31.慈愛に優れるものは幸いなり
真のキシュティが予言をできない以上、楽観的な未来を引き出すには、別の引き受け先を探さないといけない。
よどんだ水のにおいがする落ちくぼんだ街で何人か、まじない師をあたったが、もう偽キシュティの予言が伝わっているらしく、まじない師たちは死の予言の尻馬に乗った。ひとりだけ、早死にしないと言うまじない師がいたが、その老婆はクルトたちには素晴らしい未来が待っていて、豪邸、領地、異性の奴隷も思うがままになるが、そのためにはこの首飾りを金貨で十テールを支払わなければならないと言われたのであてにならなかった。
エルテはアサシンギルドにいたことがあるし、クルトにもクラウディオだったころの記憶がある。
だから、偽の予言者が死を予言した以上、何が何でも死んでもらわないといけない。
その夜、泊まった宿屋でスープが出てきたとき、思ったより慌てなかったし、むしろ安心したくらいだ。
「キシュティ。飲むな」
「僕に指図するな」
「わかった。体が絞った雑巾みたいになるまで血を吐くと思うが、まあ、神さまの思し召しだ」
キシュティはぞっとした顔をして、さじを置いた。
エルテがくんくん鼻をきかせる。
「ボーンリーフの変種が使われてる」
「ナイトシェイド・ルナとカロリスの交雑種も使われている」クルトはスープに浮かぶ油の玉が細かすぎるのを見て言った。「火の属性があるカロリスと交雑すれば、ボーンリーフが熱で変質しても、ナイトシェイド・ルナが残る。ただ、ナイトシェイド・ルナは油をスープに馴染ませすぎる。カンレル、お前はどう思う?」
「あ? 何の話だ?」
「毒草学の基礎だぞ。こたえられないならテスト落第確実だ」
「旅に出て、ほんとよかったぜ」
「本当にな」
「まあ、ちょっと待て」
カンレルは木さじでスープをひとすくいして、口に入れた。
クルトとエルテ、そして、キシュティが『こいつ、口に入れやがった』という顔で驚いているのを尻目に、カンレルは毒草を味で割り出そうとしていた。
ぺっ、とスープを横に吐いて、
「そうだな。他にもいくつかある。ダークウィンドリーフ、カンタグノジス草、イクリプス苔、それにドクロ草の種を炒ったやつ。間違いない。そういう味がする」
「味って、毒草のか? 何で知ってるんだ? ――ああ、もういい。食べたんだな」
「毒草だって野菜の一種だぞ。仲間外れはかわいそうだ。それにほんのちょっとだけ。ちょっとかじっただけだ」
「学校はお前を旅立たせるべきじゃなかったな。毒草味覚学講座なんて、お前しか開けない」
「よせよ、照れるぜ」
「ともかく」と、エルテ。「シェフを呼んで。スープを褒めてあげたいから」
調理人は呼ばれた時点で汗だくだった。何も調理炉の熱だけではない。
エルテが、この素晴らしいスープをぜひとも作った人自身にも味わってもらいたいというと、調理人、頭がだいぶ剥げても未練がましくこめかみにガスみたいな髪を残したこの男はなかなか豊富な言い訳の持主で、
「お客さまの食べ物に調理人が手をつけてはわたしが主人に怒られます」
「実はスープを飲むと腹痛になる生まれつきの体質でして」
「亡くなった祖母に約束したんです。スープは飲まないって」
と、あっぱれいろいろ種類のあるところを見せてくれた。
最後になるとカンレルが無理やり調理人の顔にヘッドロックをしかけて、エルテが漏斗を探すところまでいったが、
「教団のみなさん! 助けてください!」
と、叫ぶや食堂の暖簾が剝がされて、神殿にいたのと同じ、角兜をかぶった戦士たちがあっという間になだれ込んできた。
クルト、カンレル、エルテは自分で自分を守れるが、キシュティは「守れ! 僕を守れ!」と連呼している。
キシュティに生きてもらわないと一番困るのは自分なのだから、とクルトは責任をもって、キシュティの盾になろうとしたが、カンレルとエルテには違う思惑があったようだ。
というのも、ふたりは賊が突撃する前にキシュティを窓へ突き飛ばした。
ここは二階である。
なんとか敵を蹴散らしながら階段を降り、キシュティが落ちた場所へと駆けていくと、干し草の山のなかでジタバタしているキシュティがいた。
カンレルがその襟をつかんで引きずりながら走り、エルテとクルトがそれに続く。
逃げながら、クルトたちは町じゅうのガラスのない窓が油紙の木枠で塞がれる音をきいた。クルトたちは罰当たりで死を予言された偽の大神官一味であり、窓からなかに入られたら困る。
こうなると町じゅう敵だらけであり、どこに逃げたらいいのかも地縁がないのでさっぱりわからない。
「絶対生きてやるからな、くそったれ!」カンレルが大声をあげる。
道が細くなり、壁が崩れ、気づくと古い庭園のような場所へ追いつめられた。うっかり踏みつけたルミナリス草がぼんやりと光っていて、追手の胸当てがゆらめく白い色を跳ね返す。
