18.救貧制度
アセンポートのような大きな港町では商品や人間と同じくらいに噂が集まる。
釘を一本も使わないで造られた帆船の話、巨大ウナギを神と崇める半魚人の不思議な儀式、美しい更紗を生み出す気難しい職人たちの島、王子の骸を漬け込んだラム酒の樽。
クルトはこの町に着いて、もう四日間、珊瑚の海の底に学校をつくる少女の話を求めたが、めぐり合えてはいなかった。ときどき、そんな女の子を知っているというものがいるが、たいていは酒をねだる酔っ払いか、クルトを人気のない場所へおびき出そうとする追い剥ぎのどちらかだった。
イヴがいると言われて、暗い半地下の部屋に連れていかれて、盗人たちを叩きのめすのもこれで三度目になったが、それでもクルトはそこにイヴがいると教えられれば、ドラゴンの口のなかにだってついていく。そういうものだからだ。
半地下の扉を押し開けて、表を走る色彩の市街へと戻っていく。真っ赤な壁に左右を挟まれた道では反物商人たちが陽光に布をかざしていた。そうすると光沢や模様が映える。ある大男はみなが見ている前で毛織物を力いっぱい左右に引っぱった。そして、こんな丈夫な毛織物なら極寒のフロストヴェルムで夏みたいに汗がかけると請け負った。
反物商の通りを出ると、金融業者の屋敷が水路を隔てて並んでいた。門の上に小さな船の模型をかかげるのは、貿易船の共同出資者を募っている印で、クルトが水路の際に薬草がないかともぞもぞ探しているあいだに何千枚という金貨が彼の頭の上でやり取りされ、キャラック船の船倉が鉄鉱石でいっぱいになっていく……。
クルトは屋台の並ぶ上り坂に曲がった。この町では裕福な銀行家の屋敷のすぐそこでイワシを焼いて売ることをおかしいと思う人間がいないのだ。
霜こそ降りないが冬が来たには違いなく、旅向けの上等な外套にもひんやりとした風が染み込んでくる。ハーブとエビのクリームスープがおいしい季節がやってきた。
奇妙な話なのだが、クルトは魚介料理が好きということになっていた。
カンレルやエルテの好物のためにバランスを取らされたのだ。
自身としては別に好き嫌いはないし、クラウディオだったころはひどい軍用レーションばかり食べていて、最後のほうでは食事はもっぱら野生のバナナだった。だから、いまの食事は全てありがたくいただいていたのだが、ここ数日、確かに海産物ばかりを食べている。
もちろん港町だから安く魚や貝が手に入るからなのだろうが、気づくとラム肉を売る屋台の隣で、米と刻んだ野菜と香辛料を詰め込んだイカ焼きを食べている。
なにか釈然としないが、目に見えない手はクルトを確実に魚食性人間へと押し込んでいた。
貧民施療院ではまともな医者に高い診療代を払えない貧しい人びとが効き目の弱い薬や紋切り型の『もっと栄養のあるものを食べなさい』という皮肉な診断をもらって帰っていく。
クルトたちは町にいるあいだ、ここでタダ働きをすることと引き換えに、三食付き、雨風をしのげる屋根を提供されていた。リズブローからは少なくない礼金をもらっていたが、節約できるなら節約したほうがいいだろうということで、施療院の世話になることにしたのだ。
二体の石像に屋根を支えられた職員通用口を通り過ぎ、天秤のような棒にかけられていた白衣をとって、袖を通すと、クルトは第八診療室と青い札がはめ込まれた木造の扉を開けた。
そこでは初老の医者が蒸留酒を入れるためにブリキのコップのべたつきを白衣の裾で念入りに拭っているところだった。
「マクマーオン先生。交代の時間です」
クルトがそう呼びかけると、マクマーオン博士は赤い鼻をすすって、膝を痛そうにさすりながら、
「どう考えても、わたしは診察される側の人間だよ。もし、わたしが担ぎ込まれて、きみが診ることになったら、処方箋にはただ、一本の蒸留酒、とだけ書いてくれればいい」
「飲みすぎですよ。先生」
「そういうきみは飲まなさすぎだよ、若先生。貧民医療にたずさわるんなら、飲むべきだ」
マクマーオン博士は瓶の首を握って、さっさと職員用出入り口から出ていった。
彼が飲むのも無理はなかった。
廃材から作ったテーブル、折り畳み式の腰掛。汚れた漆喰壁にはボロボロになった薬草表が一枚貼ってあって、患者が座るのは背もたれが折れた椅子だ。床屋外科医にまつわる技術本が一冊あったが、革の表紙はなくなっていて、本全体がぐにゃぐにゃに曲がっていた。たぶん水のなかに落としたのだろう。
薬箱にはハッカ草のしぼり汁を薄めたものが陶器の瓶に一本あるだけで、マクマーオン博士からは頭痛も腹痛も手足の疼痛もコップに少しだけこれを入れておけばいいと言われていた。
そもそも貧民施療院の設立自体が三十年前の暴動の教訓から、貧民の不満をかわすためのものなのだから、高度な医療は要求されていない。
