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29.呪い

 クラウディオだったころの自分がいた。

 希望を打ち砕かれた顔をして。

 リミッターを外そうとしていた。

 ――だめだ。クルトが叫んだ。

 クラウディオの首筋の血の道が紫色にそまり、黒い翼が、赤く光る鉤爪が。


 目を覚ましたとき、見えたのは世界をバラ色に染める、南国らしい夕焼けだった。

 体を起こす。

 あの細い道だ。

 だが、沈む太陽に向かってまっすぐ伸びているために光に満ち溢れていた。

 立ち上がり、埃や土を叩き落とした。

「ひどい夢だ」

 どこからが夢かわからなかった。

 リミッターを外して化け物になろうとしている自分。

 パランテロ先生から吹き荒れた黒い風。

「とりあえず、……帰るか」

 宿屋に戻る。残照が西に続く城壁の上でとろ火のように夜空をくすぐっている。市内のあちこちで青銅のランプに火が点る。

 クルカロアス王国では青銅が鉄よりも、というよりも青銅のみが使われているときいたことがあった。

 実際、灯明具や簡単な装飾具、剣、農具、食器、おもちゃにまで使われている。

 だから、新しい青銅の金色がこの豊かな都市をきらびやかに飾る。

 鉄については「よくわからんが、とりあえずこれが人気らしいから売ってみるか」くらいのものなのだ。

 宿屋の中庭では柱に革の紐を巻いて、それの端をくわえたカンレルが寸止めを体に覚えさせるために拳の乱舞を繰り出していた。癒光が起こるたびに、夜に沈んだばかりの中庭が、ふわっ、ふわっ、と闇が除けられる。

「よっ、クルト」カンレルは柱から革の紐を外しながら、にかっと笑った。「収穫あったか?」

「あった、といえば、あったようななかったような」

「なんだ、そりゃ? ……なあ、大丈夫か? 顔色悪いぞ」

「大丈夫だよ」

 ランプをひとつ借りて、部屋に戻り、火を天井から吊るされた照明に移し、引き出しも兼ねた寝台に座った。

「……」

 シャツのボタンを外して、明かりを近づけて、胸を見た。

 小さな、紫色のあざのようなものが胸の真ん中にある。

 その縁は雑草の細い根のように伸びていた。

 まるで蝕むように。

 癒光を右手にたくわえて、胸に手を当てた。

 押し返されるような感覚を手のひらに感じた。ときどき、ちくりとする。

 手をはなす。

 あざは消えない。

 そのとき、宿屋の店主が部屋に駆け込んできた。

 クルトは慌ててシャツの前を閉じた。

「お客さん、あんた、何かしたんですか!」

「なにか、って……」

「兵士たちがうちの店をぐるっと囲ってるんです。それも神殿の兵ですよ!」

 神殿。いま、この宿屋で自分の胸にある紫色の侵蝕以上に禍々しいものがあるとは思えない。

「おれの連れは?」

「知りません。それにしても、兵士たちはどうして突っ込んでこないんだろう?」

 こたえはカンレルとエルテが宿屋の中庭に通じる道に臨戦態勢を取っていたからだ。

 軽く足をタップしながら、癒光をまとった拳をシュッシュと繰り出す長身の少年と、まったく表情のない少女。しかも、少年のほうが、

「久々に骨のある喧嘩ができそうだぜ。さあ、どこから健康になりたい? 頭か? 関節か? それとも心臓か?」

 と、来る。少女のほうは、

「殺すつもりはないけど、半殺しは覚悟しておいて」

「こいつの半殺し、信用すんなよ。五分の四殺しはいくからな」

「そんなことない」

「クルトに誓って言えるか?」

「……七分の四殺しはいくかもしれない」

 兵士たちは青銅の鱗鎧に白く厚い布を腰に巻き、使い勝手のよさそうな中くらいの刃渡りの剣を二刀流にしていたが、編成に不安を感じたのか、ちょっとかがめば人が完全に隠れる大きな盾を前に持ってきた。

「盾ぇ?」カンレルが口角を大いに引き上げて笑った。「かわいいもん、使ってくれるじゃねえか! ああ!?」

 寸止め無用の拳の乱舞は革と厚板でつくった大きな盾をぼこぼこの穴だらけにした。

「野蛮」

 エルテの手が閃き、キラッとひと光して、投げナイフが盾に刺さった。

 普通のナイフと違うのは、握りに火薬が詰まっていて、導火線がしゅうしゅうと白い煙をたてていることだ。

 慌てて捨てられた盾は七つの不揃いな破片となって飛び散った。

 このふたり、どう見ても危険な存在だった。搾りたてのふわふわしたチーズとか、流れ星に託した物語とかとは真逆の存在だ。

 だから、クルトが中庭にあらわれて、ふたりとも大丈夫だと言ったときには包囲している兵士側にほっと安堵の息をつかれたくらいだ。

「たぶん、おれが目当てだ」

 クルトが兵士たちの列へ近づくと、盾の壁が左右に退いた。

 あらわれたのは背の高い老人で、クルカロアス人らしい褐色の肌にニンジン色の髭を顎に蓄えている。目立った帯をしているほかは簡素なローブと革のサンダルで質素な姿だが、兵士たちの老人に対する態度は王族に対するそれだった。

