21.でも、いつか、きっと
酒、賭博、女性関係、そして、旅費の節約。
貧民施療院に属する理由は出尽くしたかと思ったが、まだ、一番危険なものが残っていた。
理想である。
シプリアノ・メーナはまさにそのタイプだった。
「この素晴らしい思想に共鳴したくて、わたし――じゃなくて、おれは何もかも捨ててきました」
施療院の先輩医師たちはパニックに襲われた。この世界でそんな理想を抱く医師が存在するとは思わず、彼らはこの異常な男装の麗人を自分たちの常識にあてはめて、理解しようとした。酒の飲み過ぎで頭がおかしくなった、確実に勝てるフォーカードをストレートフラッシュで破られて頭がおかしくなった、女性との関係で複雑な嘘をつくり過ぎて頭がおかしくなった。ただ、最後についてはシプリアノ・メーナが男装の麗人なのは明らかだったので、あれれ、つまり、どういうことだ?と考えているうちに女性問題型の医師たちの頭がおかしくなってしまった。
クルトたちは旅費の節約が目的ではあったが、かなり理想寄りの考え方をしていたので、頭はおかしくならなかったが、いつぞやマクマーオン博士が警告した通り、貧乏人に化けた金持ちたちが癒光を使ってくれと押しかけるようになった。
「手首が痛いんだ、先生」
「ご住所はどこでしたっけ?」
「ミーズ通りだよ。そこの貸し家で十三人家族で暮らしている」
「ご職業は?」
「沖仲士だよ」
「その割にはずいぶん手がきれいですね」
「毎日洗ってるからな」
「この薬指の跡は指輪の跡ですか? ずいぶん大きな指輪のようですけど」
「先生が治してくれないなら、メーナ先生のところに行きますよ」
クルトは手首の痛みを癒光で治した。本来ならぬるま湯で凝りをほぐしてから、膏薬を貼りつけるべきだったが。ただ、リミッターはできるだけ低出力にして、補助として関節の痛みに効く薬草を処方する。
「次の人、どうぞ」
「性病にかかったんだ。癒光で治してくれ」
「カンレル先生を紹介しましょう」
しばらくすると、外の廊下から「でえりゃああ!」「うぎゃあ!」と声がした。どうあれ、性病は治ったはずだ。
もはや貧乏な人も、癒光で治してくれと言ってくるようになった。癒光は奇跡ではないし、薬や軟膏で治すのが第一なのだが、外ではあいつは癒光で治してもらえたのにおれは治してもらえなかった、金持ちが結局優遇されるのか、というような不満が出ているらしい。
診察時間が終わると、クルトは外出どころか自分の部屋まで戻る気力もなく、中庭の長椅子にへたり込んだ。そして、そのままずるずると横になる。椅子は切り出した石でできているから、冬の大気にすっかりさらされて氷みたいに冷たい。でも、まだ日は当たっているし、もう動く気力がなかった。
すると、結構な数の癒光を使っているはずなのに元気いっぱいのカンレルがやってきた。
「全部、おれにまわしちまえばいいじゃねえか」
「女性や子どもも多いんだ」
「エルテはダメなものはダメだってきっぱり断ってるらしいぜ」
「おれもそうしたいけど、おれがダメならメーナ先生のところに行くって」
「あちゃあ、そりゃまずいな」
「ああ。自分の空腹を癒光でごまかす人だぞ? 患者から強く求められたら、後先考えずに癒光を使う」
「お前だって、よれよれじゃねえか。メシは?」
「食べる元気がない」
「じゃあ、待ってろ。確か蜂蜜につけたプルーンがあったはずだから、持ってきてやる。少し食べないと、もたないぞ」
「うん」
カンレルが中庭を囲む扉のひとつを開けていってしまうと、施療院の門があるほうの柱廊から何かステッキをコツコツと打つ音がして、その音がクルトに近づいてきた。
目を向けると、そこには謎めいた人物が立っていた。何が謎かというと、姿がお金持ちの服装なのだ。テンの毛皮の襟、腰を絞ったシルエット重視の流行りのジャケット、十本の指のうち八本が宝石をはめた指輪をしていて、ステッキは黒い石を滑らかに仕上げたものだ。
年齢は三十代くらいなのだが、クルトに浴びせる視線には蔑視やら軽侮やらが入り混じって、こってりとしていた。
お金持ちが癒光目当てに診察に来るときは貧乏人に化けるのに、このお金持ちはお金持ちそのままでやってくる。じゃあ、前に治療した患者かと思っても、顔に見覚えはない。
とても謎である。
