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10.帰郷

 行商人の荷馬車がガタガタ金物を揺らしている。

 車輪は年代物の轍を踏みながら、ゆっくり南へ曲がり始めた。

 誰も耕していない原野に大きなオークの木がある。

 そこから西へ戻る道を取ると、馬車はオークの木陰に入った。そこの空気は洞窟のようにひんやりして、においには口では説明できない深みがあった。

「季節ってのはうまくできてるよなあ」

 打つ必要もない手綱をゆらゆらさせながら、行商人が言った。

「もし、この世に冬なんてもんがなかったら、人間みんな怠け者だぜ? 食い物をつくれない季節があるから、その季節をしのぐために他の季節に倍働く。それに知恵もつく。どうやったら、秋までにこさえた食い物をうまく保存できるか。もし、一年全部がちょっと手を伸ばすだけで苦労せず食い物を得られるようなら、人間ってのはとんでもねえ怠け者の馬鹿者になっちまう。要するに乗り越えるべき壁がいる」

「本当の愛は絶望を知ったもののためにある」クルトがつぶやく。ブーツを履いた彼の足は荷台の縁でぶらぶらしていた。ふたりはお互い背中を向けて、馬車の両端に座っていたが、それがむしろ真横に座って並ぶよりも話しやすさを感じられた。姿の見えない声に何かを期待するのは赤ん坊でもできる。本当の愛を知るには絶望が必要かもしれないが、ちょっとした期待なら赤ん坊のころからそばに転がっているのだ。

 行商人はふんふんとうなずいた。

「絶望を知るものにこそ本当の愛がある。いい言葉だな。おれは女房に何度も鉄拳食らって絶望を味わってるが、どうも本当の愛には巡り合えない。もっと殴られろってことなら、おれには本当の愛なんて必要ないな」

「でも、あなたは行商を終えると、必ず家に帰るんでしょう?」

「そうだな。そこは認めなきゃならん」

 商業街道から田舎道が分かれて木立のあいだを西へと伸びている。クルトは荷台から降りた。この先はマウリッツ村だ。

「送ってくれてありがとう」

「なに、お前さんのおかげで肩の凝りがすっかりとれた。お礼を言いたいのはこっちさ」

「それじゃ」

「ああ」

 クルトは冬の澄んだ空の下、村への道の足を取り始めた。

 渡り鳥を運び終えた風が丘の風車をまわしていて、道の左方には、よくかけまわった古い豪族の墓地がある。ここは村の耕作地の外れで、誰も使っていない番小屋があるはずだったが、黒焦げの柱が何本か立っているだけだった。

 なだらかな勾配に根菜畑が張りつき、老人が土くれをつま先でつついて、湿度を確かめていた。

 小川を二本渡って、村の広場に入ると、男たちは畑に出ているのか、家や店の前では年寄りたちの姿が目立った。

「おや、若先生」

 クルトに気づいた老人のひとりが声をあげた。

「里帰りかえ?」

「はい。ワイゼンさん。膝の調子はどうですか?」

「だいぶいいよ。まあ、わしもこの歳だから、絶好調とは言えないが、歳の割にはいい」

 一度、荷物を降ろし、老人たちと関節の話をした。年を取ると、人間、孫と関節の話ばかりになるのだ。痛い、調子がよい、ガタがきてる、新しい膏薬を試してみたい、もろもろ。

 老人たちはみなクルトの父の患者たちだった。

 癒光での治療は外傷に効果があるが、老齢による疾病には弱い。癒光は不死の約束ではない。時間の経過を跳ねのけるような医術はこれまでも、そして、これからも存在することはない。

 ――それは生命への冒涜に他ならない。

 ストリツエン先生はそう言っていた。

 また、会いに来るといい、荷物を背負って、家に向かう。子どもたちが犬と追いかけっこをしていて、十字路を北に曲がると、緩やかな坂を上った。途中で小さな居酒屋のそばを通り、鱒の燻製のにおいがした。

 とてもうまそうなにおいだった。ルィダーのような大都市ではひとつのにおいを注意深く嗅ぐことができない。揚げ物、腐りかけた泥、魚油ランプ、お白粉。これらが混ざって、鼻をかく乱する。それでも療術学校は静かな庭があり、スミレの香りや掘り起こされた土の甘いにおいを落ち着いて嗅ぐことができるが、それも風向き次第では実験室の灼ける薬品臭にとってかわられる。

 はるか彼方の風の流れを見上げながら歩く。雲や渡り鳥が風を色づけてくれる。目線を地上に戻すと、家が見えてきた。洗濯物がたなびいている。

「ただいま、母さん」

 松の樹を削ってつくった洗濯バサミでシーツを止めている母親はふり返って、

「あら、クルト!」

 そう言って、クルトを抱きしめて、このまま日が暮れるかと思ったところで放してくれた。

「大きくなった?」

「たった九か月だよ、母さん」

「九か月もよ、クルト」

「父さんは?」

「往診よ。まあ、なかに入りなさい」

 小さな食堂にはアップルスパイスやフレンゴルン草の束が逆さまになって吊るされていて、青い紙に包まれたハムは小さな箱に入れて、テーブルの端に置いてあった。母親は樽から水を汲み、濃い田舎風ワインを割った。十二月のマウリッツ村は冷えるが、家のなかは暖炉の火で汗をかくほど暑かった。母親はベーコンとハッシュドポテトのパンケーキをつくり、熱いワインと一緒に出した。

「風邪はひいてない? あなたのことだから自分で治せちゃうかもしれないけど、都の風邪はまた違うっていうし」

「大丈夫だよ、母さん。元気にやってる」

 その後、勉強のこと、友人のこと、教師たちのこと、都では風まで騒音がしみ込んでいることを話した。村よりも大きな教会があって、一度に二千人が礼拝に参加できること、数枚の銅貨で曲を弾くバイオリン奏者があらゆるところにいて、自分の部屋の絨毯をめくって、そこにバイオリン奏者がいたとしても驚かないと話したときは母親は笑った。

「冗談も覚えたみたいね」

「うん」

 あくびが出た。旅の疲れが出たようだった。

「ちょっと休んだら?」

「うん。そうするよ」

 自分の部屋に入ると、出て行ったときと同じままの部屋が待っていた。きちんと掃除されていて、埃もチリもない。母親が毎日、いつクルトが帰ってきてもいいように掃除をしている姿を思い、申し訳ない思いでいっぱいになった。

 ベッドに横になると、すぐにクルトは眠りに落ちた。

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