで巻いて焼いて、とどめに(本当に料理人がそう言ったのだ)熱い胡椒入りカカオ・ソースをかけたものが出てきた。
あまりにおいしくて、劇の筋がどうでもよくなったくらいだ。
「キシュティはこの劇が嫌いでした。お化けや骸骨が怖くて、わたしの後ろに隠れていました」
劇が終わった。酒場も終わる。
外に出ると、夜空がうっすら蒼ざめていた。東の果てから太陽が昇ろうとしているのだ。
「結局、あなたが来てから、わたしの暗殺任務に必要なことは出てこなかった」
「でも、趣味がよくなりましたよ」
住居のあいだにある狭い階段は海のそばへと下っていく。
「普段、わたしはひとりで夜を歩くのですが、半年前、同好の士があらわれて、気の置けない会話を織り交ぜながら、歩いたのです」
「そう」
「彼は遠い国から来たと言っていました。よく〈黒猫亭〉に行きましたが、彼の好物があなたが食べた料理なんです。彼のいた国で食べられていたものとほとんど一緒だったそうです。キャッサバは自分で育てていたので、とても懐かしかったと」
階段を降りた先に小さな砂浜があった。壊れて砂に沈みかけた舟が一艘あるだけで、とても静かだった。水平線は光の膜に覆われていた。光は壁となって立ち上がり、少しずつ夜が薄まり、ほどけていく。
「いなくなる二週間前、こう言っていました。ここでも風のために戦う人はいない。絶壁に雲をかけ、大河を遡らせ、過去へと人を運ぶ。ですが、なにより――」
朝日とともに歌いながら、
「――帆をふくらませて、冒険へと人をいざなうことができる。そう言っていたんです」
光が世界を満たしていく。