「なんだあ? このニンジンみたいな髭したじいさんは?」

「無礼者!」隊長クラスの男が声を荒げる。「このお方は大神官ザルハラム・ヌスなるぞ」

「元、大神官だよ」

 ザルハラムと呼ばれた老人が力なく笑った。

「最初に強硬な手段に出たことは謝ろう。少し急がなければいけない理由があったのだ」

「それは――これのことですか?」

 クルトはボタンを外し、紫のあざを見せた。あざというよりは侵蝕する何か。

 老人はうなずいた。

「そうだ」


「癒光は?」と、カンレルがたずねる。

「だめだった」

 夜の神殿には煌々と明かりがかかっている。ここでは神に関わるものは休むことなく、読み、焚き、捧げ、知をもって生きようとしているようだ。

 あるいは――クルトは少しうつむく――おれのせいかもしれない。

 赤い鉱石と青い鉱石を砕いて塗り飾った神殿の門を過ぎると、灯火台を左右に列として配した道があり、その先に神話の亀を模した角ばった主神殿がある。

 そして、参拝者が入ることのできない境界線には見たこともきいたこともない文字が光るラピスラズリで書き連ねてあった。

「すまないが」と、ザルハラム・ヌスが言う。「ここからはクルトくんだけだ」

 なに?と、カンレル。

「クルト親衛隊二代目隊長のカンレル・スカラバリエリさまがハイそうですかって大人しく引き下がると思ってんのか?」

 すると、エルテが軽く握った持ち上げて、しぴっ、と勢いよく親指を自分に向けて立て、

「二代目隊長はわたし」

 と、言った。

「はあ? おれに決まってんだろうが!」

「わたし」

「おれ!」

「わたし」

「おれ!」

 なあ、と、クルト。

「おれのことなら大丈夫だ。いざとなったら、自分の面倒くらい自分で見られる。それと、クルト親衛隊ってなんなんだ? だいたい、どうしてふたりとも二代目なんだ? 一代目は?」

 ふたりは声をそろえてこたえた。

「スーエン」


 大神殿の廊下には青銅の油壷がぶら下がり、壁に描かれた物語のひとつとさえ、見逃させまいと光が闇を払っている。

 この国に来てから、軍船のオール、門柱、透かし彫り、甕の模様、入れ墨をした男の背中に、見ることはできるが読むことのできない物語が描かれているのをクルトは見てきた。

 いま、クルトが壁に見ているのは花を手にした馬の頭の男と剣を手にした牛の頭の女が向かい合っている古代壁画であり、なぜかわからないが、この壁画は時間の経過の冷酷さを表しているような気がした。

 前には元大神官ザルハラムの少し猫背な背中が見える。だが、体格には老いるまでに何十年という年月を旅と冒険に費やしたらしい頑丈さが見てわかるほどにはっきりしている。

 いま、歩いているのはザルハラムとクルトだけで、お付きの神殿戦士たちですら、ついてこなかった。

 廊下の壁画は戸の代わりに垂らした織物によって中断され、そして、物語は切り替わる。それぞれの部屋からは眠気をこらえながら、読み、書き、つくる物音が細く切れ切れにきこえてきた。

 廊下が広くなり、奥に戸口が見えてきた。ただの戸口ではない。本物の、生きた樹が根づいて、門を支える柱となっている。

「あそこが大神官キシュティ・ナムの実験室だ」

 枝の支える梁の下を歩いていくと、天井の高い、甘ったるい香のにおう部屋に出た。

 実験室のようだが、療術士のものとは縁のない器具と材料が目立った。

 脚付きの祭壇火鉢で緑の炎が立ち、そのまわりに依り代らしい葦人形がばらまかれている。棚には古代の粘土板や蝋の記述板、象嵌細工の箱には結晶が乱雑に詰められていて、赤い獅子の像に乗った水盤には真珠が数粒、日照を待って沈んでいる。テーブルには材料――硫黄、蜜を抜ききった蜂の巣の切り出し。床には呪術文字だらけの方陣が白石で描かれているが、あちこちにサンダルでこすって消して、描きなおした後がある。