「貴様ら、恥ずかしくないのか!」キシュティが叫ぶ。「こんなやり方で予言を実現するなんて、ズルだ。そう、ズルだぞ!」
戦士たちは剣を鞘におさめた。
キシュティは本物の大神官の勝利だと喜んだが、その口がしまらないうちに戦士たちはギザギザの剣を抜いた。戦士たちはニヤニヤしている。こんなふうに人を追いつめて、切り刻んだのは一度や二度ではないようだ。
「余計に悪化したな」クルトが言った。「なあ。こっちは――」
言い終わらないうちに、戦士たちが「殺っちまえ!」と地を蹴って突進してきた。剣は下から上へ突き上げるような独特の構え――クルトたちのハラワタを狙う、あからさまにもほどがある構えだ。
ギャッ! 戦士のひとりが叫んで倒れた。矢じりが首の後ろから飛び出していた。
次々と音のない矢が飛んできて、頭、顎、胸を射抜かれて、三人が倒れる。そのうちひとりは最も大きな角を生やし、両手持ちの戦斧を構えた隊長クラスだ。
「退けっ!」
そう叫ぶが庭園の出入口まで生きてたどり着いたものはいない。
影が次々と立ち上がり、声をあげずに走り、角兜の戦士たちの急所に刃が滑り込んだからだ。
影のひとり、指揮官らしいものが黒い布を外して、顔をあらわにする。猫のような瞳が金色に光る、ずんぐりとした男だった。剣の血を闇色のマントで拭って鞘に納めると、キシュティの前でひざまずいた。
「ご無事で何よりです。大神官さま。我が主、カラハ太守ディスエ・ヌムさまよりお迎えに上がりました」
クルカロアス王国はいくつかの島で出来ていて、ウガリトに国王を、カラハ、ヒムハジュ、クル=クホ、イスク=ヌヌ、エヌハト=ヌヌに太守を置いていた。
太守に任じられるのは血筋、武勇、知恵、慈愛に優れるものと決まっていたが、例外はいつだって存在した。血筋のみに優れるものは王位を狙い、武勇のみに優れるものは独立を狙い、知恵のみに優れるものは佞臣となった。慈愛のみに優れるものは一度もあらわれたことはなかったが、ついにディスエ・ヌムがあらわれた。慈愛のみに優れるものは諜報者となった。表の平和を守るために裏で暗殺を行う。飢饉になるか否かのときに買い占め人、カラハの市街に火をかけてその混乱時に謀反を成功させようとする軍人、危険な教義で民を害しようとした宗教指導者。
おかげでカラハは平和であり、戦乱にも飢饉にも脅かされることはなかった。
「わかっている。わたしは傲慢だった」
寝台に横になっているのは、骨と皮だけになったディスエ・ヌムだった。
大きな白い髭が胸の前を隠し、いまにも指輪が落ちそうな細い指で冷たい水を飲むことさえ難しい。落ちくぼんだ目は虚空をさまようこともあり、そんなとき、老人は自分の魂をさらってくれる半透明の腕を見ているのだ。
「申し訳ありません。大神官さま。わたしともあろうものが、あなたの偽者を神殿に出入りさせています。このような体でなければ、わたしはひとつ罪を重ねるだけで解決できたのですが」
「いまはそのようなことを気にするときではない」
「ありがとうございます。大神官さま」
太守邸の園亭に据えられた寝台のまわりには交代制で侍医が付き添っていた。小さな大理石の台には古クルカン語の辞典が置いてある。
「きみたち三人は癒光が使えるそうだが、いまの、わたしにはどのような治療が必要だと思うかね?」
「野菜だな」
「春の農園から香る緑はいつだって素晴らしい一年を約束してくれる」
「お肉」
「親友たちと狩りをして、弓で得た肉よりうまい肉は食べたことがない。そちらの少年は?」
「おれは、――静かに物思いにふけるための時間です」
太守は発作のように笑った。
「ルダニア人はいつだって率直だ。だが、今はそれがありがたい。それでハトゥーヌムがあらわれたのはきみでいいのかね?」
「ええ」
「見せてほしい」
クルトはボタンを外して、シャツの前を左右に除けた。
最後に見たときは小さな豆ほどだったが、今は銅貨くらいの大きさがある。
それを見て、太守は細すぎる指で印を切った。
「カルケミー神よ。我らを守りたまえ。青銅の神ナルガルよ、いかなる邪悪も祓う武器を授けたまえ。ハトゥーヌムを見ることになるとは。誰ぞ、おるか。わたしを輿で運べ」
広すぎる太守邸を横切っているあいだに死んでしまわないか心配になるほど、体調は悪かったが、太守は死なずに壁画の部屋までクルトたちを案内することができなかった。
「これがハトゥーヌムだ」
クルトは震えた。壁画はだいぶデフォルメされていて、人間が奇妙な模様の椅子に見えるようなものだったが、それでもハトゥーヌムと呼ばれたものが〈門〉であることは明らかだったし、その門からあらわれようとする怪物。
黒い翼、赤く光る鉤爪。
リミッターを外したクラウディオそのものだった。




