35.夜の遊歩者
死の予言を受けて逃げたものたちの共通点は、あの大神官は偽者であると論理立てて説明できる人びとだった。
論理的であるには高い教育が必要であり、その時間を確保するために、基本的な生活をする時間を犠牲にする。
だから、自分で料理もできないし、洗濯もできない。
クルトとカンレルは平均年齢四十三歳の役立たずたちのために大きな鍋に米を炊き、川魚と野菜を刻んで、胡椒をこれでもかとぶち込んでいた。
役立たずのなかでも一番役に立たないのは、間違いなくキシュティだった。水を汲みに行くことすら、クルトにさせている。そのうち、息も自分ではしなくなり、ふいごを口に突っ込まないといけなくなるだろう。
「緊急動議を求めるぜ」
カンレルが鍋のなかのパエリヤを混ぜながら言った。
「内容は?」
「キシュティの弱点」
「弱点だらけだ」
「違う。そうじゃない。つまり、この何もしないだらしない状態を見られて、恥ずかしがるようにするにはどうしたらいいかだ」
「無理だな」
「なんで?」
「そういうふうに恥ずかしがるには誰かを尊敬しなければいけない。その人の前ではいつも完璧な姿でいたいと思わないといけない。そして、キシュティは誰か尊敬することができるのかということだ」
「前の大神官のじいさんは?」
「研究に没頭して、旅に出たくないと駄々をこねた。尊敬はしているが、おれたちが必要と尊敬とは違う。甘えがある。そういうのではない、いいかっこをしたくなる尊敬が必要だ。たとえば同年代くらいの相手」
「キシュティはおねしょはなおりましたか?」
ハルキアシュがたずねた。
「さあ? したの?」
「十一歳まではしていました。ところでクルカロアスには古いことわざがあります。〈よい商いは油を惜しまない〉。これからそれをご覧にいれますよ」
少しずつだが、夜闇に閉ざされていた路地の明かりが増えていく。それもにおいがきつくて、光にムラがある獣脂が壁のくぼみでとろとろ燃えるものから、灯芯を浸した魚油の皿が専用の杖の上に置かれる、ちょっとした街灯らしいものになっていく。その光は灯台のようで、深い溝まで照らす生き生きとしたものだ。
油を惜しまぬ商いが角を曲がると光る洪水のようにあらわれる。
狭い路地に集まった古書街区〈サプルアティク〉。
ここで商われるのは本ではなく書字板である。
クルカロアスやアンクット=クーのような国ではこんがらがった伝統と格付けの問題から紙と並行して書字板が使われているが、伝統があるということは歴史があり、歴史があるということは骨董的価値があるということだ。
それぞれの店は狭い道へ庇と売り場を張り出して、書字板を並べ、油を惜しまずに焚いている。灯が明るければ明るいほど、自分の店は粗悪品を売らない正直な店であることを強調できる。
骨董品街など昼でも人が少ないはずで、まして深夜など、――とは思えないほどの人混みだ。カラハの蒐集家はもちろん他の島からも買いに来るし、骨董趣味で有名な貴族や海外使節の長の姿も見える。
「ただの焼いた粘土」
「そう言われてしまうと元も子もありませんが、我々にとっては歴史なのです」
「何が刻んであるの?」
「勅令や行政文書。法律。文学作品や詩。個人の書簡もあります」
「一番高価なのは?」
「そう言われると情緒がありませんが、まず、書かれている内容が大切です。神々の戦いを記したもの。歴史に残る重大な勅令や誰もが知っている歌の、最初の楽譜。巨匠のまだ見ぬ未発表の詩。特徴的な書式を現在に蘇らせる行政文書。ただ、古ければいいというものではありません。保存状況が重要です。たとえば、どれだけ欠けているか。書字板はもろいので、千年以上前の古品はどうしても欠損があります。ですが、もし、欠けのないものが発掘されれば、その価値は計り知れません。それに刻まれた文字の深さ。古ければ古いほど表面がすり減り、文字が浅くなります。一部は判読不可能になることもあります。保存状態にかかわる話です。次に挿絵の有無。挿絵は基本的に歓迎されますが、古代の名人といわれたズィクィルやバルヌシアのものであれば、高価です。ただ、大切なのは自分の趣味ですよ」
