25.エルテ流潜入術
その日の夜は繁華街はにぎわい、道の都合で遠回りを余儀なくされた商隊の駄馬たちは交易宿の厩で干し草をむさぼった。屋根裏部屋の画家や詩人たちは当分手に入る予定のない名声を夢見て空腹をごまかした。
そんな夜、屋根から屋根へと飛び継いでいく小さな漆黒の影の存在には誰も気づかない。屋根の抜けた廃屋では残った梁や壁の端を駆けていく。
――とはいうが、屋根裏部屋の住人たちのなかには耳できく音が命の作曲家志願もいるので、エルテの足運びと丈夫な布を靴底に重ねて足音を残さない特殊加工のブーツをもってしても、足音をきかれることはあった。
ただ、作曲家志願のほとんどはどうしようもない空きっ腹を抱えて疲れ切っていたから、音楽以外の刺激を受けることができなかった。心配してきてくれたチェロ奏者の友人が「なあ、サミュエル、何かきこえなかったか?」ときかれても、「ああー?」としかこたえられないし、もし、エルテが目の前に暗殺装束のまま降りて、これから弁護士のセルトン・オグアンの屋敷に忍び込むつもりだが、あなたの部屋の上の屋根を通ってもいいか?とたずねても、「ああー?」としかこたえられない。
エルテは金銀細工師の家の屋根に身を低くしていた。
三階建ての屋根から、セルトン・オグアン邸を見下ろせる。
都市という地面の限られた場所に左右の翼棟をつけた二階建ての屋敷と狭いながらも形式で整えた庭園があるあたり、相当儲かっているらしい。
今夜は宴会があるらしく、馬車が到着しては金のボタンで胸を飾った召使いがあらわれて、紹介状を預かり、そして、名前を読み上げる。
「モントローズ伯爵ご夫妻、ご到着です」
「エルデル大使ご夫妻、ご到着です」
貴族、外国人、裕福な商人が次々と案内されてはドアが開き、名前は知らないが、よくお金持ちの家で流される音楽がきこえ、そして、消えていく。
理想を言えば、招待客に変装するのが標的に近づく一番の近道であり、いつだって暗殺者を魅了する。だが、上流階級というのはお互いの顔と名前と一週間前に交わした機転の利いたジョークをしっかり覚えている。顔も変えて本物の招待状を手に入れても、センスのないジョークをうっかり口にすれば、誰だ、お前、になってしまうのだ。
もちろん、カーボ伯爵のような身分と交流関係に恵まれた例もある。彼は堂々と招待されて、堂々と招待状を取り出し、堂々とホールにあらわれて、堂々と招待主のブランジェ子爵と握手をし「おれの妻の味はどうだった?」と面と向かって言って、調理場で見つけた一番分厚くて頑丈な肉切り包丁を子爵の喉に突き刺した。
封建領主でもないし、人付き合いも得意ではないエルテには、この手は採れない。
となると、標的の心理を読むのがいい。どこで、どんなことをするのか。一番は、どんなときにひとりになりたがるのかだ。
エルテはセルトン・オグアンのつもりで考える。
胃が痛い。ずっと、こうだ。いろいろなポーションを試したが駄目だ。上流階級御用達の医者に癒光を使えるというものがいる。そうだ。それで治そう。ところが、癒光を使えると自称する医師の半分以上が発光鱗粉を手に塗ったペテンだ。いや、あそこは本物だ。みんながそう言っている。建物もいい。紋章付きの盾は王族からの支援の印だ。ということは、本物だ。間違いない。ところが、癒光が実際に使える医師の半分以上はルミナリス草を十株以上ガツガツ食べても、腹痛ひとつ治せない。じゃあ、どうすればいいんだ。そして、考えた末に、どうやら貧民施療院に本当の本物の癒光が使える医師いて、しかも無償で治してくれる。いや、もう、この際、有償でもいい。この胃痛から解放されるなら、なんだって――。
「……」
どうも標的の考えを遡り過ぎたようだ。
ここは正攻法に戻る。
黒装束で忍び込み、そこから行動を開始する。
エルテは暗殺任務を下されて、屋敷に忍び込み、標的の喉を掻き切った経験が何度かあるから、貴族の屋敷というものを知っている。
きらびやかな宴でカチンと鳴り合うグラスの裏では大勢の働く使用者がいる。
外から屋敷を見るだけではわからないが、主人が使う部屋は実はそのうちの半分で、残り半分は使用人のみが使う廊下や仕事部屋だ。調理場、配膳室、給仕用リフト、食料保管庫とワイン庫、普通の食器庫と鍵付きの銀食器部屋、使用人用食堂、待機室。
そして、これらの部屋を結び、来賓客に料理と酒、そしてサービスを供給するための無数の廊下。
つまり、侵入経路は使用人スペースにたくさんある。
それに対応して語り継がれる伝説的な失敗例も。
まず〈ウナギ〉。
この手の大きな屋敷には給仕用リフトがある。地下でつくった料理を一階の配膳室へ運ぶための巻き上げ式昇降リフトだが、ときどき、主人の私室へワインを運ぶためのものがある。〈ウナギ〉はこれを使って、標的の私室に行こうとした。そのリフトに潜り込むために関節を自在に外せるよう訓練までした。そして、リフトに入り込んで、標的の部屋へ上昇したのだが、そこで待っていたのは、剣と斧で武装したメイドたちだった。
次に〈時計屋〉。