クルトはため息をつきながら、肩掛けカバンから薬草や種、キノコを取り出した。頭上で金貨一万枚の取引が飛び交っているあいだ、しゃがんで、もぞもぞと集めたものだ。
それに携帯用の乳鉢と薬を包む紙も出しておく。患者が来るまでの時間で丸薬をもむ。
最初の患者は疲れが取れないという石工だった。
「どうも仕事に行く前になっても、疲れがとれん」
首のあたりを触れてみると、少し冷たかった。
「シャツをめくって、背中を見せてください」
患者が後ろをむいて、シャツをめくると、背骨の首の下と腰骨のすぐ上がやはり少し冷たかった。
(冷性の気があるのか)
クルトはドラゴンの鱗をふたつ、乳鉢ですり潰した。本物のドラゴンではなく、その鱗に似ている黒くて縁が尖ったキノコで、熱性と抗疲労効果が望める。それに蛇の粉を混ぜておく。効果があらわれすぎて、熱くなりすぎるときにその作用をおさえるためだ。
クルトは丸薬をつくって、四日分を薬包紙に包んで、
「これを働きに行く前と終わった後にふたつずつ飲んでください。これで疲れがとれなかったら、また来てください」
「ありがとうよ、若先生」
次の患者は喉が痛いという洗濯女で、こちらは冷え症とのことだった。
「指先が冷たくて、仕事ができなくなっちまうよ」
喉の痛みが気になるが、触れてみる限り、凝りのようなものはない。こちらは体に備わる治癒力をあてにできるが、指先の冷たさが少し重い。
セラフィカの蔓が血行を促進し、カロリスの花が持つ炎の性がゆっくり患者の四肢を温める。
「この丸薬を朝、昼、晩に二粒ずつ飲んでください。あと、なるべく冷たい場所を避けてもらいたいんですけど」
「洗濯の注文がたくさんあるから無理だよ」
「そうですね。では、洗濯のあいだ、胴に毛布を巻いてください。胴を温めれば、胴に行く分の温かい血を指先へめぐらせることができます」
「ありがとうございます、若先生」
でえい!
気合の入った声。カンレルだ。
ボコッとか、バキッと音がしなかったところ、ヒーリング・ストレートは寸止めに成功したらしい。
エルテは朝から診察をしていて、いまは自由時間のはずで――、
「いててててて!」
三人目はお腹にナイフを立てたまま運び込まれたチンピラだった。
「いてえ! いてえよ! ちきしょう!」
「押さえてくれ」
ふたりの付き添いにチンピラをしっかり押さえさせると、ナイフを抜いた。
よほど痛かったらしく、暴れたが、クルトは構わず、手をかざした。ゆっくりと手のひらから染み出す淡い青の光が少しずつ、傷を塞いでいく。五分もしないうちに刺された跡はきれいになくなった。
「処方箋はただひとつ。人に刺される暮らしをやめてください」
「刺したやつらに言ってくれよ。あー、助かった」
「傷が完全に完治するまで、なるべく安静に。傷が痛くなったら、この鎮痛剤を飲んでください」
チンピラが出ていくと、クルトは椅子に崩れるように腰を下ろした。背もたれがないことを思い出して、危うくひっくり返りそうになった。
癒光を少し使った後の、疲労が心地よく居眠りに誘う。
まだ、患者がくるだろうから居眠りはできないが、それでも意識がまどろんで、クルトは温かい南の海に浮かぶ小さな島を見始めていた。
二人で入江へと泳いでいったあの日。
入江の水は外の水よりひんやりとしていて、防壁のような岩山に陽がさえぎられていたので、空の青さは光や色よりも深さを感じさせ、それが日陰の落ち着きを際立たせていた。
イヴとクラウディオは大きく息を吸い込むと、体を前へ曲げて海に潜り、まっすぐ海底に向かってしなやかに水を蹴り続けた。
まもなく二人は様々な魚がパレットからこぼれ落ちた色彩のように泳ぎ回るのを見た。
碧く光るほっそりとしたダツ、錬金術の秘法でメッキされたようなイソマグロ、性別を自由に変えることができる金色の鯛、羽ばたくように泳ぐエイ、エメラルド色の目をしたメルルーサ。
こうした魚たちは途方もなく美しかった。
そのうち魚たちは回廊のように大きな円を描きながら泳ぎ始めた。
滅多なことでは海底を離れないウツボやヒラメまでが加わって、ぐるぐる泳いでいるのを見て、ただごとではないと思ったクラウディオはイヴと一緒に魚の回廊の中心へと潜っていった。
水深五十メートルの海底は静かで貝が呼吸する音すらきこえるほどだった。
入江のちょうど真ん中には広くて平らな岩盤があった。五十メートル四方はありそうな岩盤は表面がすべすべしていて、夏の午後七時のような薄暗さにもかかわらず、岩の表面はうっすら光を帯びていた。
「あそこに学校をつくろう」自分たちの吐いた銀色の泡を追い越さないよう注意しながら水面へ戻ると、クラウディオが言った。
「どうやって?」
「陸で石を一つずつ削ってブロックにしていく」
「うまくいくと思う?」
「いかせるさ」




