28.ウガリト
南風には色があり、それは夏の空と同じ色をしていた。
斜帆でうまく風を切りながら、船はクルカロアス王国諸島の首都ウガリトを目指していた。
海から見たウガリトは白い神さまが寝そべっているように左右に伸びていた。首都のまわりにはカカオの農園や丘につくられた農村があり、島で最も高い丘には他の島へ情報を伝える狼煙をあげるための高い塔が立っていた。
だんだん、港が見えてきたが、アンクット=クーのガレー船、トリステインの軍艦、ジンダレンの漁船団など、諸国の船が集まっているのがわかる。ここは海洋貿易の中継港であり、ここがなくなれば、向こう三十年、フィネ海に面する国々はかなり不便な生活を送る羽目になる。香辛料と絹はなくなって、倉庫は買い手のない鉄鉱石でいっぱいになる。
「ひゃー、あったけえなあ」
カンレルが上機嫌に腕をまわして、体の凝りを取っている。
「まだ三月なのにな」
「冬がねえって話らしいじゃねえか」
「ずっと夏ってのも暑すぎないか?」
「だから、ウガリトの窓にはガラスをはめないんだってよ。風をいっさい遮らないって。そういや、エルテはまだ船酔いか?」
「ああ」
「船酔いに癒光はきかないんだな」
「船酔いは病気とは違うからな」
り……く……。
下層甲板へつながる階段口から、かすれた声がきこえてきた。
「ん? なんだ?」
まず、手が伸びてきて、縁の段を握った。
そして、墓から這い出るアンデッドみたいにエルテが這ってあらわれた。着ているのは同じ船にのっていた布商人から買ったフランネル生地の水着だ。
「おい、エルテ。船酔いは――大丈夫じゃなさそうだな」
「り、く。りく。陸ぅ!」
エルテはバネ仕掛けのおもちゃみたいに飛び上がったかと思ったら、飛び石みたいにカンレルの頭を踏み、
「んぎゃっ!」
そして、そのまま高く跳ねてから海に飛び込んだ。
「エルテ!」
「くっそー、思い切り踏みやがって」
舷側について海を見下ろすと、ウガリト陸目掛けて、猛然と水を掻き、バタ足をして、カジキマグロみたいに突っ込んでいくエルテの姿が見えた。
「遅い」
桟橋で腕を組んだエルテが咎めるように言った。
「お前がはやすぎるんだ」と、クルトは言い返した。「ほら、着替えだ」
近くの閂がかかる部屋で水着から着替えたエルテはすっかり気分もよくなったらしく、
「お腹が空いた。お肉」
「本調子に戻ったらしいな」
「また船に乗るまでに癒光で船酔いを治す方法を見つける」
「まあ、倒れないようにな」
「意識失って倒れたほうがマシ。クルトは船酔いになったことがないからわからない」
おーい、と、カンレルが手をふった。
「こっち見てみろよ!」
そう言って、カンレルが指差したのは民家の窓だった。
「ほんとにガラスがねえ。雨降ったら、どうすんのかな?」
油紙を張った木枠をはめ込む。
ウガリトでは見るもの全てが新しかった。
桟橋に降りて、首を左右に一度ずつふっただけで、未知の文化が十、二十と目に飛び込んでくる。
軍船は虹色の建国神話を刻んだオールを静かな海に浸らせて休んでいる。塩でつくられたように白い家々とそのあいだに沈み込んだ涼しい影。巨大魚ターポンの鱗でつくられたドレスは太陽の影を表面に走らせ女性たちを神々しく飾る。このあたりの子どもたちはもう世界の珍品は見飽きているらしく、むしろスゲースゲーと騒いでいるカンレルのほうが面白い見世物になっているらしい。
「おい、行くぞ。恥ずかしい」
「ここじゃどんな野菜料理が食えるのかな?」
「ラムチョップ」
港には、豆、油、絨毯、金属、香辛料、毛皮、加工した海綿、象牙、家具、珍獣、と、それぞれ専門の倉庫街があり、そのすぐ横にはそれぞれの品に対応した交易所があり、世界じゅうの商人が集まっては、商品をかいで、もんで、光に透かして、喉をなでて、これはと思ったものを買い取っていく。
倉庫の連なりの大きな切れ目に見たことのない鮮やかな市場があった。