彼は爆弾づくりの名手で、主人用の料理の皿にバネ仕掛けの爆弾をひそませた。高級料理を覆い隠す錫製のドーム状の蓋をかぶせ、これを外したら、爆発するのだ。〈時計屋〉はワインの出入り業者に変装して、まんまと子牛のフィレに爆弾を仕掛けることに成功した。あとは標的の部屋がドカン!と爆発するのを待つだけで、寒い星空の下、二階の標的の書斎を見上げて、任務の総仕上げを待った。なかなか爆発しない。寒いので足踏みをしていたら、調理室の裏口からメイドがやってきて、「いつも納品お疲れさまです」とベーグルの入った紙袋をくれた。ありがとうございます、と〈時計屋〉が紙袋を開けると、バネ仕掛けの爆弾が顔に飛び込んだ。
〈コック〉を忘れてはいけない。
彼は一番いいところまで行った。正式に屋敷付きの調理人に雇われたのだ。そのために孔雀のパイを作れるように必死に修業した。遍歴コックとしての口上もつっかえずに言えるように練習した。その甲斐があって、正式に雇われた。これでもはや毒を盛りたい放題。朝の一杯のコーヒーから晩餐会の子豚の丸焼きまで、彼の手に触れない食べ物はないのだ。さあ、仕事にとりかかろうとしたとき、ひとりのメイドが彼を呼んだ。
「すいません。地下の薪の貯蔵室で孔雀が逆立ちをしています」
「孔雀が逆立ち? そんなことあるわけないだろう」
「でも、本当なんです。ちょっと見ていただけますか?」
「わかった、わかった。今行くよ」
そう言って、〈コック〉はメイドにいざなわれて、地下の薪の貯蔵室に降りていき、それ以降〈コック〉の姿を見たものはいない――。
これらの失敗例には共通点がある――メイドだ。
エルテは使用人が動く味気のない廊下を音もさせずに走り、使用人用の衣装室にするりと潜り込むと、体にぴったりした黒装束の上からメイドの服をすっぽりかぶった。ブラウスのボタンを上までギリギリに止めて、手袋を外すと、もうメイドである。
飾り気のない廊下では召使いたちが、焼いた肉、蒸した肉、串刺しにした肉を運んでいる。配膳室には地下から昇ってくるリフトがあって、熱い料理とさわやかなリキュールが次々と運ばれてくる。そして、壁には額縁入りで『つまみ食い禁止! 料理に唾を吐くのを禁止!』。
セルトン・オグアンにちょっとしたプレゼントを混ぜてやるのにいい瞬間を探そうと思い、地下の調理室に降りてみる。リンゴの薪が燃えるにおいがこもっていて、強く甘い。だが、コックたちはお互いを敵とみなし、ソースの作り方や魚の焼き加減が原因で殺し合い寸前だった。コックは助手たちを人間扱いせず、助手たちの憎悪と来たら、駆け出しのアサシンギルドを半年運営できるくらいの依頼が取れそうだった。終わらない玉ねぎのみじん切りが目から涙を搾り取り、『貴様なんざバラバラにしてシチューにぶち込んでやる』という多方面を不安にさせる脅し文句はどこまでが脅しなのかわからない。
給仕たちもかなりすさんでいて、「はやく作れ!」「死ね!」のやり取りがあって、「てめえこそ死ね!」の応酬がある。そして、この破綻した罵倒宇宙の中心部には、薄く切ったスモークサーモンとチーズがある。
間違いない。あれは一番偉い人物――セルトン・オグアンに出される料理だ。
そこにいたるまでに一生分の「このクズ野郎!」をきいたが、スモークサーモンとチーズの皿に近づくと、一番丈の高い帽子をかぶったコックが、
「おい! これをご主人のもとに持っていけ。しくじるんじゃねえぞ」
ほら、この通り。
こうなったら、標的の命は風前の灯火だ。
袖に隠した、小さなガラス管を取り出して、一滴垂らす。
毒ではない。
ただ、癒光効果を高めるルミナリス草を正位置から逆位置にした状態でつくった薬剤を垂らした。つまり、胃痛は癒光で治る前に逆戻りした。大怪我に通用する手ではないが、ちょっとした疾病なら、逆位置が通用する。
施療院に行ったこともなければ、シプリアノの治療を受けたこともないというのなら、治った胃もまたなくなる。そういうものである。
配膳室で発泡ワインのグラスをもらって、使用人の廊下をツンとした表情で歩き、宴のなかへ。
いた。セルトン・オグアンは房飾りのついた扇子を持ち歩く上流婦人に土地をめぐる訴訟のアドバイスをしていた。どうも、ちょっと邪な狙いがあるようで、熱心に話しているせいで、スモークサーモンを何の疑いもなく、ぺろりと食べた。
ホールから廊下へ出るとき、振り返ると、セルトン・オグアンは少し複雑な顔をして、胃のあたりを押さえている。
こんど施療院に来るときは、書類をきちんと残しておこう。
エルテは来たときと同じように屋根を飛び継いで、寮へと戻った。
そして、その途中で作曲家志願の住む屋根裏部屋の上を走り、そのごく抑えられた足音は耳にしたはずだが、「ああー?」としか言えなかった。
彼は三日後、トーン・ロウ通りでふらついているところで、往診途中のシプリアノ・メーナと出合う。シプリアノは自分のお昼にする予定だった玉ねぎと炒めたベーコンのサンドイッチをあげた。少し経過を見たいと思ったシプリアノは往診先の小さな貧乏教会に連れて行った。シプリアノは咳止め薬を聖歌隊に与えた。地元の少年たちからなる聖歌隊は声も調子も不ぞろいで、大聖堂のパイプオルガンとは比べるもない。それなのに、聖歌隊がシプリアノにお礼で歌った祝歌が魂を揺さぶる。ひざまずいて、祈り、得た天啓を楽譜に変えた。
半年後には誰もが彼の曲を知るようになるだろう。




