26.アルフォンゾ・パランテロ先生
セルトン・オグアンはなるほど大きな屋敷に住むだけのことはあって、その陳情書で貧民施療院の閉鎖は吹き飛んだ。
国王はネックレス購入のために別の資金捻出手段を見つけるしかない。
その一方で、クルトは相変わらずイヴを、あるいはイヴの噂を探していた。
そして、相変わらずだまされていた。
あるときなど、言われるがまま、地下に降りていったら、非合法の闘技場に出てしまった。
裸の筋肉をかたどった鋼の胸当てをつけて、銀のマスクをしたチャンピオンと呼ばれている男がいて、好きな武器を選べと言った。剣と斧とこん棒があった。クルトは武器を取らなかったが、ブーツの紐を直すと見せかけて、闘技場に敷かれた褐色の砂をひと握り、右手を筒のようにした拳をつくった。
チャンピオンが、つぶすとかぶっ飛ばすとか言っていたが、ちゃんときいていなかった。これからクルトが熟れたトマトみたいにぶっ潰されるのを期待する観客のなかにひょっとしたら、イヴがいるかもしれないと思い、そちらに気を配っていたからだ。
だが、すぐにやめた。イヴがそんなものを見たがるわけがない。
要するに、まただまされた。
となったら、長居は無用だ。
叫びながら巨大な斧で殴りかかるチャンピオンを左にステップしてかわし、至近距離まで潜り込み、右手に口をつけて、吹き矢の要領で鋭く吹いた。砂がマスクの目の穴に飛んで、チャンピオンがウッとうめくと、股を蹴りあげて終わりにした。
客は意外な展開に大喜びだった。コインが雨のように降ってきた。だが、クルトはそれを無視して、観客席へよじ登り、よくやったと背を叩くのを無視して、クルトをだました興行主を探した。
一番いい席でチキンを食べながら、クッションにうずもれていたので、襟をつかんで立たせて壁に押しつけた。
「あのデカブツがイヴだっていうんじゃないだろうな」
「カネになる。あんた、カネになるよ! おれと組んでよ、それで――」
「イヴはどこだ?」
「い、いない。でも――」
クルトは右手を離して、手をほのかに光らせた。
「これがわかるか?」
「え? 癒光?」
「そうだ。おれはお前の腕をへし折って、また治すことができる。それでまたへし折って、また治す。主義に反するが、イヴのことでだまされれば、怒りで何をするかわからない。イヴはいるのか、いないのか?」
「い、いない、だけど――」
「よし。いい度胸だ」
「パランテロってじいさんが、そんな名前の女を探してるって、きいた。それだけだよ!」
「いま、なんて言った?」
「は?」
「だから、いま、なんて言った!」
「知らない! なにも言ってない! 怒らないでくれよ!」
「言えば、出ていく。お前はパランテロ先生に会ったんだな?」
「じ、じいさんだった。そいつがクラウディオとイヴってガキを探してるって。ガキたちはアーナドって島にいるって。でも、おれ、カネになりそうにないから、追い出しちまったんだ」
「先生はどこにいる?」
「し、知らない。いや、でも、クルカロアスに行くって言ってた」
「いつの話だ?」
「は、半年前」
クルトは興行主を離すと、急いでそこを出た。
クラウディオはこの二週間、味方の兵士をナイフか絞殺器具で殺害する幽霊のような兵士を追っていた。死神と恐れられたその兵士――イヴと遭遇したのはキャッサバ畑でのことだった。
なぜ、あのとき、イヴを殺そうとしなかったのだろう。
イヴはクラウディオが初めて殺さなかった〈敵〉だった。
いや、たぶん、パランテロ先生のせいだろう。
パランテロ先生は向かい合うふたりのちょうど真ん中からあらわれた。
ずっと、しゃがんで農作業に励んでいたのか、背を少しさすっていた。
パランテロ先生はクラウディオとイヴに気づいたとき、どこか怪我をしていないかを見た。教師という細かい気を配る職業に七十年近く従事していたせいのかもしれないし、たとえ殺人機械のような子どもであっても、子どもが苦しむ姿は見たくないというある種のヒューマニズムのせいかもしれない。
