16.手のひら返し
「もういい! 全部売る! 全部売ってお金にしてメンデロスに帰る! そりゃメンデロスはひどい土地だけど、少なくとも夕食はきちんととれた!」
街道を彼のものとなった屋敷へとゆきながら、リズブローは宣言した。
こうして歩いているときだって、誰かが彼を見つけると、取引・契約・執行状のことですっ飛んできて、決断を迫る。
「もったいない気もしますけどね。管理人を雇ったら、いいじゃないですか」
「でも、管理人も結局、僕にあれをしてくれ、これをしてくれと言ってくる。食事ができなかった以上、問題は尊敬から生存へと転じたんだ」
そう言っている横で、カンレルが塩をかけた人参をかじり、エルテは昨夜余った肉と玉ねぎでつくったサンドイッチを小さな口で少しずつ、確実にかじっていた。
リズブローがぷんすこブチ切れているあいだに領主屋敷が見えてきた。都市のように華美さはないが、非常に大きな三階建てで窓を一日に一枚ずつ数えたら一年以内に全ての窓を数えきれないくらいだった。
「この大きな屋敷だって、窓がーとか、ランプがーとか言いながら、僕の人生を食いつくすんだ。あれほどまでに望んだ富よ、財産よ! お前に僕の時間は一秒だってくれてやるものか!」
嵐の日に叫べば、もっとかっこもつくが、秋晴れの日には似合わないことを叫んでいると、屋根と庇の張り出した玄関のあたりから、若く身なりを整えた男が馬で駆けてきて、リズブローの前で手綱を引いた。
「領主さま! やっとお帰りになられましたね!」
男はすぐに馬から降りた。リズブローは自分よりも頭ひとつ分高いところにある端正な顔と泥ひとつなく艶やかなブーツの先をじろじろ見つめて、
「えーと。どちらさま?」
「あなたの会計士のディアルンです。お忘れですか?」
「お忘れです。ごろつきどもに頭をぶん殴られて、この土地を相続したことが記憶から抜け落ちたんだ。それより、きみは会計士って言ったね。なら、話ははやい。僕が相続した財産を全部現金化して、メンデロスの僕の掘立小屋に届けてくれ。この土地とはおさらばするから」
「ですが、それではお嬢さまが落胆なさいます」
屋敷からあらわれたのは深窓の令嬢という言葉がこれ以上ない、すらりとして、どこかはかなげで、可憐で、つまり、お嬢さまだった。
クルトはエルテを見た。
カンレルもエルテを見た。
エルテの旅用の私服は、最初見たとき、ケープをつけた暗殺用の黒装束かと思ったが、実際はそれによく似た黒のタートルネックと細いズボンにブーツだった。ブーツにはナイフが突っ込んである。これがあると、身を低くした完全降伏のポーズをとると見せかけての不意の一撃を食らわせられると本人が言っていた。
クルトとカンレルは令嬢を見て、またエルテを見た。
「なにか?」
「いや、別に」
令嬢はもうリズブローの前で目を潤ませて、
「あなたにあのとき助けていただけなかったら、わたしは生きてはいません。母はそんなあなたを見込んで、この地をお任せになったのに、お忘れになったのですか? それにわたしのことも――」
「いえ! そんなこと、あるわけがありません!」りずぶろーは言った。
「でも、さっき、あなたは領地を全部売って、この土地とは縁を――」
と、クルトが言いかけるが、
「そんなことは言っていません」
「は?」
リズブローは美女の前で片膝をついて、その細い手をとった。
「美しい方。無礼をどうか詫びさせてください。初めからやり直させてください。きっと、あなたの満足のいく結果をもたらしましょう。では、まずお名前から」
クルトたちは、この領地の新しい主にして令嬢の婚約者を助けてくれた方たち、ということで、屋敷の客間をひとりずつ案内されて、あれやこれやの接待を受けることになった。
クルトが柔らかすぎて落ち着かないベッドから降りて、まだまだ日暮れには時間のある青空を窓から見た。クルトには悪い癖があって、興味のある本を見つけると、本を置くスペースのために後先考えずテーブルの上の散らかしものを薙ぎ払ってしまうのだが、窓から見える草原はまさに薙ぎ払った後のテーブルみたいに何もなかった。
「いったいどれだけ広いんだ?」
ティエル神がこの世界を創ったのなら、この広大過ぎる草原は何の役に立つと思ったのだろう?
ただ、リズブローが相続したのは彼がひょんなことから命を救った女侯爵で、その女侯爵が遺した領土を継いだ、という信じられない話だとわかった。
しかも、美人の婚約者付き。
廊下に出ると、カンレルが胡椒ソースをふりかけたキャベツをバリバリ食べていた。
「エルテは?」
「すげー、いい肉がもらえるって言って調理場に行ったぜ」
「屋敷のなかを歩かないか? どうも退屈で」
「おれも」
バリッ、バリッ。
「ちょうど」
バリッ、バリッ。
「退屈してた」
バリッ、バリッ。
「あ、キャベツなくなった。庭を見せてもらおうぜ。なんか面白いもんがあるかもしれない」
屋敷はがらんとしていた。使用人の姿は見えない。
「ただ」と、クルト。「本格的な貴族の屋敷ともなると、主人の動線と使用人の動線を完全に分けて、使用人が主人の目に入らないように仕事ができるようになっている」
ふたりはそのまま使用人にひとりも会わないまま、裏手につながる大きなガラスの扉をあけた。
庭園は広大な敷地をチーズケーキみたいに切り分けて、それぞれの区画ごとに春に咲く花、青い花、よい香りのする花と植えていて、奥には珍しい花を育てるためのガラス張りの温室もあった。
こうも本格的な庭園を見せてもらうと、薬草園にも期待してしまうが、これは期待外れだった。見た目が目立つが、効き目の薄いものばかりで、あの老婆の裏庭とは面白さで比較にならない。
「カロリスもルミナリスもないし」
「ん~?」
カンレルが奥に目を凝らし、奥のガラスの温室に近い小道を進み、しばらくして戻ってきた。
「クルト」
「ん?」
カンレルは千切れた細い根をぐいっとクルトの前に突き出した。殴るくらいの勢いがあったので、その手の甲がかすかに淡く青く光る。
「問1。これは何の根っこかこたえよ」
「それは――モルフェリアか」
「正解」
「カンレルから試験されるときが来るとはな。追試対策専属補助教員として、うれしいよ」
「こいつがあっちにたくさんあった」
「モルフェリアの根が?」
「ああ。ぶっちぎったみたいにな。でも、花はどこにも見当たらない」
モルフェリアの花には鎮静、睡眠作用がある。疼痛の緩和にもなるが、服用しすぎると――。
「毒になる」
「どういうことだと思う?」
「そうだな――お嬢さまはおれたちが思っているほど、お嬢さまじゃないのかもしれない」