そして、その謎に付き合えるほどの力はクルトには残っていない。
「あの……」と、クルトが問いたずねようとすると、
「免状」
「はい?」
「きみは免状を持っているかね? わたしは持っている」
そう言って、謎の人物は免状を懐から取り出して、ちょっとだけ見せて、またしまった。どこかの医学校の名前が書いてあったような気もするが、あっという間のことだったし、詳しく読むだけの元気がなかった。
「それで、きみ。免状は?」
「ありません」クルトは横になったままこたえた。
「はん!」
あー、めんどうだなあ、と、クルトは目をつむった。次にまぶたを開けたとき、この医者がいなくなっていればいいと思ったが、まだ立っていた。
「それで、何の御用でしょうか?」
「免状を持っていないものがなぜ医療行為を?」
「それでしたら、施療院の管理をしている市の衛生行政官に。技術さえあれば、構わないとおっしゃったのはあの人なので」
「いいかね? 施療院での治療にはハッカ水が用いられる」
「そのようですね」
「ところが、きみは癒光を使っている」
「その通りです」
「けしからんことだと思わないかね?」
「なぜです?」
「きみは市内で正直に医院を経営している医者から顧客を奪っているのだ!」
「お話が見えませんが」
「れっきとした紳士淑女に貧乏人の服を着せてまでして、客を横取りして恥ずかしくないのかね?」
「あー、そのことでしたら、誤解です。おれは一度だって、彼らに来てほしいとは言っていないし、貧民の姿をするように強制したこともありません。全ては自発的行為です」
「これだ。免状のない医者は平気で嘘をつく。どうせ癒光も嘘だろう?」
「いえ。本当です。使いすぎて、この通りなんです」
「では、わたしを癒光で治療してみたまえ」
「また、お話が見えなくなってきました」
「だから、きみの癒光が本物なら、わたしの頭痛を治してみたまえ」
「カロリス系のポーションを処方しますよ」
「だめだ。癒光で治せ」
「どうして薬じゃダメなんですか? ひょっとして、癒光で治してほしいけど、素直に言えなくて、こんなふうに言っているんですか?」
あ。クルトは医者がステッキをふりかざすのを見た。
(失敗した。怒らせた)
殴られるかなと思ったが、疲れて眩むクルトの目には誰かが医者の後ろに立っていて、それがトントンと肩を叩いていた。そして、その人が口に含んだ酒を思い切り顔に吹きかけた。
喚き声がして、医者が逃げていく。
「覚えてろ!」
「忘れるまで覚えておいてあげます。さっさと帰ってお母さんに顔を拭いてもらって、ホットミルクを飲んでおねんねしなさい」
見上げると、そこにいたのは女神の慈愛で微笑み気遣うシプリアノ・メーナだった。
「大丈夫ですか?」
「てっきりマクマーオン博士だと思ってました」
「わたしも――じゃなくて、おれも多少は貧民医療の副産物について心得があるんですよ」
そこでへなへなと膝から崩れた。
「あー、ダメです。おれもへとへとです」
膝を曲げて、脚を地面にぴったりくっつけた体の柔らかい女性的な座り方だ。
クルトは腕を何とか上げて、背もたれをつかみ、
「ちょっと待ってください。身を起こしますから、そこにかけてください」
「大丈夫ですよ。ここで。森のなかとか峠の道に比べれば、中庭の石畳はふかふかのベッドですよ」
「あはは。なんていうか、ほんとはよくないことかもしれないけど、マクマーオン博士の言うことがわかってきた気がします」
「悪いことじゃないですよ。クルトさんはそれでも治療をやめません」
「やめたくないんです。ありがとう、って言ってくれる人が少しでもいる限り。それに癒光目当ての人たちだって、治してほしい、治りたいって思ってるんですから、それなら、おれは治します。いえ。治りたくないっていう人だって治します。そして、治してもらってよかったって思えるようにしたいです。それが、どうすればいいか、……おれにはまだわからないけど……でも、いつか、きっと……う、んぅ……」
あーあ、とカンレルの声がした。
「これじゃ、寝るほうが先だな。部屋まで運んでやるよ。穀物袋方式とお姫様だっこ。どっちで運んでもらいたい?」
「穀物袋で頼むよ」
カンレルはクルトをお姫様だっこで部屋まで運んだ。