「キャッサバに砲兵隊の大佐が紛れ込んでいないか確かめたいのだが、確かめてもいいかね?」
手にナイフを持ち、向かい合うふたりにパランテロ先生は言った。
「砲兵隊に限った話じゃないが、ラテンアメリカで戦争が起こると、決まって大佐と呼ばれる生き物が激増する。海兵隊の大佐だとか、空軍の大佐だとか。軍楽隊の大佐だったら歓迎するが、砲兵隊の大佐はあまり歓迎できない。というのも、砲兵隊の大佐はだいたいが能無しと相場が決まっているから、自分の部隊の大砲をポケットに入れて歩いて知らぬうちに無くしてしまう。あんな大きなものをどうやったら無くせるのか不思議だが、その昔、政治家と呼ばれた畜生にも劣る外道どもは国を無くした。それに比べると、砲兵隊の大佐はまだかわいいものかもしれない。大砲を無くした砲兵隊の大佐は戦争の役に立たない大佐なのだが、それでも自分が戦争に関わっていることをアピールしようとして、手持ちの砲弾を地雷に改造して、あちこちの土に埋める。この元砲弾の地雷というのが、普通の地雷など犬の屁ほどにも思えるほど強力だから、うっかり踏んだ日にはおっ月さんまで吹き飛ばされてしまう。だから、わたしはわたしのキャッサバ畑に砲兵隊の大佐がかがんで砲弾を仕掛けていないか、確かめたいのだ」
クラウディオとイヴはこの老人は狂人なのかもしれないと思い始めた。
「やれやれ。やっと見栄えがするだけの髪が伸びてきました。好みとしてはもっと長くしたいのですが」
施療院の鉢植えが置かれたテラスにコルネゼ博士がいた。鏡を見ながら、前髪をいじっている。
「そうだ、きいてください。素晴らしい工夫を見ましたよ。通いの娼館が両開きのドアを取っ払ったんですが、ドア板のかわりにすらりと背の高い娼婦にタフタ織りのガウンを着せて扉の代わりにしたんです。夏までに全ての娼館や売春宿が真似し――おや」
そして、ちらりとクルトの顔を見ると、
「どうやら、旅立ちのときが来たようですね」
「博士はなんでもお見通しなんですね」
「きみが顔に出過ぎるんですよ。それでどこへ?」
「クルカロアスへ。おれとイヴが共通で知っている人物がそこにいると」
「これから暑くなる国です」
「ひとつ、心残りがあります」
「なんですか?」
「この施療院です」
「どうして?」
「おれには責任があります」
「なぜ?」
「おれがいなくなった後、施療院はどうなるのか考えると」
「わからないですね」
「博士は本当に恋愛以外は疎いんですね」
「そうですね。でも、この施療院のことで心配することはないでしょう」
「え?」
「あなたたちは、わたしたちにいい刺激になりました。今更恥ずかしいですが、医者の真似事をまたしたくなりました」
「それって――」
「マクマーオン博士は最近、破産した錬金術師の大安売りで螺旋管を買ってきて、お酒の蒸留をしていますが、同時に薬剤も作るようになりました。薬草集めは腰が痛くなると言っています。ド=テシィ博士は宰相の痔を手術で治した噂が広まって、人のお尻ばかり見せられて、うんざりしていると言っていますよ。ですが、博士は本来、腕がいい外科医です。いつも手術が失敗するほうに賭けては負けて、快感を得ています」
「そうですか」
「それにシプリアノ・メーナ博士のことがあります。女性がいいように使い潰されることは決して許しません。彼女の癒光は必要な人に必要なだけ使えるように見張って、休みが必要なときはきちんと休ませます。――あなたたちがきて、少し変わったんです。まあ、お酒、賭博、それに女性についてはやめられませんが。それに患者たちも変わってきました。無料だから使い潰そうとしていません。払える人は払おうとするようになりましたし、自分で薬草を持ってくることもあります。それに現物払い。マクマーオン博士はこれで大いに潤っていますよ。刃物を突きつけてくる追い剥ぎもいなくなりましたし、詐欺師も治療目的以外ではやってきません。きいた話では裏社会では、ここやここで働いている医師を相手に仕事をすることを禁じているそうです。こんなこと、以前なら考えられないことですよ」