「趣味?」
ふふっ、とハルキアシュが笑う。
「文学作品を集める蒐集家からすれば、アマルム王の勲功者に対する土地分配令は食指が動きませんし、その逆もしかりです」
「あなたの趣味は?」
「なんでもです」
ハルキアシュが説明するには道に張り出した売り場のものはせいぜい二百年前くらいのもので、内容もありふれた書簡や契約書。値段も五シェケルを超えるものはない。
「ああ。でも、これは少し面白い」
そう言って、手に取った書字板は〈ハムクの大悲劇〉について記した二百五十三年前のものだった。
反伝統主義者集団〈ハムク党〉の狂信者が両手に木槌を持って、〈サプルアティク〉に乱入し、手当たり次第に書字板を砕いたという事件だ。
「悪夢のような事件でした」ハルキアシュはまるで目の前で見たかのように語った。「〈アキハト恋歌〉〈賢人ムムドのなぞなぞ集〉――そして〈諸神の恩寵によるクルカロアス一世の即位令〉が永遠に失われたのです」
「野菜に例えて」
「世界で最後の一枚のキャベツを踏みにじられるようなものです。おわかりいただけましたか?」
「わからない。わたしはお肉派だから」
「それなら、最初からお肉で例えたほうがよかったのでは?」
「そうかもしれない」
ハルキアシュはこのあたり、というより、あちこちの〈顔〉であり、骨董商たちはみな挨拶をする。入荷した書字板、愚かな成金がまたひとり投資用とぬかして八十年前のオリーブ取引の利ザヤについての契約書を買っていったことなどを話しているうちに一軒の店に入った。
青銅のランプがあちこちに吊るされた店で、棚には書字板が種類ごとに、年代ごとに分かれて収納されていた。書字板同士を重ねるときは必ず二枚のパピルス紙を挟み、はみ出た部分にそれが何の書字板か丁寧に書き記されている。天秤を置いた帳場台にはまだ十二、三歳の少年がいた。
「こんばんは、サミル」
「こんばんは、ハルキアシュさん」
「お父さんは?」
「寄合です。今日は何をお求めです?」
「何かおすすめはありますか?」
「勅令が一枚入りました」
「見せてもらえますか?」
本当に大事な書字板はそもそも棚に並べず、一枚ずつ、テンバー杉でつくった箱に収納されている。ひとつ、平らな箱を取り出すと、なかにはモスリンで包まれた勅令が王そのもののように偉そうに収まっていた。
「こちらはアムミスタム十七世の軍事動員令です。第三次アモス戦争時のもので諸都市と諸侯に弩の扱いに長けた兵三万、軍船七百を用意するよう命じたものです。欠損はありますが、王の署名は無事です。非常に保存状態がよく字は深いです」
「素晴らしいです。いくらですか?」
「銀三百シェケルです」
「そのくらいはするでしょうね。文学作品か詩を見せてもらってもいいですか?」
「もちろんです」
箱のなかから〈老いた神イルの嘆き〉というかじられたビスケットのようなものが出てきた。大きさは勅令よりもずっと小さい。
エルテの疑問を読み取ったみたいにハルキアシュが説明した。
「文書の種類によって、使える書字板の大きさがあるのです。勅令は一番大きな板を使うことができます。文学作品は法律よりも小さいですが、個人の手紙よりは大きいのです」
ハルキアシュは懐からヤクの毛でつくった柔らかいブラシを取り出すと、それで書字板をきれいに払いながら、エルテには理解できない文字の並びから一文を読み上げた。
「我、何者の光にあらず。我、何者の香にあらず。我、無益なり。塵芥なり。――中期埋没派の至上の文字列ですね。これはいくらです?」