ルダニアなら裕福な商人の家を飾る複雑な模様の染色布が屋台の日除け布に使われていて、売り物はどれも世界の海を越えてやってきた。雪国のキツネをまるまる一匹使ってつくったカバンのような財布を従者に持たせて買い物をする貴族夫人。ハーブと胡椒を差し込んだ赤と白の新鮮な肉塊からエルテを引き外すのに苦労した。ミニチュア大聖堂の聖遺物箱は貯金箱として売られている。海軍騎士修道会の僧侶たちが挿絵を描いた海図は値が張ったが、これを壁にかけると交易商人として箔がつく。
屋台の軽食を買って歩きながら食べるのは町に慣れてからの話で、最初の食事はどっしり腰をすえて、その土地の料理を味わいたい。北の門から市場を出て、人にたずねて、料理屋を教えてもらった。
その店は四方を壁一枚でまわして、客の座る席はみな中庭に用意してあった。雨の日はどうやって営業するのか心配になるが、何か古来より伝わる知恵でどうにかするのだろうと思い、緑樹の木陰が心地よい席についた。
頭に壺を乗せた給仕娘がやってきて、ジョッキより少し小さいくらいの寸胴な壺を三つ置き、頭の壺からビールを注いだ。ルダニアではだいだい十五歳くらいからビールが飲めるようになるが、隣の席で十歳くらいの子どもがビールを飲んでいる。
「それじゃ、かんぱーい」
口にしたビールは冷たくさわやかだ。大酒はいけないが、ビールは古来より肝臓を喜ばせ、心を満たす飲み物とされている。それにしても、ウガリトのビールは健康によさそうだ。それもそのはずで、ウガリトで注がれる全てのビールは王が定めるごまかしのないビール壺に注ぎ、ナツメヤシと膏薬用のマスタードシードを入れて飲むべしと定めた法律が宮殿書庫の最も古い粘土板に記されている。
「ご注文は?」
「野菜!」
「お肉」
給仕娘が困った顔をしてクルトを見たので、
「すいません。これ以上ないほど肉まる出しの料理とこれ以上ないほど野菜まる出しの料理をがっつりください。おれは焼いた魚をもらえますか?」
カンレルにやってきたのは長ネギとクレソンとコリアンダーを刻んで、酒と酢で和えたサラダをボウルいっぱいに、エルテは牛肉の塊に串を三本突き刺して直火で焼いたものにブドウ酢とニンニクのみじん切りをかけたものがもたらされた。
「いっただっきまーす」
クルトには焼いたマグロの切り身にひよこ豆のペーストをつけたものがやってきた。
「いただきます」
宿屋を決めると、クルトはパランテロ先生を探すべく、町に出た。
たずねて歩くうちに路地裏へ迷い込んだ。
乾いた木を打つ職人の工房や主婦が集まる水汲み場、市場へ続くらしい細い道。
天幕は重なり合うように立てられて、まだ営業していない酒場の前では男たちがしゃがんでアメジストでつくったサイコロを転がしていた。
こたえはいつも決まっていた――そんな名前、知らないね。
石を敷いた道が水路で断ち切られた。クルトは後ろに下がってから走り出し、水路の縁石で地を蹴った。
びゅうい、と冷たい手に背をなでられた気がした。
着地すると、道が暗くなった。先にあるのは堅牢とは言い難い建物がつくる谷底だ。道の石は緩んで、砕けた陶器の破片が集まったところで白茶けた雑草が生えている。青銅の大きなナイフを縄で腰につけた目つきの悪い男たちが道の横の段差に腰かけて、クルトがカネになりそうなものを身につけていないかじっと見つめてくる。
相手の間合いからさらに一歩先まで身を外した。
来るかと思ったとき、どこかからしゃがれた声の唄がきこえてきた。
男たちはカネにならないクルトを襲うかわりに唄に耳をかたむける気になったようで、緊迫した空気の見えない火花が静かに消えていった。
また角を曲がる。窓がなく、細い扉がいくつかあるだけの小道に出た。
心臓が、強いられたようにはやく打ち始めた。
癖がついた白い髪、眉と目じりが下がっていて、どこか悲し気な顔。
間違いない。
「パランテロ先生!」
先生が顔をクルトに向けた。
間違いない。
この世界に来たのは自分だけではなかった。
なら、きっとイヴも――
「っ!」
そのとき、パランテロ先生の後ろから黒い風が吹いて、クルトを打ち抜いた。