 そして、三つの青銅ランプで明かりをつくった机に、腰を帯で結んだローブ姿の、神経質そうな顔の若者が向き合っている。若者は切り目を入れた葦の茎にインクを吸わせて、パピルス紙に熱心に記号と数式を綴っていた。何か書いては癖のある黒い髪を掻き、今度は簡単な図式を描く。何かの実験を設計しているらしい。

 ザルハラムが咳をすると、若者がちらりとクルトを見て、ザルハラムを見て、ため息をして、書き物をやめた。

「そいつがハトゥーヌムの呪いにかかったってやつですか?」

「そうだ」

 また、若者はため息をついた。その顔は小づくりで、思ったよりもずっと若いようだ。青い石でつくった小さな神像のネックレス以外には飾り物はない。

 その鳶色の瞳でクルトをじろじろと見つめる。

「巫女たちは何も告げませんでしたね」

「告げてはいた。だが、少し遅れた。このことで巫女たちは責められん。ハトゥーヌムに魅入られるものが出るなど、本来なら、いかなる託宣も与えはしない。我々は自分たちでこの解呪をせねばならん」

「誰が行くんですか? ヤノブ・ヌヌですか? それともフナイザ?」

「お前だ。キシュティ。お前が行く」

「大神官さまが冗談を言うあたり、こいつの呪いはそんなに深刻ではないようですね」

「元、大神官。それにわたしは冗談を言っているわけではない。キシュティよ。まず、お前が、彼を連れて、カラハ、ヒムハジュ、クル=クホ、イスク=ヌヌ、エヌハト=ヌヌの神殿に供物のパンを捧げなければいけない」

「エヌハト=ヌヌ!」

 キシュティの嘲笑ならいつでも浮かべる小さな口があんぐりと開いた。

「あの神殿は、もう何十年も参詣したものがいない、失われた神殿です!」

「そうだな。わたしの知らないところで巡礼団が派遣されたのでない限り、エヌハト=ヌヌは密林に閉ざされている」

「そこに、このものとともに行けと?」

「このもの、クルトの連れであるふたりもついていく」

「冗談じゃありませんよ、大神官さま!」

「元、大神官だ。いまの大神官はお前だ、キシュティ」

「では、元大神官さま。僕が行くことはできません。僕がいなくなったら、誰がウガリトで大神官の務めを果たすのです?」

「わたしがしよう。今だって、お前は神官長たちに任せて、研究室にこもり切り、ろくに儀式も果たしていない。キシュティよ。お前が素晴らしい解呪士であることは誰もが認めるが、いまだもって予言をきくことはできない。その理由も、この旅でわかるだろう」

「旅!」キシュティがのけぞった。まるで〈旅〉という言葉が自分に襲いかかる猛獣か何かのように。「僕は旅に出るんですか?」

「当然だ。神殿のほうからウガリトにやってくるのではない」

「あんまりですよ、大神官さま!」

「元、大神官」

「僕のために料理をつくったり、布団を干してくれるものはいるんですか?」

「いないだろうな」

「こいつとこいつの仲間が僕を殺して海に捨てる気になったら?」

「それも神々の思し召しだろう」

「僕は都を離れては生きていけません」

「だが、行かねばならない。ハトゥーヌムはただの呪いではない。その解呪は大神殿に勤めるものの第一の義務だ。ハトゥーヌムが前回あらわれたのは五百年以上前だが、クルカロアス諸島の半分が飲み込まれ、海に沈んで二度と戻ることはなかった」

 パランテロ先生がなぜ、おれにそんなものを?

 クルトはそれを知らなければならなかった。

「そして、このものは療術士だ。確かにハトゥーヌムと解呪しきることはできないが、それでも常人よりも耐久力がある。時間があるのだ。キシュティよ。この解呪は最も優れたものが行わなければならないのだ」

「そうは言いましても――」

 あきらかに外出を拒んでいた。世界の終わりが近づいても、おそらくこの実験室から出ようとしない、そんな極めた閉じこもり気質を垣間見た気がした。

 キシュティはあくまでも拒否した。

 すると、ザルハラムはためらうことなく、ローブの端を手で撫でながら、ひざまずいて、キシュティへ平伏して、

「民ザルハラム・ヌスより、大神官キシュティ・ナムさまへお願いを申し上げる。このたびの解呪をぜひとも引き受けられ、クルカロアスと、かの少年クルトをお救いくださるよう、重ねて、申し上げ――」

 キシュティが慌てた。

「わかりましたよ! わかりましたから、顔をあげてください、先生!」

 ザルハラムは身を起こし、立ち上がり、膝から埃を払いながら、

「わかればよろしい」

 と、言い、クルトをちらっと見て、笑いかけた。

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