「三十五シェケルです」
「いただきましょう」
箱に綱がわたされ、背負えるようになった。気づけば、それをエルテが背負っている。
「本当は荷物持ちが欲しかった?」
ハルキアシュが肩をすくめると、その耳につけた青い貴石の耳飾りが揺れた。
「他にもありますか?」
「風刺詩と滑稽詩が入りましたよ」
「それは、それは! わたしは風刺詩と滑稽詩に目がないんですよ」
二百年前から六百年前の様々なチクリと来るユーモアを刻み込んだ板があらわれる。酒で家財を失った男が怒れる妻に繰り出す言い訳に自嘲と愛嬌を込めた詩。愚かな役人がロバに出世で抜かれる詩では言葉ばかりで地道な労働を嫌う官僚制度を大いに笑っている。猫に訴えられたネズミが巧みな言い逃れで無罪を勝ち取る寓話詩は弱者の知恵をたたえている。塩商人と銅商人が強欲な争いの末にどちらも損をする滑稽詩の最後はこう結ばれている――『最後は港が笑うであろう!』
だが、一番のブラックユーモアはそれらを購入すれば、全てエルテが持たされるということだ。
「確かにそのマリク刑法は諸島海域の海賊行為に対して有効かもしれないが、アムミスタム三世の大恩赦令はその書字板が最大のものである以上、そちらが優先され――」
「前期埋没派から逸脱しているというが、『スキヌゥム記』は現在保存するなかで最も欠損が少ない。だから、この時期の散文を研究する上では外せないもので――」
極めて高レベルな会話をする役立たずたちは開拓村というジャングルに隠れた野営地でパエリヤ鍋の列に順番に並んでいる。役立たずたちの高尚な会話が途切れるとしたら、
「もっと大きなエビを入れてくれ」
「かりかりのおこげを入れてくれ」
役立たずは注文が多い。
クルトとカンレルはパエリヤをよそいながら、キシュティを袋詰めにしてふりまわす作戦をいますぐ決行したくなってきた。役立たずと子育ては手がかかるという点で似ているが、決定的に異なる点がある。
子どもはかわいい。役立たずはかわいくない。
そんな、かわいくない役立たずたちのなかでも段違いにかわいくないのがキシュティだ。
キシュティはそもそも列に並ばず、パエリヤのほうから来るべきだと思っている。
仕方なく、エビやタラや貝の大きいのをたっぷり載せて持っていくと、まあ、予想はついていたが、エビは殻を剥いてくれ、タラは身から骨を外してくれ、貝は貝殻を捨ててくれ、ときた。そして、
「僕に奉仕できるなんてきみたちは実に運がいい」
と、言ったあたりで、
「お前はおれのガキか! お母さんはそんな子に育てた覚えはありません!」
カンレルがそう叫び、キシュティを逆さ吊りにした。
キシュティは人間を逆さまに吊ることは極めて非文明的であり、クルトが文明人であることを証明したくば、
「僕を助けろ! こいつを罰しろ!」
だが、太守の別荘に通じる道からブドウ酒を入れた甕がロバに引っぱられてやってきて、役立たずたちが自分の酒杯を持って一列に並び始めた。
「悪いが、文明世界の指導者層に奉仕しなくちゃいけなくなった」
そう言って、クルトはブドウ酒の甕のほうへ歩いていったのだが、それがあまりにも悠然としていたので、クルト自身、自分が極めてタチの悪い呪いをパランテロ先生からもらったことを忘れてしまったくらいだった。
「キシュティは、かわいい弟みたいなものなのですよ。兄さま兄さまとわたしの後ろをついてきました」
「恐喝のネタが増えた」
結局、あれこれ買って大きな書字板用の箱を背負う羽目になったエルテだが、ハルキアシュは新しい〈油を惜しまない商い〉へと向かっている。
ハルキアシュが青銅の酒杯を、頼みます、と寄せてきたので、ブドウ酒を注いだが、ちょうどなくなってしまった。
「ついてますね。次はブドウ酒の商いです」




